パチパチと、生乾きの樫の木が燃える音が闇夜の静寂を乱している。
 それ自体は、山中にて一夜を明かそうとする者ならば誰しもが行う行為だろう。
 火の始末を怠って山火事を招くのは論外だが、人は火に頼らなくては一日だって生きるのが困難だからだ。
 暖を取るため、食物に火を通すため、野生動物を遠ざけるため、
 何より、『闇』を払うために人は火の持つ暖かな明かりを求めずには居られない。
 真の闇に包まれれば、人の心は闇に蝕まれ、やがて狂ってしまうのだと言う。
 精神の発達していない獣ならば精々日光に含まれる栄養を摂取できないとか視力が落ちるとか言う害ぐらいだろうが、人にとって、暗闇は心を侵す毒となる。かくも闇とは――怖いものなのだ。
だから、この行為自体は、人ならばこそなんら不可思議な事は無い事象だ。
不可思議があるとすれば、そこには薪が燃える以外の一切の音がしない事。
虫や野鳥の鳴く声も風で木の葉が揺れる音も、そこ以外は静寂以外の何も無かった。
しかし、焚き火に当たっている当の本人はそれを気にも留める様子も無い。
静寂をさらにぶち壊すように鼻歌を歌いながら、焚き火の上に古びた鍋を吊るして湯を沸かし、レトルトのカレーを温めている。
火の粉をあげながら、焚き火が夜の闇に包まれた木々とそれに囲まれた少女の顔を照らす。

「せっかくのカレー曜日だって言うなら本当は手抜きなんかしたくなかったんですけどね。でもまぁ、こんな山奥に調理道具一式やら凝った材料やらは持ち込めませんし。こんなもんで我慢して下さいな」

 そう呟きながらカレーを二人前よそう少女。
 歳の頃は十代の半ばほど。青春真っ盛りと言える頃か。
 浮かべている笑顔は、快活そうな印象を他人に与えるだろう。
 服装は袖の長いチェックのスポーツシャツとニッカ―ズボンに登山用ダウンジャケットを羽織り、珍しい桃色の長髪はポニーテールにまとめて動き易そうな格好だ。

「山登りと言えばやっぱりカレーですよね〜。温まりますし、美味しいですし」

 火の明かりを浴びて仄かに朱色に染まった顔をほころばせながら少女はカレーを咀嚼する。
 これが友人達と来たキャンプならば微笑ましい当たり前の光景であるのだろう。
 だが。物音一つしない異常な山中で、たった一人で少女が夕餉を過ごそうとしているのは。今この場においてはむしろこの少女の方が『異質』と言う言葉にふさわしい存在であろう。

「……食べないんですか?」

 ゴクリとルーを絡めた米を飲み込むと、少女は隣に置いたカレー皿を見やりながら言う。
 そして、再びパチパチと薪の燃える音だけが辺りに響く。周囲が無音なだけに、それだけで五月蝿く感じてしまう程に、その音は響いた。

「食べないんなら、貰っちゃいますよ〜」

 静寂に飽いたのか、しばしの間をおいてそう言いながら少女がスプーンをもう一つのカレー皿に伸ばす。すると、

――ぴしゃり。

 薪の燃える音に混じって、乾いた音が鳴る。

「痛いじゃないですか」

 乾いた音から数瞬の後、少女は叩かれて赤くなった手をさすりながら、抗議するように隣の木を睨んで言う。

「………………」

 しかし、少女の声がやめば、辺りに訪れるのはまた火の弾ける音と静寂だけである。
 その場に動くものは、ゆらめく炎と黙々とカレーを食べる少女だけ。木々の葉が風で揺れる事すらなかった。

「……とっくに過ぎた細かい事をグジグジと。それでも男かって言うんですよ」

 ポツリ、と少女がボヤく。
 すると、他に誰もいない暗闇に、堰を切ったように雑音が響いた。曰く――

「細かくねぇよ! 過ぎてもいねぇよ! 今まさにパチパチ燃えてんだろうが!! なにが『お山のものを勝手にとっちゃいけないから』だ! 俺ならいいのか俺は!! ムリヤリ人の枝何本も何本もボキボキへし折っといて『生乾きだから燃え難いですねぇ』とかわざわざ皮肉言いやがって!! 虐待だ! 木差別だ! しかもこんなカレーなんかで機嫌とったつもりになってる態度が気に食わねぇ!! もうちょっと誠意ってものを見せやがれこのブス! 暴力女! ヒステリー! こんこんちきのすっとこどっこい! 能無し低脳外道オウジャ今後トモヨロシクしたくないからとっととその薄汚ぇ面を……」

