景太郎にとって力とは、生きる為に必要な物だった。
それ以外では無用な物だった。
それどころか有害ですらあった。
だから力に対して優越感を感じた事など一度も無かった。
力で得られた物は本当に少しだけ。
力の為に無くした物は数え切れない……
実は景太郎が素子に今まで教えた事は、基本的には生き延びる為の術だけだったのだ。
景太郎は自分に無い『輝き』を持つ素子に、自分の様にはなって欲しくなかった。
だからかもしれない。
今、景太郎が京都にいるのは……
京都 鶴子の隠れ家
現在景太郎と鶴子は一つの問題を抱えていた。
景太郎が京都に着いてすぐ、襲撃を受けたのである。
もっともそれは景太郎が京都に訪れる度のことなので、大したことではない。
問題なのは、その対処がいつもと違ったことだ。
「流石に拉致監禁は不味いと思うぞ、俺は」
部屋の壁に寄りかかりながら、景太郎は重い溜息と共に言葉を零した。
その視線は、部屋の片隅に転がっている少女――景太郎を襲ってきた神鳴流門下生――に向けられたままだ。
年端かもないように見えるが、それでもかなりの手練れだった。
もしも相手が景太郎ではなかったのなら、“良い勝負”になっていただろう。
「ま、まあまあ。大切な情報元になると思えば」
呆れたような景太郎の声に答えたのは、軽く微笑む鶴子。
しかしその表情はどこかぎこちない。
良く見れば頬は引きつっているし、こめかみには冷や汗が見える。
もしかすると、彼女にとってもイレギュラーな事態なのかもしれない。
そんな彼女の様子を見て溜息を吐いた景太郎は、軽く疑問を口にする。
「自白剤の手持ちはないのだが……拷問でもするのか?」
「――それは最後の手ぇどすな」
およそ一般人の口からは聞けないような台詞が、さらりと零れる。
それは恐らく、景太郎が今まで過ごしてきた闇の名残だろう。
なんでもないように答える鶴子にも、ほんの一瞬の間があった。
「ま、うちに策があります。見といてくださいな」
気を取り直したように、鶴子が悪戯っぽく微笑む。
怪訝な顔をする景太郎を放って置いて、鶴子はぐったりとしている少女を起こしに掛かった。
軽く頬を叩いてみる。
「ん、ここは…」
程なくして、少女が目を覚ます。
しばらくの間、意識が朦朧としていたようだったが、視線が鶴子と景太郎に向いたとたん、一気に覚醒した。
目を見開き、はっと息を飲む。続いて表情が険しくなった。
その瞳は親の敵でも見ているかのように鋭い。
神鳴流の大敵と、かつて尊敬していた裏切り者を目の当たりにしているのだ、彼女としては当然だろう。
しかし少女の精一杯の眼光も、鶴子には全く通用しなかった。
「弱りましたなぁ。
あんさんには色々喋って欲しいんどすが、その様子ではすぐにと言う訳にはあきまへんか」
少女は鶴子の言葉には応えず、表情を更に険しくした。
馬鹿にするな、とでも言うかのようだ。
そんな少女を見て軽く肩をすくめると、鶴子は彼女の耳元で小さく囁いた。
「あんさん、歳は幾つどす? あぁ、答えんでもえぇどすわ。
せやけどな? あまり若いと、ちょっとあんさんの身が危ないんどすわ」
歳が若いと何故危なくなるのか分からないのだろう。少女が怪訝な顔を見せた。
その素直な反応に内心“ひっかかった”とほくそ笑みながら、鶴子は言葉を続ける。
「実はなぁ。あそこに居る男、ロリコンでSM趣味なんどす。
あんさんが話してくれへんと……ウチとしても気が進みまへんけど……」
あからさまな脅し。
素直に話せば良し。そうで無ければロリコン男をけしかける、と言うことだ。
具体的にどうする、と言わないところがポイントである。
鶴子の言葉を聞いて、少女がちらりと景太郎に視線を投げる。
黒を基調とした戦闘服とマント。顔の大半を覆い隠す、これまた黒のバイザー。
景太郎の怪しい風貌も手伝って、少女の脳裏に“景太郎=変質者”と言う固定観念が出来上がった。
とたんに少女の顔が青くなる。
少女の注意が自分からそれた隙に、鶴子は景太郎に向き直り、唇の動きだけで笑うように指示した。
読唇術でそれを読みとった景太郎は、訳が分からないながらもそれに従う。
ニヤリ
「……ひっ!」
少女の口から小さく悲鳴が上がった。
続いてガタガタと震え始める。
顔は青を通り越して蒼白になっていた。
まだ幼い彼女には海千山千な鶴子相手に、突っ張り通す事は無理だったようだ。
幸せって何ですか?
