轟、と大地が鳴動している。
 紅の炎が、辺り一面を舐めるように覆い尽くし、圧倒的な熱量が視界の全てを蜃気楼のように歪ませていた。
 万物の輪郭は溶け落ちる間もなく、黒き影と変じた一瞬の後には、音もなく、霧のように砕けて散った。
 命が。黒い灰となって熱嵐と共に舞い上がる。

 誰かが、叫ぶ声が聞こえる。
 私の名前を呼んでいた。悲痛な声で、何度も何度も。

 私は振り返ることもなく、右手に握り締めた白銀の長剣を、胸の前で静かに立てた。
 世界が無音に転じる。
 眼前で今まさに口を開ける、死、という名の、逃れ難き運命を認め。
 ただ、心は曇りなく、澄み渡っていた。

 恐れは何一つなかった。


 だが、もしも
 私の最期の”願い”が伝えられるならば…
 この祈りの声が届くのならば…

 どうか…













「お目覚めか・・・、”泥人形”」
 弱々しく、か細い声が、隙間風に吹き消されるように囁かれた。
 目を静かに開けると、重い暗闇の中で、胸元に身を寄せる小さな影が動いたのが見える。
 
 ぴしゃり、と滴る水雫が規則的に立てる細い音。
 湿った土の匂いと、鼻につく濡れた草の香。
 崩れかけた天井から漏れるように差し込む僅かばかりの青白き斜光が、この空間で薄い陰影を生み出し、事物の輪郭を教えてくれた。

 沈黙・・・
 
 静寂の中で、私の記憶はもう幾度目とも知れぬ程に繰り返されてきた”目覚め”を認識していた。
 記憶は、今や鮮明に意識を形作っている。
 何もかも、全てを。
 そう、全てを、私は思い出していた。



「何故、お前・・・あんな、ことを」
 再び小さな声が胸元で漏れる。
 意思を、記憶を、取り戻したことを魔物に悟られぬように、慎重に、私は辺りの様子を伺った。
 ここは、今まで目覚めを迎えてきた、あの地下の石牢とは全く異なる場所のようであった。
 剥き出しの地肌、崩れた土天井の隙間から吹き込む風。ただ雑然と敷かれた枯れ草。
 明らかに城内ではない。自然のままに形を成した小さな洞を、急ごしらえの居所に変えたような、そのような場所であった。
「お前の主は俺。お前を創ったのは俺・・・」
 再び、弱りきった声が続く。様子が明らかにおかしい。顔を上げることもなく、胸元でうわ言のように呟く魔物を見下ろして、愕然とした。
 漆黒の翼が根元から無残に手折られている。白く透き通った肌はあちこちが傷だらけで、乾ききらない血で、全身がしとりと濡れていた。
「言うことを、聞かなければ、また・・・壊してしまうから、な・・・」
 美しい面立ちにも明らかな疲労の色が濃く、しかし一方で何かに酔ったように、目元が僅かに紅潮し潤んでいる。幼い舌足らずな口調は、微妙に呂律が回っていない。
 支配者然として高みから見下ろすような、あの強気の意思を秘めた瞳も、態度も、今は見る影もない。

 何があったというのだろうか。

 胸元に身を寄せる小さな影が、力なく手を伸ばし顔を寄せて来た。
 いつもの、血の口付けかと思いきや、その口元が首脇を通り過ぎた。幼い手が頬を包み、小鳥が啄ばむように唇に触れてくる。
 幾度かの触れ合いの後、安心したように、ふっと冷たい吐息を吐き、魔物は再び胸元で丸くなってしまった。
 そこで初めて、私は、今の自身が、罪人が被るあの醜い鉄仮面を身につけていないことに気がついた。
 さらりと頬を掠める緩い風が、奇妙に心地よい。



「・・・呼んでる。」
 しばらく眠るように身を寄せていた魔物は、急にぴくりと肩を震わせて起き上がった。
 そして、2,3度首を振ると目を細めながらもう一度。
「呼んでいる・・・あの、男が。行かなければ」
 低い呟き。底冷えのする得体の知れない気配を一瞬感じさせる。
 だが次に伏せた目を上げた時には、纏う空気は再び少年のものに戻っていた。

