「魂戯れ」の愛のテーマ 林花子
2006年5月18日吉祥寺・前進座で大駱駝艦天賦典式「魂戯れ」を見た。 「魂戯れ」で出雲の阿国の男装*1は、理性でなんでも鑑別しがちな私にとって、はじめは言葉が出なかった。けど、この理性を、体で舞台から受け取ったものへとこそ傾けていったとき、四百年前の京都で愛する男の衣服をまとって踊ったという阿国の男装は、私が考えたこともなかったような、愛の形だったと思えてならなかった。 「魂戯れ」の魅力は、どの役どころの、どの全ての一人の人物も欠くことが出来ない場面構成*2だと思う。何が、この場面構成の底力にあるのだったか。 絵馬を胴体中に担った五人の男。私は、その仕草と他の役との関わり方から、彼らは少年たちの役だと感じた。「魂戯れ」には、願いのようなものがまず内にあって、その願いのようなものが内にびっしりつまったとき、音を立てて体が動きはじめる。そのような速度がある。少年たちの願いのようなものが、例えば、春の絵の屏風を回転して秋の絵の屏風へと場面転換していく、底力となって舞台を貫いている。 絵馬を担った彼らが、黒いブラジャ・黒い男性の生殖器・生殖器を結んだ黒いリボン・長い口ひげの三人の阿国を、背中合わせに支えて、舞台の奥へと歩いて行く所が、私にはとても大切だった…。それは、セーラー服の仮面少女たちが、自らの体をくぐらせてきた赤い四角い輪を、時と命を手にするお婆さんの一人、麿さんにかぶせ、麿さんがその赤い四角い輪ごと、つまづいた所と強く響きあっている。 なぜ、あのすごい男装で、三人の女性たちは、舞台に立てたのだろう? 阿国の男装は、ただ観念で女に生まれた体を否定したり、少女が少年ぽくしているのではない。「魂戯れ」の阿国は、女であることを受けとめた底で、魂のなかで、死んでしまった男を、魂として、すくいとめている。阿国の愛の形は、体の内から、まだ言葉にならない願いのようなものを、抉られるような思いがした。 2006.06.06 |
*はやし はなこ 『詩学』06.2/3合併号に評論「永瀬清子と麻生知子の魅力・魔力に沿いながら」、舞踏誌「激しい季節」第9号に舞台評「他者に触れる『可能無限』」を発表。 |
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**編註* *1 三人の女性舞踏手による、黒いブラジャ・黒い男性の生殖器・長い口ひげをつけた装いのこと *2 場面表題 -パンフレットより- 一、時守りのお婆 二、虚空にて 三、いづこより来て 四、いづこに参る 五、何者ぞ 六、川のほとり 七、箱抜け娘 八、だまって働く 九、秘めずが花 十、冬模様 十一、フィナーレ |
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当日配布された パンフレット |
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