「……お前がやられたら俺が痛ぇ目に合うんだから冷や冷やさせんじゃねぇよ」
狐者異と向かい合う異形の姿に身を変えた少女の背中を睨みつけながら、樫の木がボヤく。
「ボヤボヤしてるからですよ。見え見えだったじゃないですか。わざとジリジリ時間かけて近づいてきて、こっちが油断したとこで一撃必殺。攻撃方法も、ここの館の罠と似たようなパターンですね」
深く考えた行動みたいに見えますけど、やはり本能で動いてるんでしょうねぇ。本能って凄いですねぇ。少し感心したように桜邪が言う。
「ご立派過ぎて頭が下がらぁ」
いかにも心にも無い事だ、と言った調子で樫の木が言葉を紡ぐ。
「お宝の価値も分からねぇくせに本能だけで罠やら策やらで侵入者撃退する古狸も古狸なら、わざと過度に疲弊したフリして会話しながら体力の回復をしているように見せかけて、念入りに相手の隙探ってた女狐も女狐だ」
似ても焼いても食えねぇ連中だよこいつらは。
値踏みするように二つの影を見比べながら樫の木がひとりごちる。
「褒め言葉と受け取っておきますよ。それより、きますよ。準備はいいですか?」
「ぬかせ。準備もクソも、俺にしてやれる事はもう8割近くしてやってんだろうが。文句あんなら返せよ、その力」
樫の木は桜邪を――正確には、桜邪の纏っている装甲を指し示して言う。
「とは言いましてもねぇ。あくまで貴方には契約を介して装甲を染めてもらってるだけですし。あくまで、この装甲は私が持ち主で、さらに言うなら私の里の持ち物なんですから」
妖化装甲。それは、無色の力を鎧の形に固めた物である。
鎧と言ってもただの鎧ではない。
それは、鎧になると言う概念のままの状態で札に保存されている、物質よりも幽世の無色の力のままに近いものである。
そのまま具現化して使おうとしても、身を守る鎧としては満足に機能しない不十分なものである。
では、その不十分なものをどうやって補うかと言えば、先ほど桜邪が言っていたように。
契約した妖怪の力で無色の力を染める――幽世の力に、幽世に近い存在の力を混ぜ合わせる――事によって、妖怪の力と同化し、また物質の属性も持ち合わせて装着者の外骨格となって機能するのである。
それは当然の如くただの鎧ではない。
装着者の外骨格となった装甲は、その内部の人間の運動性能も飛躍的に向上させる事ができる。
桜邪が先ほどまでの疲れを微塵に感じさせないように、人の持つ耐久限界を妖の持つ耐久限界にまで高める事ができる。
可兒是清が幽世の力で人から狐者異に変じたように。
この装甲は幽世の力を使う事で妖怪と鎧を通して融合したような形になり、人は人のままそのポテンシャルを妖怪と同じ次元に高める事ができるのである。
妖怪が半分人間が半分。それを半端物と揶揄する者もいるが、桜邪は人のまま弱さを鍛え抜き、妖怪の研ぎ澄まされた強さを使う事のできるこのスタイルを気に入っていた。
もっとも、使い手が半人前なら契約した妖怪も低級と言う状態では大して威張れたものでもないが。
「……ほんと、ろくなもん作らねぇよなテメェの里の連中」
「あら? じゃあ、樫の木さん先頭で戦わせて、私は後ろで見てたまに護符投げたり呪文唱えたりって一般的なスタイルの方がいいですか?」
意地悪そうに言う桜邪に、樫の木は諦めたように深くため息をついてから言う。
「いやはや、ほんとご立派なご発明で。この樫の木めは稲穂みてぇに頭が垂れる思いでございますよ」
「それじゃ、さっき盾にした借りでも返すとしますか。貴方は後ろでしっかりと観てて下さいよ!!」
そう言って桜邪が駆け出すのと同時に、狐者異が先ほどとは打って変わって強化された桜邪の脚力と遜色の無い程の迅速なスピードで地面を這いずってくる。
「蟹みたいな格好してるくせに随分真っ正直に突っ込んできますね!」
そう叫んで桜邪は右手で腰にあるホルスターから銃を引き抜き、構える。
昨日、樫の木にも向けた退魔の儀礼済みの弾丸を込めた妖怪退治用の武器だ。
ただの銃弾でも妖怪に効く事は効くが、儀礼をして思いを込め、幽世の力で染めた銃弾は効き目が違う。
それは傍目にはただの銃弾のように見えても、儀式を経る事で違うカタチになったものなのである。
「的にしてくれって言うならお望み通りにしてあげますよ!」
このまま進めば先に狐者異の間合いとなる。
しかも、相手は地面を走るのと変わらぬ速度で地を這うのだ。
先ほど頭突きをした顔にもう一度蹴りをくれるよりも早く、足を掬われるだろう。
そうなれば、もう終わりだ。
後は思うように動けず、立ち上がる前にあの異常に発達した広背筋から繰り出される拳の嵐で装甲ごとミンチにされてしまうだろう。
下手に近づかせるわけにはいかない。
ならば、逆に這い蹲って狙い易い今、こうして遠距離から狙い撃ちにするに限る。
そして桜邪が引き金にかけた指に力を込める。
――パン! パン!
乾いた音を響かせながら、魔を討つ銃弾が無防備な狐者異の背めがけて浴びせられる。
「イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
この世のものとは思えない、声。
まるで、悲鳴のような叫びが狐者異から発せられる。
その悲鳴と一緒にブクブクと口から泡が吹き出て辺りに飛び散る。
だがそれは、桜邪の銃弾がその身に打ち込まれたからではない。
むしろ、悲鳴をあげたいのは桜邪の方だった。
向けていた銃口の先から瞬時に狐者異の姿が消えている。
「上だ、馬鹿!」
「分かってますよ!!」
背後からの声とほぼ同時に、桜邪は上を見上げて叫ぶ。
地面でグラグラとゆれている、スプリング床の罠には目をくれない。
それどころではない。
天井で一度バウンドして頭上より迫り来る妖怪。
目には狂気の光を湛え、口から泡を飛ばし、悲鳴を上げ続けながら怪異の権化となりて豪腕を振るうべく桜邪に迫る。
――怖い。
しかし、臆せば死ぬ。
自分はここで死ぬワケにはいかない。
だから、恐怖を振り払って迅速に然るべき対応をする。
「イイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!」
悲鳴を聞きながら、桜邪は手に持っていた銃を背後に放る。
そのまま両手を背後に回し、タイミングよく手を握り、飛んできた木刀の柄と剣先を掴む。
「まともに受けたら、木刀どころか頭蓋骨まで叩き割られそうですねこのしっぺは!」
掴んだ木刀を素早く頭上に掲げると、その刃で二本指の手刀を受け、下に傾けた剣先に向かって流す。
狙った力の行き場を失った手刀は、木製のレールをミシミシと鳴らしながら滑り、虚空へと流される。
腕にも相応の負荷がかかるが、ここで気を抜くわけにはいかない。
流し終わると同時に、桜邪は刃先に添えた手に力を込め、弾くように狐者異の顔面めがけて叩き込む!
――ミシッ!
風を切る音ですら耳に残るような静寂の中、木が軋む音がする。
「な……」
ゴクリと生唾を飲み込みながら木刀の切っ先を見る。
狐者異の顔面を捉えるはずのそれは、虚空へ流れた右手とは逆の左手の指によって挟みこまれ、止められていた。
真剣白刃取り。
これが木刀ではなく、そして挟み込んでいるそれが二本の指ではなく両手ならばそう呼ぶべき技だろう。
「う……お見事です。それじゃ……それは残念賞としてプレゼントいたしましょう♪」
そう言って、桜邪は木刀の柄を握っていた右手を離す。
同時に、切っ先を弾くと同時に背後へ回していた左手で再度銃を掴み、それを狐者異のギョロリと突き出た両目の中心へと定める。
――パンパンパンパンパン!
「イイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!」
しかし、その銃弾が当たる事はまたもや無かった。
掴んでいた木刀から手ごたえが消えた瞬間。
狐者異は悲鳴を発しながら空中にて高速で体を捻り、不規則な動きのまま重力に身を任せた。
――パンパンパン! バン! バン!
