利休の孫、宗旦自身は大名仕官しなかったが、子供たちはそれぞれ大名に仕官し、現代へ続く三千家の初代となった。
次男の宗守は、讃岐高松の松平家へ寛永6年(1666年)に仕官した。
三男の宗左は、紀州徳川家へ寛永16年末(1676年)に仕官した。
末子の宗室は、加賀前田家へ慶安5年(1652年)に仕官した。
千家の三兄弟のうち、宗左は本法寺門前の屋敷(不審庵)を譲り受け、宗室はその北に住み、今日庵を営んだことから、前者を表千家・不審庵、後者を裏千家・今日庵と呼ぶ。これに対し、宗守は、ここより少し南の武者小路に住んだことから武者小路千家・官休庵と呼ぶ。これらを総称して、三千家と呼ぶ。
利休の同僚であった藪内剣仲は、下京の本願寺に仕えた関係から、三千家を上流(かみりゅう)というのに対して、藪内家を下流(しもりゅう)と呼んでいる。
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