満州義軍従軍記

これは私の祖父(樋口満)が残した日記のうちで現存する部分である。

福岡の中学卒業後に鉱山専門学校(赤池鉱山専門学校、後の九州工大)に学ぶ。身長6尺を超える偉丈夫ながら日露戦争の最中、従軍の機会がないまま(持病の胆石のため)筑豊の炭鉱の事務方に従事していた彼に思わぬ機会が与えられた。玄洋社に参謀本部から新たに編成される満州義軍の日本側指揮官を募集の話である。勿論正規軍でなくいわゆる第五列(Fifth Column)であるからそれなりのリスクはあっただろうがその話に乗って出征した際の日記である。

なお、満州義軍については戦前の映画に「満州義軍・花大人」と言うのがあったそうであるが、このモデルが日記中に出てくる花田少佐のことである。
幹部のみが日本人で、部下と支援部隊は全て現地調達の満州人(土地が戦場になっているのだから傭兵になるしか食っていけない現地住民や機会を求めてやってきた流民)であり当時の日本では「馬賊」と呼ばれていた。戦費と武器は参謀本部より支給、服装はまちまちのいわゆる便衣隊です。
元より偵察と後方攪乱を目的とする部隊故に装備、訓練ともにロシア正規軍には対抗すべくもない寄せ集めの傭兵部隊で実際に遭遇戦では手酷い損害を受けています。
写真とか見たところでは、一隊の構成は傭兵が100人を超えていたようです。
日本人のMIA(Missing in action)は一名。植村定造氏。実際には露軍の捕虜になった後に、停戦の少し前に断食自殺をされたとのことで、鎌倉東慶寺入り口右手に慰霊塔があるそうです。

原文は綴じ和紙にまともな字体で書かれており、恐らく現地でのメモを清書したものと推測される。できるだけ原文に近い形にするために誤字や当て字と推定されるものもそのままにしてあるが、漢字の書体がないもの等は近いと思われるものを充てている。

歴史的に参考になると思われるので、ここからの引用は自由ですが、その際には連絡をお願いします。著作権と著作者人格権については私にあることを明確にしておきます。

なお、背景は彼が指揮した部隊の隊旗であり、戦後の混乱の中で保存された現存する唯一のものと思われる。実物は福岡市にある玄洋社記念館にから後に福岡市博物館に保管されてあり、これは読売新聞社の記事に掲載されていたものを流用している。

義軍幹部名簿

遼東半島地図