件の隠れ里のあった山から一番近い簡素な温泉街の民宿の一室。
 そこで、里から大急ぎで帰った桜邪達は待ち合わせていた相手に約束の物を渡す。

「どうも、お疲れ様でした」

 白いロングのスカートに白いカーディガン、靴下や髪留め、手荷物までも白色で統一された女性が半分だけの本を受け取り、儚げな声色の礼が述べられる。
 容姿や髪の色は桜邪と似通っているが、その雰囲気が桜邪とはまるで違う。
 大人びている、と言う表現は相応しくないだろう。彼女に相応しい表現があるならば。
 ――枯れている。
 桜邪が枯れるとこうなるのだろうか。
 樫の木はそんな事を思いながら、その枯れた女。中禅寺秋桜が手にした本を忌まわしそうに見る。

「お陰で私の仕事もなんとかなりそうです。ありがとうございます」

 そう言って、無表情のまま秋桜は頭を下げる。
 桜邪も樫の木も、一秒だって長くは持っていたくなかった本を持ちながら。

「仕事終わった後で聞くのもなんですけど、何に使うんですかそれ?」

 少々引きつった笑顔で桜邪が尋ねる。
 正直、あんなものの使い道はろくな事が思いつかない。
 まだミサイルや細菌兵器の方が平和利用の道があると思う。
 帰り道、どれだけ自分達がこれの存在に怯えさせられたか思い出したくも無い。

「何に使うとはまた随分と間の抜けた質問ですね。食事をする人間が箸を取ってくれと言えば、それを食物を挟むのに使うのだと思うでしょう。食事前に箸に墨をつけて字を書くのが習慣だと言う人がいるのならば話は別ですが」

 抑揚なく淡々と語る。今も揺れている桜邪や樫の木とは違い、常に安定している。強さも感じないが弱さも感じない、不思議な印象の語気だ。

「取ってきてくれと頼んだ本を渡されれば、それは読むに決まっているではありませんか。それに伝説にもなる程の名著です。一人の読み手として興味は尽きませんね」

 本は装丁を眺めるものでなく中身を読むものです。
 事も無げにそう言い放つと、秋桜は桜邪と樫の木の視線が集中している本を白い鞄にしまった。
 樫の木はその言葉を聞いてあんぐりと口をあけて硬直し、桜邪はあたふたとそれを止めようとしながら叫ぶ。

「い、いえそうじゃないんですよ! それは秋桜が思ってるような本じゃないんです! それは……」

 それは。
 それは恐ろしいものだから。
 それは人が触れてはいけない恐ろしいものだから。
 続きを言う前に、姉貴分のはっきりとした口調が桜邪のおどおどとした言葉をさえぎる。

「貴方に言われるまでもなく、承知してますよ。なにせ私の仕事は、この本を読んでしまったある御仁にかかった呪いを解く事なんですから」

 白い指をやんわりと広げた手で、秋桜は妹分を制止する。
 桜邪の動きはそこで止まるが、まだ何か言いたそうに口をもごもごとさせている。

「ある御仁っつったな。じゃあ、先のミイラ取りはミイラになっちまったか」

 面白くなさそうに樫の木は言う。
 桜邪はハッとした表情になって悲しい顔つきになる。
 それもまた、樫の木にとっては面白くない事だったのだろう。
 ただでさえ不愉快そうにしかめられた顔が、ますます醜く歪んでいく。
 樫の木は悼んでいるのではない。面白くないと思ったから面白くないだけだ。

「先にあの里に入られた方々は、もう亡くなられたんですね……」

 樫の木よりも少し察しの悪い桜邪は、ここにきてようやく秋桜の言葉の裏に気づく。

「えぇ、残念な事です。しかし、貴方達は実に賢明です。私の忠告を無視したにもかかわらず、この呪いにかからずに帰ってこれたのですから」

 その言葉を聞いて、表情は同じのまま樫の木も桜邪も強張る。
 報告書紛失の件についてはまず詫びた。それについてはまた後でと言われた。
 ――後でどうなるんだ。
 気が重くなる。それが分からないから。怖くなる。
 シン、と耳鳴りがするような静寂と秋桜の言外の重圧が部屋を覆う。

「つーか、誰が考え出したんだよそんなタチの悪いもん」

 ここは隠れ里ではないため、そこかしこに音があふれている。
 静かな場所ではあるが、外からはわずかながらもまだ人の活気を感じ、確かな物質は動けば重みを感じた音を出し、正確には静寂と言う程のものは無い。
 だが、それでも無言に堪えられなくなった樫の木が口を開く。
 自分で言っていて、考えても詮無き事だと思いつつも。

「さぁ? 分かりかねますが、大昔の怪談好きの方々ではないでしょうか?」

 案の定、興味がなさそうに秋桜はさらりと言う。
 ――お前みてぇに呪い専門の連中じゃねぇのか?
 うっかりそう言ってしまいそうになるのを必死に飲み込んで口をへの字に曲げる。
 普段はあまり使おうともしない、空気を読む感覚を最大限に努力して駆使する。

「……人にそんな話が考えられるものなんでしょうか」

 桜邪は、素直にそう口にする。
 それは、人の能力の限界を軽んじての発言では無い。
 むしろ、それがあまりに恐ろしすぎるから。
 人の分を越えた畏れるべきものだと思うから。

「では、魑魅魍魎狐狸妖怪神仏悪鬼の仕業でもなんでもいいでしょう。要するに、これは怪談です。それも、『この世で一番恐ろしい』」

 まるで興味が無さそうだ。
 知っているくせに恐れようとしていない。
 その態度もまた、怖ろしく感じる類のものであった。

「『この世で一番恐ろしい怪談』、ねぇ……俺はそんなもんにまるで興味ねぇけどよ。やっぱ人間はそういうの知りてぇと思うんだろうな。未知があったら知りてぇ。未開があったら開きてぇ。なんでもかんでも暴き立てる事でしか恐怖と向き合えねぇのが愚かな人間の特徴だからな」

 ――勇気が足りない。
 樫の木の脳裏によぎった淀みのない啖呵は、随分と癪なものだった。

「えぇ、実に巧妙にツボをくすぐっていると言えますね」

「好奇心猫を殺すと言いますし、知らないのも勇気だと思うんですけどねぇ」

 三者三様に感想を述べ、目の前に出された茶を一すすりする。
 桜邪は口の中が切れているのか、熱い茶を口に含んで顔をしかめた。
 そして樫の木は、要するにアレだ、と言いながら枝で部屋の隅を飛んでいる蛾を指し示す。

「人間なんてアレと同じで、そういうのは篝火だ。怪談奇談なんてぇのは教訓めいたもんが多いが、その教訓を――この世にゃ触れちゃならん恐ろしいものがあると――丸ごと具体的に形にしたのが、ソレだ」

 樫の木はそう言って、別の枝で秋桜の白い鞄を指し示す。

「ご明察の通りです。しかし樫の木さん、部屋が狭く感じるのであまり動かないで下さい」

「……ちっ、分かったよ」

「……なんで秋桜相手だと素直に言う事聞くんですか貴方?」

「だから言っただろ。君子危うきに……いやいや。それで、その呪い受けたって奴はどうしてんだよ」

 女の怖い目線が自分から隣の壁にそれたのを見て樫の木は胸をなでおろし、触らぬ神に祟りなしとばかりに強引に話題を戻す。

「今は安定しております。と言っても、精神安定剤を大量に投与して寝かしつけているだけですが」

 アレでは後遺症が残らないようにするのも大変です。
 秋桜は不本意そうにそう言って、また茶を一すすりする。

「貴方の言葉では効かなかったんですか?」

 桜邪が意外そうに目を丸くする。
 桜邪にとって、この本の恐怖に対する信頼は大きなものだが、
 同じように目の前の拝み屋の憑き物落としの腕前についての信頼もまた相当なものだった。

