「うっわ〜……こりゃ随分とヒデェな」

 天井は崩れ、本棚は爆裂四散し、床はめくれ、そこかしこに殺傷能力を持った武器の類が産卵している。
 そんな、廃墟の中でも特に廃れた一室を見ながら、その惨状を造った当の本人は呑気そうな声をあげる。

「なんつーか、ゴミ屋敷って感じだよな。まともな床が一切見えないってのはまさにそんな感じだ。テレビ局に売り込んで、一儲けできたりしないもんかね?」

 下らない事を考えていると、脳にノイズが走る。
 いいから早く助けろと言う、無視しても良さそうなちっぽけなノイズ。

「いやぁ、こんだけ広くてとっ散らかってると、どっから手ぇつけるべきかでまず迷うしなぁ」

 茶化すような口調でひとりごちると、また脳にノイズが走る。
 ――10、9、8、7、今何時だい? へい、3時です。2、1、

「分かった! 分かったからちょっとマテ!!」

 あたふたと慌てながら樫の木は根の一部を持ち上げて、本棚に埋もれた相方を引っ張り出す。

「アイタタタタ……こっちは怪我人なんですから、もうちょっと丁寧にですねぇ……アイタッ!」

「あっ、すまねぇ。隣に傾いた本棚あるの見えてなかった」

 絶対わざとだ。
 本棚の角にぶつけた頭をさすり、わき腹に突き刺さった鉄柵を引き抜きながら桜邪は樫の木を睨む。

「で、ミレニアの野郎はどうした?」

 桜邪の顔が痛みとは別の方向で曇る。げんなりと言った擬音がよく似合いそうな表情だ。

「だからその呼称引きずるのやめましょうよ。とりあえず、そこら辺にまとめて埋まってますよ」

 装甲を解除し、札を懐にしまいながら桜邪は本棚が積みあがってる方向を指差す。
 本棚の山はうずたかく積もっており、鉄槍が頂点に突き刺さってまるで墓標のように見えた。
 まだ生きてますけどね、と桜邪は物悲しそうな顔で付け加えた。

「まぁ、同情はしねぇよ。こっちだってヒデェ目に合わされたんだ。これで済ませてやるってんだから感謝ぐらいしてもらいたいもんだ」

 どうせまだ気が済んでなくても自分で戦う気なんかないくせに。
 冷ややかな目で、ピカレスクタッチな笑顔を浮かべる樫の木の横顔を見る。
 まぁ、あの騒乱のドサクサで、恐怖に震えて満足に動けなくなった狐者異をボコボコにして床に縫い止めて本棚で重しした自分が擁護できる義理ではないが。

「いつか成仏できるといいですね」

 軽く手を合わせて目を瞑る桜邪を、今度は樫の木が冷ややかな、そして侮蔑の篭った視線で見る。

「とりあえずまぁ、これで仕事は終わりだ。とっとと帰ろうぜ」

 そう言ってきびすを返そうとする樫の木をあわてて桜邪が押し止める。

「ちょっとちょっと! 私達の仕事は本の回収までして全部ですよ!! ちゃんと探して確保してくれたんでしょうね!!?」

「んあ〜、そういやぁそうだったな。……え〜と、どの辺だったかな?」

 樫の木がポケットをまさぐるように根をもぞもぞとさせながら目標の物を探す。

「……大丈夫なんでしょうねぇ。元々、この広い書庫探し回ってたら日が暮れるし戦闘に巻き込まれたら大変だってんで考えたんですからねこの作戦」

「それで後は罠の主導権をこっちで握るってのを、狐者異を縮こまらせるために殲滅作戦に変えたのはお前だろうが……よっと」

 樫の木がちょっと力を入れたような声を出すと、本棚の一部が持ち上がり、バサバサと廃品同然になった本が崩れ落ち、中から球状になった根が出てくる。

「ほれよ」

 シュルシュルと根が解けながら桜邪の手元に近づき、一冊の本が落とされる。
 あまり上等とはいえない黒い装丁に白い絵の具で牛の首が書かれているだけの粗末なもの。

「これが『牛の首』ですか……まんまですね。ほんとにこれで合ってるんですか?」

「そう思うなら読んでみたらどうだ? いや、むしろ是非読む事をお勧めするよ俺としては」

 どうやら本気で言ってるらしく、目だけ笑ってないような気持ち悪い樫の木の笑顔を無視して、上下左右から見回すようにして、その本を検分する。

「いやぁ、しかしこれで仕事も無事達成してめでたしめでたしってワケだな。うむ、心地よい達成感だ。後必要なのは金とコネと名誉と権力と忠義の使徒と……」

 ドバァンッ!!

