千利休について

千利休の肖像  千利休は、1522年に泉州堺の納屋衆の家に生まれ、幼名を与四郎といった。17歳のとき、北向道陳について茶の湯を習い、武野紹鴎に師事したと伝えられる。

 1568年に今井宗久、津田宗及と共に茶頭として織田信長に参仕し、本能寺の変ののちに秀吉に参仕する。1585年に秀吉の関白参賀の禁中茶会に、居士名「利休」で出席した。その後、古渓和尚のすすめで大徳寺三門を建立寄進。

 1591年2月28日、秀吉に死を命ぜられ、京都一条葭屋町の屋敷で自刃した。享年70歳。原因については、大徳寺の山門の楼閣に自分の木像を置いたため秀吉が参詣時に足げにされることになる、茶の道具に法外な値段を付けた、秀吉に強い発言権を持つ利休に秀吉の側近が恐れて、など諸説があるが定説はない。

 抛筌斎利休宗易(ほうせんさいりきゅうそうえき)と号する。

円城寺   利休作円城寺(おんじょうじ)花入 →
 小田原在陣中、利休が伊豆韮山の竹で作った3つの花筒のひとつといい、帰洛して息子の少庵に与えた。銘は、正面に見える割れ目が円城寺にある引摺り鐘のそれを連想させるところから。

 秀吉に献じたが、気に入らなかった秀吉はこれを庭に投げ捨てたので、割れ目がはいったとの伝承を持つ。

 また、円城寺花入に花を入れ、床の間においたところ、竹筒の割れ目から水がしたたり畳の濡れているのを見て、利休は「水の漏るのがこの花入の命です」といったという。


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