早朝。まだ地平線に近い位置で山道を照らす太陽を目指して一人の少女と一本の樫の木が歩く。
鳥の囀る声もせず、ただ草を踏み分ける音だけがする。光に照らされる木々は、気味が悪い程に緑が深い。
違和感こそが、今この場が異界で在ると言う事を強く感じさせ、桜邪は適度な余裕と緊張、そしてこの世界への畏敬の念を持って歩いた。
――むしろ桜邪にとって、ヒリヒリと鼻の穴に感じる痛みと隣でグチグチとボヤきながら己が根を節足動物のように使って器用に移動するボロボロの樫の木の方が、よっぽど不快な違和感であった。
「まぁ、一々運ぶ手間が省けると言うのはいいんですけどね。木なら木らしく、そんなあっちフラフラこっちフラフラとしてないで潔く一箇所に根を張ってデンと構えたらいかがです?」
「はっ! これだから愚か者は。ケチな常識で偉大な俺様を縛れると思ってやがる」
冷たい棘が含まれたような言葉に、嘲う冷笑がぶつかり合う。
朝のひんやりとして気持ちよい空気に、刺さるような冷たさが混じる。
「俺はあくまで自由な存在なんだよ。その証拠に、どこにだって歩いていけるしどこにだって根を張れる」
「そんなの、宿主を渡り歩く寄生虫と変わらないじゃないですか」
胸を張って誇らしげに言う樫の木をあっさりとあしらいながら、桜邪は指で鼻に触れる。
「むしろ朝から人の鼻裂こうとするわその仕置きで無駄な体力使わされるわ。寄生虫よりタチが悪いですよね」
「……それについて俺はちゃんと忠告したはずなのになぁ。それでOK貰ったはずなのになぁ。それでなんで朝もはよからボコボコにされなきゃならんのかなぁ。おかしいなぁ?」
「えぇ、そうですね。でも、地平線が白んだだけで朝だって認識して目が覚ませるなら、目覚まし時計なんてドクター中松さんのジャンピングシューズ程度の売り上げだったでしょうね」
微妙にギスギスした空気を引きずるようにして、二人は歩く。
基本的にいつもの事なので桜邪はあまり気にしない。ただ、寝起き早々本日一度目の契約後悔をしたぐらいだ。
「いつかお前は後悔する事になる……小さなもので徐々に穴を広げられる事を拒めば、いつか穴を優しく広げてもらえずに太くて硬いものをぶち込まれて泣き叫ぶ事になるだろう」
「心配していただかなくとも、茄子を鼻の穴にぶち込まれる機会なんて無いと断言できますよ。あと、いつかでなく今も後悔してますから。経験上、今日だけであと10回近くはする予定ですから」
噛み合っているようで噛み合っていないいつも通りの微妙な会話を続けながら彼女らは歩く。
互いに目を合わさないのは不仲ゆえではない。
すでに視認できているのだ。
単調な山の隠れ里にひときわ放たれている異彩。
深い緑の景色の中でとりわけ違和感を発する、朽ちかけた灰色の屋敷を。
真っ直ぐにそれを見据えたまま、桜邪は軽く両手を握り、開く動作を数回繰り返す。
軽く首を左右に傾けてコキコキと鳴らし、ゆっくりと呼吸をして体内の鼓動の音を聞く。
「オッケー、お蔭様でベストコンディションです」
前髪を軽くかきあげ、樫の木にニコリと笑いかけながら言う。
「ん? よく分からんが、俺に感謝してるのか? ならとりあえず誠意を示せ。心を物に込めてよこせ。現金可」
「あはは、貴方今度から『樫の木さん』やめて『唐変木さん』にしません?」
刺々しさと和やかさ。余裕と緊張を半々に持ちながら、屋敷の前に二人は立った。
いや正確には、それを屋敷と呼ぶ者は少数派に回る事だろう。
――朽ちている。
建設当初は絢爛豪華、当時の世相を考えればまるで映画のスクリーンにしか存在しなかったであろう西洋風の建築物は、いまや壁は塗料がボロボロに剥がれ、窓ガラスは割れ、まさに廃墟と言った風情をかもし出している。
瑞々しい緑の中、たった一画だけ存在する綻び。
隠れ里を侵した報いを受けているかのように、そこは朽ちていた。
「じゃ、入りますか。……と言うか、入れますか? むしろ、入る気ありますか?」
入り口を開けようとして、ようやく桜邪は樫の木の方を見やる。
洋風のドアはそれなりに大きいが、樫の木が丸ごと中に入るかどうかと言えば否である。
すると、樫の木は屋敷とドア、それに桜邪をそれぞれ見比べ、人が小首をひねるように全身をうねらせると、軽く一息ついてから言った。
「まぁ、呪符の中にいてもいいんだが……お前になんかあったら共倒れになるしなぁ。いざとなったらお前を盾にできるように、普通についてった方がまだ無難な選択肢かなぁ?」
樫の木は、軽口を叩きながらバサバサと己の枝葉を揺らすとゆっくりとその身を縮めていく。
比喩や単に身を屈めているわけではない。
文字通り、その質量体積が徐々に減っていっているのだ。
やがて、成人男性よりも少し背が高いぐらい――大体2m弱と言ったところか――になると、動きを止めて桜邪の方を向き直る。
「まぁ、こんぐらいで十分だろ。さ、早く先行け」
「鍵かかってたら、ついでに枝の部分変形でその形の鍵作るのお願いしますね〜」
促されるままにドアの前に立つ桜邪。
そして、施錠の有無や簡単な点検などをしていく。
その様子を退屈そうに見つめ、数秒で飽きると樫の木は野次を飛ばす。
「しちめんどくせぇ事してんじゃねぇよ。先発隊が入ってるっつーのにそんなもんあるワケねぇだろ馬鹿。それよっか明かりの方が大事だろうが」
そう言うが早いか、枝の一本を伸ばしてその先を燃やす。
熱くは無い。あくまで明かりを点すためだけの『陰火』である。
「ったく、これだから頭の悪ぃ人間はよー。愚図でウスノロでノータリンで、めんどくせぇったらありゃしねぇよ」
樫の木の野次を右から左に聞き流しながら点検を終えると、
桜邪はにこやかに微笑みながら樫の木のほうを向きながらドアを指差した。
「どうもお待たせしました。鍵は開いてるようですね。じゃ、お先へどうぞ」
「あぁ、急いでるんならもうちょっと効率よく行動しろよ。時は金なりっつってな。もし俺がビルゲイツならこうして待ってる間に何千ドルと言うITマネーが動いてるところだ」
ブツブツとワケの分からない自慢をしながら樫の木がドアノブに枝を巻きつけ、手前に引いて開く。
そして、プツリと糸の切れた音がする。
「え?」
樫の木が異変に気付いた時はもう遅かった。
シュルシュルと糸が頭上に巻き取られていくと同時に、糸が戻っていく先に仕掛けられたボウガンが樫の木めがけて矢を放つ。
スコン、と軽い音がした後、樫の木の絶叫が眼前の回廊に向かってこだまする。
「痛ェェェェェェェェッッッ!! なんじゃこりゃあああああああ!!!」
絶叫する樫の木を後ろからペシリと叩き、桜邪が咎めるように言う。
「ちょっと。下手に騒がないで下さいよ。先住者に存在がバレちゃうじゃないですか樫の木さんあらため矢樫の木さん。と言うか、もうバレたの確定ですね。明らかに殺気が奥から噴出してます。こうまで露骨だと私もいっそ名乗りたくなりますよ」
咎めるような口調の後淡々と説明する桜邪に、見事眉間に刺さった矢を引き抜きながら樫の木が詰め寄る。
