えこし見聞録 0005 Knowledge Record of EKOSI  2006.06.21UP        <<0004      0006>>

 金子みすゞ記念館を訪れて クリハラ冉 


江古田文学」で私が「金子みすゞ没後七十年特集」(39号)、「金子みすゞと女性たち特集」(43号)を企画してから六年が経ちました。

先日「金子みすゞ記念館」(山口県長門市仙崎)を訪れました。みすゞが生まれ育った仙崎を訪れるのは六年ぶり、生誕百年を記念してできた記念館に行くのは初めてです。

つめたい雨が降り、深川湾はとおく花津浦まで灰色にけむって海はいちめんちいさな三角波がたっていました。

記念館は、金子文英堂跡地に復元された「金子文英堂」と、遺稿手帳(レプリカ)やハガキ、みすゞの着物のはぎれなどの資料を展示する「本館」、そして「休憩棟」とで成っています。

金子文英堂は、父亡き後、母と祖母、兄とみすゞの四人となった金子家が営み始めた仙崎唯一の本屋でした。ここでみすゞは二十歳までを過ごしました。店中央の平台の上にはみすゞが読み投稿した雑誌「童話」「赤い鳥」などが置かれています。文英堂では書籍だけでなく文房具も扱っていて、ガラスケースには色とりどりのクレヨンやインク、筆や万年筆などがありました。天井から吊るされた世界文学全集の広告の上には、ツバメが二羽ちょこんととまって鳴いています。入口正面の四畳半に小さな机が置かれ、そこで店番をしていたそうです。

その奥の三畳と六畳の部屋は母と祖母が寝起きし、また居間としても使われたといいます。そのまた奥には土間にかまど、五右衛門風呂、中庭には井戸があり、祖母が育てていたものから今なお引き継がれているという、ももいろの薔薇が咲いていました。

二階のちょうど店の上に、みすゞの部屋はありました。大きさにして四畳半。通りに面した西向きの窓からは今のみすゞ通りが見おろせます。向かいには当時、氷蔵、米蔵、魚屋がありました。窓の前に文机があります。ふすまをはさんですぐとなりの六畳の部屋は兄堅助がいたのでしょうか。弟正祐が「里帰り」と称して遊びに来た時にはこの二階が“文学サロン”となり音楽や歌声、談笑しあう声が響きわたったことでしょう。

実際に金子文英堂の中に入ってみてまず実感したことは、思ったよりこじんまりとしているな、ということでした。みすゞの部屋も、外との仕切はふすま一枚ですしとても密接しているなと感じました。思えば家と家とも密接していますし、人と人との関係もまた、静かではあってもとても密に暮らしていたのだろうなということを感じました。外界を遮断した孤独な世界というものの気配は感じられなかったのです。市井の人として一生を送ろうとしていたであろうみすゞの日々の暮らしが思われる不思議な何もなさでした。

そのような密な暮らしから思うことは、みすゞのコトバのもつ切断力のすばらしさです。みすゞのコトバにはいつどこで読んでいても今ここの時空や日常を切断する力があります。

切断力。それは日常を一瞬で切断する力でもあり、詩の中で安定した意味の流れを切り裂く力でもあります。どこまでも日常と地続きのようでありながら一瞬の真空に襲われるような切断力で私はみすゞの指差す見えないものを見る地平へ運ばれているのです。

そして私が受けたあの不思議な何もないという感じは、みすゞにとり次のことが明らかだったことが一つの要因かと思います。最も美しい「花」は見えない国に咲くということです。みすゞが愛してやまなかったのは名づけ得ぬもの、形をとどめていないもの、それゆえ最も美しいであろうものなのです。だから一本の花木を愛し育てるようにみすゞは形なき形をとどめるコトバを書きのこしたのだと思うのです...。

二十歳の春、みすゞは仙崎から下関に移り住み、本格的に詩作を開始します。

みすゞが暮らしたというその場所に金子文英堂が復元されたことで、実感をもってみすゞの二十歳までの暮らしの土台を見ることができたことはとても意義深いことでした。

2006.06.16



*くりはら なみ
 『江古田文学』金子みすゞ特集を責任編集。評論「人間という名の喩」(『現代詩手帖』2004.11月号)ほか。近代女性詩人研究。
「金子みすゞ記念館」パンフレット
「金子文英堂」の外観
文英堂二階に復元された
「みすゞの部屋」

■金子みすゞ 略歴 (1903〜1930)山口県生れ。本名テル。幼い時、父と死別、弟は養子に出、のちに母は弟の養父の後妻になる。大津高等女学校卒業生総代を務め、卒業後は家業の本屋を手伝う。大正12年二十歳の時、「童話」等の雑誌に詩作投稿、鮮烈にデビューした。私淑した西條八十は「若き童謡詩人の巨星」と絶賛。結婚し一人娘をもうけるも離婚。手帳に手書きの遺稿詩集『美しい町』『空のかあさま』『さみしい王女』を一組は八十に、一組は弟に遺し、二十六歳で自殺。


見聞録の扉へ      えこし会の扉へ