乾いた銃声と、豪腕で床を強く叩く音が響く。
狐者異は銃弾をかすらせながら地につくと、地面を殴り飛ばすようにして跳ねながら距離を取る。
進む時よりもスピードは劣るが、その不規則な動きは完全に逃避のための動きである。当てづらい。
瞬く間に、10数メートル程も狐者異は桜邪と距離を離し、深い闇の中に緩やかに融けていく。
「ちィッ!!」
我ながら品が無いな、と言う思いを頭によぎらせながらも舌打ちしながら桜邪は離れた相手に何度も銃撃を浴びせる。
かすらせるだけでも、わずかなりとも妖怪にはダメージを与えられる弾丸だ。玉数の問題もあるが、間合いを取ってくれると言うなら下手な鉄砲も撃つだけ無意味でもないだろう。
しかし、着地の瞬間を狙って撃ち続けた銃弾は、やがて狐者異にかする事もなくなった。
「……なるほど。その目は飛び出てるばかりの飾りってワケじゃなさそうですね」
装甲の下で、冷や汗が流れるのを感じる。
桜邪の目線の先には、暗闇の中を高速で飛来したいくつもの銃弾を全て二本の指で挟み掴んで放り捨てた狐者異の姿があった。
「どこの武蔵だよアレは」
驚くのを通り越した呆れたように、投げやり気味に樫の木が言う。
「気ぃつけろよ。テメェの目もそれなりに夜目が利くだろうが、アイツのはまるで質が違うぞ。この暗闇の中でも昼間みてぇに見えてるようだし、何よりテメェの動きは全て見切られちまってる。まぁ、銃弾に比べりゃテメェなんてハエ以下だからな」
「みたいですね。ほんと、数人がかりとはいえこの人真っ二つにした人達を尊敬しますよ」
軽く感嘆のため息をつく。
「尊敬されたって死んだら終わりだがなぁ」
「そういう不謹慎な軽口叩いてる暇あったら木刀、次! 明かりも絶やさないで下さいよ!!」
「わ〜ってるよ! つーか使い捨てみてぇに言うな! 部分変化っつっても作るの手間なんだぞ、これら!!」
そう叫ぶと、樫の木の枝がメキメキと音を立てながら土産物屋で売っているような木刀の形を成し、桜邪めがけて射出される。
そして、桜邪は振り向きもせずにそれを右手で受け取ると、右手に木刀を、左手に銃を構えて離れた狐者異と対峙する。
「まぁ、木刀やら銃やら陰火の松明はともかく式を込めた退魔の弾丸には限りありますからねぇ。無駄撃ちしたくないのは同意ですよ」
距離をとり、同じ方向を向いて軽口を叩きながらも、意識は周囲と前方の狐者異に集中している。
そして、やや焦りを感じた。
距離をとれば弾丸を止められる。
接近戦を挑めば力負けして左右の手刀で刻まれる。
しかし、そんな事は大した問題ではなかった。
桜邪の焦りは、狐者異の力よりも、その本質に向けられていた。
「……前言撤回。意識無い方がよっぽど厄介ですね。と言うか、知恵も記憶もほとんど無いくせに本能で罠を活用して戦ってくるのは反則ですよ。話が違うじゃないですか」
「いいからちゃっちゃとやっつけちまえよ! ガチンコは他人に譲らねぇってんなら公約守ってしっかり一人で倒しやがれ!!」
「うるさいですよ! いいから貴方は貴方の仕事してなさい!!」
そう、背後のすぐ弛緩するような妖怪が相手ならば、妖化装甲なしでもなんとかなる。
緩めるからだ。
意識を緩め、思考を緩め、殺気を緩め、理性を緩め、筋肉を緩め、反射を緩め、生きようとする意志さえ緩める。
その緩んだ部分を、引き締めた部分で小突いてやる。
自分の先ほどまでの戦い方は、そう言うものだ。
力に驕るものの意表をついて弱い部分を狙う。
正々堂々と隙をついて真っ向から不意打ちする。
桜邪が好み、得意とする戦法はそれだ。
それは楽をして勝とうと言う卑怯な考えによるものではない。
それなら、わざわざ命の危険を賭してバケモノの前に立つ必要は無い。
言うなれば、これは桜邪にとっての狩りの礼儀なのだ。生きるための仕事であり、楽しみなのだ。
猟師が素手ではなく銃で熊や猪をしとめて糧となすように。道具を使って相手の命を一方的に奪う蛮行を誇りとする反面、牙や爪を持つ大自然の驚異への畏敬の念を忘れぬように。
特殊な能力を使い、人知を超えた存在である妖怪に対し、人の知恵や技術の限りを尽くして挑む。
桜邪は、それが敬意だと思っている。
妖化装甲も、己より位の高い敬うべき相手に拝謁するための文字通り勝負服だ。
たとえ相手がどんな存在であろうと、桜邪は相手に対する敬意を心がける。
そして、畏れる。
相手に対して畏れを抱かなければ侮る。侮れば緩む。緩めば、易々と断ち切られてしまうだろう。
桜邪は常に相手を畏れ続ける事で自分より強い相手に勝ってきたのだ。
「弱い者イジメは趣味じゃありませんし手ごたえがあるのはいいんですけど……圧倒的に格上なんですから。油断ぐらい、してくれてもバチは当たらないと思うんですよ私としては」
軽口を叩き、片手に持った木刀でトントンと肩を叩きながら思案する。
――話が違うじゃないですか。
桜邪は再び、今度は心の中でそうつぶやく。
自分が聞いていた可兒是清と言う男は、高慢で強欲で、恐れを知らぬ男だったはずだ。
何者をも畏れず敬わず。自分勝手な振る舞いを繰り返すような、タチの悪いガキ大将だと思っていた。
しかし、先ほど見せた攻防はどうだろう。何かしらの罠を張ってくる。そこまでは予測がついていた。問題はその先。桜邪に攻撃をいなされた後の行動が問題なのだ。
「予め左手は防御用に温存しておいて、奇襲失敗となればなりふり構わず安全圏へ逃避、か。力で押し切るだけで勝てそうな相手だってのは本能でもわかるだろうに。意外にやたらと慎重な野郎だな。で、お前はどうすんだこの先?」
ざわざわと枝葉を揺らす音と共に樫の木が桜邪に問いかける。
それは多分、桜邪への助言とか観察結果とかそう言う意味は無く。純粋に後方支援に飽きてきたのだろう。話相手が欲しいのだ。
「めんどくさいから結果だけ先に言っちゃいますけど、勝ちますよ。もちろん」
適当に樫の木をあしらいながら、じりじりと狐者異との距離を詰めていく。
そう、勝つつもりだ。そうでなくては戦う意味が無い。負けました参りましたごめんなさいで済むのならこんな仕事はいらない。
「それより、話し相手が欲しいならあの人にでも話しかけたらどうですか? 気が合うかもとかおっしゃってたじゃないですか」
「馬鹿言え。畜生道に落ちちまったような低俗妖怪に話しかけてなんになるってーんだ。ペット飼ってる一人暮らしのOLじゃあるまいし、そんな寂しい真似できるか」
「まぁ、確かに。会話ができないって言うのは残念と言えば残念なんですよね」
樫の木と桜邪が無駄話をしている間も、狐者異はまんじりともせずにこちらを睨み付けている。
会話が通じてないのだから、この手の挑発は効果が薄いだろうとは思う。
それも残念だが、もう一つ残念なのはやはりコミュニケーション不全だという事だろう。
桜邪は、上辺の会話よりも多少拳骨を交えたような付き合いの方が相手の事をよく理解できると思っているタチの人間だ。
先ほどの攻防からも、会話の通じない相手の事を少しだけ理解した。その一つが当面の大問題――狐者異も、桜邪を畏れていると言う事。
自分が脅威であると認識し、格下風情と侮らず、たかが人間と蔑まず。
畏れながらに相手と対峙し、勝利でもってそれを克服しようとしてくる。
それをうつろいやすい意識レベルではなく、本能レベルで行ってくる。
本能で桜邪を畏れて慎重で適切な行動を選び、罠や技術を駆使するのだ。
つまりそれは。桜邪とまったく同じ事を桜邪よりも高い水準で行えるという事にもつながる。
「同じ戦法を選ぶ者同士、お話しながらなら、それはそれで駆け引きの妙も相まってもっと楽しい戦いにもなったんだと思うんですけど……ほんと、残念です」
軽くため息をつきながら、ボソリと小さな声で桜邪がつぶやく。
「つーか、お見合いやってんじゃねぇんだぞ! さっきから二人して黙って見つめあいやがって。恋でも芽生えたか? どうも男に興味ねぇようだと思ったらバケモノ専門か。まぁ、人の趣味をとやかく言う程野暮じゃあねぇが、もうちょっと男の趣味よくしねぇとお先真っ暗だぞ。まぁ、今でも十分真っ暗と言うか暗闇の中で引き裂かれて死にそうだけどな」
「……舌戦仕掛けても揺れないってのはかなりの強みですよね。こっちは後ろにも敵がいるって言うのに」
背後の野次に腹を立てながらも、頭の芯は順調に冷えている。
相手にしてみればこちらは何かを吼えているだけで何も感じる事は無いだろう。
人の心は簡単に揺れる。愉快だったり憤慨したり悲哀を感じたり悦に入ったり畏怖したり――気負って力みが取れなくなったり。
昨日の一件も記憶に新しいが、感情の揺らぎと言うものは止めようとしても中々止められるものではない。それをコントロールする術は人それぞれで、桜邪も一応自分なりのスタイルは持っているつもりだが、相手はそれが本能レベルで完成されてしまっているのだ。
あの指で侵入者を引き裂き、完全に息の根を止めてさらに硫酸入りの落とし穴にでも放り込んでしまうまで狐者異に油断の二文字は無いだろう。
妄念執着の権化。ただ自分の宝を守るためだけにがむしゃらに襲ってくるだけのケダモノだと思っていたが、とんだ誤算だ。
人を人とも思わず、欲望の赴くままに生き続け、執着するために執着する事を繰り返した挙句、人から妖怪に転じたその姿は、まるで――行を修めて人間性を超えた高僧のようでもあるではないか。
「精神性も肉体のポテンシャルも自分より遥か高みにいられたんじゃ、普通にやったらどうやっても勝てませんよね」
絶望的な状況を言葉にするわりには、その口調は軽い。
「じゃ、どうすんだよ。いったん逃げるか?」
「まぁ、それも一つの手ですが……時間も無い事ですし。今回は逆でいってみましょうか」
ザッ! と埃の積もった石造りの床を蹴る男が響く。
ほぼ同時に桜邪と狐者異が互いに向かって駆け出す。
先ほどより、桜邪の踏み込みは一歩一歩が大きく早い。
「私も慎重なタチなんでね、速攻かけてくる人は苦手なんですよ!! 貴方はどうですか!!?」
桜邪が正確に踏んでいくのは、先ほど狐者異が這って手を置いた部分。
会話中に目算は終えていた。狐者異の先ほどのスピードと考えて、あと5歩半で相手の間合い。
「イイイイイイイイイイイイイイイッッ!!」
相手も当然無策ではないのだろうが、ここまでは先ほどと同じ行動だ。
当然だ。こっちの奇襲に付き合う必要は無い。地力が違うのだから真っ向から受ければいいのだ。
一歩……二歩……一気に詰まる距離。そして四歩目を踏んだ時点で、桜邪は極端な前傾姿勢を取る。
シュッ!