「ちょっとマテェ! 人がいきなり不意打ちの罠食らったっつーのになんだその態度!! 矢ガモか俺は!!? しかもなんだこの矢! ご丁寧に毒まで塗ってあるぞ! 毒性は低いがする治療しないと体組織が腐るやつ!!」
「あぁ、そう言えば急かすので言うの端折りましたが、鍵はかかってませんでしたけど罠はありましたよ」
あっけらかんと言い放ち、樫の木の嵐のような猛抗議を柳のように受け流す。
「しかし毒まで仕込んでるとは念の入った罠ですね。でもまぁ、刺さったのが私ではなく、トラフグを丸ごと食べても数分苦しんだらケロッとしてるような貴方で良かったですね♪」
「ざっけんじゃねぇぞこのクソアマァ!!」
その言葉に、嵐の風速が倍近くなるが全てどこ吹く風と言うように桜邪は受け流す。
どうせこうなる事が分かっていたのだから、その剣幕も怖くは無い。罵詈雑言交えた非難の嵐をことごとくいなして、トドメに一言。
「まぁ、これで学習できたでしょ? ダンジョンに潜る時はどんなに面倒でも『罠チェック』『聞き耳』『鍵開け』の3点セットを怠ってはいけないんですよ」
ちっちっち、と指を左右に振りながら意地悪そうな笑顔を浮かべて言う。
そして、しつこく不服そうな樫の木を笑顔で宥めてから、再び冷静なプロの表情になって続ける。
「何がいるか知りませんが、相当用心深いモノですよ。鍵のかかっていない廃墟の入り口に罠が仕掛けられているはずがない。そう言った盲点に紛れ込ませるような、巧妙なトラップです。私もドアノブを回そうとしてほんの小さな違和感を感じただけでから確証はありませんでしたが……」
「するってーと何か。テメェ、俺をダシに使ったのか」
まるで幽鬼のように恨みがましい目で桜邪を睨む樫の木。
しかし、桜邪はその視線を意に介する様子は無い。
その視線の圧力をさらりと受け流しながら樫の木の横から屋敷の中を覗き込む。
そして半眼になり、慎重に、注意深く長い廊下を観察する。
「……あ〜、これはセンサーにビンビン感じるものがありますね〜」
基本的に桜邪は専門盗賊のように墓荒らし撃退用の罠を見破ったり解除したりする能力は無い。
しかし、そこそこ長く闇社会に身を浸し、選り好んで危険な仕事もこなしてきたため、危機に対する感覚は磨かれている。
否、本来ひ弱な女子であり、特に秀でている特技の無い桜邪がこの世界で生きていくには、むしろ率先的に死線を潜る事でその感覚を磨く事以外に生き残る術は無かったと言うのが正しい。
「……大胆にして緻密……って感じでもありませんね。なんて言うかこう……下手な鉄砲隊の中にゴルゴ13さんが混じっているような……」
廊下の内部は荒れていた。それは、外観の風化とはまた違った荒れようだった。
もう発見した頭上のボウガントラップはともかく、明らかに「これは罠です」とでも言いたげなものがゴロゴロしている。
壁にはあちこちに丸い穴があり、火で焦げたような跡がある。
たてかけられた額縁は額縁に糸が見えるし、絵はもうなんの絵がはめ込まれていたのか分からなくなっている始末である。
だが、それだけではない。
桜邪の六感にひしひしと訴えてくる。
このまま無防備に進む事がいかに愚かで危うい行為かと言う事を。
見えているだけでも半分かそこら。あとは、一歩進むごとに三度は罠にかかるような構造になっているのだろう。
入れば何が起こるかわからないが、確実に命の危険にさらされる事だけは分かる。
入り口ですらこうなのだ。薄暗い廊下の奥、屋敷の闇の奥に何が存在するのか。
考えただけで鳥肌が立つ。正直、進むのが怖い。
侵入者を拒むと言うにしても常軌を逸している程の罠の数に、思わず嘆息する。
「おい! 人の話聞いてんのかこのウスラトンカチ! お前、月の無い夜は覚悟しとけよ、この俺が味わった苦痛は百万倍にして……」
ついでに、愚痴愚痴と五月蝿い樫の木の雑言にもため息をつく。
どうしてこいつはこう、緊張感を持続させる事ができないのか。
まぁ、不死身耐性なんて特技を持つある意味絶対的強者だ。
戦力的に見れば数多の妖怪の中でも下から数えた方が早いのだろうが、
それでも普通の人間にしてみれば、相対するだけで馬鹿馬鹿しい程の戦力差の持ち主だ。
罠の警戒なんてするだけ無駄だし、それで命を落とす恐怖なんて感じないのだろう。
下手に罠にかかってしまえばそれで命を落としてしまうがためにそれを恐れ、常に感覚を鋭敏にする事で危険をつぶさに感じ取ろうとする桜邪の意識が牙も爪も持たぬ草食獣の誇りならば。樫の木のそれは肉食獣の驕りだ。
それを思うと、嫉妬半分呆れ半々、やはり大事なのは肉体の強さよりも精神の強さなのだと思う。
そして、ある物を見つけるとちょっと意地悪そうな笑顔を浮かべながらそれを指差して言う。
「はいはい、どうもすいませんでした。お詫びと言ってはなんですが、あそこにあるお宝は樫の木さんにお譲りいたしますよ」
「え?」
桜邪の指差す先にあるもの。
それは、一枚の古ぼけた紙幣。
樫の木の視点は、入り口を入ってすぐの床に置かれた一円札に集中される。そして。
「あぁ、分かりゃあいいんだよ分かりゃあ」
途端に樫の木の顔はほころび、床からピクリとも動かない一円札に視点が集中する。
「それにダンジョン探索といえば宝物を回収するのが礼儀だからな。ちょっとボロボロだが、コインショップに持ってけばもしかしたら高値がつくかもしれん」
そう言いながら、樫の木はさっさと屋敷の中に入り、一円札に近づく。
桜邪は一瞬目を丸くし「え?」と間の抜けた声をあげて進む樫の木の背に手を伸ばしかけたが、深くため息をついてそれをやめ、ゆっくりとその後についていく。
そして、見届ける。
「ウギャ〜〜〜〜〜!」
間抜けな悲鳴をあげて落とし穴に落ちていく樫の木の姿を。
「……一応謝っておきます。未だに貴方の学習能力のなさを見誤ってました……よっと」
かったるそうにそう呟きながら、桜邪は樫の木が落ちたその穴に飛び込んで行く。
別に樫の木を気遣ったワケではなく、むしろ信頼によるものだった。
樫の木の耐性に対する信頼。
そして――この罠の仕掛け主の性根の悪さへの信頼である。
桜邪が穴に飛び込んだ次の瞬間。案の定コンボトラップが落とし穴の上を縦横無尽に飛び交い、入り口の扉辺りで何かが落ちる音を聞く。
それが止むと、今度は落とし穴の真上の天井が開き、無数の鉄槍が穴を埋め尽くすように降ってくる。
「簡単に朽ちるはずですよ、容赦ってものがありません。ねぇ?」
足元にいる、落とし穴の底に仕掛けてあった槍で串刺しになった樫の木に語りかけるが、返ってくるのは苦痛の悲鳴と非難の怒号だけだった。
その後、火薬が炸裂する音や、壁の迫る音を聞きながら、桜邪は思った。
見えないより、やはり見えていた方がまだ怖くない。迫り来る命の危機にさらされながら、桜邪はニヤリと笑った。
「……分かった事は二つです」
無傷とはいかなかったが、なんとか窮地を脱した桜邪は、一応罠が発動しつくした事を確認し――もちろん、周囲への警戒は怠らぬまま――今後の作戦を立てながら一息つくためにその場に留まる事を決めた。
