わりさや憂羅さん─踊り始めて30年を祝う会 クリハラ冉
「舞踊家わりさや憂羅さん─踊り始めて30年を祝う会」(2006.5.23・BXホール)に出席しました。 黒い衣装で舞台に登場した憂羅さんが踊ったのは、彼女がフラメンコを踊りつづけるうえでとても大切な曲となったというタラントス。いない赤子をだきかかえる母のシーンが印象的な踊りで、彼女はこの曲を25年以上踊りつづけているという。 憂羅さんの踊りから私はいつも「美しい」ということを感じさせられます。そして今日は、生死をもつ命のあらゆる暗い部分(心がそう感じてしまう...)にうちかつものは“美”なのではないかと感じてしまった。 「美と倫理は一つにならない」─えこし会“詩人・山本陽子座談会”のときそう話しあった。これは私の個人的感想ですが、憂羅さんは本来、倫理的要素のつよい人なのではないかと私は思う。 “最善は生まれないこと、次善は生まれてすぐ死ぬこと...”というものを彼女自身ももっているのではないかと私は感じる。善悪をもって命の現場をみるときひずみや暗さが生まれ、自分が生きているということをゆるし難く感じてしまう、そういう心をもっている人だと思う。 その、ともすれば呑みこまれそうな暗の部分を“美”によって愛に変えようとする祈りが、彼女の踊りの本質だと私は思います。だからその美しさの背後に、底知れない闇が感じられるのだと思うのです。憂羅さんの舞踊生活30年にわたるその美の祈りの行為が並々ならぬものであるからこそ、今“サッパリと虚無”のカラダでここに立っているのだと感じるのです。 肉体とは愛の記憶の総和だと私は思っている。憂羅さんの肉体が美しいのは、彼女がさまざまな美しい魂の持ち主と実際に出会い、愛し愛された、ということだけではなく、コトバや絵などの芸術作品等をとおしても、さまざまな美しい魂たちと時空を超えて出会い、愛し愛されたからだと真底かんじました。そして私自身、このことに強く勇気づけられました。 また、会場の同じテーブルに詩人・遠丸立さんがいらしていて、「えこし通信」のことや金子みすゞ特集(「江古田文学」)のことについてなど、声をかけていただきました。嬉しく心強く思いました。 2006.05.24 |
*くりはら なみ 『江古田文学』金子みすゞ特集を責任編集。評論「人間という名の喩」(『現代詩手帖』2004.11月号)ほか。近代女性詩人研究。 |
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当日配布された リーフレットと花々 |
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『ある闘牛士の死』DVD |
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