間髪いれずに風を切り裂き闇の中を飛来する一本の木刀。
それは、桜邪の肩越しに薄皮一枚のところをかすめていくと、狐者異の脳天めがけて真っ直ぐに飛んでいく。
「基本的には一対一ですけど、間接支援とこれぐらいの直接支援ぐらいはいいでしょう? なんせ、こっちはか弱い女の子なんですから♪」
装甲の下で微笑みながら桜邪は右手の木刀を振りかぶり、左手の短銃で狙いをつける。
しかし、狐者異は動揺した様子を見せない。否、はじめからこいつにはたった一つの感情しかないのだ。
そのたった一つに突き動かされるまま、狐者異は空中を飛んでくる木刀を顔面に突き刺さる寸前で右手の指で掴む。
そして、左手で地面を叩いて跳躍しながらそれを力任せに桜邪に向けて叩きつける。
「イイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!!」
「くっ……!」
咄嗟に右手の木刀でそれを迎撃しようとする桜邪。
同じ得物で同じ片手の一撃とは言っても、腕力の差は少女とプロレスラー程もある。
このままぶつかり合えばどうなるか。それは初等教育の足し算よりも簡単に計算できるだろう。答えは、桜邪が押し負け顔面を叩き割られる以外にありえない。
「――途中で引き算してなけりゃ、な」
バキィッ!!
樫の木がひとりごちるのと、木刀が砕ける音は同時だった。
右手に握られた木刀は、見事に粉々に砕け散った。そして、無事な木刀が狐者異の顔面めがけて振り下ろされる。
「左手は残してありますよね? 頑張ってそれで受けてください」
桜邪の言葉に従うように、初手と同じ防ぎ方で狐者異は木刀を掴む。
右手には砕けた木刀の柄。そして、無防備な腹が桜邪の眼前にさらされる。
パンパンパンパンパンパン!!
「イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッッッ!!!」
今度こそ。痛覚を伴う悲鳴が暗闇にこだまする。
バタバタと無様に空中で両手をばたつかせ、重力に導かれるままに落ちていく。
桜邪は、弾丸を撃ちつくした銃を手からすべり落とすと、両手で木刀を握りなおす。
「やァッ!!」
こちらは先ほどわざと狐者異が掴めるような速度で放ったミサイル木刀とは違い、一切細工なしの妖木刀だ。全力で叩き込めば、一撃で終わらせるのは無理にしても大勢を決させる程のダメージにはなるだろう。
そして、桜邪の木剣が狐者異の顔面を打ち砕かんとした、その時。
――ガシャン!
鋭利な刃が突き刺さる鋭い痛みとギリギリと肉を締め付けられる鈍い痛みが桜邪の右足を襲う。
「え?」
間違いなく、寸分違わず、狐者異が移動した場所しか踏んでいないはずなのに。
二度踏みで作動する罠? 痛い。装甲がなかったら足が千切れていたところだ。トラバサミ? なんで? あっ、横からも何か音がする。連鎖発動する罠なのかな?
予想外の痛みに、間抜けな思考の羅列が一瞬脳裏をよぎる。しかし、瞬時に思考を切り替え、両手で持った木刀で背後の空間を薙ぐ。
ギィン!!
本棚から飛び出してきた鉄の槍を木刀で叩き折る。
両手が激しくしびれるが、自分を支える命綱を握っているかのように柄を握る手にこもる力は強まりこそすれ緩む事は無い。
――下からだ馬鹿! 声がする。分かってる。だけど、瞬時に判断した優先順位がこっちからだったんだから仕方ないじゃないか。
突き上げられた手刀に胸部を裂かれながらそんな事を思う。激しく痛む。仕方ない。そう言う装甲なのだから。
「……ッハァ!!」
一手遅れているとは理解できてはいたが、とにかく下段を斬る。
その剣は理性が思っていた通りに空を切っていた。
「……!!」
無事な左足を急いで引き、組み伏せられないように、倒されないように身構える。
しかし、迫り来る一瞬を随分長く感じたその直後、自らを引き倒してマウントを取って無慈悲な滅多打ちを浴びせてくるだろうと思っていた相手は、気付けば再び遥か遠くに移動していた。
先ほどよりもさらに遠く。こちらの灯している明かりの届かぬ、なおも昏き闇の奥へ身を潜めていた。
「樫の木さん……なんでしたか、今の?」
困惑し、息を荒くしながら桜邪が樫の木に問う。相手が引いた理由は分からなかったが、とにかく千載一遇の好機だ。銃口を狐者異に向けたまま、手早く器用に片手で罠を外す。傷口からグジグジと、血液と共に不安や焦りが流れてくるかのような感覚を覚える。
「……知るかよ。赤外線センサーかなんか使ってんのか? 罠が勝手に作動しやがった。もちろん、バタバタ空飛んでたそいつがなんか操作した様子はねぇ」
流石に樫の木も緊張した様子で、注意深く辺りの様子を見ながら答える。
狐者異は、先ほどよりもさらに奥。樫の木の位置からはもう闇にほとんど融けて分からないような位置まで下がっている。
「私も何も感じませんでしたね。何かのセンサーに引っかかったような感覚もありませんし。それに戦前の方でしょ? そんなハイテク技術知ってるようには思えませんね……まぁ、そもそも真っ向から手の内全部さらけ出してくるような人だとは思いませんでしたけど。それより、そっちもあんまり気ぃ抜かないで下さいね。支援武器受け取り損ねて同士討ちとかはごめんですよ?」
ズキズキと痛む足と胸の痛みをこらえ、あくまで軽い口調で桜邪は言う。
樫の木も、分かってるよといつもの不機嫌そうな口調で返す。
「テメェこそ、なんか仕掛けるなら痛みで意識途切らせるなよ。ガキに痛い痛いって泣き叫ぶような信号送られてきちゃ煩くてかなわねぇ」
「こっちも、気が散るから雑念送るの控えてほしいっての言っときたいですね。あまり複雑な通信はできないから口で念押しますけど」
妖化装甲『春姫』の特性。
正確には、樫の木と契約した時に特化された特性。
それが「感覚鋭敏化」と「意思疎通」だ。普段なら装甲を着込んで鈍重になる皮膚感覚を、外骨格に薄皮をかぶせるようにして――痛覚も常時より痛烈に伝わるリスクと引き換えに――強化してある。
そして、契約した妖怪との簡単な念話。これは契約者同士によくある特権の一つでもあるが、今の二人は互いの意識の延長のレベルで互いに簡単な意思を伝える事ができる。片方が何か作戦を思いつけば、瞬時にその考えに必要な行動を片方に伝え、理解して行動する。そのスピードは通常の会話とはアナログモデムとADSLぐらい違う。
高速テレパシーと達人クラスの鋭敏な感覚。その二つが、先ほどからの神業とも言うべき武器の受け渡しや木刀のトリックを可能としているのだ。しかし。
「こっちはほとんど手の内出し尽くしましたけど、あちらさんはまだまだ余裕って感じですね。大分離れちゃってて表情もよく分かりませんけ……ど!」
周囲から飛んできた毒矢を右手の木刀でなぎ払いながら桜邪はあくまで狐者異に意識を集中させる。
自分のすることは、前線で相手の挙動を伺う事だ。文字通り矢面に立って現場で緊急の判断を下す事だけだ。
どっしり構えて思考に耽るのと大掛かりな作戦を立てるのは後衛の仕事だ。背中を任せられれば、前衛はこれ程楽な事は無い。
「いいか! 何はなくともとにかくこれだけは言っとくが、絶対に後ろに罠をそらすなよ! 前衛は前衛らしくちゃんと壁に徹してろ、いいな!!」
……一瞬、崖や壁を背負ってるような錯覚を覚えるが、それならそれで背水の陣だと開き直る事にする。
こんなものに頼らなくてはならないのも情けない話だが、自分は弱いのだから仕方がない。
「分かってますよ! そんな事よりまだ分からないんですか、この罠の自動操作の方法!! 一々上だの下だの教えられなくても、これぐらいなら私の感覚だけで十分対処できますから、貴方はそっち見つけるのに専念して下さい!!」
降ってくる吊り天井をかわし、床から突き出る鉄柵を避け、着地点を狙って放たれる毒矢や石つぶてをなぎ払いながら桜邪が叫ぶ。
「そうは言っても時間がかかるんだよ! 大体テメェもそうやって危なっかしい動きしてるのが悪いんだよ! 下手にハラハラしないようにもっと余裕もってよけらんねぇのか!!」
――いつこっちにとばっちりがくるんじゃねぇかと気が気じゃねぇんだ!