第8話
少女――蒼井棗(あおい なつめ)と名乗った――から聞き出した情報によると、明日の朝にも景太郎と鶴子を討つために、青山素子が今夜ある儀式を受けるらしい。
鶴子と翁の説明によると、その儀式には二つの種類があると言う。
一つは、技術の継承。
儀式を受けたものに、命の技を貸し与えると言うもの。
もう一つは、憑依。
命の魂を召還し、儀式を受ける者に憑依させる。この時、魂は召還者に対して絶対服従の制約が掛けられ、憑依される側は人格崩壊を起こしてしまう。
どちらも神鳴流の禁忌に属する物だ。
「――という訳で、ツェペシュはんには信じられんかもしれませんが、命の魂と素子の人格が踏み躙られようとしています」
それは景太郎にはとても許容できる内容ではなかった。
「解った。命の刀を破壊すれば良いんだな」
「二人を……助けてやってください」
深々と頭を下げる鶴子。
その様子はいつもの彼女と違って、儚げに見えた。
命も、素子も、彼女にとっては大切な妹なのだと、当たり前のことに気付かされる。
「言われるまでもない。……さぁ、行こう。もう時間がない」
目指すは青山本家。
景太郎達の、戦場へ…
青山家本家 儀式の間
結局、素子は儀式を受けていた。
とは言え、彼女自身、全てを納得した訳ではない。
先ほど市内で神鳴流の門下生が襲われたとの報告が入った。
それだけでなく、門下生の一人が攫われた言う。
神鳴流関係者の中で件の犯人を倒しきる人物が居ない今、素子に選べる選択肢など有って無いような物。
状況は素子に選択をする事すら許さないところまできていた。
もう、悩む事も迷う事も出来ない。
儀式はほぼ終わり、後は目の前の刀を手に取るだけで終わる。
ただそれだけで、あの姉すら超える力が手に入る。
それは自らが望んで止まなかった事だったのに、その過程が余りにも不本意で、素子の信念を揺さぶる。
あと少しで刀に触れると言うところで、そこから先に手を伸ばせない。
これで良いのか?
後悔しないか?
昨夜と同じように、景太郎の言葉が脳裏に浮かんでは消える。
(よく考えて選べだと? しかし、そんな猶予など……)
その時、表の方が騒がしくなってきた。
何事かと思う矢先、叫び声が聞こえてきた。
「奴だ! 奴が来たぞ!」
「く! 貴様ぁ、人質とは卑劣な!」
(人質だと!)
時間は常に進んで行く。
状況の推移は余りにも速い。
だから素子は掴まざるを得なかった。
今の彼女にとって、たった一つの選択を。
刀を手に取った瞬間、何かが流れ込んで来た。
それは知識――素子の知らない技。
人を殺す事を前提とした、だが、確かに神鳴流の技。
そして、誰かに対する思いの残滓。
その二つを混ぜたモノが素子の中に入ってくる。
思いの残滓が何かはわからない、だが技のもたらす力は解る。
(これならば!)
力を求め続けてきた素子には、それで十分だった。
素子は屋敷の入り口に向かって駆け出した。
その技の持ち主が、どんな想いで技を会得したのかを考えずに…
青山家本家
入り口
景太郎は棗を盾にして、ここまでの道程の神鳴流門弟を捌いて来た。
だが流石に本拠地とも言える本家まで来たのだ。
ここからはただ人質を前に出すだけでは進めないだろう。
そこで景太郎の取った行動は…
「動くな。この女がどうなっても良いのか?」
脅迫だった。
鶴子の隠れ家での景太郎の発言を考えれば、随分と大人しい方法と言える。
「殺しはしないが、五体満足で解放するとは思わないほうが良い」
隙あらば包囲を狭めようとする門下生たちに睨みを利かせながら、景太郎は棗の耳にナイフを当てる。
後ろ手に縛られたままの少女の口から小さな悲鳴が上がるのを聞いて、流石の門下生たちも怯む。
今まで景太郎は、襲いかかってきた者を再起不能にすることはあっても、命を奪ったりはしなかった。そのことから、景太郎には人質を殺すだけの度胸はないと踏んでいたらしい。
しかし、それは単なる手加減であったと思い知らされる。
「五秒以内に武器を捨て後退しろ。さもなくば五秒おきに体の一部を切断する」
情け容赦のない勧告。
その一方で棗にしか聞こえない小声で
「心配するな、本気で危害を加えようとは思ってない」
と囁くが、彼女にしてみれば何の慰めにもなっていないだろう。
なにしろ彼女の中の景太郎は変質者である。信用出来るはずがない。
景太郎にとっては不本意であったかもしれないが、本気で怯える棗の姿は脅迫をより効果的なものにしていた。すでにその場で武器を手に持っているのは景太郎だけだ。
「物分りが良いのは良い事だ。
ではギシキのマとやらに案内を…」
トン
何を思ったのか、景太郎は突然棗を突き飛ばしてその場を離れた。
一瞬後、二人の居た場所に、
斬!