「効きませんね。何しろ、得体が知れませんでした。私が呼ばれてかけつけた頃にはすでに気が触れてしまったような状態で、せっかく手に入れた本も焼き捨ててしまった後でした。私が何を話しかけても恐い怖いと喚きたてるだけで埒が明きません。言葉を届かせるようにするだけで手一杯でした。だからこそ、その正体を見極めるために貴方達に頼んだわけです。もう一冊あるという事は分かっていましたから」

「幽霊の、正体見たり、なんとやら。まぁ、逆を言えばそのなんとやらが分からねぇから恐怖心が湧き上がるんだろうがな」

 樫の木は一息に茶を飲み干すと、白い鞄の中の本を忌まわしそうにねめつける。
 あの館でであった上半身だけと下半身だけの妖怪が思い出されるのがまた忌まわしい。

「考えたもんだよ。怪談ってのは、怪しく恐ろしい話をツラツラ聞かせて恐怖させつつ、必ず最後にオチつけてスッキリさせてやるから怖いなりに面白くなるんだ」

 ――そいつはこんな顔だったかい。
 ――誰にも言わぬと約束したではありませんか。
 ――お父さん、今度は落とさないでね。
 ――今、貴方の後ろにいるの。

 樫の木は天井の染みを見上げながら様々な怪談の締めの一言だけをボツボツと並べる。
 よく知っている話ばかりなので、桜邪にとってそれは怖くもなんともなかった。
 そして樫の木は、再び白い鞄の闇の中を見透かすように視線を落とす。

「その怪談本は半分しかねぇんじゃねぇ。半分で完成してるんだ。おそらくは、延々とさも恐ろしげな雰囲気を盛り上げる文章が練り上げられてんだろうな。で、ここからどうなるんだどうなってしまうんだと最大限恐怖を煽ったところで残り半分が無い。続きが知れない。分からない。分からないから――自分で想像するしかねぇ」

 人は考える葦であると言う。
 考える事ができるのが人の強みである。
 人の進化は、思考する事と共にあったと言って過言ではない。
 だが、どんなものにも表と裏。正と負がある。時として、強い人の考える力は、闇の中で毒となる。

「この先はどうなるんだどうなるんだとどんどんどんどん恐怖が膨らんでいくが、オチがねぇから落としどころの無いもんが憑く。一を聞いたら呪(じゅ)が知れる。俺みてぇに理解力の強いもんにゃ大層効くんだろうなぁ。あぁ怖い怖い」

「ついでに言うと、貴方みたいな小賢しい臆病者になら、この軟膏より効果あるでしょうね」

 逃げるように大急ぎでここまで本を持ってきたためまだ治療は終わっていない。
 折れた部分に添え木をし、打ち身に軟膏を含んだ湿布を張り、刺し傷切り傷に直接薬を塗っていく。

「なんだとこの野郎」

 今度はガツガツと茶菓子の饅頭を貪りながら横目でじろりと睨む。
 いつもの掛け合いなので、それに関しては言い合っていた本人達すら気にしない。
 そして桜邪は、伏せがちにまた少し悲しそうな目をした後、まっすぐに秋桜の目を見つめ、意を決したように言った。

「秋桜、時間があるなら聞かせて下さい。私達は今回、不手際の自業自得とはいえ事情をよく知らないまま仕事をしてきました」

「えぇ、まったく。プロのする事とはとても思えない不手際でした」

 じとりと、桜邪と樫の木を秋風のような冷たい目線で睨む。
 樫の木はバツが悪そうに目をそらす。桜邪は、あくまでまっすぐにその視線を受け止める。

「そうですね、プロ失格です。でも、どうせ失格なら失格ついでにお聞かせください。今回の仕事の内容について。本来なら、申し付けられた任務を達成した時点でこの事件と私達はもう縁が切れています。でも……」

 このままよく分からずに終わるのは、気分が悪いです。
 相手との対等さを保とうとしたまま、桜邪は子供のような事を言った。

「……聞いてどうなる話でもないと思いますけどね」

 秋桜は、ふぅとため息をつき、空になった茶碗に急須でお代わりを注ぐ。

「それに、聞かない方がいい話もあると今回の件で学ばなかったのですか?」

「そうですけど……知らなくちゃいけない事もあるんだと思います」

 そうですね――と抑揚なく秋桜は口にする。
 妹分がこう言う時に見せる無駄な頑固さは知っている。
 たしなめるよりも、話してしまった方がよほど労力はかからないだろう。

「無知は罪ですからね。愚か者にとっては特に」

「それは俺も思うよ。むしろこいつは「人間」と言うカテゴリよりもむしろ「愚か者」と言うカテゴリで括るべきだと常々思う」

 お代わりの茶をガブガブ飲み、お代わりの饅頭をガツガツ食いながら樫の木が好き放題に茶化すが、桜邪の表情から真剣さは失せない。

「簡潔に申し上げるなら。私の依頼主の方も、貴女に輪をかけて愚かだったと言うだけの話ですよ」

 そう言ってからお茶を口に含み、飲み下してまた小さく息をついて秋桜は続ける。

「牛島清隆、と言う名前はご存知ですか?」

 桜邪には聞き覚えのない名前だった。
 樫の木は、しばらく視線を宙に泳がせたあと、あぁ、と声をもらす。
 それは秋桜の言葉に対する相槌と言うより、どこか侮蔑と驚きのこもったような声だった。

「因果っつーか因縁っつーか……うっわ、くっだらねぇ」

「因果も因縁も、そんなものはありませんが、確かにある特定の条件が揃ってしまったがためになるべくしてなった事ですね」

 樫の木はいつもの人間を小馬鹿にしたような表情で。
 秋桜は温かみのある能面のような表情で、お互いにだけ通じる会話をする。
 桜邪は会話に参加しない。ただ聞くだけだ。理解ができないから。
 ただ分かる話になるまで聴くのみと言う、自分にできる事だけをする。

「表ではケチで有名な資産家で嫌われ者の古書マニア。裏ではあくどい手段で荒稼ぎして大勢から怨みを買っていた悪徳ブローカー。そして闇では、戦前に失踪した大叔父の残した負の遺産を勝手に受け継いで知るべきではない世界を知ったただの愚か者です」

 傷の手当てを終え、置物のようにただじっとしている桜邪に秋桜は依頼人の話をする。

「依頼人に対して愚か者ってよぉ……いや、合ってるけどな。結局、蟹だか牛だかの妄念に引っ掻き回されただけかよ今回」

 不愉快そうに樫の木がボヤく。
 じろりと隣を見ると、一応理解はできているらしく、真剣な表情でうんうんうなずく間抜けが一人いた。

「えぇ。そういう事ですね。まぁ、一人の読書狂として気持ちは分からないでもありませんが」

「分かるな。あと、お代わり」

 空になった茶碗を前に出しながら樫の木が言う。

「つーか、なんで牛の首なんだろうな? いや、ふと気になったんだけどよ」

 桜邪は答えない。思考を停止させ、ただ聞くだけになっている。
 秋桜は、差し出された茶碗に茶を注ごうとして、中身が無い事に気づき新しくお茶を入れようとしているが、その間に口を開こうとはしない。
 樫の木はその様子を見て、わずかな静寂も嫌うように矢継ぎ早に言葉をつむぐ。