「お前、いいか、俺が戻るまで、ここで待っているんだぞ。」
 ご主人様に見つかったら、怒られてしまう。

 そう告げて、弱々しく口端を引き上げて、笑みのような表情を形作ると。魔物は身を離し、小さな古びた木戸から姿を消した。
 

 一人、取り残された暗い洞穴の中で、私はゆっくりと身体を動かした。
 指を曲げ掌の開閉を繰り返した後、腕を持ち上げ身体の具合を確かめる。問題はない。
 見ると、穴倉と外界を隔てる古びた木の扉には、鍵すら掛かっていなかった。キィキィと掠れた音を立てて、覚束なげに揺れている。
 何故、魔物は主である男の目から隠れてまで、再び私を造ったのか。
 去り行く間際の、瞳の内に揺れた切なげな光、どこか縋るような眼差しが、残影となって心に焼きつき離れない。

 しばし、目を閉じ、記憶と共に取り戻した、感傷の海に身を委ねる。

 事態は、確実に動いていた。
 破滅の扉が、すぐ傍で、貪欲な口を開いて贄を待ち望んでいるとわかる。それは”死”を知る者の、本能が告げる警鐘であった。
 もはや、失敗は、許されない。
 これが、おそらく、”最期の機会”になるだろう。

 そして
 私は、立ち上がった。




 確固たる、意思と共に。
















蒼い花 後編









<1>

 外界に出てはじめて、事態の異常を認識した。
 夜空は赤く染まり、焦げ付いた煤が黒い粉雪のように風に舞う。
 私が目覚めた小さな洞と思しき場所は、どうやら城の外れにある、小高い丘の中腹にあるようだった。
 幾重にも囲まれた黒い城壁の石壁が天を覆うように高々と聳え立ち、眼下に城砦都市特有の入り組んだ街並みが続く。
 だが城も、街も、あちらこちらから火の手があがっている。薄い満月の夜闇に沈むこの呪われた大地を、赤く、罪の色で照らし出しているかのようであった。

 私は状況を認識すると、迷わず地を蹴り、走り出していた。
 草木の茂る急な丘の斜面を滑り降り、城の内壁に沿って回り込む。城下の外れ、壊れかけた古い小さな水車小屋の脇の桟橋を渡り、街に入ると、熱風が、炎の爆ぜる音と共に肌に吹き付けた。黒煙が視界を覆い、人々の怒声とまるで獣のような奇妙な叫び声が遠く交錯する。
 炎を纏い崩れ落ちる柱。石畳の細い坂には焼け落ち煤けた灰と、音を立てて燃える荷縄の解けた木樽。転げ落ち潰れた果実と、辺り一面の血。絶命した人間の躯が折り重なるように続いていた。

 一体、何が起こっているというのだろうか。

 暗い地下牢の闇に囚われ続けていた自分には、外の世界の事は元より知る術もない。
 だが、この光景をもたらしたものが何なのか、それは充分すぎるほどに予想ができていた。

 突如、獣のような咆哮が頭上で聞こえたかと思うと、黒い影が視界を掠めた。陶器が砕けるけたたましい音と共に、隣家の上階の木窓を突き破って、何かが宙に飛び出でる。
 事態を把握するより前に身体が動いていた。身を捻り地を蹴り、間一髪、獣のような影の襲来をかわす。今しがた立っていたばかりの地面が深く抉れ、黒煙の中、爛々とぎらつく紅の目が狂気を湛えてこちらを見据えていた。
 獣…、いや、人であった者と言うべきかもしれない。
 顎の周りをべとりと血で濡らし、長く伸びた犬歯を剥き出しにして人のものとは思えない奇怪な唸り声をあげている。
 満たされぬ渇きに狂った目。鋭く伸びた爪。乱れた髪。
 ・・・”楽園”の住人であった者か。
 富める者の象徴であった、豪奢な装束は無残に破れ、血糊に穢れている。舞い上がる炎風に照らされた、狂気。
 肌を炙る熱とは裏腹に、心には冷たく霜が宿る。
 人々の歪んだ欲が導いた終末の世界の醜さは、いっそ滑稽で哀れでさえあった。

 じり、と間合いを測る砂摺りの音。
 構わず歩き出そうとする私を標的に、その化物は一息の跳躍と共に躍り掛かってきた。身を低く屈め、相手の勢いを借りる形で腕を流し、そのまま背後から肘打ちを叩き込む。前のめりに崩れる身体が地に倒れ伏す前に、脇から横蹴りを放った。
 吹き飛ばされた化物の身体が燃え盛る木樽の群に突っ込み、派手な音を立てる。肋骨の幾本かは折れたはずだが、化物は奇声をあげて再び炎の海の中に立ち上がった。火が舐めるようにその身体を焼き包み、肉の焦げる嫌な臭いが満ちる。
 

