玄洋社は旧黒田藩(福岡県)の下級士族を中心とした結社組織であった。
元々は経済的理由や身分などで藩校に入れなかった若者が知識を求めて訪れた眼科の女医高田乱(おさむ)女史の私塾での仲間が結束っしていたのであるが、幕末から明治初期に不満士族による多くの内乱が起きた中で、福岡藩に於いても西南戦争に呼応する形での内乱「福岡の変」が発生し、塾生の中にもこれに参加した結果、鎮圧・処刑されたものも多数居た。
たまたま他の事件で拘束されていた頭山満が中心になって生き残りの塾生や賛同する同志によって結成されたのが玄洋社である。
初期においては大隈重信侯を手投げ弾で襲撃後に自殺した来島恒喜のようなテロ活動に走るものもいたが、その後は頭山の指導によりアジア主義を標榜する政治結社としてインド独立運動のチャンドラ・ボースを支援するなどの運動に関わっていた。
戦後にGHQの指示で活動を停止。最期の社長は後の福岡市長である進藤一馬。彼に男子の後継がなく娘は相撲部屋の女将となった。

玄洋社史より「福岡の変」
玄洋社結成の契機となった明治初期の西南戦争に呼応して起きた福岡藩における下級士族による福岡城襲撃事件の顛末

満州義軍

日露戦争の最中に組織された満州義軍に参加した祖父の従軍日誌
日露戦争満州義軍従軍日誌

Revised Aug. 20 2012