「ミノタウロスみたいなのと関係あんのか? 畜生の呪いに由来のある話とかよ。ほら、丑三つ時とか丑寅の方角とかよ。牛っつったら昔から呪いに関係あるもんだろ。そっから来てる話なのか? 小松左京は短編『牛の首』以外に『件(くだん) の母』って話も書いてるが、関係あったりするのか? それにイスラムで言うなら神の使いって話もあるし、それに首を強調するってのも気になる話だしな。首と言えば、ある意味生物が「生きている」と言う事の中核を成す部位でもあるしな。西洋の首なし騎士なんかはまさに死の呪いを……」

 秋桜がポットから急須にお湯を注ぎ、お茶を入れ直している間に樫の木は自分がさっきまでめぐらせていた想像について、堰を切ったように語り出す。
 しかし。

「さぁ。大仰に言うなら牛頭天王の説明でもして差し上げましょうか? 我が国最大の怪談と言うならば、神話の内容にも触れればかなり壮大な物語が作れますよ。お望みならば、即興で創って差し上げますが」

 ほわほわと湯気ののぼる茶碗をずい、と樫の木の前に突き出しながら、強引に樫の木の話を区切る。

「どうぞ。冷める前に」

 艶はあるが枯れた声に促されるように樫の木は何か言おうとした言葉を熱い茶で喉の奥に流し込む。

「多分、牛だの首だのに意味はありませんよ。しかし、意味が無いからこそ意味があるんです。貴方が余計な想像を膨らませているように」

 そう言って、秋桜も自分の茶を口に含む。
 ――別に飲みたくて飲んでるわけじゃねぇだろう。
 樫の木はそう思うが、自分も飲まずにはいられなくなり、苛立ち紛れにガブガブと飲む。
 自分にとって、飲食は必要ない。必要ないが、意味が無い事にだって意味はあるのだ。

「取り留めの無い想像に意味はありません。しかし、意味を作る事はできます。そしてその意味は、貴方が勝手に作ればいい。単に牛の生首が転がっているのが怖かったと言う話で止めておくのも、それもまた一つの意味です。恐怖と向き合うのに、やり方はそれぞれですから。無理に全てを理解しようとする事も、恥じ入る事もありませんよ」

 自分で理解できる程度の形にしてしまえばいいのです。
 そう言って、小道具の茶をまた口に含む。
 こうやって、自分に考える時間を与えているのだろう。
 まるで全てを見透かされているようで腹が立つ。
 怖くは無い。ただ、傷つけられた自尊心が疼いて怒りが膿むだけだ。

「別に怖くねぇよこんなもん。ただ、ちょっとどんな話だか気になったからお前に聞いてみただけだよ」

「……本当に。貴方は器用なのだか不器用なのだか、愚かなのだか賢明なのだかわかりませんね」

 ふぅ、と秋桜は茶碗を持ったまま小さくため息をつく。

「もういいですか? いいなら、早く桜邪を寝かせてあげたいので話を戻したいのですが。怪我をおして夜更かしをさせるのは、年頃の女性には少々酷でしょう」

 桜邪はいきなり話をふられてビクリとしたが、まだ何も口にしない。
 目の前にある飲みかけのお茶はとっくに冷めている。切れている口内ではその方が都合が良いだろうが。
 それでもじっと動かずに、ただ愚直に秋桜からの話を待っている。

「……ほんと、こう言う時お前ら極端だよな。足して二で割ればちょうどいいんじゃねぇの?」

「それでは、面白くないではないですか。ねぇ?」

 桜邪は、コクリとうなずく。
 そして、樫の木の方を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
 ――もう、怖くありませんか?
 そんな事を言われたような気がして、その気使いに腹が立った。自分だって余裕は無いくせに。

「……気持ち悪ぃツラ見せてんじゃねぇよ、馬鹿」

 そう言って樫の木はそっぽを向いた。
 もう怖くはなかった。ただ、腹立たしかった。

「まぁ、大方のあらすじはこのような感じです。何者をも恐れない高慢豪情の一名にとっては、『この世で最も恐ろしい話』と言うのは耐え難い興味の対象になったわけです。読む前ならば、このように落とせば簡単に私の仕事は済んだのですが」

「別に俺はお前になんか落としてもらったつもりはねーぞ!」

 そっぽを向いたまま樫の木がムキになったように叫ぶ。
 その樫の木の態度を、秋桜も桜邪もまるで子供のようだと思った。

「依頼人の想像は膨らみました。貴方達が出会った方がどのような経路でその品を手に入れたかは知りません。しかし、それが確かにあると知れば、その方は手に入れずにはいられなかった。読まずにはいられなかったのです」

 大叔父は死んだ。ならば、その遺産は自分が相続するのが当たり前だ。
 そう考えたのだろう。そして、中途半端に闇に関わっていた男は、その遺産を手に入れられそうな人材とのコネもまた、迂遠な形で大叔父から受け継いでいたのだ。

「そして、運悪くその仕事を押し付けられた優秀な闇のトレジャーハンターの皆さんは見事それを手に入れました。罠を潜りぬけ、怪物を倒し、宝物を手に入れて……」

「最後にどんでん返しのバッドエンドを迎えたワケだ」

 秋桜はコクリとうなずいた。

「それなりに名の知られた方々でもありましたから。闇の恐ろしさに慢心するなと言う方が酷なのかもしれません」

「だからってなぁ……馬鹿だよ。それも救いがたい大馬鹿だ。愚か過ぎて何も言えねぇよ。そもそも依頼の品に手ぇつけようってのが度し難ぇ」

「貴方達のように帰りがけに大急ぎの強行軍をしなければ、帰りがけでも一泊はするのが当たり前でしょう。不運と言うのなら、その時に他に娯楽になりそうなものが無かった事でしょうか」

「怪談は――娯楽だからな」

 樫の木は天井を見やって枝を伸ばし、陰火を灯す。
 途端に、電灯の周りを飛んでいた蛾がまとわりついてくる。
 偽物の火に向かって飛んでいる。焼かれる心配の無い擬似の炎。
 彼らにとっても、それはそういうものだったはずだ。ただ、怖さを楽しもうとしただけだったのだろう。

「人間は――愚かだからな」

 樫の木の言葉に侮蔑は無かった。
 珍しく、なんの感慨もなく発した一言だった。

「えぇ。このような作品を作った事も含めて。恐れ過ぎるのも愚かですが、畏れなさ過ぎるのもまた愚か。恐れを克服するのも勇気ですが、畏れを認める事もまた勇気」

 ――闇と距離を取るのは難しいものです。
 秋桜の言葉に、樫の木はうんざりしたようなため息をついた。

「まぁ、極端な例ですよ今回は。そうそうあるはずの無いケースです。ここまでシビアに距離感を測っていたら神経が磨り減ります。目分量でいいんですよ」

「妙な気遣いすんならテメェの妹分にしてやれ。俺はもういいんだよ。決着ついてんだから。つーか、さっさか結論言ってやれ。そいつはそれが知りたいんだ」

 樫の木の言葉に秋桜も桜邪も反応する。
 桜邪は、悲しそうな顔になって。秋桜は、その表情をまっすぐに見据えて言う。

「先発隊の方々は、ある方はすぐに。ある方は依頼の品を届けてから。いずれにしろ、数日以内に次々と発狂して亡くなってしまったようです」

 その惨状を目の当たりにしながらも牛島氏は読んでしまったようですけどね。
 秋桜の言葉に、樫の木は冷笑で返す。

「出たよ、愚か者の典型例。「自分だけは大丈夫」。そんで自分も呪いにかかってんじゃ世話ねぇや。無駄死にここにきわまれりだ。流石に同情するよ、その先発隊の連中に」

 嘲るような樫の木の口調とは裏腹に。
 桜邪はポツリと、心から死者を悼みながら声を漏らす。

「……せめて、潔く死ねない程愚かなら、死なずに済んだのでしょうか。そうすれば、貴女の到着に間に合ったんでしょうか」

「そこまでの度し難い愚か者はそうそういませんよ。『IF』の物語にしても無理があります。それに、読者が発狂死するたびに狐者異が発生する程の代物なら、都市伝説にのぼるような怪談扱いではなく完全に封印指定されていますよ」