 その時突然、閃光が目を焼いた。
 眩さに僅か目を伏せた時、強い風鳴りの音が通り抜ける。
 烈風に撥ね飛ばされた黒き獣の影が地に落ちる前に、大地に青白く光芒の陣が浮かび上がるのが見えた。次の瞬間には、耳を衝く絶叫と共に、化物の身体が、大地より天へ向かって湧き上がる光の渦に飲まれていく。哀れな人型の影は、もがく様に幾度か身を捩るものの、圧倒的な光の力の前に為す術なく、その指先から黒く灰となって崩れ落ちていった。
 光の奔流が細く、弾け消えるように途切れ、やがて不思議な程の静寂が辺りを支配した。





「吸血鬼の牙毒も、”生命の水”と呼ばれる魔力を秘めたその血も、耐性のない人間には破滅をもたらす麻薬と変わりはない。」
 物静かな声色に、振り返ると、白い影が、血塗れた石畳の上に佇んでいた。風と共に舞い上がる白銀の長衣。

「・・・”生命の水”を得た人間は、強大な力、不老不死の魔力と共に、人の血肉を貪る快楽を知ることとなる・・・。」
 音もなく、青年は歩み寄って来た。この地獄のような光景の中にあって不釣合いな程に落ち着いた、白き相。
 以前、打ち捨てられた墓場で、意識の途切れる間際に見た、その姿。”人の願いを喰らう者”と彼は名乗った。
「人からヴァンパイアに変じた者が、正気を保つことは稀だ。・・・そして狂気は伝染する、際限なく。」
 翠色の髪に彩られた紫玉の瞳が、静かに細められる。強き意思を湛えて、ゆっくりと言葉は紡がれた。

「悪夢の伝播を防ぐ方法は、唯一つ。その根源となる存在を、断つ事だけだ。」

「君は・・・」
 言葉、を紡いだのは酷く久しいことであった。
 音の出し方を忘れてしまったのではないかと思う。案の定、声は掠れて吐息がかろうじて言の葉を象ったに過ぎない状態だった。
「私は、教会の者だ・・・城下は間もなく、我らの制圧下に入るだろう。」
 氷のような冷たさを湛えていた青年の整った相貌が。しかし言葉の後、僅かに柔らかく変じたように思えた。
 
「だが、貴方は既に私が”何者”であるかを知っているようだ。」
「・・・・・・」

「これを」
 そう言って、青年は一振りの剣を差し出した。冷たくも清浄な光を湛えた、白銀の長剣。
 私はそれを、良く知っていた。
「もしも、貴方に意思あるならば・・・」
 そのまま、言葉を繋がず、青年は高き石の内壁に護られた城館を振り仰いだ。

「人間達の果て無き欲望が、まるで濃霧のように満ちている。・・・酔ってしまいそうだ、私でさえも。」
 それは無意識に、人の願望を喰らう魔物の性か。
 虹色に変幻する瞳を隠すように薄く伏せて、小さくやや艶めいた声色で告げる青年の姿は、”彼”にとても良く、似ていた。


”人間達の、祈りを、喰らうのは、とても心地良い・・・”

 陶然とした口調で、”彼”は時折、唄う様に語った。
 教会の聖堂裏の階段は、”彼”のお気に入りの場所だった。
 あの時、世界は、人々のささやかな願いと、祈りと、希望に満ちていた。
 生まれたばかりの赤子を手に抱き、”彼”はまるで人のような表情をして、明るく笑いながら言ったのだ。

 世界の、全てが、愛おしく見える、と。




 ゆっくりと、小さく頷いて、青年の手から剣を受け取ると、キィンと甲高い澄んだ共鳴音が響いた。
 白銀の剣身が発光するようにほんのりと光を宿す。

「貴方に残された時間は、あまりない。・・・城下の制圧が終われば、我々も城を包囲するが。」
「充分だ。」
 短く答え、真っ直ぐに青年の瞳を見返した。
 万感の、想いが胸に去来する。
「最後に・・・」



「この剣の、”持ち主”にも・・・伝えて、欲しい・・・






 言葉は、吹き上がる熱嵐と、轟音に紛れて掻き消えた。




 だが私は、残された者の表情を確かめることもなく、振り返ることもなく、その場を後にした。


 叶うべくもない邂逅にひと時立ち会えた、それが私に与えられた奇跡の全て。
 言葉が届かずとも、伝わると知っていた。



 それが”願い”