穴だらけになって火や酸で焼け焦げて、所々ひしゃげて潰れて切り裂かれて切り裂かれて。それでも瞳に暗い憎しみの炎を灯したままの樫の木の視線を真っ直ぐに受け止めながら。
「俺にもわかった事が一つある。やはり俺とお前はいつか決着をつけねばならん運命だ」
「まぁ、最初の落とし穴はともかく。残りのトラップの盾にしたりなんだりは謝りますが、耐久力の差があるんだからこれぐらい我慢して下さいよ」
「我慢できるかぁ! 痛ぇんだよ! 物凄く!! テメェ、さっきの連続トラップで俺が何度死んだと思ってる!! なんだこの屋敷は! 作った奴はテクモマニアか!? 刻命館かここは!!」
「……痛いで済んじゃうんだからいいじゃないですか貴方の場合」
樫の木の抗議をさらりと受け流しながら桜邪は言う。
ボロボロになった木目が元の生命力に溢れた紋様を取り戻すのを見ながら、よけきれなかった罠でついた傷に特製の軟膏を塗る。樫の木の樹液から作った特性の薬だ。
さらに、河童やカマイタチに教えてもらった秘伝の薬も各種調合してある。
簡単な傷ならこれで痕も残らず治してしまえる優れもので、不死身の相棒をもって絶えず死線を潜っている桜邪はとても重宝している。
「まぁ、分かった事の一つはそれです。この屋敷に誰かいる。どうなったか分からない先発隊の皆さんが去った後で罠を仕掛けなおした、陰湿と言うにも生ぬるい性根の腐りきった何者かが」
桜邪は、少し目を伏せながら言う。
この世界に生きるプロに、『天寿を全うする』などと言う人並みの考えを望む者は少ない。
人の常識の中で生きるには特異すぎる能力を持つがゆえにこの世界で生きる事を余儀なくされた者。
一握りの金をつかむために闇に身を投じた者。
闇に関わり、その人生を闇に囚われてしまった者。
光の輝きではなく、闇の深さに魅入られてしまった者。
光の下ではなく闇の中で生まれ、育てられた者。
理由はそれぞれだが、共通するのは皆、心のどこかで天寿をまっとうするよりも闇に食われてしまうのが先だと考えている事だろう。
それでも。人が死ぬと言うのは、悲しい。
自らが死線を潜る事は何度もあったし、他者の死を見る機会は数え切れない程あった。
これが同情心からくるものなら、それは自分が死んでいないと言う優越感の裏返し。
それは、死んだ者を侮蔑するのとさして変わりのない行為だろう。
それでも。
それが分かっていても。
――人が死ぬと言うのは悲しい事なのだ。
志は違うだろうが、同じ世界に生きる者が志半ばに死ぬ。
自分が同じように死ねば、無念に思うだろう。未練を残すだろう。
だから、死んだ者もそうだったに違いない。そう思うと、たとえその行為が侮蔑ではないかと思えても。
一度意識してしまうと、まるで胸の中に冷たい風が吹いたような心持になって、心が悼まずにはいられなくなるのだ。
「まったくだ。一回一回あんだけのトラップ仕掛けるのにどんだけ手間かかると思ってんだ。とりあえず、先住者は『ミレニア』と呼称する事にするか。刻命館の主ならその名がふさわしいな。もしかしたら男かもしんねぇけど。まぁ、どっちだっていいや」
一瞬桜邪の見せた悲しげな表情を見て、フンと鼻を鳴らすと、樫の木は方々に敵を作りそうな発言をする。
――人は死ぬのが当たり前のモノだ。
一々悲しんでたら毎日泣いて暮らさなければならないじゃないか。
そうやって悲しむ対象を選り好みしているのは愚かを通り越して嫌悪されて然るべき行為だとすら思う。
親類縁者ならともかく、えんもゆかりもない人間に悲しがられる謂れなどない。
嬉しいのも怒るのも悲しいのも楽しいのも、所詮は自分一人の頭の中にしかない感情じゃないか。
そんなもの、他人のものまで分かったようなつもりになるのは自己満足ではなく自己欺瞞だ。
それとも、そうする事で他人に自分が優しい人間だとでも思われたいのか?
すぐ自分を殴ったり盾にしたりするくせに。
樫の木は、この女のそういう偽善的な性根が嫌いだった。
いつだってそうだ。こいつはよく笑うしすぐ怒るし悲しければ泣くし辛い事でも楽しもうとする。
他人を嘲笑うより笑顔を分かち合う。
うまくいかない事に腹を立てる事も多いが義憤の方が多い。
自分が何かを失って悲しむよりも他人が失うものに対して哀しむ。
こいつの愉悦は後ろ暗いと思う事が無い。闇に浸りながら、常に光の下で染められた色を失おうとしない。
それは人の徳としては褒められたものではあるのだろうが、どうにも樫の木の癪に障って仕方が無い。
光の住人にも闇の住人にもなりきれぬ半端者。
そんな桜邪が、樫の木は嫌で嫌で仕方がなかった。
何より嫌なのは――この女は自分を恐れない。
きっと軽んじているのだ。それが何より腹立たしい。
樫の木には大きな夢があったが、小さな夢も最近見つけた。
――いつか、この女の顔色を恐怖で染めてみたい。
そこに一切の光の感情は無い。
ただただ闇の色に塗り潰され、笑いも怒りも泣きも楽しみもせず、恐怖のみを浮かべる顔。
それは想像するだけで大層愉快な気持ちになるが――想像するだけに押し留めておく。
昨日も考えたが、こいつはとても嫌な奴ではあるが、何故か自分よりも他人に慕われている。
そう言った連中は、自分の正当な報復を逆恨みと断じ、自分を糾弾するだろう。
そうすれば、どのような目に合わされるか――想像するだけで、恐怖がこみ上げてくる。
怖いのは、嫌だ。
痛いのも嫌だ。疲れるのも面倒なのも責任を負うのも虐げられるのも搾取されるのも。嫌で嫌でたまらない。
何もかもが嫌だから。樫の木の夢は、全て自分の都合のいいように動かす事のできる世界なのだ。
小さな夢は、その大きな夢が叶ってからでいいだろう。それに――そのために、こいつは役に立ちそうだ。
何より、こいつの作る飯の味は樫の木の口に合う。
だからまぁ、しばらくは嫌々ながらも付き合いを続けてやる事にしているのだ。
「で、もう一つ分かった事なんですが……って、樫の木さん。聞いてます?」
気がつくと、桜邪がムッとしたような表情で樫の木を見ている。
どうやら、少し今後の展望について思いを巡らせているうちに少々ぼ〜っとしてたらしい。
「あぁ、分かってる分かってる。アレだろ。漫画家の作者取材のためとか急病のためとかってのは、みんな嘘なんだろ」
ちっとも分かってねぇ。
落とし穴の底にあった槍の残りで樫の木を軽く刺し、一通り悲鳴を聞き終えてから桜邪は続ける。
「あのですね、流石に敵地で気ぃ抜くのは勘弁してもらえますか? そうでなくてもここは……」
「別の『隠れ里』だって言いてぇんだろ、コラ」
刺された部分をさすりながら、恨みがましく樫の木が桜邪を睨む。
「あっ、流石に分かってましたか」
「当たり前だ。こんだけさっきと空気が違えば馬鹿でも分かる。さっきまでの清浄さの欠片もねぇ。埃とカビのすえた匂いで満たされてる。後は……本だな。古本の匂いだ」
そう言って鼻をヒクヒクと動かした後、あっと小さく叫び声をあげた。
「どうしました?」