 秋桜の言葉に、桜邪は再びピクリと反応する。
 そして、少し言い難そうに口をもごもごとさせてから、か細い声で秋桜にたずねた。

「では……牛島さんは……死ぬ前に助かりますか……?」

 桜邪の言葉に、樫の木は目を丸くする。

「お前……そんな事気にしてたのか? 死んだ連中がどうとかじゃなくて? なんで牛の首がまだあったのかとか、どうやってこの呪いを解くのかとかそう言う事じゃなくて?」

 桜邪は歯切れ悪く、それもありますけど、とつぶやいた後、ぼそぼそと言いよどみながら言葉を続けた。

「……そりゃ、死んだ人はご愁傷様ですけど……牛島さんが死んじゃったら、『牛の首』が野放しになったら、それこそ皆さんは無駄死にじゃないですか。ですから……」

 上目遣いに桜邪は秋桜を見る。
 もちろん、桜邪は秋桜を信頼している。
 しかし。嫌な想像が頭をちらついてはなれない。

「結論から言いましょうか。助かりますよ。否、助けます。現時点で起こっている全ての不都合を八方丸く収めてみせましょう。これ以上、一切の悲劇の物語を紡ぐことなく」

 その言葉に、樫の木は渋面を作る。
 そして、蔑むような目つきで桜邪を見下ろしながら、阿呆のように開いた口から呆れ返った様子で言葉をつむぐ。

「……まったく理解できねぇ。お前、脳がイカレちまってんじゃねぇの?」

「甘いだけですよ。脳に味噌ではなくて餡が詰まっているだけです。それに、単に牛島氏の心配だけをしての言い分ではないでしょう?」

 あくまで表情を変えぬまま、フォローになっているのだかなっていないのだか分からない言葉をかけてから少し意地悪そうに秋桜が聞く。
 少し嬉しそうだなと。わずかな付き合いから学んだ樫の木はそう思った。

「えぇと……今回の不手際は本当に申し訳ありませんでした。危うく、私達も愚か者の仲間入りをしてしまうところでした」

 そして一呼吸をおいてから桜邪は秋桜に頭を下げ、まっすぐに目を合わせて言う。

「お気遣いを無視してご心配をかけてしまった事、申し開きのしようもありません。謝って済む事ではありませんが、本当にごめんなさい」

 実際は、ほぼ100%樫の木の過失であったのだが。
 もし自分達までミイラ取りのミイラになっていたのでは、秋桜は愚かな依頼をした牛島と同じになってしまう。
 そうなれば、どれ程彼女は悲しんだ事だろう。それを思うと、怖くもあり、惨めでもあり、とても申し訳ない気持ちになった。

「あぁ、構いませんよ。そう言った場合も考慮して私は貴方達を選んだんですから」

「は?」

 特に感情をこめるでもなく、しれっと言い放つ。
 先ほどから開いた口のふさがっていない樫の木はともかく、桜邪も思わず間抜けな声をあげる。

「万全を期したかったんですよ。多分、察してもらえた通り、書簡による通達しかできませんでしたから。情報が正確に伝達しない可能性も考慮しました。今回は、ローズマリーや百合姫、他の方々でもなんとかなったかもしれませんが。万が一を考えて、何も知らなくても『牛の首』を察して畏れて読もうとせずに持ち帰ってくれそうなのは、未熟者で臆病者かつそれを自覚しているあなた方が一番適任だと思いましたから」

 まぁ、本当にその万が一がきた時には目眩を覚えましたが。
 再び、意地悪そうに秋桜が言う。今度はちょっと怒ってる。桜邪は、なんとなくそれを察した。

「本当に、申し訳ありませんでした」

 何度も謝ってどうなるものでもないが、とりあえず樫の木を後ろから押すようにして共に頭を下げる。

「いや、だからアレは俺のせいじゃねぇだろうよ! 責任あったとしてもあくまでフィフティフィフティだからな!! いや、書類しか送らなぇ奴もいるから三方一両損だ!! 全員悪い!!」

 まだ言うか。
 桜邪も秋桜もやや辟易した頃、隣の部屋から異質な気配を感じる。

「……その事については、また後でゆっくりとお話させていただきます」

 秋桜の無表情が引き締まる。同時に。
 ヒイイイイイイイイイイイイイイッッ!!
 隣の部屋から、絹を裂くような声が聞こえてくる。
 それは、明らかに男の声であったが、男の声帯ではありえない程の甲高い悲鳴であった。
 聞き覚えのある悲鳴に、樫の木と桜邪の身が思わず強張る。
 秋桜は首だけを傾けて振り向くと、眠りが浅くなってうなされているようですね、と言ってまた二人の方を向いた。

「そろそろ、私の仕事の時間です」

 秋桜は佇まいを直すと、鞄から『牛の首』を取り出す。
 樫の木と桜邪はそれを見てやや自分達の心拍数が上がり、冷や汗が流れるのを感じた。

「……つーかさ。『牛の首』は誰か知らんが、かつて狂気の大天才と呼んでもいいような奴が作りだした最恐の呪いだろ? お前なんぞに解けるのか?」

 恐怖を紛らわすように、思わず樫の木の口から余計な心配がこぼれる。
 桜邪は、一瞬表情を強張らせて樫の木に蹴りをいれようとするが、先に秋桜が桜邪の前にかざした手により制される。
 そして、樫の木を向くと、あくまでその無表情を崩さないまま答える。

「無理ですね。この本に何が書かれてるかはまだ知りませんが、浅はかなあの御仁をしてよほど恐ろしい考えに至らせたのでしょう。そのような強力な呪によって構成されたものが、私の言葉でどうにかなるとは思えません」

「……んじゃどうすんだよお前」

 決して秋桜を案じているわけではない。
 しかし、先ほどは治まったはずの不安がこの本を見るとムクムクと沸いてくる。
 やはりこれはとても恐ろしい呪いだ。これをどうやって、自分で理解できる程度の形にしてしまえばいいと言うのか。

「呪いを解くのは無理です。ならば、この呪いを無効化する新しい「式」を書いてやればいいのです」

 うろたえている樫の木と心配そうに様子を伺っている桜邪に、秋桜はさらりと言い放つ。

「書くって……それにさっき読むって……まさか……」

 桜邪は、ようやく理解した。

「『牛の首』はその完璧な文章によって読者の恐怖への想像力を著しく喚起させ、それが最大限になったところで未完にし、恐怖への想像を無限に発散させる呪い。ならば、その恐怖が人の精神の許容範囲内と言う一点に向かって収束するような続きを補完してやればよいのです」