 ”祈り”である限り・・・

















<2>

 風が、鉄錆を含んだ血の香を巻き上げる。
 振り向きざまに切り上げた剣先に鈍い手応えを感じながらも、構わず、身を捻る勢いのままに袈裟懸けに切り下ろす。
 剣閃が白光の筋を描き、空を裂く鋭い音が遅れて続いた。
 濃密な、血臭がたち込める。崩れ折れる2つの人影を視界の隅に確認すると、再び地を蹴り駆け出した。
 
 空中庭園に咲き誇る花々は、赤く艶めき流れ落ちる生命の雫を浴びて濡れ光り、優美な彫刻飾りの噴水は月光を浴び、喧騒など知らぬとでもいうように、静かに、神秘的な水音で辺りを満たしていた。火の勢いは城奥には未だ至らず、赤黒く染まる空焼けだけが終末の彩りを添えている。
 贅を極めた調度品の数々、甘く痺れるような紫色の香煙。美しい天上の理想郷を模した、”楽園”の扉の奥の世界。
 しかし四方より、遠く近く、耳に届くのは、獣の唸り声のような奇怪な呻き声と荒い呼吸音。
 もはや、”人”は残されていないのだろう。冷たい確信を心に抱いて、私は剣を振った。
 柱の影より転げるように飛び出した複数の人影を見とめて、駆け込んだ勢いのまま、その内の一人の胸元に思い切り剣を突き立てる。
 裂けた口から長い犬歯を覗かせて咆哮する男の顔が、鼻先にまで迫る。間髪いれずに脇より鋭い爪で掴みかかろうとする別の影を回し蹴りで吹き飛ばす。勢いで宙に浮く身体を剣の柄を軸に回して安定させると、長剣を深く沈ませたままの男の身体を足場に着地した。そのまま剣を引き抜きざまに横薙ぎに振り切る。血飛沫が円弧を描き、この世のものとも思えぬ絶叫が木霊した。
 血の香に呼ばれるように際限なく、湧き出る”人”であった化物たち。嬉々として牙を向き、血溜りに集い、倒れたばかりの仲間の生身に次々と群がる。目を背けたくなるような、醜い、人の本性。
 教会の勇士でさえも、吸血の魔物と化した人間を、一人討つだけでも多大な労力を必要とする。如何な教会の力においても、この城を完全に制圧するには相応の時間が必要だろう。
 だが、それを待つ時間はないのだ、私には。
 振り返ることもなく、大理石の柱廊を駆け抜ける。

 胸を掠める不自然な不安の源泉が何であるかはわからない。
 ただ、”彼”に、呼ばれている、そのような気がしていた。
 途方に暮れた迷い子のような、縋る様な眼差しを思い返す。

 ”楽園”を生み出した、魔物自身が、望んでいた結末は
 ・・・己が破滅、だったのだろうか










 化物の巣窟と化した城内を単身駆け抜け、広大な空中庭園の入り組んだ緑道の奥、木々の間にひっそりと佇むように城主の居館が見えた。
 狂気に支配された”楽園”の住人達も、城主が座する聖域に寄り付くものはいないのか、無人の静けさが辺りを覆う。
 終焉を迎え炎に飲まれ行く楽園の有り様を、支配者は何を思い見取るつもりか。
 静寂に包まれた城館の重く巨大な扉を抜けると、音が途絶えた。
 
 
 赤い天鵞絨の絨毯が真っ直ぐに敷かれた、大広間。明かりのない空間の奥は、淀んだ闇に覆われ形を失っている。
 耳を澄ますと、小さく水を啜るような湿った音と、弱々しい喘ぎ声。
 構わず足を進めると、乾いた足音が辺りに反響し、間をおいて完全な無音が空間に緊張をもたらした。

「何者だ。」
 低く、ざらついた男の声。広間の最奥、闇の一角から、紅の眼光が2対、濁った光を放つ。
 ゆらりと身体を起こした男の姿を、天窓から差し込む青き月明かりが照らし、陰影を闇夜に浮かびあがらせた。
 赤く血塗れた口元に光る牙。支配者としての傲慢さを湛えた口元が、歪むように引き上げられる。

「・・・名乗る名は、・・・もう持っていない。」
 歩みを止めることなく、ただ淡々と、言葉を紡ぐ。
 魂が、細波一つ立つこともなく、冷たく、澄んでいくのを感じた。
「だが、この城も、お前の命も、もはやここまでだ。」
 