「ここが建てられたのはこの国のこないだの戦争の前あたりっつってたな?」
質問を質問で返すなと、少し不快に思ったが些細な事なので気にしない。
そんな事よりも、樫の木が何やらひらめいたらしい事への興味の方が強い。
「えぇ、そう聞いてますよ。まだ読みかけだった先発隊の報告によれば、ですけど」
「いたよ、その頃。戦時中のドサクサに、戦火を嫌って莫大な資産と共に突然失踪した華族が。たしか……可兒是清(かにこれきよ)っつったか」
頭を刺された事で記憶に穴が開いてそこから漏れたのか。
樫の木はその悠久の年月を蓄えてきた知識のウロの中から、一人の男の人生を引きずり出す。
目線を先ほどの惨劇でさらにボロボロになった額縁と絵――よく見れば、身なりの良さそうな紳士が描いてあったように見える――に移す。
そして、ほんの少し口元を愉快そうに歪めながら言葉を続ける。
「まぁ、その資産っつーのもかな〜りあくどい手段で荒稼ぎしたって話聞いたがな。金銭やお宝に異常に固執して、道端に落ちてる釘でも懐にいれてひとかけらのパンも他人に施さねぇ。その浅ましい振る舞い故に華族の風上にもおけねぇってんで歴史の表舞台に出る事もなく、当時は狂人扱いされてたが……そうだな。面白い事言ってやがったよ」
そして、もったいぶるように咳払いをして、会った事も無い男の声真似をしながら続ける。
「戦争なんかで領土を拡大する必要なんてどこにあるのだ? この国はお前達が思っているよりもずっとずっと広いのだぞ。そして、その広い資源を有効活用すればもっと土地を広くする事ができる。兵器の製造だって思いのままだ……そう言って、寺の鐘や仏の銅像を鋳潰して銃器に打ち直させてな――見ろ、私にはこれができるのだ――そう言って、軍のお偉いさんの前で高らかに笑ってみせたそうだ。まぁ、それが全国で金属の徴収に踏み切るきっかけになったっつー風聞もあるぐらいだから、まったく歴史に関わってないわけでもねぇな。人間にしちゃ上出来だよ」
樫の木は少なからず共感しているのだろう。
ニヤニヤと笑いながらさらにその男についての逸話を語る。
金貸しをして高利で何十人と首を括らせただの立場の弱い人間をケチな権力で脅して私腹を肥やしただのなら日常茶飯事。
口先三寸で蔵を建てて騙し取ったお宝で一杯にし、法の網を易々と潜って抜けたと言うのだから大したものだ。
人を罠にかけ仕掛けに嵌める手練手管はまさに魔物の所業だと、華族も平民も、坊主も極道もその詐術の見事さを恐れていたと言う。
そうして蓄えた私財をどうするのかと言えば。
派手に使うでもなく誰かに施すでもなく。
その文字通り、ただただ蓄え続けたのだ。
商売女を抱くのに使う金も惜しくば飯を食うのにかかる金も惜しい。
暮らしぶりはケチくさく、他人にたかり時には脅し。
いかに自分の蓄えたものをすり減らさずに過ごし、そしてまた溜めるかに腐心した。
特に本を集める事に並々ならぬ執着を見せたそうだが、それですら書店の主人に首を括らせても己の出費は極力避けようとしたと言う筋金入りである。
失踪する直前には、どこかから調達してきた出所不明の物品を売りさばいてその金で大量の日用品を買い込んでいたそうだが、それが謎と噂を呼び、また人々を恐れさせたと言う。
「その行いのあまりの無分別さに表立っては誰も噂すらしねぇ。とにかく忌まわしい恐ろしい怖いと悪名三昧背負った嫌われ者でな。会った事ぁねぇが一度ツラ拝んでみたかったな。そんだけ痛快な伝説作れりゃ、人にしちゃ上出来だ」
それは、桜邪にとってはあまり聞いていて気分の良くなる類の話ではない。
気分が悪くなって反吐が出そうと言うか、むしろ直接会えたら思い切り殴りたくなったぐらいだ。
その男は戦火を嫌ったと言うが、平和主義者では決してないのだろう。
その男はただ、他人のために自分の持ち物が犠牲になるのを嫌ったのだろう。
そして、嘲笑ったのだ。隠れ里の存在を知らず、やがてくる貧しさに喘ぐであろう人々を。
先ほどから自分達を襲った罠。おそらく、先発隊もこの洗礼を受けたのだろう。
山林の隠れ里にありえるはずの無い火薬や薬品、鉄の罠。
おそらく、その可兒是清と言う男は、どうやったのかは知らないがこの隠れ里を打ち直したのだ。
広大な山の一部を灰色の屋敷の形に。
草や木は火薬や化学薬品に。
深い緑は鈍色の鉄に。
神も仏も自然も敬わず。
自分を戦火から匿ってくれていたであろうこの隠れ里を食い潰しながら、戦争で死んでいく人々になんの興味も示さずに。
ただただ己の欲望にのみ従って生きた男。
多分、それが自然を畏れず敬わずに生きる人間の成れの果て。
ただ何かを食い潰して生きるだけの、畜生以下の亡者だ。
死すれば人のためになるだけ、まだ馬や牛の方が役に立つと言うものだ。
「消える直前に『私は君達より先に世界を支配してこよう』っつったらしいけどよ。なるほど、そういう意味だったか」
「そして自分の世界を作って、そこに隠れ住んで。やりたい放題し放題してたってワケですか」
「でもまぁ、だとすりゃ話は早ぇな。隠れ里の、幽世の力を貪りすぎた亡者が――化けて出やがったのか」
「……ですね。まず間違いないでしょう」
亡者の潜む闇の奥を見つめ、桜邪は身を震わせる。
それが恐怖によるものか、武者震いなのか。桜邪には区別がつかなかった。
幽世は無色の力に満ちている。
逆を言えば、幽世にはそれしか存在しない。
しかし。山にあると思えば山の隠れ里が。
川にあると思えば川の隠れ里がそこに生ずる。
簡単な思いだけで変えてしまえる程に、それは儚くも美しい、透明な力だ。
しかし。その透明な力は素晴らしくもあるが、恐ろしくもある。
霊気とも素霊とも呼ばれるその力は、万物が持つスピリチュアルな因子の最も純粋な結晶。
それは誰かが望むと望まざるに関わらず、簡単な事で何かの色に染まってしまう。
闇の中には何かがいるのではないか。
山道に迷うのは狐狸の仕業ではなかろうか。
霊山で修行をすれば超常の力が身に付くのではないか。
毎度の事ではないが、そう言った思いに反応して無色の力が凝り、彩をつけられて特殊なカタチを成す。
カタチは物質と結びつき、新しい物質を作る。
その新しい物質こそが幽世のモノであり、あるいは妖怪となり超常の力となりもしくは生命そのものとなる。
そのメカニズムの正確な部分は未だに解明されてはいないが、端的に出された結論はこうである。
――幽世はこの世の至るところに存在し、その力はこの世の物質に干渉する事ができる。
幽世とは別に隠れ里の事だけを指すわけではない。
どちらかと言えば、この世に生じた幽世の中でもとりわけ巨大な力の空間。
それが隠れ里だ。
もっとも、里を形成するだけで大きな力を使っているため、無尽蔵な力の固まりと言う訳でもない。
幽世とは、言うなればこの世の隙間だ。
人の踏み入らぬ未開の地。
家と家の間に生じる路地の奥。
そして、時には人の心の中に。
この世は隙間で満ち溢れている。
そして、その隙間の中にあるのが無色の力である。