 あっさりと言い放つ秋桜に、樫の木は唖然とした表情を向ける。

「……できんのかよ、そんな神業」

「できない事なら始めから言い出しません。まぁ、創作は私の領分ではありませんが、机上の空論を述べるよりはマシなつもりです」

 自信に満ち溢れている、と言う様子ではない。
 かといって、強がっていると言うのとはまたかけ離れている。
 自然に。そう、あくまでも自然体だ。
 闇を畏れず、まるで闇とは己自身であるとでも言うように。
 そうやって、彼女はあるがままに闇との付き合いができているのだろう。

「ついでに、この恐怖体験を元に牛島氏を更生させろと。そういう頼みもありますからね。裏の利権や可兒氏の負の遺産の回収、貴方達の知った事はその中心核ではありますが、まだまだ氷山の一角です。色々と複雑で面倒なのですよ、この仕事は。先にあげた件も全て終わらせて、まだようやく残り半分と言ったところですか」

「ひょっとして、他の連中はそっちに絡んでんのか?」

 いぶかしむような樫の木の問いに、秋桜はえぇ、と短く肯定すると、桜邪の目を見てゆっくりと言った。

「――お望みなら、それらも全て話しましょうか?」

 秋桜のその問いに、ただ桜邪は無言で首を横に振った。
 人には、知るべき事と知らないでいい事がある。それが分かったから。
 だから、今はもう自分がやり終えた仕事に満足するだけでいいと、そう思えた。

「それは重畳。貴方達は優秀で扱いやすいですが、手間がかかるのが難ですからね。こういう怖い仕事もあると言う事にも慣れていた方が今後のためでしょう」

 やれやれ、と言った感じで事も無げに言い放つ様子に。
 樫の木はいつもこの女に感じるそこはかとない恐ろしさを感じた。

「……お前、ほんとは人間じゃねぇとか言うオチつかねぇだろうな?」

 ゴキッ!
 今度は、秋桜が制止する暇すらなく桜邪の蹴りが樫の木の後頭部に炸裂する。

「………………ッッッ!!!」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

 蹴られた樫の木はもちろん、蹴った桜邪も反動の痛みで悶絶する。
 口は樫の木に向けてパクパクと開いたり閉じたりしている。
 多分、言っていい冗談と悪い冗談があります、とでも言いたいのだろう。
 秋桜は、その様子を見て呆れたようにため息をついて、すっくと立ち上がる。

「無理をするものではありませんよ。今晩はゆっくりおやすみなさい。幸い、ここの温泉はきり傷打ち身にもよく効きます。起きたら、湯治としゃれ込むのもよいでしょう」

 そして秋桜は、痛みにもだえ転がっていた桜邪が立ち上がろうとするのに手を貸した。

「ここのさらに隣に部屋を取ってあります。今はゆっくりとおやすみなさい。貴方達の仕事はすでに終わったのですから。本当に、ありがとうございました」

 軽く頭をさげられる。
 ちょっとだけ、むず痒いような気分になる。
 この姉貴分は相変わらず、全てお見通しと言った様子だ。
 気遣いも完璧で、冷たそうに見えて実はとても優しい。
 その秋桜に礼を言われた。役に立てた。それは、桜邪にとってとても誇らしい事だった。だが。

「あの……」

「なんですか?」

「私にまだ手伝える事ありませんか?」

 自然と、そんな言葉が口をついた。

「ふざけんなー! これ以上の面倒押し付けられてたまるかー!!」

「ありませんね」

 奇しくも、樫の木と秋桜の声がハモる。
 そして秋桜の淡々とした一言のあと、樫の木は不自然な笑顔を作り、

「ま、こいつもこう言ってるからさ。さっさと寝ちまおうぜ。それに限る」

 と、手早く襖を開いて薄闇に包まれている隣の部屋への入り口を作る。

「おおっ、布団が二組か。こりゃいいな。やはりたったまま寝るよりも暖かい布団に包まった方が寝心地いいもんな」

 闇の奥を見つめながら嬉しそうな声をあげる樫の木。
 しかし、桜邪はその闇を見つめて、漠然とした恐怖を感じていた。
 先ほどから、自分が感じていた一番の恐怖。
 それは、もし秋桜までもが牛の首の呪いに冒されたらどうしようかと言う恐怖。
 自分の身を心から案じ、死地に赴くのを承知で自分の我を通すために止めずに送り出し、温かく出迎えてくれた優しくも強い女性。自分の最も尊敬する隣人。
 もしその女性が、自分が寝ている間に壊れてしまう事があったら。それは、桜邪にとってこの上ない恐怖だった。
 だから、まだ自分にできる事があれば、少しでもいいから助けになりたかった。
 しかし、その申し出は明確に拒絶された。はっきりとした、秋桜の意思で。

「そうですか……そうですよね……」

 桜邪は振り向くと、秋桜の顔を見た。
 樫の木が『枯れている』と評する涼しげな表情。
 しかし、桜邪にとってそれは、どんな笑顔よりも優しく、勇気を与えてくれるものだった。
 木枯らしは吹けども稲穂は実る。そんな、秋のような女性。それが彼女の敬愛する秋桜と言う人物だった。

「……考えてたって、詮無い事ですよね。ここまでは私達の仕事、ここから先は秋桜の仕事なんですから」

 ややうつむき加減になってそうつぶやく。
 秋桜ならば、大丈夫だろう。
 その考えに明確な根拠があったわけではない。ならばそれは単なる思考停止だ。
 しかし、根拠もなくあっさりと思考停止させる程に、彼女は彼女を強く信じる事ができた。
 秋桜が、自分達の欠点すらも利点と考え、生きて帰るのを当たり前だと思って仕事を与え、自分達がそれに応えてきたように。
 今度は、自分がその当たり前をする番だ。
 もう恐れは無かった。だから、桜邪は今は眠る事にした。一仕事を終え、疲れはてているであろう彼女の姉貴分に、入れ替わりに一言。
 「おやすみなさい」と言ってあげるために――

「では、寝る前にもう一つだけ。代わりのワガママを一つだけ聞いていただけますか?」

 ふと何か良い事を思いついたように晴れやかに顔をあげて。
 少女は、穏やかな笑みを浮かべてそう言った。

「ふむ、ここで追加報酬の具申とは抜け目のない奴だ。確かに今回の仕事で少しは成長したようだな」

「違いますよ。まぁ、ついでに貰いたいものがあると言う意味ではあってますけど」

 苦笑した顔を樫の木に向けて言う。
 屈託がない。闇に向かい、光に振り向きながら。
 自分が思った事を、素直に口にした。

「その新しい怪談ができたら、写しでいいんで一冊下さい」

「そんなもん、何に使うんだよ? 売るのか? まぁ、一連の件があるから触れ込んで回ればかなりの高値がつくけどよ」

「だからお金とかそんなんじゃありませんってば。大体、秋桜が創るなら著作権は秋桜にあるワケですし、勝手に売ったら怒られますよ。ねぇ?」

 桜邪は樫の木の問いにおどけてみせるように首をすくめ、秋桜の方を向いて笑顔のまま首を傾ける。
 秋桜は、無表情の中に複雑な感情を見せていた。そして、珍しく反応を遅らせてから、小さくため息をついてから答える。