ここまで自己中心的だといっそ清々しくなるような啖呵をきりながら樫の木はビクビクと震える。
「仕方ないでしょ! 私は弱いんですよ! 弱いなりに頑張ってるんですよ!! あぁもう、普通の矢の直後に真っ黒な矢が飛んでくるパターンもほぼ毎回じゃ飽き飽きですよ!!!」
狐者異に向けられている左手の銃口が極力ブレぬように気をつけながら、うんざりするような執拗な罠の猛襲に対処する。
致命傷を避けながら滑らかな動きで罠を凌いでいる様は、まるで罠と優雅にワルツを踊っているようにも見える。
だが、実情は滑稽に踊らされているだけだ。エスコートするパートナーの巧みさに、動きを誘導されている。
定められた死へのステップに、じゃじゃ馬のように抗う。
はっきり言ってこの状況はまずい。典型的なジリ貧だ。足と胸の傷のせいもあって動きが鈍い。
めくれる床石や大型トラバサミの罠を食って体勢を崩すわけにはいかないので意識がそちらに集中してしまう。足の裏に意識が向けば右の腿に床から突き出た棘が刺さる。下に意識を取られれば降ってきた鉄槍をかわしきれずに左肩がえぐれる。いっそ満遍なく周囲に意識を散らそうとすれば、全方面に仕掛けられた爆薬がまとめてその身を焼こうと襲い掛かる。火薬と共に炸裂するベアリングはもう論外だ。当たる面積を最小限にしてなんとかやり過ごすしかない。
周囲の本棚で遮蔽を取りたいところだが、時折訪れる「今本棚の隙間に飛び込めば安全に罠をやり過ごせるタイミング」は、あまりにタイミングが良過ぎてからかわれているような不快感すら感じるのであえて棒立ちに罠を受ける事で抗う。当然、飛び込もうとすればその本棚が丸ごと爆発するような罠ぐらいはあるのだろう。そうこうしているうちに、徐々に装甲のあちこちが削られ、痛みが増していくのが分かる。
片手だけで罠を弾いている右手は、絶え間なく訪れるしびれと共に、ゆっくり鉛に変化していくような錯覚を脳に伝える。
「(イチかバチかの速攻作戦には完全に失敗しましたね……これを見越して、わざと木刀の罠の誘いに乗って逆にこちらを誘い込んだたってわけですか!!)」
腹の中で多少毒づきながら、必死にかわし続ける。作り置きの罠である以上有限であるのだろうが、その果てを想像するだけで精神力が削られるような勢いと陰湿さがある。
仮にも自分の屋敷の中に、これ程までに執拗に罠を仕掛けておけるその性根に、いっそ感心してしまう。よほどネチネチと脳内で侵入者を仕留めるための策が周到に構築されていたのだろう。
あの二本の指で木刀持ったら「虎岩流星流れ」とか普通にできちゃいそうですよね、とわりと安易に作戦を考えた自分はまだまだ手ぬるいという事か。
そう思うと、あの腹に銃弾を撃ち込まれた時の大袈裟な所作も、まるで自分をおちょくっていたように思えて少し腹が立つ。
「……あれ?」
桜邪の頭に、ふとなにかしらの違和感が浮かんだのと、罠の勢いが緩んだのとはほぼ同時だった。
それ以上の思考は、背後からの樫の木のろくでもない罵声と、遥か前方で闇と同化している狐者異のみせたわずかな動きへの対処を考えるので中断される。
――いよいよトドメを刺しに来るか。
「ちゃんと前見てろ、前!!」
分かってますよと叫びながら、引き金にかけた指に力をこめる。
「あ〜、今来られるとかなりまずいんで! せめてここの罠が尽きるまで、いい子ですから大人しくそこで待ってて下さい!!」
そう叫んで、威嚇射撃をする。
否――した、つもりだった。
ボン!
退魔の弾丸が発射される時の乾いた音の代わりに、間抜けな花火のようなくぐもった破裂音が聞こえる。
それは、また周囲の地雷が作動したようなものではない事は、桜邪が一番よく分かっていた。
なぜなら、拳銃を持っていた左腕が焼けるように痛むから。実際に焼けて指先を吹き飛ばされかかっているから。
「…………っっっっっ!!!」
左手を襲う、耐え難い鈍痛。
だが、ここでそっちに意識を集中させてはもう痛みを感じるどころではなくなる。
痛みは生きている証なんだと、ポジティブに考えよう。あと、見るとますます痛くなるから見るのもやめよう。
そう考え、桜邪は暴発した拳銃でダメージを受けた左手をダラリと垂れ下がらせながら、罠を回避しつつ目線は闇色に染まった蟹から動かさない。
今攻め込まれたら一気に終わらせられてしまう。その窮地を感じながら、桜邪は表情だけをこわばらせた。
「俺じゃあねぇぞ!!」
不意に、背後から的外れな叫びが聞こえてくる。
――分かってますっての、それぐらい。
こんな状況でなければ苦笑いの一つでも作ってやる事だが、代わりに直接投擲で相手を威嚇してくれと高速伝達する。
桜邪も、樫の木がそこまで馬鹿じゃない事ぐらい分かっている。
日頃の怨みだなんだとこのタイミングで陰険な罠を仕掛けたり、いつもの如くついうっかりで暴発するような拳銃を作ってしまったり。
――まぁ、やりかねなくもないか。
痛みで朧に霞みながらも、昨日からの一連の出来事が脳裏をよぎっていく。
裁判で証拠としてあげれば、弁護人は苦い顔、検事はご満悦と言った感じになるだろう。
脊髄反射で「有罪!」と叫びそうだ。
しかし、流石に今回はそれは無いだろうと思う。
特に証拠があるわけではないけれど、樫の木のただ一言だけの必死な叫びが強いて言えばそれだ。
樫の木の性格上、本当にわざとか、うっかりならもっと弁解してもよさそうなものだ。
いや、それこそこの期に及んで空気を読む努力を一切放棄して延々と泣き言と言い訳を繰り返すだろう。
それが無いという事は。
恐らく、怖かったのだろう。
自分に落ち度の無い事で桜邪に責められるのが。
小物の考えそうな事だ。だから今も、桜邪の代わりに必死に木剣の投擲を繰り返す。
それは、自分を信じてくれと必死に訴えるような、躍起になった乱れうち。
さらにそれが相手の武器にならないように着弾と同時に弾けて消えるように細やかな配慮がしてある。
「……やればできるじゃないですか」
今度こそ、思わず苦笑いを浮かべてしまいながらひとりごちる。
それは闇の向こう側とこちら側の隙間に入り込んだバケモノには届かない。
届いたとしても、こちらと同じように簡単に弾き、ダメージを与える事はないだろう。
これはあくまでもこちら側に踏み込ませないためのくびきだ。故に多くは望まない。
しかし。
「どういう隠し玉か知りませんが、威嚇で撃とうとするのを狙って仕掛けてくれたってワケですか……ここまでいいように踊らされっぱなしは、流石に癪ですよ!」
ギリ……と歯軋りをしながら狐者異を睨む。
闇の中にたゆたうように浮かんでいるその顔は何を考えているのか。
笑っているのか。怒っているのか。泣いているのか。楽しんでいるのか。
分からない。相手の思いが汲めない。目の前の窮地に手一杯で考える余裕が無い。手は動くが、何をすればいいのかが分からない。
分からないのは――怖い。
「あ〜もう! どうすんだよ!!」
「それを考えるのが貴方の仕事でしょうが!」
いつも通りの阿呆の泣き言に脊髄反射で叫び返す。
――分からないなら分からないでとにかく動くしかないか。
叫びながら、腹を括りながら、せめて攻撃用に使い物にならなくなった左手で後方に逸れそうになる矢を弾く。
苦痛に顔が歪むが、痛みを感じている暇は無い。生きていると感じている余裕が無い。それでも――死ぬのは嫌だ。
嫌だから、抗う。最後の最後まで。