 みしり、と少女の蹴り足が隣の樫の木にめり込むと同時にその雑音が終わる。
 少女の蹴りが叩き込まれた樫の木には、その部分に人間のそれと同じ顔がついていた。
 そして十数秒ぶりの静寂をかみ締めるように間を置くと、うんざりしきったような顔でその木に向かって言い放つ。

「……静かに食事なさい。さもなければこのカレーは没シュート。警告と野々村真さんのパーフェクトに二度目は無いと思ってくださいね?」

 言葉の意味はよく分からなかったが、確かな殺意は感じられたので、樫の木は頷いた。
 そして、先ほど彼女――桜邪(オウジャ)と呼ばれた少女――の手を叩いた根を伸ばし、器用に操ってスプーンを握り、皿からルーと飯を一掬い取ると、自らの顔に近づけ、一口にそれを食べた。

「……やっぱレトルトじゃ味気ねぇよ。カツかハンバーグつかねぇ?」

「黙って食えって言ってるでしょうが!!」

 少女の怒声の後、二言三言樫の木のボヤきが聞こえた後は、その場に無駄な音は一切無くなった。







「う〜、食ったけど物足りねぇし食い足りねぇ。食後にケーキとコーヒーとビフテキでもつかねぇ?」

 その、樫の木の中心部に顔の浮かんだ奇妙な存在は、器用に自分の枝の先を操って歯に詰まった食べカスを取りながら言う。

「コーヒーは口で飲むのがいいですか、それとも根っこから飲みたいですか」

 漫画だったら顔中に血管マークが浮き出るような笑顔で桜邪が樫の木に訊ねる。
 カップを左右に持ち、左手は指一本で柄を引っ掛けていつでも浴びせかけられる体勢になっている。

「そうだな。お前だったら上の口はコーヒー専用、下の口はミルク専用と言ったところだろうが俺はそうじゃないからな」

「……意味がわからないんですけど」

 これ以上の会話は時間の無駄だと思ったらしい。
 普通に樫の木にカップを渡し、自分もミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを一口飲んで一息つく。
 清浄な空気と一緒に口いっぱいに甘味とわずかな苦味が広がり、食道を通った液体の熱が全身に行き渡ってとてもスッキリとした気分になる。
 山登りで筋肉に乳酸が溜まり、疲れきった体が浄化されていくのを感じる。これだから、山奥で飲むコーヒーと言うのはこたえられない。
 仕事で来ている身とはいえ、一時の感動を楽しむぐらいは許されるだろう。そう思いながら桜邪は背後の木にもたれかかって空を見上げ、大自然の雄大さを満喫――

「あ〜あ、どうしてこう山奥で飲むコーヒーってのは貧乏ったらしい味がすんのかね。なんつーか、草の匂いとかが鼻につくんだよな。空気が冷てぇから味わうどころじゃねぇし。第一、茶菓子もねぇんじゃ口寂しくなるだけだってーの。そう思わねぇ?」

 ……もうちょっと焚き火強くした方がいいですかね?
 心の中でそう思いながら、背後の木にもたれかかったまま首を後ろに傾け、愚痴愚痴とボヤきながら音を立ててコーヒーをすすっている樫の木の顔を見上げる。

「……貴方の事、『樫の木さん』以外でいい呼び方ありませんかね?」

 すると、ズズ、と下品な音を立てながらコーヒーをすすっていた樫の木は、さも意外そうに桜邪を見下ろしながら言った。

「なんでだ? 俺は樫の木だし、樫の木って言ったら俺だろ? むしろ他の全ての樫の木は俺のパクリだからキャラクター料を取りたいところだ。まったく、人間って奴は勝手にも程がある。奴らが「樫の木」って勝手に一回言うたびに5セントもらってたら今頃大金持ちだぜ?」

 とうとうとまくしたてた後、やがてハッと気づいたような顔になると、ニヤニヤと醜悪な笑顔になって続ける。

「あっ、それとも「様」付けしたいって話か? それならOKだ。遠慮なく呼ぶがいい、『樫の木様』と」

 こいつの話を聞いてると耳鳴りがする。
 そう思いながら、桜邪は先ほどの静寂のひと時を恋しく思った。

「いえ、そうでなくて。貴方の事を樫の木さんと言う呼び方をするのに違和感を感じずにはいられないと言うか……なんと言いますかねぇ……まぁ、要するに。貴方の存在が大自然に対しての冒涜に思えるんですよ」