「……分かりました。貴女がそれを望むのならば」

「ありがとうございます♪」

 樫の木は、涼しげな無表情と暖かな笑顔を見比べて怪訝な表情を浮かべる。

「なぁ、二人して勝手に通じ合ってねぇで俺にもわかるように言えよ。そういう二人の世界とかそういうの見せられるのって腹立つんだよ」

 自分の事しか考えていない樫の木に、余計な事ばかり考える少女は微笑みながら言う。

「愚問ですよ樫の木さん。本を手に入れたら、取る行動は一つだって散々みんなで話したじゃないですか」

「『牛の首』の内容が知りてぇのかよ。いや、そりゃ後半ができれば読んでも無害だろうけど、そんなもん知りたがるとはお前らしくねぇなぁ。まぁ、俺も興味はあるけどよ。別に写本作らせる程のもんでもねぇだろ? 後で話してもらえばいいじゃねぇか」

 意外そうに樫の木が言うと、秋桜がどこか諦めたような、冷めた口調で桜邪の代わりに伝える。

「内容を知るだけならそれで十分ですけど、本自体が必要なら写しを作るよりしょうがないでしょう?」

 樫の木はその言葉を聞いて、みるみる不愉快そうな表情になる。
 桜邪と言えば、別に愉快そうと言うわけでもないが、朗らかな笑顔を浮かべている。

「……ありえねぇ。何考えてんだお前?」

「まぁ、私は分かりたいものが分かってスッキリしましたから。それで満足なんですけど、私だけ満足してたんじゃ不公平でしょう?」

 ――もう一冊あるという事は分かっていましたから。
 ――これだけ、部屋の中心になんか妙にきちんとした部分に安置されててさ。
 ――自分の世界を作って、そこに隠れ住んで。

「……まぁ、私にもまだ一つだけ分からない事もありますけどね。牛島さんは読んですぐ焼き捨ててしまったのに。私達も、できれば遠ざけてしまいたかったものなのに。なんであの人は自分の世界の中心に、そんなものをすえ続けたんでしょうか。わざわざ、まったく同じ偽者を用意してまで」

「知るかよ。どうせなら隠れ里打ち直しの禁書の方を残しててほしかったがね」

「他人から奪った私財をたっぷりと蓄えて。小さくはあっても一つの世界すら手に入れて。何も畏れず敬わずの好き放題の挙句に怖いもの見たさの戯れに読んでしまったのは分かりますけど、その先がどうしても分かりません」

「そういやぁ、そんだけ傲岸不遜な野郎が、いくら怖かったからって卑屈に世界の中心を他人……つーか他本か? に明け渡すってーのは解せねぇな。分かりやすく影武者まで用意してよ。むしろオリジナルよりも、本の内容とか存在とか、そういうもんが大事だったようにも思えるなぁ」

「仏法にはこんな話があります」

 バサバサと枝葉を振りながら首を傾げる樫の木と、ちょっとだけ寂しそうな笑顔を作る桜邪に、秋桜は何事かを語りだす。

「ある所に、牛を九十九頭手に入れた長者がいました。その長者は、どうしても百頭目が欲しくなりました」

「いきなり何を言い出すかねこの女は……まぁ、そりゃ欲しくもなるさ。キリがいいしな」

「しかし、いくら欲しくてもそう簡単に牛は手に入るものではありません。そこで、長者は一計を案じました」

「一計?」

 桜邪が小首をかしげて尋ねる。
 そもそも、九十九頭も牛を持っていながら百頭目の牛を欲しがるという発想からして縁の遠い彼女にとっては分かりづらい話だ。

「長者は古い友人を見つけていたのです。その友人とは疎遠になっていましたが、貧しいけれども一頭だけ牛を飼って細々と暮らしている事だけは知っていました。そして、その友人がとても優しい心根の持ち主だという事も」

「あぁ、思い出した。その話なら俺も知ってるよ。たしかそれでボロ着を着て
友人を訪ねたんだろ。で、一頭の牛すら持っていない貧乏人のフリをしたんだ」

「え……それって……?」

「もう内容は察しがつくでしょうからオチを言ってしまいましょう。長者は、牛が百頭になって幸せになりました。貧乏な友人は、困窮している友人にたった一頭の牛を施し、その窮状を救えた事で幸せになりました。と、そういう話です」

 説法が終わると、しばしの静寂が流れる。

「……つーかさ、それどう考えても百頭の牛を手に入れた長者の方が得してるよなぁ。施しの心っつーか自己満足で幸せを得られても、財が減ったなら腹も減るわけだしよ」

「果たしてそうでしょうか?」

 興味なさげに樫の木が言うと、秋桜は少し含みを持たせるような口調で聞き返す。

「確かに、牛を百頭手に入れられた長者は幸せになれたかもしれません。しかし、翌日になればさらにもう百頭の牛を欲しがるかも知れません。或いは千頭、万頭の牛を欲するかも知れません。何しろ――」

 ――他人のものを取り食らう高慢豪情の一名の欲望に限りはありませんから。

「……牛を失った貧乏人は、それでもう満足しちまったからもう幸せだって事かい」

 面白くなさそうに樫の木は言う。
 桜邪は、目を閉じてその言葉の意味をかみ締める。

「心に満ちる物が無い人間は、結局のところ何も得られないと言う事ですか」

 どんな財宝を手に入れようが、それに価値を見出せなければ虚しいだけだ。
 ならば気づかなければいい。それに気づかず日常に埋没していれば、ただ諾々とゆっくりと死にながら生きていける。
 しかし、ひとたびその日常から離れてしまえば。欲しても欲してもキリの無い虚しさに気づいてしまえば。

「馬鹿馬鹿しい。誰だって腹に飯詰めれば腹が膨れたと思うだろうが。懐に金子ためれば暖けぇと思うだろうが。物質が精神的なものに劣っているなんて事はねぇんだ。贅沢に飽きるとか満足できないのが苦しいとか、そんな小賢しい事真似するからますます浅ましくなるんだ」

 ――欲だけは深いくせに。
 樫の木の愚痴は、個人に向けられていた。

「人は空虚では生きていけません。否、空虚だと言う事に気づいてしまえばもう生きてはいけないのです」

「けっ! 散々悪党ぶってたくせによ! 所詮は人間かよ! ただの欲が深いだけの人間か!! 可兒・エレミア・是清もその程度だったか!!!」

 樫の木は苛立っていた。
 ワケも分からず、ただただ苛立っていた。
 ただ口汚く詰らずにはいられなかった。

 ――気持ちは分かるよ。
 ――人間にしちゃあ上出来だ。

 分かってたまるか。
 何が上出来なもんか。

「何もかもが自業自得じゃねぇか! いや、あんな奴にはもう業も得も何も返す必要なんかねぇぞ!! あのまま永遠に怯え続けてりゃいいじゃねぇか! 世界が終わるまで!!」

 桜邪には。
 樫の木の憤りの理由が分かった。だから、その件はとがめない。
 代わりに、一言だけ。哀れむのでもなく嗜めるのでもなく。ただ、素直に言わなければいけないと思った事を口にする。

「樫の木さんには――夢があるじゃないですか」

 貴方は空っぽじゃ、ありませんよ。
 樫の木はそう微笑みかけられて――萎えてしまった。

「あいつだってなぁ……まだまだ欲しかったはずなんだよ。戦争が終わったら、世間が平和になったらまたひょっこりちゃっかり勝ち組について、他人のものを取り食らって生きようと、そう思ってたんじゃなかったのかよ……?」