「帰ったら、秋桜のお小言聞いたり樫の木さんに飯炊きしたりしなくちゃいけないんですからね! いつまでも単純作業続けてる程暇じゃないんですよ!!」
背後から飛んできた変形木刀を左手に巻きつけて固定し、二刀流に構える。
先ほどの暴発の謎がある以上、銃は使えない。二刀で罠を捌き、弾く事で狐者異を威嚇する。
闇に潜むその身まで届くはずの無いものだが、雀の涙が落ちる程度でも足止めの形にさえなればそれでいい。
「下手の考え休むに似たり! 休んでる暇あったらガンガン攻めていきますよ!!」
戦いはまだこれからだ。
逆転の機会は残されている。
己をそう鼓舞し、桜邪は闇を見据える。
闇は、こちらからの威嚇などまるで意に介さぬかのように。
大した動きも見せずに。ただギラギラと。桜邪を睨みつけていた。
「イイイイイイイイイイイイ……!」
闇の奥で丸まっている化生は、唸りながら相手をじっと見ている。
ギョロギョロと飛び出た目で。ブクブクと口から泡を飛ばし続けながら。
そいつは、たった一つの感情しか持ち得ない。
己より遥かに弱い相手を笑う事も自分の住処を脅かす邪魔者に怒りを感じる事も無益な闘いに臨む我が身を哀れむ事もこの闘いを楽しもうとする事も無い。
そう、狐者異はたった一つの感情しか持ち得ない。
そのたった一つに突き動かされるままに、悲鳴のような唸り声と共に一手を指す。
生前、このバケモノが可兒是清と呼ばれていた頃は、まだ人の言葉を解していた頃は。彼はこの手を指す時は必ずこう言っていた。
――王手、と。
「まだですか!? いい加減、先に罠の方が尽きそうなんですけど!!」
延々と罠の対処をしながら、何度目かもう数える余裕もないし気にも留めたくない叫びを口にする。
「……それならそれでいいんじゃね?」
ふと、間の抜けた声で樫の木が応じる。
「罠が尽きりゃ膠着状態になるだろうけど、少なくともこっちは罠の無い陣営になるワケだし。そうすりゃなんかいい考えでも浮かぶだろ」
妙案を思いついたとでも言いたげな、ちょっと得意げな口調だ。
桜邪は、こぼれそうになるため息を飲み込んで代わりにボソリと無気力な言の葉をもらす。
「そーですねー。ここまで追い込まれてからそう上手くピンチがチャンスになるようなご都合主義展開だったら、タイガースも三連敗から楽々日本一になってたでしょうねー」
何を企んでいるかは知らないが、あの姦計に長けた男がむざむざそんな愚かな真似を許すはずがない。
嵌めたつもりでも嵌まっていたのはこちらの方だった。
策においてもあちらが一枚も二枚も上。これは一度は負けていた勝負なのだ。
そう万一、先ほどあのまま接近戦になっていればこちらの負けで終わっていたはずだ。
――じゃあ、何故そうしなかったのだろう?
桜邪は先ほど感じたかすかな違和感を思い出す。
これ程までに策謀に長け、揺るがぬ精神を持ち、強靭な肉体を持つ男が。
どういう理由でむざむざとこちらに逆転の余地を残すような真似をしているのだろうか。
確かに今は窮地には違いない。それもとびっきりの、すぐにでもジェームズ・ボンドに代わってもらいたいぐらいの窮地だ。
それでも、まだ死んだわけじゃない。負けたわけじゃない。
言い換えれば、相手だって勝ったわけじゃないのだ。簡単な事ではないけれど、盤面は意外な一手でひっくり返る事もある。
それが何故、一気にトドメを刺さずに離れて仕掛け武器で削るようなやり方を繰り返すのか。
左手を潰されたのは色んな意味で痛いし、今もじくじくと肉体が削られ消耗していくのも辛い。
だが、そこまでする必要があるのだろうか?
すでにこちらが死に体と見るならすぐにトドメを刺せばいい。
ほとんど負けが確定しているこっちでさえそう思っているのに、何故このような真似を続けるのか。
確かに、相手を弱らせてから仕留めるのは定石だけれども。
流石にこれはやりすぎだ。
これ以上の戦闘行為の遅延は、相手からチャンスを奪うのでなく一発逆転のピンチを招くリスクの方が高くなる。
将棋で言うなら、王将だけ残して後の駒を全て取ろうとする行為だ。
完璧な詰め将棋を打てる男が、何故そのような愚挙をしようと言うのか。
自分の理想の戦士を重ねた男が、自分でさえ愚かだと思うような行為をするのは何故だ。
嬲ろうとでも言うのだろうか?
猫が鼠をじわじわと殺すのが本能なのと同じに。それが今の彼のやり方なのだろうか?
しかし、それにしてはやけに攻撃が必死すぎるような気がする。
どうしてもその完全試合を達成しなければいけないかのように。
まるで先ほどの樫の木が躍起になって直接投擲をしていたように。
――俺じゃあねぇぞ!
先ほどの樫の木の悲鳴に似た叫びが思い出される。
そう言えば、あの声は何かに似ていた気がする。
――同じ戦法を選ぶ者同士。
ふと、頭をよぎった言葉。本当にそうなのだろうか?
相手は確かに、自分が理想とするような見事な戦術戦法を取ってくる。
自分の目標とも言うべき相手だ。桜邪は先刻まで、そう思って戦っていた。
だが、心の奥底で何かが警鐘を鳴らすかのように伝えてくる。
――本当にそうなのだろうか?
確かに巧みな戦術戦法を取ってくる。だが、どこか粗を感じる。一見、緻密で完璧な詰み将棋なようにも見えるのに。
――つーかさ、失敗でいいじゃん今回。
不意に思い出される昨夜の樫の木の声。
あぁ、ひょっとしたらこの妖怪は――。
その続きを考える事は、できなかった。
「……なんの音だこりゃ?」
ボツリと呟いて樫の木が耳をすます。
――ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン。
暗闇の中を、硬いものが何度も何度もぶつかるような音が近づいてくる。
それだけではない。何かがドサドサと大量に地面に降り注ぐような音もする。
遠くから近づいてくる音には、聞き覚えのあるものもあった。
先ほどから、眼前で鳴り響いていた、無機質な殺意が凝ったような音。
鉄槍。トラバサミ。降り注ぐ硫酸。火薬。転がる岩。段々近づいてくる。
巻き込みながら近づいてくる。本棚の樹海が山崩れを起こす音が近づいてくる。
「おい馬鹿女! ヤベェぞ!!」
加速しながら近づいてくる轟音の方向を見ながら叫ぶ。
樫の木はこの部屋の本棚が無秩序に配置されていた理由を理解した。
罠を山ほど仕込みながら、あえてそれが全て発動せぬように放置されていた理由を理解した。
数々の罠で散々桜邪を疲弊させた理由も理解できたが――
視線を前線に戻した時。
舞うように激しく動いていた少女が、棒立ちになってもがいていた理由は理解できなかった。
「おい! 何やってんだよ!!」
――苦しい。
肉声ではなく、念話によって伝えられる一言。
――泣き言を聞く気はねぇと言ったはずだぞコラ!
見れば、桜邪は木刀をすべり落とした右手で喉をかきむしっている。
盛りの頃の勢いはもう無いとはいえなおも襲い来る罠に対しては、木刀が巻きついた左手をぶんぶんと振り回しながら、なんとか身をよじろうとしてかわす程度だ。
このままでは、アレはかわしきれない。
「いいからそっから離れろ! ドミノ倒しが来るぞ!!」
――ゴンゴンゴンゴンゴンゴン!
無秩序の羅列の中、一定法則に従って並べられた本棚が順に倒れてくる。
中に仕込んである大量の本や罠ごと、全てを解き放ちながら全てを押し潰す。
進路上の獲物を確実に仕留めるために。
――引っ張ってください!