 静かな宣告に、しかし楽園の主たる男は嘲笑で応えた。
「外を騒がせる、教会の連中か。・・・思ったよりも、早くここまで辿りついたものだ。」
 己が敗北など、微塵も疑うことがないというように。広間に哄笑が響く。
「だが、愚かなことだ。この儂に楯突けると本気で考えているのか。」
 真紅の眼光が威圧するように見開かれる。瞬間、天窓の装飾硝子が甲高い音を立てて粉々に砕け落ちた。
 月明かりを反射して舞い散る破片。
 立ち上がる男の腕から、くたりと、力無く幼い肢体が床に崩れ落ちる。契約の主たる男に付き従う魔物。
 だが、熱に魘された目は焦点を合わせず、白く滑らかな首筋は血に濡れ扇情的に光を放っている。
「澄まし顔の鼻持ちならない教会の連中を、一人ずつ捕らえて我が牙にかけてやろうか。クク・・・こやつのように。」
「・・・・・・」
「夜の一族が持つ強大な力・・・いや、それを超える”貴族”の血の力を儂は手に入れたのだ。神と呼ばれる貴族の力をな!・・・もはや何者も儂に歯向かうことは出来ん!」」
 そのまま、床の上で仰向けに、弱々しく浅い息を繰り返す少年を足蹴に、男は鼻で笑った。

 ・・・少年の姿をしているが、その魔物の正体こそが”貴族”だ。
 世界に生きる全ての生命の頂点に君臨し、自尊心の高い”貴族”が、如何に契約相手と言えども、人間相手に口咬を許す訳がない。何より、人間が”生命の水”の力を借りて吸血鬼に変じたならば、それを与えた原種たるヴァンパイアには逆らえぬはずなのだ。
 ”彼”が、容易く人間の奸計に嵌るとは考え難いことだったが、油断か自棄か、今は完全に人の支配を受け、餌として自らを差し出してさえいる。
 それを成さしめたこの男の力は、確かに何かがおかしい。
 
 世界を覆いつつある不気味な闇の胎動を感じる。
 異なる、何か別の力の干渉があるのか。
 だが、それを解き明かすのは、もはや私の役目ではない。



 無言のまま、右手に握る白銀の剣を横に振り、水平に構える。
 キィン、と再び甲高い共鳴音が辺りに響いた。
 魂の底に眠る、神代の力が目を覚ますのを感じる。

「な、に・・・貴様!その剣は・・・まさか、まさか!」
 初めて男が狼狽の相を宿した。赤き目が凝視するように見開かれ、私と剣を見比べる。
「覚えておくといい。・・・お前が言う、”神”を討つことができる存在も、世界には在るのだということを。」

「まさか・・・貴様はまさか・・・”光輝”と謳われた聖騎士!・・・だが生きて、いるはずが!」

「では処刑人と名乗ろうか。」
 そのまま地を蹴り、男の懐に飛び込む。
 白き剣閃がふた筋、闇に舞う。直後、凄まじい剣圧に広間の壁際に飾られていた陶器の調度品が吹き飛ぶように割れ散った。
 間一髪といった体で横に跳躍して避けた男を追撃はせずに、ゆっくりと身体を起こし向き直る。
 慌て後ずさるその姿に、静かに視線を向けると、引き攣ったような声が続いた。
「その剣筋・・・処刑人・・・、そうか、そういうことなのか!」
 男は狼狽を声に乗せ、そして合点がいったというように唸り声をあげる。
「小賢しい魔物め、奴が子飼いにしていた化物は、お前だったという訳か。・・・かつての聖騎士が・・・堕ちたものよ!」
「・・・・・・」
「レヴィン!何をしている、役立たずめ!この”泥人形”をさっさと始末しろ!」
 男の怒声が広間に響き渡る。一瞬小さく肩を震わせて反応したものの、力無く横たわる少年の紫色の瞳は虚ろに宙を彷徨うばかりで、動く気配がない。

「もはや、邪魔は、入らないようだ。」
 静かに告げて、足を踏み出す。張り詰めた緊張が、空間を冷たく凍らせた。
 割れた天窓より舞い込む風が、床を吹き抜ける。
「二人相手でも、私は、一向に構わないが。」
 言った瞬間、地を蹴り剣を逆手に握り直し背後に叩きつける。聖剣が纏う白き燐光が一瞬火花のように視界を染めた。背後からの強襲叶わず、振り向きざまの峰打ちを受けて少年の小柄な身体が吹き飛ばされるのを視界の端に認識したまま、私は素早く剣を振った。剣閃が星の軌跡を描き、虚空を切り裂く真空の刃が追撃する。そのままの勢いで、更に身体を返すと、聖剣を頭上に向けて力の限り投げ上げた。
 剣の描いた軌跡が、円環の光の残照となり辺りを浮遊する。
 一瞬の間の喧騒。
 そして辺りには再び、静寂が訪れた。