 萎えた心に、とめどなく寂寥感が溢れ込んでくる。
 虚しさを吐き出すように、ポツリポツリと愚痴を零すように語る。

「それは夢ではありません」

 力なく語る樫の木に、秋桜が厳しく――否、それは樫の木がそう感じただけだろうが――言い放つ。

「ただの惰性です。彼は賢い人だったのでしょう。ですから、すでに気づいていたのです。己はもう欲しいから欲するのではなく、欲するために欲していたのだと」

 それはまさに。形を変えた仏道の修行ではないか。
 違いは、その道では決して誰も救えないと言う事。
 己自身さえも、救う事のできぬ愚か者の道だと言う事。

「世界を作っても、その世界の中心に自分をすえても、そのさらに中心には何一つなかった。小さな世界の支配者になって、そこで一人になって、ようやく気づいてしまったんです。己が空虚である事に」

 桜邪は死者に対して思いを馳せる。
 多分、彼はそれも笑い飛ばしたに違いない。
 凡人ならば、ここで改心してしまうのだろうと、それを心の弱さだと。
 あの時の樫の木のように、たった一人の世界でただ高らかに笑ったのだろう。
 しかし。
 全てを欲したが故に。
 何も畏れようとしなかったが故に。
 それ以外に、何もするべき事がなかったが故に。
 戯れに。ただ戯れに。読んでしまったのだろう。この世で最も恐ろしい本を。
 そして――

「恐怖でようやく――満たされたんですね」

 狐者異には、たった一つの感情しかなかった。
 闇の中で震えながら怯えながら、そのたった一つに突き動かされ続けた。
 それは死に対するものか己を脅かすものに対してか、或いはこの世の全てに対してか。
 とにかく、彼の心は恐怖で満ちて。そして狂った。

「怖くて死にたくなかったんだな。いや、違う」

 樫の木は、やりきれないと言った表情でつぶやく。
 ――死んで、満たされている心がまた欠けるのが怖かったんだな。
 闇にさえ、恐怖にさえ、厭うものにさえ、彼はすがったのだ。
 常にぶるぶると震え続け、不安定である事に、彼は安定を覚えたのだ。
 満ちる事のなかった心を満たしてくれた。
 たとえその形が歪でも、真に欲したものを与えてくれた。
 その恐怖の象徴を彼は己が中心にすえたのだ。
 己を畜生以下の化け物へと堕とそうとも。彼はそれを望んだのだ。
 それは、何よりも業の深い妄念執着ではないか。

「……満たされてんなら、もうほっといてもいいんじゃねぇか? あのままでよ」

 樫の木はもう、哀れむ気も蔑む気も起きなかった。
 ただ、彼の心中を思うとどうにもやりきれない気持ちになったから。
 なんの感慨も込めずに、自分に微笑みを向けてくる少女の方を向いて言った。
 少女は、明かりを目指して飛んでいた蛾が、障子の桟に止まって休んでいるのを見ていた。

「そうですね……」

 そう答える桜邪の目に、迷いはなかった。
 今はもう、どんな言葉をかけても、彼女は揺れないだろう。

「でも、それは満ちているだけです。足りてはいません。彼はまだ、本当の満足を知りません」

「怯え続けるのも生前の因業悪行三昧の自業自得……いや、俺が言ったっけな。もう、あいつには何も返さなくていいって」

 桜邪は、微笑んだままはい、と答えた。

「もう、可兒是清さんは死んだんです。どんな悪人でも死んだら、それまでです。潔くそれまでにしなければいけないんです。安らかに、眠るべきなんです」

 狐者異は、退治されなければいけないんです。
 力強いその言葉に、樫の木は諦めたような、ほっとしたような表情を作る。

「退治する、か。妖怪のお定まりの最期だな。お前、あいつの事を……」

 どう思っているのか。
 人間として接しているのか。
 妖怪として接しているのか。
 そう問おうとして、樫の木はやめた。
 意味の無い事だからだ。意味の無い事はしても意味が無い。
 そしてその意味の無い事をするべき時は、まだ今ではないのだから。

「狐者異相手でも可兒是清相手でも、お前は同じ事をするだけか」

 もう一度、肯定の返事を聞く。
 そして、桜邪はころころと笑いながら冷めた茶と、残した茶菓子の饅頭を指差して言う。

「じゃ、私はもう寝ますんで。残ったものは樫の木さんにあげますよ。明日まで残しても硬くなるだけでしょうから、精々美味しくいただいちゃって下さい」

 そして、人差し指で唇の端を引っ掛けて引っ張ってみせる。
 口の中は傷だらけで、もう食べられないと言う意味なのだろう。

「それでは秋桜、写本の方はよろしくお願いしますね。それじゃ、おやすみなさ〜い」

 光に満ちた部屋を振り向きながら、少女は笑顔で闇の中へ消えていった。
 樫の木は、それを見送った後、深くため息をついてから呆れたような目つきで秋桜を見る。

「……今更俺が言うのもなんだけどよ、あいつこっちの仕事向いてねぇよ。考えがまっとうすぎらぁ」

 冷めた茶を飲み、饅頭を一口にしてしまいながら樫の木は言う。

「そうですね」

 しかし、と。
 拍子抜けするぐらいあっさりとした物言いの後強い口調で言う。

「あの子はあれでいいと思いますよ。闇の中で光を見つけながらおっかなびっくり進んでいく。そういう半人前の存在ぐらい、闇は許容してくれますよ」

 ――闇は恐怖ばかりではなく、安らぎも与えてくれますから。

「そのもう半分を教えてやるための寝物語ってワケか。する意味もねぇだろうによ。ご苦労な事だよ。俺には一切理解できん。ほんと、何考えてやがんだあいつは?」

 樫の木は遠くを見つめるように、桟に止まっている蛾を見た。
 こんなもの、放っておいても優しくしても叩き潰してもなんの意味も無い。

「あいつさぁ、屋敷で狐者異相手にした時、相当ボコボコにしてたんだぜ? 怯えきって、もうほとんど抵抗もできなかったような奴相手によ。愉しそうに悦ばしそうに、そりゃもう見ててかわいそうになるぐらいによ」

 たった一人の妄念執着が作り上げた空虚な世界を思い出す。
 そこで、最も空虚な存在を相手に大立ち回りをしていた少女を。
 命を賭けた大博打に勝ち、トドメをくれてやる時の楽しそうな思考は樫の木にも流れてきた。
 本当に。本当に嬉しそうに相手に暴力を振るっていた。
 相手が憎いとか怖いとかではなく、ただその行為そのものが楽しいとでも言うように。
 その光景は、その瞬間最も樫の木にとって怖いものだった。いっそ、その恐怖にさらされている狐者異に同情すらしていた。

「それで、なんで今度は救ってやろうとか可哀想だとかそんなくだらねぇ甘ったるい事言えるんだ? さっぱり理解できねぇ」

 はき捨てるように樫の木が言う。

「さぁ? でも――」

 ――それが分からなくても、あの子は怖くはないでしょう?
 そう言われて、樫の木は渋い表情を作って、まぁな、と答える。

「あの子は、素直なだけですよ。自分の気持ちというものに。自分のサガと言うものに。俗説ではありますが、桜が血を吸って美しく咲くと言われるように。その習性に従ってただあるがままに咲き誇る。ただ、それだけの事。理解などしてあげる必要はありません。あの子は、あの子のままでいいんですよ」