念話の頼みに反応し枝を伸ばそうとするが、待ってましたとばかりに発動する罠に阻まれる。
だが。そうやって枝を伸ばそうとして。苦しみながら振り向く桜邪の様子を見て。その抑えられた喉元を見て。
ようやく、樫の木は理解した。
「なんでだ? テメェ。なんでそれで死なねぇんだ?」
轟音の中、ギリギリと締め上げられるかすかな音が聞こえたような気がした。
多分、空耳だ。頭の中で想像されたイメージだ。でも樫の木は――見えたものよりもその聞こえた音に恐怖した。
聞こえるはずの無い音が聞こえた。耳鳴りが――した。
「無理!」
罠で隔てられた向こうに枝を伸ばす事を諦め、樫の木は代わりにバツの字を作る。
「せめて喉潰されるのがいいか丸ごと潰されるのがいいかを選べ!!」
我ながらちょっと無責任だったかなと思う。
案の定、桜邪から激しい怒りと叱責の念が送られてくる。
だって、仕方ないじゃないか。あの罠の中を掻い潜るのは無理だ。
だから精々前線に頑張ってもらうしかない。自分の仕事は別にある。そう心の中で弁解してから、樫の木はふっと桜邪から目をそらす。
――重い本棚が、炸裂する山盛りの罠と共に床を押し潰す音。
その音を聞きながら、樫の木は倒れてきた本棚の道を逆に辿る。
そしてその走った目線は、ある一点で急停止し、そのまま逸らしたくなる衝動を抑えながらじっと見つめる。
「あの馬鹿女が最初に気配が一人だとか言うからだ」
そう吐き捨てた後、居心地が悪そうに口をもごもごさせた後、言葉を付け足す。
「まぁ、間違っちゃいねぇけどよ。推理力が足りねぇ。一を聞いたら十を知れよ」
もう半分しかないじゃなくて、まだ半分しかいないんだよ。
気付かなかった自分の事は棚に上げて、憎々しげに呟いてそいつを見る。
「まぁ、確かに肝を潰したよ。そこまでの妄念執着の持ち主か。首が飛んで岩に噛み付く悪太郎なんざ可愛いもんだ。まさに狐者異。恐れ入谷の鬼子母神だ」
聞こえてはいないだろう。それでも恨み言をぶつけずにはいられない。
倒れた本棚の上をペタペタと歩きながら近づいてくる、今まで隠れていた相手陣営の後衛。
闇の中に隠された罠の装置を操作していた張本人であろう――腰から上が存在しない妖怪を。
「生きて――やがんだな。そんなになっても」
まるでそれが本来の完全な姿であるかのように。
何の不自由もなさそうに、その下半身は自然な動きで歩いてきた。
思わず、ゴクリと唾を飲む。喉が渇いてきているのを感じる。
妖怪であっても、怖いものは怖いのだ。――アレは、怖い。
「……えぇ……生きてますよ……おかげさまで」
続いて、しわがれた声が樫の木の耳に届く。
正直、そっちを見たくない。怖いから。こっちも絶対に怖いから。
――いいからこっち見なさい。
怖い女の声が脳に響く。怖いけど、このままほっておいたら怖いままだ。
そう腹を括って恐々、目線を下半身狐者異から桜邪と、その先にいるはずの闇の中の上半身狐者異に向ける。
「え〜と、なんだ。その……あぁ、女前があがったぞ。あと、喉も無事で良かったな」
自分にできる精一杯の優しい猫撫で声で語りかける。
何があったかは見ていないので知らないが、焼け焦げた背中や巻きついた木刀が砕け本来ありえない方向に曲がった左手、その他腹やら足やら頭やらにおった激しい損傷を見れば、何があったのかはなんとなく想像できる。
「無事と言えば……無事なんですかね。今のところは」
足元に転がっていた木刀を拾って杖にして、ゲホゲホと咳き込みながら桜邪が怨みがましい声を出す。
「……不可抗力だもんよ。でもまぁ、これで相手のやり口はわかったな」
「……そんなもの、私だって多分貴方以上にわかりました」
杖にした木刀にもたれかかるようにして、二本指の手で締め上げられ、ヘコんだ喉をさする。
「必要以上に闇に潜んだのは、手元を隠すためか。指が一本と手が片方。無くなってても分からねぇように」
樫の木はペタペタと下半身が上半身のところに移動する様子から目が離せない。
もう他にパーツは無いと思うが、それでもどこに潜んでいるか分からない。何を考えているか分からない。怖い。
「必要以上の罠のラッシュはその伏兵の存在を隠すため。罠にまぎれてこっそり近づきまず指を銃口に詰めて暴発させ、その後で大型の罠の発動にあわせて手首で首絞め。それでそっちの下半身が本棚蹴倒してドミノコンボ完成か。チクショウめ! 先発隊の奴ら、もし生きてたら散々恨み言言ってやる! ますます面倒にしてどうすんだよ!! 明らかに切断を学習しての行動だろうが、あれは!!!」
饒舌なのは、恐怖を隠すためか。
妖怪の恐怖は、人の身でありながらこれ程までに死なない事に対してか。
――ただ生きているだけの人間と言うのはこれ程怖いものなのか。
上半身に下半身、手首に指一本。それだけになっても生きようとするのは、どれ程の妄念執着があれば成せる事なのか。
自分と似てると思ったが、その心境はとても理解できるものではない。したくもない。
どのようなものに、どれ程執着すればその境地に至れるのか。
見当もつかない。想像もできない。だから――怖い。
「ここで下半身と合流したって事は、また何手か策講じてやがんだろうなぁ」
それも分からない。理解ができないものは怖い。
樫の木は、緊張した面持ちのまま桜邪を見る。
罠の嵐はやんでいた。凪になった暗闇に、再び静寂が訪れる。
桜邪は――荒い息をつきながら、まだ疲労回復に努めていた。
一瞥すると、樫の木は狐者異を見て再び口を開いた。
「どんだけバラバラになっても生きていられる。死ぬ事がねぇ。きっと、焼いて灰にしようと酸で溶かそうとどうしようもねぇんだろうなぁ。怖ぇなぁ」
怖ぇ怖ぇ。何度も樫の木は連呼し、やがて遠くを見つめるような仕草で言った。
「……万策尽きたな」
樫の木が深くため息をつく。
「……えぇ、そのようです」
深く深呼吸をして、なんとか呼気を整えると、桜邪もつぶやく。
「分かった事はそれだけですか?」
桜邪は、どこか悲しそうな瞳を樫の木に向ける。
「あぁ、そうだけどよ。お前は他になんかあるのか? まぁ、やりたい事があったらやっとけよ。俺の仕事はたった今終わったところだ。こういう策の仕掛けあいってのはな、先にネタが尽きちまった方の負けなんだ」
そう言って、樫の木は再び深く溜め息をつく。
「何者にも囚われず、欲望一切への執着をなくして人間性を超越する事を仏教では悟りの境地と言うそうですが――なるほど」
桜邪は、並んで立っている狐者異達に向き直ってわずかに目を細める。
「貴方達『狐者異』は、仏法世法の妨げをなすと言われてるそうですが、貴方を見てるとその理由がよく分かりますよ。貴方はある種の私の理想そのものです。目的遂行のためだけに、もてる技術の全てをつぎ込んで全力を出し感情によって揺れる事も緩む事もない。そうして、人を超えて超常の域に至る。そうあれたらいいなと、常々思っていた事です。それは厳しい修行の果てにあるんだと私は思って、苦痛に耐えながら今まで励んできました。それを、自分の好き勝手やって、他人をないがしろにする事でそうなれたと言うのは、ちょっと憧れちゃいますね」
「なんだそりゃ、僻みか?」
妙に饒舌な桜邪に対し、いぶかしがるように樫の木が言う。
桜邪は、狐者異を真っ直ぐに見据えながらゆっくりと首を振って、答える。
「羨ましいですけど、私にはその生き方は選べませんし選びたくもありません。何故だか、分かりますか?」
その言葉をまともに聞く者はいない。
それなのに。それは誰に対しての言葉なのか。
桜邪は、淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「正直、今はとても痛いです。苦しいです。できるなら帰ってさっさと暖かい布団に包まっておやすみなさいと独り言言ってから良い夢を見たいものです」
「俺だってそうだよ」
樫の木が気のない声で呟く。
狐者異は、動かない。ただ呆然と立っている。這っている。
闇の中で。生きているのか死んでいるのか。曖昧模糊にそこにいる。
「でもね。こう考えるのは不謹慎かもしれませんし、貴方には分からないかもしれませんけど」
――私はこうするのが楽しいんです。
はっきりと、暗闇に向けてそう言った。
「……さっぱり理解できねぇよ。テメェらどっちもキチガイだ。狂ってやがるよ」
うんざりとした口調で樫の木がボヤく。
桜邪は、でしょうねと、軽く笑顔を作りながら言う。
「なんで楽しいのか、私にもわかりません。悪趣味だと思わなくもないですが、悪い事だとも思えません。とにかく、殴ったり殴られたり仕掛けたり仕掛けられたりが楽しくて楽しくて仕方がないんですよ」