「うぅっ・・・」
 弱々しい呻き声。
 弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた姿勢のまま、発光する光陣の結界によって魔物の身体は壁に縫いとめられていた。
 魔力の集積を見せていた掌から、力が拡散して消失する。

 強気の色を宿す紫玉の瞳が、やや悔しげに歪められる。その姿がどこか微笑ましく思え、私は笑いかけようとした。
 が、どうやらこの”泥人形”の身体には、そのような感情を表する能力はないようだった。
 ゆっくりと歩み寄ると、乾いた靴音が静寂の中で冷たく響く。
「私に、敗れるのは、悔しいか?・・・レヴィン。」
「・・・・・・っ」
 一瞬、驚きで惑う瞳が見開かれる。何かを伺うような、不安を湛えた目。
 弱々しく、残された右手が私に向けて差し伸ばされる。だが、言葉は続けられることなく。
 ゆっくりと瞳が閉ざされ、力を失った手はぱたりと壁に落ちた。

「もう、あの男に、従う必要は無い。」

 意識を失った、魔物・・・かつての友、に向かって私は、静かに呼びかけた。
 今際の言葉を残す間もなく、あの一瞬の交錯の間に、仮初の楽園の王の始末は既についていた。
 
 広間の壊れた天窓のすぐ脇に、白く発光する聖剣に左胸を貫かれ、絶命の叫びを顔に張り付けたまま男は息絶えていた。
 青白き月夜の陰影に照らされたその姿を、しばらく見つめ、私は背を向けた。

 後の始末は、教会の・・・いや、”生”ある者たちの領域。
 これ以上、私が世界に干渉をするべきではない。




 これから先、新たな波乱が世界を覆い、激動の時代が幕を開けることになろうとも。
 そこは彼らの・・・意思継ぐ者達の、生きる世界。


 胸を締め付ける感傷は、未練か・・・残される者達への慈しみか。
 遠く、聞こえる喧騒を背に受けて。

 想いを飲み込み、目を閉じる。





 そして
 私は世界に、最期の別れを告げたのだった



















<3>

 薄青の月明かりが小高い丘に降り注ぐ。
 緩やかに舞う風が、ささやかな音を立てて通り過ぎた。
 辺り一面に広がる、青い花。

 赤く焼け落ちる東の空を遠く映し、しかしここは失われた時の中に在るかのような錯覚を起こすほどに、ただ静けさに包まれていた。
 まるで、全てが、夢であるかのように。
 
 青き花の野に身を埋めるように眠る、小さな身体に手を伸ばす。
 首や身体の傷は既に塞がり、流れ出た血は乾ききる前に、その白い肌に吸い込まれるようにして消え、今は見る影もない。
 美しい陶器の彫刻のような肢体が、月の祝福を受けて神秘的な光を宿していた。

 あの陰惨な惨劇の、元凶とも呼べる魔、である。
 だが、本物の魔性とは、ただ哀しいほどに純粋で、高貴で美しい、そんな存在であるのかもしれないと。月明かりの下、静かに眠る姿を見て思う。
 それは他ならぬ自分自身が、少なからず、失われたはずの伝承の存在、”貴族”の力を汲むがゆえの共感か。
 これまでも時折、どこか遠く、冷めた心で、人の行いを傍観する己がいることを自覚していた。

 ただ、”彼”は人の望みを、願いを、叶えようとしただけのことなのだ。
 全ては人が望み、人がもたらした、破滅。
 だが・・・

”悪夢の伝播を防ぐ方法は、唯一つ。その根源となる存在を、断つ事だけだ”
 
 この白い魔性とよく似た姿を持つあの青年は、そう告げた。
 確かにそうだろう、と思う。
 そして何よりも、他ならぬ、この魔物自身が、それを、どこかで望んでいたのではないかとさえ思えた。
 だが、聖剣をその胸に突き立てることは、私には出来なかった。