 ――まぁ、心もとないところも多いので少しは成長してもらわないと困るのですけれど。
 桟で休み、そしてまた光を求めて飛び立つ蛾の姿を見ながら、秋桜は言う。
 相変わらず、全てを見透かしているかのようなその目線に、樫の木は居心地の悪さを感じる。
 あの女が闇の中に光を見つけ、その方を向いて歩くのなら。この女はただいるだけで光の中に闇を作る。
 この女こそ闇だ。その闇は、人を呑む。
 樫の木の体がぶるっと震える。桜邪が残した冷めた茶を飲んだからではない。
 この女と二人きりでいるという事に、恐怖を感じたからだ。

「ふん。じゃあまぁ俺も引っ込むとするか。小娘の寝顔一晩中見てるのも暇だが、これ以上テメェと話してるよりは暇の方がずっといいや」

 そう言ってもそもそと移動しようとする。逃げ出すように。
 そしてその背中に、木枯らしのように冷たい言の葉が浴びせられる。

「……今晩は本当に疲れているようですから。あの子の寝込みを襲ったりしたら承知しませんからね」

「はっ! テメェに念押されて誰がするかよ。こっちだって命は惜しいや」

 念を押さなければするのか。
 そこで、秋桜はふぅ、とため息をつく。

「では、その意気で頑張って下さい。至らないところは多い子ですが。どうかよろしくお願いします」

「やだね。俺はあいつが大嫌いだ」

 思わず反射でキッパリと答えた樫の木が振り向くと、そこには深々と頭を下げる秋桜の姿があった。
 そして、そう言えば。桜邪の話題になると、ほんの少しだけ語調が優しくなる事に思い至った。

「……お前さ。あの小娘が眩しいとか思ったりする事って、ねぇ?」

 いつもどおり、考えなしに樫の木は聞く。
 枯れた白い女は、その問いを聞いても身じろぎ一つせず。
 ただ、まっすぐに樫の木を見つめる。樫の木はその瞳の奥に闇を見る。
 そして後ろ暗い事でもあるかのように、樫の木の方が逆に目をそらそうとしてしまう。

「彼女は私に対して、畏れも憧れも、全てを持って素直に接してくれます。その彼女をまっすぐに見つめ返せる事が、私のプライドです」

 答えになっていなかった。
 だが、なんとなくその気持ちが分かる気がした。
 桜邪がこの女を慕う理由はまだ分からないけれど。
 それでもいいのだと。なんだか、恐怖が薄れて消えてしまった。

「貴方は本当に、臆病なのですね」

 挙動不審に秋桜の様子を伺う樫の木を見て、秋桜は冷たいため息を吐きながら言う。
 樫の木は、そのため息がつき終わる頃に、ようやく憮然とした表情を秋桜に向けた。

「うるせぇよ。テメェ達が怖いのがいけねぇんだろうが」

 どういう理屈だ。
 理解する気は秋桜にもさらさらない。
 樫の木がブチブチと文句を言っていると、秋桜は遠くを見つめるような目で樫の木を見る。

「……なんだよ?」

 秋桜はなおも遠い目をしている。
 樫の木を見ているのか見ていないのかよく分からない。
 その視線を受けて、なんだか居心地が悪くなったので樫の木が問いただす。

「次にあの隠れ里に入る時ですが。まぁ、あと半月程先の話ですね」

 樫の木の表情がみるみる曇る。

「俺は嫌だぞ。あいつの自己満足に付き合うのは。もう二度と、あんなところには行きたくねぇ」

 ――もう二度とアイツには会いたくねぇ。

「いえ、貴方は桜邪と共にいくべきです」

 強い、はっきりとした口調で秋桜は言う。
 視線は、なおも樫の木を、いや、その遠くを見ている。

「なんでだよ? そりゃ契約妖怪の義務ってやつか? ならそんなのクソ食らえだ。俺は、偶々あの馬鹿と縁ができちまって一緒にいるだけだ。そこまで義理だててやるつもりはねぇよ」

「えぇ、貴方が強く拒絶すれば彼女も無理強いはしないでしょう。しかし、それでも貴方は行かねばなりません」

 強い語気に、深い闇に、気圧される。

「な、なんのために?」

「ケリをつけてこいと、そう言っているのです」

 秋桜の一言の後、静寂が訪れる。
 部屋は明るいのに、目の前に闇がいる。
 音はそこかしこにあふれているはずなのに、闇がそれを全て吸い取ってしまったかのような静寂が訪れた。
 ――耳鳴りがする。

「け、ケリって……」

 耳鳴りを止めるために樫の木が音を出す。
 秋桜は、遠い目をして樫の木を見ている。
 違う。樫の木を見ているのではない。
 樫の木と、その向こうの桜邪を見ているのだ。

「俺は、もう、牛の首なんて怖くねぇ……興味もねぇ……仕事のケリなら、もう……」

「ケリがついているなら物語にオチをつけていらっしゃい。貴方はもう一度、向き合わなければいけません」

「向き合うって、何にだよ。自分自身とか、そういう事言いてぇのかよ」

「似たようなものです」

 その言葉に、樫の木は鼻から出る冷笑で返す。

「くっだらねぇ。何かあるとすぐ自分探しだとか言い出す日本の学生じゃあるまいし、必要ねぇよ。そんなもん、俺がここにいるってだけで十分じゃねぇか。探す必要もねぇ。鏡でも見りゃ一発だ。俺は――」

「鏡に映っていたのは誰だったのですか?」

 全てを見透かしているような。
 自分の体ごと見透かすような視線。
 嫌だ。自然と、樫の木はそれから目をそらす。
 その恐怖を悟られまいと、それにすら怯えながらゆっくりとそらす。
 その行動は、似ていると思った。自分があの闇の中で出会ってきた、あの――

「貴方が見てきたのは、鏡ではなくガラスですよ」

 樫の木に、それ以上の思考する暇を与えないように矢継ぎ早に秋桜は言う。

「その向こうにたまたまそれがいただけです。では、それは誰だったのです? ガラスの向こうにいたのは? 狐者異ですか? 可兒是清ですか? 貴方は誰に出会って、恐怖してきたのですか?」

 それは、桜邪にしようとしていた質問だ。
 あいつは答えを知っていると思ったからしなかった質問だ。

「俺が――出会ってきたのは――恐怖を感じたのは――」

「聞き届けていらっしゃい。事の顛末を」

 ――その時、彼女が隣にいれば楽ですよ。
 木枯らしのような吐息と共につむがれた言葉に、樫の木は観念する。

「まぁ、な。楽だよ。あいつは俺を無理に押したり引っ張ったり、勝手に前に出て戦ったりしやがるからな。無謀に付き合わされるこっちは溜まったもんじゃねぇがよ」

「貴方は賢いですけど臆病が過ぎるのですから、そうやって勇気を分けてもらえばちょうどいいんですよ。代わりに、あの子に知恵をつけてあげて下さい。それでトントンと言うものです。あの子は人間。貴方は妖怪。足して二で割っても面白くありません。光の存在と闇の存在は相容れぬものです。異質な貴方達が理解できない半分の世界を補いあっているから貴方達はようやく一人前でいられるんですよ」

「イヤミかテメェ」

 やはり、この女は苦手だ。全てを見透かそうとしてくる。
 それが、どうにも腹が立ったので。
 樫の木は残った饅頭を全て一気に平らげると、腹立ちまぎれに言い放った。

「……お前には怖ぇもんとかねぇのかよ?」

 そうですね――
 秋桜は、しばし思案したような顔を見せた後。
 ほんの少しだけ唇を持ち上げるようにして儚い笑みを浮かべた。

「これから徹夜仕事になるでしょうから」

 ――今宵は一杯の熱いお茶などが怖いものです。



                            了