フルフェイスのマスク越しでも伝わってくるようだった。
それはきっと、とても朗らかな笑顔なのだろうと樫の木は思った。
こいつの感情は理解できない。理解できないが――怖いわけではなかった。
「言い訳させてもらうと、戦いを楽しむと言うのは、私にとって趣味でもありますが、常に余裕と緊張の意識を保つために不可欠な感情なんですよ。でもまぁ、こういう死ぬかもしれないって場面の方がよっぽど生き生きとしてしまうと言う事は――」
やはり私は完璧なプロと呼ばれるものにはなれないんでしょうねぇ、と。
桜邪はバツが悪そうな、照れくさそうな、そんなはにかんだ表情を浮かべる。
「演説は結構だがよ。気ぃ抜いてるとまたなんか次の手が来るぞ」
樫の木が周囲を見渡してそわそわとする。座りが悪そうだ。怖いのだろう。
だが桜邪は。
「あぁ、それは無いですよ。この周辺の罠は使い切ったみたいですから、私達が仕掛けなければ当分はあのまんまです」
王手は一回かわしてますから、次はこっちが攻め手です。
樫の木に向けて、ボロボロになった左手をひらひらと振りながら答える。
樫の木は、そんな桜邪と狐者異を見比べて、怪訝な表情をして尋ねる。
「……お前、怖くねぇのか? アイツが」
「怖いですよ。畏れてますよ。なにせ私よりも精神においても肉体においても頭脳においても段違いに格上。とびっきり強い人です。でも。それだけなんです。私が目指すものではありませんでした。恐ろしいものではありません」
桜邪は、一度言葉を区切り、くだらない事を思う。
これだったら、樫の木のポカや秋桜の方がよっぽど怖い。
「樫の木さん」
「な、なんだよ」
突然声をかけられ、うろたえる。
こいつはこいつでなんでもかんでも怖がりすぎだと桜邪は思う。
「貴方の分かった事は、半分だけですよ」
「……は?」
得意気な表情の桜邪に、樫の木はきょとんとした表情になる。
「この人の今までの行動は全てなんらかの布石でした。それは間違いありません。でも、それはあくまで表の理由なんですよ」
「表ぇ? まだなんか隠し玉があんのかよコイツ」
気味が悪そうに狐者異を見る。
唸っている。いや、アレは――
「真っ向勝負する気はないくせに、何故最初から姿を見せますか。奇襲かけるだけかけといて、なんで手負いにトドメ刺すのを躊躇いますか。そんな不死身の体持ってるくせに、どうしてそんなに自分を庇った戦い方をしますか」
そして樫の木を見る桜邪の顔が、意地が悪そうな印象を与えるものになる。
「樫の木さん、さっき私を助けてくれませんでしたよね?」
「いや、だからアレは不可抗力で……」
「分かってますよ。私も、助かる目算ありましたから」
延々と続きそうになる樫の木の言い訳を遮って、桜邪は直前で気付けましたから、と言った。
「なんにだよ? 罠の癖とか隙間とか見つけたのか?」
「えぇ、似たようなものです。正確に言えば、私の首を絞めたあの手は、絶対に潰される直前で離れると思ってましたから」
――イイイイイイイイイイイイ
狐者異は、上半身と下半身が寄り添うようにして。
震えている。唸っている。哭いている。それはつまり――
「私も半分しかわかってませんでした。貴方は、私を畏れてるんだと思ってました。私が、相手を畏れ敬って油断を作らないようにするのと同じように。賢い貴方はそうしているのだと」
真っ直ぐに狐者異を見据えたまま、桜邪は軽く両手を握り、開く動作を数回繰り返す。
軽く首を左右に傾けてコキコキと鳴らし、ゆっくりと呼吸をして体内の鼓動の音を聞く。
――ベストには程遠いが、多分大丈夫だろう。
「貴方は、私の事を欠片も敬ってません」
「……当たり前だろ。神も仏も敬わないような人間が、なんでテメェなんぞ敬うんだよ」
馬鹿馬鹿しい、と言ったような口調で樫の木が横槍を入れる。
「えぇ、そうですね。前情報ではそうでした。何も畏れず敬わず。でも、そうじゃなかった。昔はどうだったかは知りませんが、今は違います。貴方は――」
声に悲しみが篭る。静寂は常に漏れている狐者異の悲鳴で訪れない。
目に哀れみが映る。暗闇は常に光っている狐者異の両眼で訪れない。
「怖いんでしょう?」
桜邪の声に反応したように見えた。
それは、単に「声」と言う刺激に反応しただけか。
いずれにしろその反応は――樫の木には怖がっているようにしか見えなかった。
「見えないより、見えてた方が怖くないですからね。静寂よりも、賑やかな方が恐ろしくないですからね」
狐者異は目をギョロギョロとさせていた。ブクブクと泡を吐いていた。
「だから、この部屋に私達が入った時に自分から出てきたんですね。それで、怖かったから排除しようとした。数多の罠は潜り抜けられてきたから、最初はやぶれかぶれの奇襲。後はもう、怖い怖いと怯えながらの持久戦。綿密な策は私を倒すためと言うよりもむしろ――」
自分が怖がっている事を隠すため。
怖いから。どうしても怖かったから。だから相手に見えないようにしていたんだ。
「臆病者……とは言いませんよ。怖がってるのはお互い様。後ろの人も、散々怯えてたみたいですからね」
桜邪に指差され、樫の木はバツの悪そうな顔をする。
「うるせぇよ。大体、別にそんな怖かったわけじゃねぇ。ただちょっと。薄気味悪かっただけだよ」
「えぇ、薄気味悪いですね。まだ恨めしやと化けてでてくれた方が愛嬌ってものがありますよ。でも、この人はなんにも恨んでない。誰かに未練があるワケでもない。この世にいなきゃならない理由なんてなんにもない」
樫の木は、ようやく理解した。
この底の見えない妄念執着の理由が。
要するに、こいつは――
「ただ死ぬのが怖かっただけなのか」
樫の木の目から、ほんの少しだけ侮蔑が消えた。
自分が自分でなくなるのはたまらなく怖い。それは、よく分かるから。
狐者異は妄念執着により化けて出る――そう。こいつの未練は。
自分が得たものや欲しいものとかじゃなくて、純粋に死ぬのが怖くて。死ぬのが嫌だったから。
「怖くて怯えて、なりふりかまわず生を欲そうとしたんだな」
死んだものは潔い。何も欲しがらない。ただ、存在するだけになる。
こいつは、今際の際までその覚悟ができずに。死ぬ間際まで「生きている」事を欲しがって。生きたまま、死んで。死んだまま、生きる事になったのだ。
「死ねば神の御許へ行ける、生まれ変われる、或いは自然とひとつになったりと。ありとあらゆる宗教は死を克服するために生まれたものだと言っても過言でもないでしょう」
怖いから。
怖さから助けてくれるものが欲しいから。
だからたとえそれが嘘っぱちだと思っても。
人は自分より遥かに高みにいる神仏を畏れて敬って、死への恐怖から助けてもらうのだろう。
けれども。
けれども、自分しか信じられなかったものは。
自分ではどうにもできない恐怖にどうやって向かい合えばいいのか。
「だから、もう幕を引きましょう。私も人を怖がらせて楽しんでばかりだと言うのでは、悪趣味極まりありません」
ボロボロの体で、桜邪は構える。その闘志にはいささかの衰えも無い。
「樫の木さん。貴方の仕事は終わってるんですよね?」
「おうよ。さっきも言ったろ? 俺の仕事は終わってる。策の仕掛けあいってのは、先にネタが尽きた方の負けなんだ」
相手の考えが分からないから怖いんだ。
「そいつはもう、不死身ってタネが割れちまって中身が零れて全部見えちまってらぁ」
俺の仕事はタネを知られる前に終わらせた。
そう言って樫の木は三度――深く、安堵のため息をついた。
「イ……イイイイイイイイイイッッッッッッ!!」
狐者異が悲鳴をあげる。
その悲鳴にかき消されるように、音がする。
音だけではない。床が揺れている。本棚がガタガタと音を立てて震えている。
ブルブル、ガタガタと。部屋全体が揺れている。
陰火が点る。あちらこちらに。部屋を光で埋め尽くすように。
「ひぃふぅみぃよぉ……お〜お〜、よくもまぁ、こんだけ罠仕掛けてやがるもんだぜ。ほんと、つくづく浅ましい根性してやがる」
ニヤニヤと笑いながら、樫の木が狐者異を見やる。
桜邪は、その笑顔を悪趣味だなと思いながらも、同じく笑顔を浮かべた。
「怖いですか?」
桜邪に声をかけられた狐者異は、ひたすらうろたえるだけで何も反応しない。
何が起こっているか理解できないのだ。分からないのだ。ここは自分が一番よく知っているはずの場所なのに。
自分が打ち直し。自分を守らせ。自分が食い潰し。自分の物だったはずなのに。
まるで自分の世界が壊れていくような、天地がひっくり返って落ちてくるんじゃないかと言う――圧倒的な恐怖。
「怖いですよね」
私もそうです。桜邪はそう続けた。