 廃屋の暗がりに、まるで破裂音のような豪快な音が鳴り響く。

「ぐべあっ! 舌噛んだ、舌!!」

「…………!!!」

 突然の不意打ちのダメージにのた打ち回る樫の木と、全身ボロボロの状態で放った渾身の蹴りの反動で苦悶の表情を浮かべる桜邪。

「ってーな! 何すんだこのクソアマァ!!」

 先に復活したのは樫の木であった。
 例によってマジギレし、怒りの形相で桜邪に詰め寄る。
 しかし、今回は桜邪も憤怒と言う意味では樫の木には負けていなかった。

「これ! どういう事ですか!!?」

 ややヒステリックな金切り声をあげ、桜邪は樫の木に、持っていた本の牛の首の絵が描いていない側を見せる。

「あ!!? それがなん……」

 今度は、樫の木が絶句する番であった。冷や汗がダラダラと幹を伝って流れ、茶色い顔面が蒼白になる。
 そしてその両の眼は、皿のようになった桜邪の見せたものに釘付けになる。
 そこには。
 後ろ半分が千切れている本があった。

「これはどういう事ですかね樫の木さん?」

「い、今しばらくの時間と、予算がいただければ……」

 あってどうするんだそんなもの。

「弁解は罪悪と知りなさい! あ〜もう! どうすんですかこれ!! 言いましたよね! 言いましたよね!!? こんな戦前から使い古されたようなオチは真っ平だからきちんと確保しろって!!」

 叫ぶたびに全身がギシギシと痛む。肋骨も折れてるっぽいので叫ぶと肺の辺りから痛みがこみ上げてくる。
 それ以上に、情けないやら虚しいやら悲しいやら腹立たしいやらもう笑うしかないやら、色んな感情がない交ぜになってこみ上げて、もうこのまま豪快にぶっ倒れて何もかも忘れて眠りたくなってしまいたい気分だ。

「いや、だって、俺はちゃんと確保したよ? つーか、表紙しか見てないんだよ俺は! これだけ、部屋の中心になんか妙にきちんとした部分に安置されててさ、新しい手垢があってさ。明らかにこれだけ別物だったんだよ! だから疑わずにそのまま保護したんだよ! だからアレだ! これはきっと元から破れてたんだよ!!」

 頭痛が鳴り止まない。10回分の後悔が一度にきそうだ。どうしてこう、こいつはいつもいつも――

「あ〜、もういいですから。ちょっと黙ってて下さい。もしくは、本当に最初から半分だと思うんでしたらもう半分を探してて下さい」

 折れて無い右腕で顔を抑えてうつむく。
 一体、どう申し開きをしたらいいものやら。
 無駄手間なんて言うのはどうでもいいが、このまま無駄足で帰ったら色んな人達に申し訳が立たない。

「え〜と、他にまともそうな本あったかな……あぁそうだ。せめて隠れ里打ち直しの禁術書でもあれば大儲けが……」

 ビクビクと怯えた樫の木が桜邪と距離をとって根の張られた部屋を探り始める。
 桜邪は、考えていた。半分しかないのなら、いっそこのまま持ち帰るしかないのだろうか。
 それより、いっそ読んでみようか。もしかしたら、半分しかないのにはそれなりの理由があるかもしれない。
 下巻がどこかにあるとか、破れてる部分の内容とか、読んでみたら何かが分かるかもしれないし。

「ゲェーッ! この野郎、禁書を火薬仕込み本棚にいれて灰にしてやがった! これじゃ何書いてあんのか分からねぇぞ! おい、桜邪! どうすんだよ!!」

 ……どうしてこうピントがボケた事しか言えないんだろう。
 呆れ果てて呆れ果てて呆れ果てて、そのまま魂が抜けてしまいそうになった時。

 カリ……

 小さな、音がした。
 ドキリと、心臓の鼓動が突然大きくなったような感覚がある。
 瞬時に桜邪は退魔の拳銃を構え、樫の木は桜邪の後ろに隠れようとする。

「おい、第二ラウンドは御免蒙るぞ」

「そんなもん、私だって流石にもう勘弁です」

 背筋に冷たい汗を感じながら、緊張した面持ちで音のした方向に近づくと、そこには小さな手首があった。
 カリ……カリ……カリカリ……
 手首は、墓標のような本棚を二本の指で必死に引っかいていた。

「手首……」

「なんでぇ、狐者異の破片か。驚かせやがって」

 桜邪がため息をつきながら言うのと、樫の木が悪態をつくのは同時であった。

「つーか、哀れなもんだよな。傲岸不遜を絵に描いたような大悪党の末路がこんな虫けらのように怯えるばかりってのは。いくら死ぬのが怖ぇっつっても、もう少し品性ってもんを残せねぇもんかね?」

 俺みたいに。と続ける樫の木を桜邪は冷ややかに見る。
 終始狐者異についていた悪態は、ひょっとして近親憎悪みたいなもんじゃないのか。

「まぁ、そう責めるのも可哀想ですよ。隠れ里やらお化けの事が分かっても、死んだら何がどうなるか分からないですし。分からないのは怖いですから……」

 言いかけて、桜邪の体が硬直した。
 樫の木が怪訝な顔で桜邪の顔を覗き込んで何か罵詈雑言を並べ立てているが、耳に入らない。
 分からないから怖い。何故分からないのは怖い?
 分からない事なら、調べて考えて分かるようにすればいいのに。
 自分が自分でなくなるのが怖い。何故怖い?
 普通の人間だって子供から大人になったり人間から妖怪になる人だっている。
 畏れる事と恐れる事はどう違うのか?
 自分は、狐者異に敬意や勇気のあるなしだと説いた。
 だが、向き合えるか怯えるだけかの違いはあっても怖いものは怖い。
 恐怖には根源がある。向き合えても克服はできない深い闇の根源が。そして、その根源とは――