一部の人々はその力の恩恵を有難がったが、些細な事で干渉されてこの世のカタチを変えられてはたまらない。
自分が自分でなくなるのは。
――たまらなく怖い。
誰も彼もがこの力を使おうとすれば。
いや、使おうとするでなく、そのような存在があると強く認識してしまっただけで、たちまちこの世のカタチはあっと言う間にまるで違うものになってしまうだろう。
だから、この力は隠す事にした。深い、深い、闇の奥へ。
そして、より物質に近い存在である人間達は折り合いをつけた。
隠した隙間から漏れて出る力と。自分達よりも、よりこの世ならざる力の恩恵を受けて生まれ、あるいは変化していった闇の先住者達――妖しくも怪しい者達と。
こうして、人間社会の表にも裏にも知られる事もなく。ひっそりとこの世ならざる闇と折り合いをつけるための社会の三つ目の側面――闇社会――が生まれたのである。
結果、これ以上の極端な変化を望まぬ者達の合意のもと。闇は今も息を潜めてそこに在る。
皮肉にもそれは、人がこの世の物質のみをありがたがり、幽世への畏れを忘れてその力を切り崩している――人が『無い』と思えば、無色の力はそれにすらも染まってしまうのである――事にも繋がるため、必ずしも正しかった選択とは言い切れぬが。
どちらにせよ、妖怪も人も。あの世とこの世が混在するこの社会で、不満も満足も半々に持ちながら、それぞれの生き方に折り合いをつけて生きているのである。
「昔のエジプトの王を葬るのに、ピラミッドってー隠れ里の迷宮を作ろうとしたのにゃ理由があった。生まれ変わるんだと無色の力に強く願えば、その思いに染められて、力はイノチにカタチを変える」
「でも、幽世の力はあらゆる物に囚われるがゆえに何者にも囚われぬ力。その大きすぎる力は、人の器では納まりきれません。まして、生者が死者に転じるのはこの世の唯一絶対の理。人の本質が物質世界に身を置く存在である以上、いくらあの世の力を借りようともこの世の理を違える事はできません」
「おうよ、だから生まれ変わるんだ。ミイラのお化けやら幽霊やら、人が化けて……物質を拠り所にしていた生物がカタチを変えて、俺達みてぇなより精神的な力を拠り所にしてる妖怪の一種になる。もし『奴』が、この中で死にたくねぇとかまだ生きてやりてぇ事があるとか、そう強く思っちまってたとしたら……化けて出てるんだろうな。あ〜あ、やだやだ。これだから人間は浅ましくて嫌なんだよ。勝手に隠れ里に居ついて食い潰して、それで死してなおその力を使おうとしやがる」
「たしかにまぁ、それだけの妄念執着には恐れ入りますが……問題は、化けてしまってから意思が残ってるか。それで大分対処法も変わってきます」
説得、などと言う甘い考えは無いにしても、本能で罠を仕掛け続ける思考能力の無いバケモノに成り下がったのか、あるいは理知的な行動と対応ができる新生物になったかで戦術も戦法もガラリと変わる。
桜邪個人としては、前者が望ましい。先ほどから聞いていた話といいここまで陰湿で執拗で粘着質な罠を延々と仕掛け続けられるような人格の持ち主なら、まだバケモノの方が敬意が持てるし万一にも説得ができるとすればそっちの方だ。
犬は餌で飼えるが、人は時としてパンを与えられても口で感謝しながら心の中で舌を出す事もある。
「さぁな。だが、『牛の首』なんてぇもんコレクションしてるぐらいだ。隠れ里の法を組み替える秘術が書かれた禁書でも手に入れてたんだろうな。場合によっちゃそっちの方がよっぽどお宝だぞ。欲しがってる奴ぁゴマンといる」
樫の木は、先ほどと打って変わってホクホクと嬉しそうな顔で何やらつぶやいている。
――幽世を切り崩したり食い潰したり。そう言う人間を愚かだとどの口が言っていたのだろう。
この世界で生きていると、色んなものを目にする。
心根の優しい闇の住人もいれば邪悪な光の住人もいた。
だから、一括りに人間や妖怪の本質に善悪など無いと言うのを桜邪は理解している。
孟子や荀氏には不遜な物言いになるが、性悪説や性善説と言うものは、「10円玉の本質は裏にあるか表にあるか」と言うものを論じるようなものだと思う。
正義も悪も、明かりも暗がりも、対になる様々なものが溶け合って。得体の知れない闇が生まれたのだろう。
だから桜邪は闇が嫌いではない。この廊下の闇の奥にも、何がいるか分からない。どんな事が起こるかわからない。
だが、いい事があるかもしれないし悪い事があるかもしれないし、それが分からないから、分からないままにせずにはいられない性分だから、その先に何があるかを知ろうとおっかなびっくり人は闇の中を進むのだろう。
恐れすぎてもいけないし、侮りすぎてもいけない。
正解の無い思考の闇を手探りで進みながら、その分量を見極めなければならないのだ。それが、生きていくと言う事なのだから。
そして、桜邪は決意を固めると、大きく深呼吸を一つして、樫の木の後ろに立った。
「まぁ、中々実入りのありそうな仕事だと言うのは分かったが……この調子じゃ、いくらなんでも罠が多すぎるなぁ。目的地なら、すえた本の臭いの一番キツいところがそうだろうが、問題は行き方だよなぁ。何百もありそうなのを少しずつ解除していくには時間がかかるし。どうしたもんかなぁ?」
樫の木がウネウネと首を傾げる。
そんな樫の木の問いに何を答えるでもなく、無言のままその背後に桜邪はピッタリとくっつく。
その顔は、まるで子供が親の背に負ぶさる時のような屈託の無い笑顔のようだった。
対して、その顔が見えない樫の木は、嫌な予感だけをヒシヒシと感じながら恐れの表情を浮かべる。
「……いい案がありそうだな桜邪君。しかし、残念ながら我輩の脳髄にある作戦本部はそれを全力で却下しろと告げているのだ」
全身にビッシリと汗をかく樫の木。
木でも汗はかくんだなぁと思いながら、桜邪はニコニコと微笑を続けながら二の句を告ぐ。
「何を今更言ってんですか。昨晩決めたでしょ。ここは力押しの体力勝負で力の限りGOGOGOですよ♪」
そう言って、桜邪は両足に力を込めて体内にエネルギーを取り込むように深く呼吸をする。
両手は絶対に逃がさないようにとガッシリと樫の木を押さえつけている。
鍛えているとはいえ女の細腕で持って走るには大層難儀だが、今のサイズなら、まぁなんとかなるだろう。
「いや、ダンジョン探索の美学としてはやはりこういう場合は一つ一つ罠を解除してゆっくりと進んでやって作り手の労力に報いてやるのが人の道だと……」
暴れても無駄と思ったのだろうが、それでもさらに無駄な行為を行わねばならぬのは愚者の常であろうか。
必死で説得しようとするも、桜邪は顔をキリ……と引き締めると、樫の木を抱えたまま両足にこめた力を一気に爆発させた。
「人が通るなら人の道、獣が通れば獣道、そして貴方が通るのは妖怪の道です! 最短経路でブッ飛ばしていくので、せめて舌を噛まないように歯ぁ食い縛ってなさい!!」
静寂な山に囲まれた異質の隠れ里の中から、鉄がこすれる音や爆音、石の壁が破壊される音とこの世の物とは思えないような妖怪の悲鳴が10分間はたっぷりと響き渡る事になった。