銀色の衝撃波が走る。
事態の急変について行けないのだろう、門弟たちの包囲が崩れる。
それを見た景太郎は素早く外套の中に手を入れ、何かを引き抜くように引いた。
すると外套から幾つかのスプレー缶のようなものが落ち、勢いよく白煙を吐き出した。
瞬く間にあたりは白い闇に包まれ、視界が奪われる。
「遅かったか……」
門弟たちの戸惑ったような怒号が響く中で、景太郎の口から呟きが漏れる。
今し方の衝撃波の正体を、彼は知っていた。
神鳴流奥義、斬岩剣弐の太刀。
寂しげな笑みと共に、今は亡き恋人が見せてくれた技だ。忘れるはずがない。
本来の斬岩剣弐の太刀は、不可視の衝撃波を繰り出すものだ。しかし彼女の場合、どうしても銀色の軌跡が走るのだと言う。
まるで命を燃やすようにも見える銀色は、彼女の髪の色そのままだった。
そして彼女が亡い今、銀色の斬岩剣を使える者が居るとすれば――儀式を受けた素子以外にない。
「なら、成すべき事は一つ」
感情のない――いや、感情を捨てた声と瞳。
景太郎は衝撃波を放った者の姿を見ることなく、その場を脱出した。
その数秒後、再び走った銀色の衝撃波で煙が掻き消され、山に向かって走り去る景太郎の後ろ姿が露わになった。
「あの者は私が追う。皆はその者の介抱と父上に報告を」
流れるような黒髪の少女は、景太郎の姿を認めて門下生達に凛とした声で告げる。
果たしてそれは、命の刀を手にした素子であった。
神鳴流の中でも命にしか使うことの出来ない銀色の斬岩剣は、景太郎の予想通り、やはり彼女によって振るわれたのだった。
「しかし……凄まじい力だ」
改めて刀を見つめて呟く素子。
その心中は複雑だ。
命の刀を手に取る前の自分には使えなかった奥義が、今は使えると言うこと。
しかしそれは、自らの努力の成果ではないと言うこと。
そして、犯人の行動と言動、加えて先ほど確認した後ろ姿が、余りにも景太郎に似ていると言うこと。
それら全てが素子の心を掻き乱す。
やがて素子は全てを振り切るように頭を振ると、犯人を追跡するために走り出した。
ここは素子がひなた荘に来るまでずっと暮らしていた場所だ。地の利はこちらにある。
前を走っている景太郎らしき男も、どうやらそれは分かっているらしい。全力で逃げていないようだ。
不意に、この先に小屋があるのを思い出す。
それは幼い頃、山の中で迷子になった際に偶然見つけたものだ。
もう、何年前のことになるのだろうか。
何時間も山の中を歩き回り、疲れ果て、途方に暮れた末に辿り着いたその小屋では、姉が迎えに来てくれていた。
懐かしい、想い出。
やがて、記憶にあるよりも幾分か古びた小屋に辿り着くと……
そこで待ち構える男は、やはり景太郎だった。
「…何故だ、如何してなんだ、浦島…」
心の奥から湧き上がる、裏切られたという気持ち。
何故、自分には話してくれなかったのか。
何故、このような事をするのか。
何故、景太郎なのか。
搾り出すような素子の声。
「お前は! …神鳴流の敵なのか?」
叩き付けるような素子の問い。
「…そうだとしたら如何すると言うんだ?
先に言っておくが、青山は俺には勝てない。
恐らくは殺害を含めた俺の捕獲を命じられているのだろうが、青山には無理だ。
青山は訓練以外で人を傷つけた経験はないだろう?
しかし俺にはある。
それに、今回は手加減しない」
場にそぐわない穏やかな口調で言う景太郎。
「わ、私は…」
景太郎は技量の事だけを言っているのではない。
素子の経験の事も言っている。
人を殺すつもりで行動をするのは、正常な人間には多大なストレスになる。
例え技量で景太郎を圧倒できたとしても、そのような状態では実力を発揮出来ない。
そして景太郎は手加減しないと言った。
景太郎からすれば、以前の決闘の様な事の方が特別なのだ。
戦闘になれば殺されないまでも、手足の一本は平気で折るだろう。
五年前に景太郎と戦った神鳴流の者が例外無く再起不能にされていることから考えても、それは明らかだった。
景太郎の言葉の意味を僅かながらも理解して、素子は息を飲んだ。
ただ立っているだけの景太郎から、例えようのない重圧が感じられる。
そもそも素子は、景太郎に勝てるだけの力量を持ち合わせていない。
普通に考えれば勝ち目など欠片もない。
「私は…」
だが今の素子には借り物ではあるが力がある。
この力を景太郎は知らないはず……それが唯一の勝機だ。
そして人生の大半を注ぎ込んできた神鳴流の尊厳が掛かっているとなれば、後に引くことは出来ない。
「神鳴流の、次期後継者として……お前を、倒す」
それでも微かに震える素子の声。
「そう、か…」
少し辛そうに表情を歪ませる景太郎。
それは今は亡き愛しい者に対してのものか、それとも目の前の少女に対してのものか……
彼自身にも、解らなかった。
続く