「樫の木さん……」

「な、なんだよ?」

 こころなしか青白い顔になり、貧血にでもなったかと思っていた桜邪から突然深刻な声色で呼びかけられ、樫の木は思わずたじろぐ。

「なんで、アレが狐者異さんの手首だってわかったんですか?」

「はぁ? なにトンチンカンな事言ってやがんだテメェ。なんでもなにも、見たまんまじゃねぇか」

「じゃあ、この絵はなんですか?」

 そう言って桜邪は、持ってる本の表紙を見せる。

「うしのくび」

 ――ショックでとうとうイカレたか?
 そんな失礼な事を思いながら、樫の木は棒読み調に答える。

「なんで、これが牛の首だと思うんですか?」

「……あのなぁ、俺は禅問答する坊主でもイカレたお前の面倒みる精神科医でもねぇんだよ。いつもいつも人には要点から言えっつってるだろうが! 回りくどい事言ってねぇで有言実行しろってんだこの脳足りんの馬鹿女!!」

 いつもなら、鉄拳が飛んでくる台詞だ。
 しかし、桜邪は唇をわななかせながら、そうですね……とつぶやくだけだった。
 嫌な耳鳴りがする。静寂が訪れたからだ、と樫の木は思った。静寂が暗闇の中に広がっているからだ。

「これが、こういう生物でなく、牛と言う生き物の首だと思った。あの手首も、手首だけが動いているのに貴方は狐者異さんの手首だと思った。誰もそんな事は教えてないのに。それは、どうしてですか?」

 回りくどいんじゃない。
 これは、怪談だ。
 この女は、とても怪しい話をしているのだ。
 この言葉は、怪しく恐ろしい話を盛り上げるための演出だ。

「どうしてって、そりゃお前。ちょっと考えればすぐに……」

 そして桜邪と同じ考えに思い至った時――狐者異を見た時よりも、さらに恐ろしい物を見る目でその絵を見た。
 何も言えなくなった樫の木の代わりに、桜邪が二人を包む静寂を祓った。

「早くこれを持って帰りましょう。これは、あまりに畏れ多くて私の手には余ります」

「も、持って帰るぅ?」

 先ほどまでの尊大な口調と打って変わって、父親の大事な私物を壊してしまった子供のような情けない怯えた口調になる。
 樫の木は、その本から目がそらせなかった。
 見えないよりも見えていた方がまだ怖くなかったから。
 樫の木は、意味が無いと思っていても、どうしてももう一度同じ言葉を繰り返さざるを得なかった。

「これ持って……また下手すりゃ一日以上もかけて帰るのかよ……?」

 それは――嫌だった。
 怖かったから。半分だけ真実を知ってしまった樫の木には、それはとてもとても怖いものだったから。
 だから、何か言い訳を考えて持って帰らずに済むようにしようと思った。
 しかし。

「仕方ありませんよ。だって、これが私達の仕事ですから」

 そう言った桜邪の声は震えていた。
 声だけでなく、肩口や、その本を持つ手も。
 ぶるぶると、内なる恐怖を必死に押さえつけている反動のように。

 ――私だって、怖いんですよ?

 先ほどまで、あれほど自信に満ち溢れていた小生意気な相棒が怯えている。
 樫の木はその様子を見て、自分の小さな夢に少しだけ近づけた気がしたので――

「けっ、この程度で怯えるぐらいならはじめからこんなとこに踏み込んで来んじゃねぇよ馬鹿人間」

 陰火を消し、しゅるしゅると根を戻し、或いは切り離し、自らの征服した世界に張った根から何の未練もなく己を切り離し、再び身軽な根無しに戻ってくるりと桜邪に背を向けた。

「ほんとお前、調子に乗って忘れてんじゃねぇか? 所詮、俺達妖怪はお前達人間とは相容れぬ闇の存在なんだ。お前にできるのは、闇に近づきすぎないようにおっかなびっくり距離を測る事だけなんだ、よ」

 震える声を気取られぬように。引きつる笑顔を見られぬように。自然と早くなる足取りを悟られぬように。慎重に慎重に気を配って。

「おら、とっとと帰るぞ。帰りがけにちんたらしてたらあの女にどんな説教食らうか分かんねぇ。そっちの方が、俺にはよっぽど怖いね」

 背後から、そうですね、と震える声が聞こえた。
 少し無理をして微笑んでいるような声で、ありがとうございます、と言う声も聞こえた。
 大きな夢も、小さな夢も、ちょっとの間だけでも叶えられた気がした。
 散々欲したものが、一握りだけ手に入れられたような気がした。
 だから。それでなんだか満足してしまったから。
 とてもとても怖かったけれど。我慢して、それを伴って帰った。


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