「いやぁ……『檀公の三十六策は走るがこれ上計なり』と言いますが、本当ですね♪」
今はまだ昼前だと言うのに、その空間は深い暗闇と果てしない静寂に包まれていた。
その入り口であった、砕け崩れた石造りの元扉の破片の上に立ちながら、桜邪は自分が負った傷に軟膏を塗る。
流石に、樫の木を抱えて罠だらけの道を十分も全力で走り通しでは疲れる。
表情はあくまで笑顔を保っているが、汗はダクダクと流れ、息はぜぇぜぇと激しく乱れている。
ここが敵地真っ只中でなければ、ぶっ倒れてそのまま一眠りでもしてしまいたいような気分である。
石造りの床は、さぞかしひんやりとしていて火照った体を冷ましてくれる事だろう。
「諺の意味が違ぇや馬鹿野郎……テメェ、今度があったらテメェを盾にしてやるからな」
全身から返しのついた鉄槍や毒の弓矢、その他奇妙な形状の武器をボロボロ排出し、グズグズと酸や火薬や擦過傷のついた木肌を復元させながら樫の木が恨みがましい目でねめつける。
「くそっ……洒落になんねぇぐらい痛ぇぞこれは……地雷や落とし穴で足を止めてから一撃必殺の罠で仕留めにかかってきやがる……意地が悪いどころの騒ぎじゃねぇぞ。この痛み、後でたっぷり百倍返ししてやるからな可兒・ミレニア・是清」
そう言って、粘りつきそうなイヤミな視線を桜邪から暗闇の向こうへと移す。
「ぜぇ……ぜぇ……ですから……ぜぇ……その呼称は……ふぅぃ〜〜〜〜〜〜……やめま……しょうよ……無駄に……ぜぇ……敵が増えるの……勘弁……ですよ」
本当に、疲れた。
一気に突っ切った方がダメージは少ないとはいえ、常識的な運動量ではなかった。
走ってるうちはまだしも、一度立ち止まると疲労が一気に来る。
肉体の疲弊に感覚が追いつくと、肺が新鮮な酸素を渇望し、乳酸漬になった筋肉が木の棒になったように動かなくなる。
そんな状況でも樫の木の軽口にツッコミが入れられるのは、余裕と言うよりもむしろ桜邪のツッコミ師としてのサガと言うものだろう。
「まぁ、ここのどっかにあんだろうな、お宝。……ここまで来て、無駄足とかはほんと御免だぞ」
渋い顔で樫の木が周囲の空間を見渡す。
そこは、一面の本棚で作られた樹海。
本棚は一つあたりが高さ3メートル、横幅は5メートルほどで、そこにははちきれんばかりの本で満たされている。
天井は、本棚との隙間が数十センチある程度で床と同じく簡素な石造り。
本棚は何か意図があるのか不自然に無秩序に並んでおり、迷路の如き様相をなしている。
暗闇のせいとはゆえ、果てすら見えぬほどの広大さを誇っているかのような異質な部屋。
それは木を切り崩し、箱や紙に形を変え、装丁やインクで彩った本の森。
これはこれで、風情のある隠れ里とも言えるのではないか――
作られた目的はともかく、その静寂と暗闇は、桜邪にとって嫌なものではなかった。
とは言っても、ここにも罠の洗礼があったのだろう。一面破壊の痕が見て取れる。
保存状態の悪さも手伝って、本棚の本は背表紙を読もうとするだけで一苦労と言う有様になっている。
恐らく稀少本も少なからずあったろうに、古書好きが見たら泡を吹いて卒倒しそうな光景だ。
この広大な闇の書庫で、無傷な本を探すのだけでも一手間だろう。ましてや、目的の本が無事である事を考えれば――不安になる。
「嫌な事言わないで下さいよ。ほんとにそんなオチだったらどうするんですか。いやですよ、そんなベタなコメディみたいなオチは。……あぁ、考えただけで疲れが増すようです」
額の汗をぬぐい、フラフラとしながら桜邪が考えたくもないと言ったかのような声でつぶやく。
しかし、肉体は衰弱していても、その分精神は研ぎ澄ませている。
周囲に残るのは罠が発動した痕だけではない。剣戟や異能の痕跡、無数の乱れた足跡。
それぞれが、ここで戦闘があった事を明確に物語っている。おそらくは、先発隊によるもの。そしてその相手は――
「先発隊の連中はいったい何をやってたんだ!?」
枝葉をバサバサとさせ、人間で言うところのアメリカ人が両手を広げて驚くようなジェスチャーをさせながら樫の木が甲高い声で叫ぶ。
「探索済みのダンジョンに罠も敵もまるまる残ってるなんて前代未聞の保存状態の良さだぞ。ある意味伝説の作り手として闇の歴史に名が残る。遺跡荒らしと同義だった前時代の探検家どもに見習わせたいぐらいだな」
むっつりした表情を浮かべ、樫の木が闇の奥を睨む。
「ぜぇ……はぁ……ふぅ〜〜〜。もう少し、休む暇が欲しかったんですけどねぇ」
ゆっくりと、しかし迅速に呼吸を整えようとしながら桜邪は苦笑する。
その構えはあくまで隙の無いままで、暗闇の奥にいる何者かに向けている。
気配を感じる。そして、ズルズルと何かが這いずるような音が聞こえてくる。
そして桜邪は、眼前に罠が無いことを確認すると、隣り合っていた樫の木から一歩前に出て、目を閉じて闇の世界に潜った。
「……ここは特に空気が澱んでいて掴みづらいですが……この空間に存在する私達以外の気配は一つ。おそらく間違いはないでしょう。大きさは……まぁ、気配探るよりこっちの方が早いですよね」
丹念に周囲の気配を推し量ってから、桜邪はゆっくりと目を開く。
闇のはるか向こうから、ズルズルと音を立てて何かが迫り来る。
やがて本の森を抜けて視界に入るのは、かつて可兒是清と呼ばれていた男の成れの果て。
不敬を極め、何も恐れず尊ばず。
ただ己の欲望のまま貪欲にあらゆるものを食い潰そうとした男。
他人の不幸を嘲い、他人の至らなさに怒り、他人に被られた損益を哀しみ、他人から奪った金品を己が懐に溜めるのを愉悦とする。
「……他人を容姿で判断するのは本意じゃありませんが、そこまでになっても生きていたい理由ってなんなんですか?」
桜邪の表情から笑顔が消える。哀れみも怒りも侮蔑も愉悦もそこには無い。
ただ、闘志をみなぎらせて緩慢な動きで遠方より迫りくるバケモノ――醜悪な老人の顔は、目がギョロリと飛び出し、口からはブクブクと泡を吐いている。布地だけは上等そうなボロ布に申し訳程度に包まれた体躯は、肌はカサカサに乾いて青白く、ゴツゴツとした指先を左右に二本ずつだけ持ち、異常に発達した広背筋を持つ上半身だけの姿で匍匐全身のようにして近づいてくる――を真っ直ぐに見据える。
その容姿は、まるで――
「……化け蟹でしたら、仮面ライダー轟鬼さんの出番なんだと思いますけど」
背後にいる片割れに軽口を叩きながらも、隙は作らない。
まだ呼吸や心拍数は正常値には戻らないが、向こうに飛び道具でもない限りここはまだ安全圏だ。
巨大な書庫の入り口に鎮座する樫の木は、いまだ体力の回復に専念しようとしている桜邪の肩越しに相手を観察する。
「いや、違うな。ありゃコワイ」
「怖いんですか? 同じ妖怪仲間でしょうに」
「いやだから、コワイってんだよアレは」
「怖いならいいんですよ。前線で戦うの私ですから。でもまぁ、後方支援としてやる事はしっかりお願いしますよ」
「そうだな。最初の後方支援としてはまず無知な前線の猪武者に感情形容詞と固有名詞の違いからじっくりと教えてやりたいところだ」