「レヴィン・・・」

 名を、口に出して呼んでみる。
 記憶の中の姿とはかなり異なる、幼い少年の姿ではあるが、間違いなく友であった”彼”である。




 白い頬に手を添えると、薄く瞼が持ち上がる。
 紫色に、翠色に、虹のように変幻する瞳は、彼の心が惑いの中にあることを顕すと、・・・知っていた。
「レヴィン」
 
 呼びかけに、しばし目が見開かれたまま、時が止まった。
 潤む紫色が、どこか惧れを宿し、私を凝視したまま震えている。
「どう、して・・・どう・・・して?」
 舌足らずな幼い声。
 落ち着かせるように、ただ優しく。何も言わずに瞳を覗きこむ。
 慌てるように幼いからだが、肘で身を起こし後ずさろうとした。
「お前・・・おまえ、どうして?」

「全部、喰ったのに・・・・・・。おれが、全部”喰らった”から、おまえ・・・もうどこにも、いない、はず」

「私はここに居る。」
 逃げようとする小さな身体を引き寄せ、確かめるように抱きとめると、幼い肩が震えて小さくなる。
「これは”夢”?」
「ああ、夢かもしれないな・・・」
 言葉を受けて、戸惑うように”彼”は首を傾げて見せた。
「ではおれも、やっと、人間みたいに、”夢”を見られるようになったのかな。」
「・・・・・・」
 胸に落ちる吐息に、どこか痛みを覚えながら言葉を飲み込んだ。
 
「君が契約していた、あの男は、もうこの世から居なくなった。」
「あいつ・・・」
 思い出したように、レヴィンは身を起こした。
「あいつ!確かに死んだ、くせに・・・、どうして魂がおれのものにならない?」
 腹立たしいとばかりに顔を上気させ、眉を顰めながら。
「別の奴が横取りしたんだ。そのせいで・・・おれは奴にいいようにされて、それで!」
 姿を変えると、その性質まで変じるものなのか。口を尖らせて、本当に子供のような拗ね方だった。
「レヴィン、何故、あのような男に手を貸した?」
「・・・何故って、奴がこの世で一番強欲な人間だったからさ。」
 不思議な事を聞く、とでも言いたげに彼は小さく首を傾げて答えた。
「俺は・・・」
「君は、人の”願い”を喰らうもの・・・だから?」
「そう。」
「だから、かつて、私の祈りに応え、手を貸してくれたという訳か。」
「そう。」

 無邪気な程に真っ直ぐに返される。
 だが、少し思案するように、彼は再度首を傾けた。

「だがお前は特別だから。また、願いを、聞いてやってもいい。」
 独特の、居丈高な口調でレヴィンは言い、そして柔らかく・・・笑った。かつての”彼”が見せたように。
「願いがあるなら言ってみろ。お前が望むことなら、なんでも、叶えてやるから。」
 期待を宿して見上げる瞳。
 ”願い”
 そう、伝えなければならない。
 たとえ、それが残酷な宣告をもたらすものだとしても。
 私が最期に伝えなければならなかった想いこそが、そこにあるのだから。
 心の奥底に痛みが走る。

「何故、・・・私は特別、なんだ?」
「だって、お前は色々おしえてくれた。」
「おしえた?」
「そう。」

 そう言って、レヴィンは足元の青い花を一つ手に取った。
「青い花のこととか。」
「青い花?」
「そう。」

「人間が”夢”を見るということとか。それと・・・誰かを想う、こととか。
 ・・・触れ合う肌が、とても、あたたかいこと、とか。
 あと、あとは・・・世界が・・・」

 最後まで言わせずに、私はその小さな身体を強く抱き締めていた。
 ・・・過ぎ去りし日々の追憶に、胸が締め付けられるようだった。
 もう戻ることはできない。

 いくつもの人々の顔が浮かび、波間に飲まれ、消えていく。
 笑い、怒り、悲しみ、喜びを分かち合った大切な仲間たち。
 愛しい人。愛しい命・・・

 そう
 人の中で生き、人を愛し
 やがて”彼”は・・・”人”になりたいと望むようになった

 ”願いを喰らう”魔物が抱いた・・・それはささやかな願い事
 だがその顛末は・・・





「おまえ・・・・?」
 突如、突き飛ばすように小さな身体が身を離した。
 見開かれた目が驚きを湛えている。

「お前、どうして・・・何故、そんな事を願う?」
 伝わった、のか。
 だがレヴィンは理解できない、というように強く頭を振った。
「ダメだ。それはだめだ。」
「君は私の願いを何でも叶えてくれると、言ったじゃないか。」
「それとこれとは違う!」
 声を荒げて、レヴィンは私を強く睨み据えた。

「おれを・・・置いて、いなくなるのか?それを・・・望む、というのか?お前も。・・・おまえも!」

「レヴィン・・・」
 突き放された子供のように、その目が揺れていた。
 やがて項垂れ、背を向ける。一筋の風が、青き花の野を駆け抜ける。
 小さな呟き声が絞りだされるように、聞こえた。