「最初から、そうでした。貴方は何もかもが、私達より上でしたから」
そう言って、桜邪は床を蹴った。
一面の、薄く埃の積もった石の足場。
そこには今、所々に茶色い線が隆起しはじめていた。
「だから、下手な策じゃもう何も通じないと思いまして」
床だけではない。天井にも。本棚にも。誰にも知られる事なく、ゆっくりとゆっくりと。ひっそりとひっそりと。
「一つだけ、そこまで生き延びられれば最後の最後に大逆転ができるような。そんな大きな策を用意させていただきました」
妄念執着を極めた生きている亡者が作った本の樹海は、今。
巨大な樫の木の根っ子が縦横無尽に張り巡らされ、飲み込まれていた。
「つーかさ、いくらなんでも元の隠れ里イジり過ぎだよお前。おかげで根ぇ張るのに時間かかったかかった。いつバレるか、間に合うかってんで、冷や冷やさせられた。罠の遠隔操作の謎も分からなかったしよ」
最後の最後まで怖かったよ、と。
恐怖から解放されて安心しきったのか。なんのてらいもなく樫の木は言った。
「そこで気を抜かれると、こっちもやりにくいんですけどねぇ」
苦笑いしながら桜邪が言う。樫の木は、醜悪な笑みをニタリと浮かべて狐者異を睨んだ。
「テメェ、今まで散々他人のものを取り食らって生きてきたんだよな? つーか、死んでからもそうなのか。うん、まったくもって潔くねぇ。でもまぁ、間違いと言い切れるものでもねぇな」
うんうんと。何が納得できているのか、樫の木は頷き続ける。
「そんでだ。仏法には『因果応報』って理がある。不信心なテメェでもそれぐらいは知ってるか? 自分のした行いは、巡り巡って自分に帰るってぇ実にありがた〜い教えだ」
ちっともありがたくなさそうに樫の木は言う。
狐者異にはその言葉は届かない。しかし、樫の木はそんな事はどうでもいいと言った感じで自分勝手に言葉を続ける。
「だから、俺が仏に代わってお前にもお前の行いを返してやる。お前が他人からなんでもかんでもぶん取ったように。俺もぶん取ってやる」
もったいぶるように一呼吸おいてから、傲岸不遜な態度で言い放つ。
「差し当たって、まずはここからだな。この、お前の世界からだ」
樫の木はグルリと周囲を見渡す。しかし、そんな行為に意味は無い。
張り巡らせた根が、この空間の全ての状況を教えてくれる。
どこに何があるか、どこをどうイジればどうなるか、手に取るように分かる。
今までの支配者は世界の喪失にうろたえ、怯え、縮こまっている。
未知への恐怖などもうどこにも無い。
あるのは、全てを手にしたような錯覚から来る愉悦。
「俺が貰ってやった。もうテメェの世界じゃねぇぞ。たった今からここは、俺の世界だ」
――世界征服してやったぞ!
樫の木は高らかに笑った。子供のように。
怖い思いして、苦労して、冒険して、その果てに成功を得て。
まるで映画のような大冒険を終えた子供のように、とにかく楽しそうに笑った。
「……やっぱり、寄生虫以下ですよ。というか、人様のもの取ってそこまで喜ぶのは悪趣味ですよ」
一応、作戦立案をした手前複雑そうに言う。
そんな桜邪に、樫の木はさらに嬉しそうな顔に変化した顔を向ける。
「つーかさ、ほんとにやっちまっていいんだな?」
まさに破顔一笑と言ったその邪悪な妖怪の笑顔に、嫌な予感で胸をいっぱいにさせながら。
桜邪は大きく息を吸って吐き終えてから。
覚悟を決めた証を示すようにギュッと拳を握り締め。
短く、えぇ、と言った。
「私ももうそろそろ限界ですから。チマチマやるよりそっちの方がいいです」
樫の木は嗤っている。狐者異はひたすら怯えている。桜邪は――
「じゃ、いくぞー。トラップ屋敷の美学って言ったらやっぱり最後はこれだよな」
打ち上げ花火の隣でうずくまるような、そんな姿勢になりながら樫の木は嬉しそうに言う。
「イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
狐者異は悲鳴をあげた。強くわなないた。上半身と下半身が互いをかばいあうようにひしと寄り添った。
ビキビキと石造りの面も悲鳴を上げ始める。
いや、それは寝起きの合図だ。
今から目覚めようとしているのだ。
この空間に存在する、全ての異物を排除するための仕掛けが。いっせいに。
「最後に」
ジリジリと暗闇の奥の狐者異との間合いを詰めながら桜邪が言う。
「貴方の敗因をもう一度教えてあげます」
狐者異の耳には届かない。桜邪の言葉は届かない。
それでも桜邪は、何故かそれがとても残念で。
意味の無い事を承知で言葉をつむぎ続けた。
「貴方も怖いでしょうけど。私だって、怖いんですよ?」
ちらり、と樫の木の方を見る。
なんだあの笑顔は。ここ数ヶ月で見た中で一番いい笑顔じゃないか。
狐者異の世界を征服した達成感と、今まで散々痛い目に合わされたり怖がらされたりした仕返しができると言う喜びに満ち満ちている。
いや、それだけじゃない。
あの笑顔はそれだけじゃない。
――この機会にテメェもたっぷり痛い目に合いやがれ。
念話じゃない。そんなものが無くても、この程度ならもうツーカーで分かる。
桜邪は、深くため息をついてから、狐者異に視線を定めて会話を続けようとする。
「あの人、ほんと空気を読むって事を知りませんから。下手をすれば、私も死ぬかもしれません。まぁ、その時は化けてでてやって恨めしやと言いながら付きまとってやるのも一興かもしれませんけどね」
まぁ、嘘だが。死後もあんなのと関わりを続けなきゃならないのは、文字通り死んでもごめんだ。
どちらかと言うと、もしとばっちりで殺されたりしたら、逆に祟り殺してやりたいとすら思う。
「あの人は根っこである程度察知してるでしょうけど、私はどこにどんな罠があるのか、貴方以上にわかってません」
――でもですよ。
桜邪は、仮面ごしにとびっきりの笑顔を狐者異に向けた。
「何が起こるのか分からないって、最高にドキドキワクワクしませんか?」
左手には、再び投擲された木刀を巻きつけてついでに骨折の添え木にし、代わりに右手で銃を持った。
「怖い怖いと怯えてるだけじゃ、その先にあるものを掴めないんですよ。虎穴に入らないと、虎子は得られないんです」
「君子は危うきには近寄らねぇがな」
「それも真理です。恐ろしいものは素直に畏れて畏敬の念を持つのは大事ですから。でもね」
そして桜邪は、表情を引き締め、震えながら動こうとしない狐者異に向かって真っ直ぐに構える。
「これは私の持論なんですけどね。笑いに朗らかな気分になれない嫌な笑いがあるように。怒りに義憤ではないただイラつくだけの私憤があるように。哀しみや楽しみの対象となる幸不幸が自分であったり他人であったり一定でないように。喜怒哀楽に恐怖を加えた五つの感情は、それぞれ正の感情と負の感情とも言うべきものがあって、それがない交ぜになってるんだと思います」
「負の感情の根源は恐怖から来るもんだがな」
もう最後のスイッチを入れる以外にはチャチャを入れるぐらいしかする事がない樫の木が口を挟む。
「私は、その恐怖も正しく使う事だってできるんだと思います。それが畏れと恐れを分ける事だと思います」
狐者異の耳にそれは届いていないだろう。
樫の木ももう聞く耳など持っていない事だろう。
それでもなぜか、桜邪は自分の言葉を止める気が起きなかった。
「恐怖におののくばかりではなく、恐怖の対象を敬う事で危険に近づかなかったり自分より偉くて強い人を素直に尊敬できたり。それは正しい感情なんだと思います。そしてその感情を生むのは、無謀に突っ込んでいく蛮行などではなく。恐ろしい事を素直に恐ろしいと認め、自分の弱さを素直に認めて、立ち向かえる勇気なんだと思います。怯えて排除しようとするのではなく、勇気を持って恐れを畏れに変えて真っ向から相対する。それが、恐怖を克服するって事なんですよ。きっと」
桜邪は、木刀の切っ先を狐者異に向けて、静かに。丁寧に。淀みなく言い放つ。
「勇気が足りなかった。それが、貴方の敗因です」
部屋に弾けたような爆音が轟くのと、桜邪が駆け出すのは、ほぼ同時だった。
陰火と炸裂した火薬は暗闇を吹き飛ばし、轟音と樫の木の高笑いは静寂をぶち壊し、視界を罠の群れが埋め尽くそうとしていた。
怖かった。
世界がまるで吹き飛んでしまうような錯覚と恐怖に襲われた。
しかし、その感情をムリヤリ飲み下して目の前の光景と向き合うと。
そこはまるで、豪奢なダンスパーティーの会場のように見えて。
今にも踊りだしたくなるような、とても楽しい気分になった。
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