不機嫌さを隠そうとしない、侮蔑をこれでもかと込めた冷ややかな声。
そこで、はたと桜邪は気付き、恐ろしいバケモノと相対しながら下らないコントを演じてしまった事を恥じ入る。
顔がほんのりと赤くなっているのは、急激な運動による末梢神経の拡張のせいだけでは無いだろう。
「……『コワイ』って言うんですか。怖いと言うより面白い名前ですね」
「くだらねぇ事言ってんじゃねぇよ。んな事より油断すんなよ、そいつはアンデッドの中でも特にタチが悪い」
ス……と目を細めながら、記憶から必要な情報を穿り出して樫の木は語る。
「絵本百物語っつー妖怪画図にも載ってる奴でな。曰く『狐者異は高慢豪情の一名にて 世話に云無分別者也 生ては法にかゝはらず 人を恐れず人のものを取くらひ 死しては妄念執着の思ひを引て 無量のかたちを顕し仏法世法の妨げをなす』とある」
「すいません、現代語訳して下さい。文献からの引用だけじゃ何がなんだか分かりません」
「チャチャを入れるな馬鹿。ちゃんと理解しろ馬鹿。黙って全部聞いてろ馬鹿」
どこぞの影の薄いキャラのてこ入れのように一々語尾に馬鹿とつけている暇があれば簡潔に説明してくれればいいと思うのだが。
とにかく情報源が樫の木しかないのだから大人しく耳を傾ける。目は、あくまで狐者異とやらを睨んだままだ。
「要するに、だ。そいつは強欲の塊で、死んでもその欲に取り付かれちまって執着から解脱できねぇどころか成仏すらできねぇんだ。何事にも執着を持つな、何事にも悟りを開く事にも拘泥されずに修行をするために修行をし、仏の教えに従ってただあるがままに生きよって仏教の教えの真逆に居座ってやがる。なんせ、普通の鬼の類だと徳を失って悪徳の象徴たる三本指しか残らねぇのもいるが、こいつらの種族はそっからさらに一本減って貪欲と愚かさを示す二本指しか残らねぇ」
俗物の末路の典型にして究極系だよ、と吐き捨てるように樫の木が言う。
その声には明らかに侮蔑が含まれている。先ほど桜邪に向けられたものと同じものだ。
しかし、桜邪は相手との間合いを計りながら、乱れた呼吸のまま冷静になんの感情も交えない声で樫の木に聞き返す。
「ご高説は仕事の後でゆるりと賜りますから、要点だけお願いします。この、蟹のような化け物が狐者異と言うのは分かりましたが、何か他に特徴は?」
「蟹みてぇのは関係ねぇよ。指が二本しかない以外はただの人間の成れの果てだ」
樫の木もジロジロと値踏みするように狐者異を見て、まぁ蟹だわな、とつぶやいてから続ける。
「そう見えるのは……イメージが影響したな。形が似てたから知らず知らず連想されたんだ。無色の力が加わった新しいカタチっつっても、そうそう突飛なもんにゃならんからな。自然界に元々あるカタチに落ち着くものも多いのはお前も知っての通りだろ」
「それはそうなんですけどね」
桜邪の気の無い返事を聞きながら、
樫の木は、さらによく目を凝らして観る。
上半身のみの怪物は、そのへそから下の部分に鋭利な断面があった。
自然に別れたものではない。襤褸切れもそこで途切れており、その断面はまだ真新しく、断面が綺麗過ぎる。
恐らく、尋常ならざる腕の使い手が一刀のもとに両断したのだと見受けられる。
「なるほど……少なくとも、その先発隊の方々と戦うはめになっていたら、確実に私達はお陀仏でしたね」
桜邪も推し量る。周囲の戦闘の痕からも、戦った者達の力量はかなりのものだと分かる。
そして、この狐者異と言う妖怪も。
あの異常なまでに発達した広背筋から繰り出される一撃の破壊力を考えれば、人間の肉などいかに鍛えようと粘土を捏ねるように形を変えられてしまうだろう。
「ったく、テメェらもプロならキッチリトドメくれとけってんだよ。無知ってのは実に迷惑だ。狐者異みてぇな生き汚ぇ野郎、たとえ神剣使っても真っ二つにしたぐらいで死ぬかよ。主な特徴っつったらそれだぞ。死んであの世に行っても仏や閻魔に嫌われて蹴り返されて戻ってくると言われてる程の反仏性不死性の持ち主だ」
「ひょっとして、貴方もそうなんですか?」
冗談半分、本気半分で桜邪が聞き返す。
実際、仏や信心に縁が無いのは狐者異と大差ない。
いや、欲が深いってだけで仏様が人間をお嫌いになられるなら、樫の木なんて名前聞いただけでお釈迦様の眉間に青筋が浮かびそうなものだ。
「馬鹿野郎。俺のは才能だ」
むすっとした表情で樫の木は返す。
自分は下らない冗談を好むくせに、こういう時には冗談が通じないのだ。
そして、話の腰を折るんじゃねぇよとボヤきながら解説を続ける。
「とにかく、とことん死なねぇ。生前の妄念執着の多寡や対象にもよるがな。首斬りおとしてもその首が岩にかじりついて斬った相手を睨んだって逸話もある大した悪党ぶりだ。くれぐれも、だ。前の連中みたいに油断すんじゃねぇぞ」
恐らく、そう言う事なのだろう。
力量から言っても地力は先発隊の方が上。
だからこそ、倒した事で油断してしまったのだろう。
もしくは、倒した時点で疲弊してしまったのか。
どちらにせよ、一度戦闘不能に追い込んだだけでみすみすトドメを刺す機会を逸したまま彼らはこの場を去ったのだ。
「しかしまぁ、ほんと無残な姿になりやがって。そうまでしてこいつはこんなボロ本に未練があったのかねぇ? そこまで上等な狐者異に化けるって事は、よっぽどの妄念執着があったと見たが」
樫の木はまだ遠くをズルリズルリとはいずってくるバケモノを一瞥した後、かつてはお宝の山であっただろう書庫を見渡す。
本来ならば。この隠れ里がまともに機能していた頃ならば。
誰にも知られる事の無い廃墟がこのように朽ちる事は無かっただろう。
ただでさえ隠れ里の破壊と再構築を繰り返し、屋敷中を罠で満たすような男だ。
己の私利私欲のために他人のものを食い潰し、その私財を守るために自分以外の全ての人間を見捨てた男だ。
その強欲な男が、自分の持ち物がボロボロになっていく様を見過ごすはずが無い。
「……もう、わからないんですね」
表情には変わりは無いが、声にわずかばかり哀れみが篭る。
目の前をゆっくりはいずってくる妖怪には、もう本の価値など分からないのだ。
屋敷も本も、別の場所に蓄えて置いているのであろう他の私財も。何もかもの価値が。
他人の命よりも一冊の本の方が重いとまで考え、入手のために手をつくしてきた宝物の数々が。
――それが生前己が何よりも大事にしていたものであると言う事が。
もう彼には理解できないのだろう。
ならば、今の彼はなんのためにこのような罠を仕掛けて侵入者を拒もうとするのだろうか。
「まぁ、どうしてそんな姿になったのかは知らんよ。死んで自然に化けたか、それとも死ぬ前に禁術で自分自身を打ち直したか。どっちにしろ死んでも死にきれねぇような――よほどの執着があったんだろうよ。この大事な大事なお宝に」
だから守ろうと言うのか。
死んでも守ろうとしているのか。
守ろうとしたものがなんだったのかさえ分からなくなってしまっているのに?
