肖像の森鴎外 林花子
明治の文学者、森鴎外の肖像に、思いがけない所で出会った。 旧国立第一病院(今の国際医療センター)は、まっ白に殺菌されていながらも、古くからのどっしりとした建物でもあり、早稲田・戸山公園の緑に隣りあう大病院です。11月中頃、頭を用事でいっぱいにして、売店へ急いでいた所でした。 病棟から外来棟に行く道をまちがえ、眉をしかめ踵を返した。見ると、病院の歴史を残す、“患者はすべて軍人…”という新聞記事などが展示されている、そこに、鴎外の写真があった…。まさか今ここは、かつて鴎外がここにいた陸軍病院だったなどと、思いもしなかった…。 まっ白に殺菌された大病院のなかで、私は自分のために、10分、時間を作った。軍服の鴎外は、私には複雑な表情にみえ、とくに陸軍の軍医総監のときの写真は、肩の形までも、複雑にみえてしまったので。 明治時代、軍医として5年のドイツへの留学を買われ、鴎外=森林太郎は、陸軍軍医学校の校長となり、また、陸軍の軍醫総監として、何年もつとめた人でもあったといいます。 江戸から明治、明治から大正へ時代が動いてゆくなかで、鴎外の心では、ドイツへの留学と、医学の勉強、軍人であることと、文学が一つだったということが、今もやはり、私にはつかみきれない。 でも、文学者として鴎外は、多くの翻訳をしたうえで、明治という時代のなかで、新しい日本語を作ろうとしたし、日本語の言葉で自分の心の中にある複雑なものを書き出そうとしたと感じることがあった。 それは、鴎外晩年の小説の一つ、「山椒太夫」を読み通して、鴎外のかなづかいは美しいと感じたことです。 たとえば、安寿が厨子王に「わたしの事は構はないで、お前一人でする事を、わたしと一しよにする積でしておくれ。」という。これは明治の人には当たり前の旧かな・旧漢字で、作り出された言葉だろうけど、私には美しいと感じたことです。 私が立ち止まっていた10分のあいだにも、鴎外の肖像の前を、様々な人が通りすぎ、おかあさんが病なのか、乳母車で運ばれて、パパ…と女の子が、誰にともなく話しかけては、すぎてゆきます まっ白に殺菌された大病院に通う日々、売店に行くときは、自分のために、こちらの道を通って行こうと思いました。 2007.01.08 |
*はやし はなこ 『詩学』06.2/3合併号に評論「永瀬清子と麻生知子の魅力・魔力に沿いながら」、舞踏誌「激しい季節」第9号に舞台評「他者に触れる『可能無限』」を発表。 |
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