結 神寿詞〜海人と海神(かむよごと・あずみとわだつみ)


 安曇濤哉は海を見ている。
 全てが洗い流されてしまった海岸で。
 朽ちた建材と、海草とが入り混じる海岸で、彼は海を見ている。
 海には何もない。振り返っても、その目に映る光景は空っぽだ。屋敷も、蔵も、庭の木々も、馬鹿げた財宝も、血も、死体も、焼けたフィルムも――
 波が全て洗い流してしまった。
 だが本当にそうだろうか? 彼はため息をつく。波の音に混じるかすかな歌声、もはや聞こえるはずのない歌が、やはり消えずに残っている。あの日の涙をたたえた瞳と、柔らかい声。一番に消したかった記憶。それが消えない。
 いつか、この歌が聞こえなくなる日はくるのだろうかと。
 そう思いながら、彼は海を見ている。


 藤沢那美は海を見ている。
 いつもの二階の部屋で。
 我が子の寝息を聞きながら、二階の部屋の窓から、彼女は海を見ている。
 沙織は何時の間にか眠っていた。作りかけの首飾りを、手のひらからこぼしたまま、母の背に寄りかかっている。
 那美は振り返る。何か言われたような気がしたからだ。だが、沙織はやはり眠っている。眠ったまま、その口が時折動く。歌うように。
 背の重みを心地よく感じながら、那美は書きかけの手紙に向かう。
 あの時から、ずっと書きかけだった手紙を、今日書き上げてしまおうと思う。
 それが兄の手に渡る日が来るだろうかと。
 そう思いながら、彼女は海を見ている。


 安曇佐和女は海を見ている。
 もう誰もいない洞窟で。
 波の音だけが、歌のように響く洞窟の中で、彼女は海を見ている。
 彼女は島に戻ってきた。濤哉は東京に戻れと言ってくれたが、彼女にその気はない。もう誰のためにも歌わない。彼女はそう決めた。
 いつかこの島を出ていく日まで、彼女は独り歌うのだ。
 誰かが貝殻をひとつ、その手にのせてくれるだろうかと。
 そう思いながら、彼女は海を見ている。

 
 ナミと呼ばれていた老女が、海を見ている。
 この小さい島で。
 この世のどこでもない場所で。
 かすかに響く歌声に、淡い眠りと、波の打ち寄せる浜とを行きつ戻りつ。
 また目覚める日にも、その歌声が響いているかと、
 そう思いながら――


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