物に執着していたはずの者が、その物の事を忘れ、ただ執着していたと言う事に執着する。
これが欲深き者の末路なのだろうか?
だとするならば。これ程悲しい事は無いではないか。
「一度多くを手に入れちまった者は、もう後戻りはできねぇもんさ。手に入れたもんが大きければ大きいほどその重みでズブズブ欲の深みにハマっちまう。今の持ち物に満足できずにもっともっと欲しくなる。それこそ、自分が死んだ後でもな。つっても、あの世にゃ三途の川まで六文銭持ってくのが関の山だからよ。自業自得だな。あいつは自分の妄念執着に取り憑かれて、狐者異に転じたんだ。人としての意思は死んでるのに人としての形はかろうじて残したまま生きてやがる」
生きているのだか死んでいるのだか分からない半端者だ。
人として死ぬ事もできず、人らしく生きる事もできなかった半端者だ。
――浅ましいったらありゃしねぇ。
たっぷりと侮蔑の篭った声で樫の木は言う。
いまだ10メートル程遠くにおいて、ズルズルと緩慢に上半身のみではいずるその姿は、まるで何かに必死にしがみつこうとしているようで。
見ようによっては、とても滑稽に見えた。
「もしそうなら――」
声に先ほどとはまた違った哀しみの色を交えながら、桜邪がつぶやく。
「その妄念執着の怪物の持ち物を横から掠め取ろうとしている私達は、どれ程浅ましい存在なんでしょうね」
「ふん」
樫の木はさもつまらなそうに鼻を鳴らす。
「何言ってやがんだか。物は物だよ。ただそこに在ろうとするだけのモノだ。それを右にやったり左にやったりするのは、所有権を主張する者の思い一つだろうよ。それ考えりゃ、こいつみてぇに生者からかっぱぐよりは、そこに在る事を忘れられて放置されたもんを外に出してやるのがよっぽど物のためだよ」
俺が貰ってやるのが、むしろ仏の慈悲ともいえる。
その樫の木の言葉に、なにやら悲しそうな含みを持たせて桜邪が返す。
「考え方の相違ですね。物だけじゃなく、思いだって残るんです。どんな手段で手に入れたにしろ、ここの物にはこの人の思いが染み付いてるんです。それを勝手に持って帰ろうとするのは、やっぱり浅ましい事なんですよ。あの人程貪欲では無いにしろ、五十歩逃げた人間が百歩逃げた人間を笑う事はできません。それに……幽世のものを。無色の力を拝借して利用してる点では、私達も同じではないですか」
「けっ、どうでもいいやな。別にテメェと議論するためにここに来てんじゃねぇし。つーか、その『達』ってなんだよ『達』って。俺は元々完璧にこっち側の住人なんだしよ。力を勝手に使ってる半端者はお前だけ――」
樫の木が何かを言いかけるが、その次の言葉を発する事はできなかった。
バウン、と樫の木の声よりも遥かに大きな音が暗闇の中に響き渡る。
飛び道具を持たず、のろのろとはいずる相手はその姿を堂々とさらし、まだ遥か遠くにいたはずだ。
その認識からくる油断は、樫の木の意識を桜邪との会話の方に集中させていた。
弛緩していた樫の木はまず、音のした方を見る。
そこで、地面から飛び出てグラグラと前後左右に揺れる石の床と、その石壁を支えるらせん状の鉄の棒を見た。
――スプリングだ。
樫の木がそれに気付いた瞬間、地面を這いずっていた妄念執着の怪物は、まるで砲弾のように風を切り宙を舞いながら。
その二本の指を刀のように見立てて桜邪に斬りかかっていた。
間抜けにハッと息を呑む音が背後から聞こえたような気がする。
どうせ、会話に夢中になっていて油断していたのだろう。
桜邪は、また少し呆れる。
しかし。常に相手の動向に気を向けていたとはいえ。
あの蟹に似た妄念の妖怪が飛んでくる速度は桜邪の予測を超えていた。
繰り出される攻撃から桜邪が身をかわす事は不可能だろう。
長話の甲斐も無く、ここに来るまでの疲労が癒えきっていない身だ。
桜邪の意思に比べ、肉体の動きはさぞかし緩慢な事だろう。
たとえ重力の勢いに身を任せて身を伏せようとしたところで、あのゴツゴツとささくれ立った指で、まるで蟹の身をほじくり出すように背肉をほじられ、下手をすれば脊髄にまで傷は達する事は考えるまでもなく本能が教えてくれる。
絶対的な死が迫っている。
はっきりと、それが分かる。
にも関わらず、桜邪は表情を変えなかった。
いや、わずかながら変えた。死地を目の前に、桜邪はニヤリと笑った。
動いて身をかわす暇など無い。
しかし。懐に手を突っ込んで引き出す余裕。そして、ゆっくりと唇の形を変えて喉を震わせる程度の暇なら十分にある。
「――変身」
そのつぶやきが終わるのとほぼ同時に、狐者異の腕刀は桜邪の頭がある位置を薙ぐ。
そして、ゴシャ、と、肉が潰れる鈍い音がした後。
樫の木は――不本意ながらも――思わず安堵のため息をついていた。
「私は貴方達と違って完璧な頭脳派ってワケじゃありませんけど……頭の使い方には自信があるんですよ♪」
その声を聞きながら、樫の木は木目のような模様のついた茶色の頭部が、狐者異の顔面にめり込んでいるのを見る。
刹那、二本指の怪物は、空を切った腕とは別の腕で相手を薙ごうとするが、それよりも早く茶と濃い緑を基調とした体躯は背後に跳ぶ。
狐者異もまた、己の攻撃が無為に終わった事を認識すると、床を激しく叩いて一気に距離を取り、口からブクブクと泡を吐き、ギョロリと飛び出た目で相手を激しく睨む。
「私は貴方の事を、大筋ですが後ろの人から聞きました」
桜色の手甲がついた茶色の指の一つが、背後に向けられる。
同じく所々桜色に縁取られた濃い茶色のフルフェイスマスクは、あくまで狐者異を見据えたままだ。
「ですから、私も自己紹介しておくのが礼儀だと思います」
緑色のプレートでガードされた胸部の前で、再び拳を構える。
桜色の具足に覆われた足は、先ほどまでの鈍重さを感じさせないほど軽やかにステップを踏む。
「私の名前は桜邪。性はありません。まぁ、貴方のお宝を拝借しに来た浅ましく愚かな人間の一人だと思ってくだされば結構です。そして――」
緑色の目で相手を見据えたまま、同じく緑色に染められたマスクの下部から声を出す。
「今こそ貴方を成仏させる、対妖怪白兵戦用兵器、妖化装甲『春姫(ハルヒ)』の使い手です」
その怪しげな装甲を纏った少女は、暗闇と静寂の中に凛とした張りのある声を通す。
「では、お互いに正体が分かったところで」
その声は穏やかだが、その声色と、少女から出る殺気に反応するかのように張り詰めた空気がビリビリと震える。
「いざ尋常に勝負と参りますか♪」
そこに、命を落とすかもしれない死合への気負いも恐怖も存在しなかった。
ただ、明るい、子供が遊び相手にゲームの申し込みをするような口調で、この世ならざる者達の闘いの火蓋が切って落とされた。
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