「ああ、そうだ・・・お前は、教えてくれなかった。・・・たった一つ、おれに、教えてはくれなかった。」
「・・・・・・」

 振り返った幼い顔が歪んだ。
 激情が紫目に宿るのが見えた。まるで人のように。
 それは偽りがたき、慟哭の色。
「おれは、知らなかった、知らなかったんだ!」
 自らの胸を苦しげに掴み、抑えきれない苦悶が、声の震えとなり伝わってくる。
「痛い・・・こんなに、痛い、なんて・・・知らなかった。」


「お前は、教えてくれなかった!」

 そして みな
 居なくなった・・・



 痛い

 痛い・・・


 時に取り残された、迷い子。
 ”人”になり損ねた、哀しい魔物の苦悩が伝わってくる。
 
 
 そう、”彼”は
 失う、痛みを知ってしまったのだ。
 人を・・・愛する、ということを、おぼえた・・・その代償として。



「レヴィン。目を背けないで、前を見て欲しい・・・」

 私が”私”でいられる時間は、もう長くはない。
 自我を失った、抜け殻の魂に、意味などない。
 伝えなければならない。
 そうしなければ救われなくなるのは、他ならぬ”彼”自身だ。
 
「別れが、流転する時の、必然だということを・・・君が知らないはずがない。」
 静かに、続ける。
 残酷な事を告げていることは理解していた。
 だが、”彼”は、最初から、気が付いているはずだ。わかっているはずなのだ。

 誰よりも長く、悠久の時の流れの中で、人の営みを、見守ってきた存在の一であるのならば。


「人は死に、在りし日の栄華は失われ

 誰もが皆、時の舞台から去りゆく・・・

 塵となり

 ・・・地に還る


「・・・・・・」
 
 そして、大地には・・・

 新たな命が芽吹き

 次代の風が吹き
 日はまた昇る・・・
 
 想いは受け継がれ

 形を変えて
 再び輪を紡ぐ・・・


 繰り返し、繰り返し・・・




「レヴィン、君は・・・」




 それを、既に・・・
 知っているはずじゃないか。










 世界が、蒼く、染まる。

 風が、一際強く青き花の野を舞った。
 月明かりを浴びて、燐光のように光る花弁が、雪のように辺りを覆う。

 どこか眩い、幻想を思わせる蒼い海。
 彼は物言わず、ただ、静かに立っていた。
 いつの間にか、幼い少年の姿はそこにはなかった。
 私が良く見知った、懐かしい、”友”の姿が、光の幕間に浮かんでいる。

 思わず手を伸ばし、触れようとして。
 私の手は透き通った光を放ち、その姿を通り過ぎた。

「・・・・・・」
 
 何者をも寄せ付けない、超然とした気配。
 凍えるような紫色の光が、私を静かに見据えている。
 だが、その魂が抱える、幾つもの心の姿、を私は知っている。
 そして今は・・・別れの慟哭を私に見せぬために、仮面を脱ぎ捨て、感情を覆い隠してしまったのだということも。

「お前が・・・それを、望むというのならば」
 僅か目を伏せて、彼は呟いた。
 右手が、たおやかな動作で前に差し出される。

 魂の解放を意味する、浮遊感。
 月夜の蒼き野を包む光が、全て自身の身体から漏れ広がる光によるものであったことに、そのとき私は気が付いた。
「輪廻の流れの中に、還るがいい・・・もう、2度と、会うことはあるまい。だが・・・」
 目を反らしたまま、ゆっくりと、告げられた。
 やや特徴のある、甘い声色が余韻を残す。

 レヴィン
 私は声を発しようとしたが、失われつつある身体はもう音を生まなかった。
 手を伸ばす。

 その頬に、触れたように思えた指先が光の粒子を弾かせて散る。
 俯いた、その視線が上げられて、再び目が合った。
 言葉無く、ただ、視線が交わされる。

 これで、いい・・・

 私は、消えゆく意識を感じながら
 その存在の、全てをかけ、祈った








 そしてどうか、人を・・・
 人の子たちを・・・







 最後に伝えたかった、望みを。
 寄せる口元に託す。

 あるはずもないぬくもりを、感じたような気がする・・・



 虹の、雫が
 こぼれるのを・・・見た










”シグルド・・・”



 失われた、名が、
 光の中に反響して




 静かに、溶けた

To Epilogue

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