 色々差し障り無い言葉を選ぼうとして逡巡していたが、やがて面倒くさくなったのか直球を投げる。
 さながらバットに向かって投げる大リーグボール一号状態。

「はっ! そんなの人間に言われたかーねーや。いい人間もいれば悪い人間もいるなんて、俺は信じねぇぞ。悪の根は人の根よ! まぁ、優秀なこの俺がいつか統治してやらねばならぬ存在だな」

 満足げに語り終える樫の木をよそに、桜邪はカップを持っていない手で目元を覆って深くため息をつく。
 なんと言うか、ビーンボールとピッチャー返しでキャッチボールをしてる気分だ。
 こいつの理論をそのまま返すなら、全ての樫の木は悪になってしまい、誰かが統治してやらなければなくなる。
 そしてふと桜邪は想像する。全ての樫の木が目の前のコレと同じように意思を持ち、それら全ての躾をやらなければならなくなる世界を。

「……怖すぎます」

 自分で自分の想像に身震いをする桜邪を見て、樫の木は何を勘違いしたのか気をよくしたような表情になる。

「うわっはっは、ようやくお前も俺を畏れ敬う気持ちを持ったか。そうやって従順にしてれば、そのうちメイド長ぐらいにはしてやるから、その日まで心を込めて俺に尽くせ」

 その勘違いも甚だしい傲岸不遜な高笑いに、絶望の未来を見る。
 果たして、自分はいつまでこの醜悪な笑顔で笑う怪生物と一緒にいなければならないのか?

 桜邪のような人間は、その仕事柄よく眼前の樫の木のような、世間一般で言われる生物学の常識からかけ離れた超自然の――いわゆる『妖怪』と呼ばれる――存在と契約する事が多い。
 この樫の木の妖怪とも、とある縁が元で契約し今もこうして共に仕事をしている。
 元々はこの妖怪のある才能を見込んで自分から契約を申し出たのだが、今では日に10回はそれを後悔している。
 何を後悔してるって、そりゃ今までのやり取りを聞かせれば大方の人は同情してくれる。
 最初のうちはこの妖怪の才能を見出した自分の目は確かだと自惚れていたが、最近では自分の悪縁を嘆いている。
 特に嫌なのが、この小悪党ぶりだ。他人を見下し、自分を過剰評価し、誇大妄想を撒き散らす。
 妖怪でありながら金だの地位だの名声だの人特有の俗な物にこだわり、しかしてそれを得るための努力は惜しむ。
 説教をすればそれを逆恨みして契約者の寝首をかこうとするし――中には純粋に嫌がらせ目的の最悪な夜這いもあったりするが、性的な事に疎い桜邪はそれに気付かなかったりする――それを咎めて折檻すれば、今度はセコセコと陰湿な嫌がらせにひた走る。
 とにかく言っても理解しようとしないし、殴ったら自分が悪いとは心にも思ってないけどとりあえずもう殴られたくないから口先だけで謝ると言う最悪な性根の持ち主だ。
 それでもまぁ、意外と面倒見のいい部分もあったりするしかなりの年月生きてきただけあって博識でたまに良識のある発言もする。あと、無駄ではあるがくだらない事に対しては努力家だったりする。自分に甘く他人に厳しいが、それでも他人との関わりが無くなるのが嫌と言う寂しがりやの部分はツンデレと言ってやれなくも無いだろう。他にも探せばいいところだって……

「……と、言うワケでだな。やっぱり人間は愚かだって言う事だよ。特に何が愚かだって言うと、人間はこういう『隠れ里』の存在を放置するとこだな。山が異界だって考え方が廃れてからはとにかく山を削って平地にしようとする。まったく持って愚かしい事だ……たとえばこの隠れ里一つとってもどれほどの広さだと思う? まず、ここから森林を伐採して工場を建てる。ここには基本的に樹木と素霊以外存在しないからな。環境なんて破壊し放題だ。どうせ汚すのなら、順番を守って一つずつ資源を食い潰してやればいいものを……まぁ、そんな愚かさだから『隠れ里』にもろくに入る事もできないんだろうな。あぁ、嫌だ嫌だ。人間ってのはとにかく薄汚れてやがる……そう思わないか?」

「……すいません、現実から逃げてたので途中からしか聞いてませんでした」

 はぁ、と溜め息をつきながら桜邪が気の無い対応をする。
 最近、現実から空想の世界へ逃避する機会が増えた。
 嫌な自覚を持ち、やや虚ろになった瞳で樫の木を見上げると、樫の木は「しょうがねぇな、これだから馬鹿人間は……」とブチブチ呟きながら、何がしたいのかまた最初から「人間がいかに愚かか」と言うテーマについて語り始めている。

(……人のフリ見て我がフリ直せ。私も現実見ないと仕方ないですよね)

 前述の通り、桜邪と樫の木は契約をしている。
 その契約は、基本的に途切れる事は無い。それは人と自然ならざる物の縁を深める一種の呪いであり、
 たとえば、一度妖怪になってしまった人間がもう元に戻る事は難しいように、契約妖怪との縁を断つ事は極めて難しい。
 つまり、早い話がこの樫の木と桜邪の契約と言うのは下手をすれば一生涯続いていくものなのだ。

(……樫の木さんの性格がどうであれ。選んだのは私ですからね。せめて樫の木さんを立派に更生させる事でなんとか折り合いをつけないと……果てしなく不毛そうな気がしますけど、樫の木さんのいいとこ探しなんかして現実逃避するよりはよっぽど有意義なはずです……多分……)

 妖怪と契約する人間の中には、時として『式神』や『使い魔』のように強力な呪によって強制的に従わせる者もいる。
 実際、桜邪を不遇に思ってその方法を善意で薦めてくる同業者も少なからずいる。むしろ樫の木を見た奴は大抵言う。
 しかし、桜邪は基本的にそのようなやり方を好んではいない。
 たとえ相手が暴力に訴えるようなドギツイ躾が必要なクソガキ以下のクズ野郎だとしても。
 契約と言う『約束』を交わしている以上、人間と妖怪は立場だけでも対等であるべきだと言うのが桜邪の考え方である。
 だから、桜邪は自分の仕事を樫の木に手伝わせる見返りに衣食住の保障はするし、樫の木のくだらない夢――世界征服して支配者になって一番楽をして永遠に過ごしたいなどと言う夢を見るなら布団の中だけにしてくれと言いたくなる戯言――を、せめて樫の木の性根を叩き直してもう少し現実を認識できるようにさせてやる事で、一歩でもその壮大な夢とやらに近づけさせてやろうと考えている。
 と言うか、大きなお世話だろうがなんだろうがそんな酸素を吸ってフロンガスを吐くぐらいタチが悪い妄言を撒き散らす痴愚植物を野放しにしたのでは世間様に申し訳が立たない。
 『角を矯めて牛を殺す』とか文字通り『葉を欠いて根を断つ』などと言う格言もあるが、こんな根幹ごと腐ってるような奴の躾に躊躇するのは甘さと言うより愚かさだと思う。
 なにせ映画版スパイダーマン見た後の雑談で「大いなる力には大いなる責任がともなうってのはいい台詞だよな。単純な勧善懲悪の要素が強い超人ヒーローの姿勢に重みが持たせてあって実に好感が持てる」とか言いだしたので冗談半分に「樫の木さんもピーターさんみたいにその無駄に人並み以上の力の責任とってみますか?」と返したら、「そんな貧乏くじは俺以上に力持ってる奴らに引かせろよ」とか真顔で――と言うかこちらを小馬鹿にしきった目つきで――言ってきた男だ。
 正しい事の理屈が分かっているくせに理解ができていない。理解できていたとしても、自分可愛さが徹底的に優先されるのだろう。考え方が間違っているとか歪んでるとか言う話ではない。腐ってる。
 そんな事を考えている間もまるでBGMのように樫の木の講釈は続いている。
 内側で考える事も外側から来る情報も似たようなもので、まるで樫の木の世界に入り込んでしまったようで気が滅入る。

「もっと想像力を働かせるべきなんだよ。常識に固執して緩慢に同じ事を繰り返しているのは現状維持ではなく緩やかな破滅だ。思慮深く、自分の行動には全て責任がつきまとうと言う常識を持って決めた一手を打ち続けないと。刺激への反射や惰性、思考停止は脳が死んだってできる事だ。脳が生きてねぇんじゃ生者だか死者だか区別がつかねぇ。まぁ、そこの線引きも医学的にさえ人間どもは見極めできてないようだがな。そんなものは俺に言わせれば簡単な話で……」

 やや偏ってはいるが、間違っているような事を言っているようには思えない。
 正しいのか間違っているのか、それこそその区別は分からない。分からないが。
 樫の木がまったくと言っていい程それが実行できていないのはよく分かる。
 聞くと耳が腐り落ちそうだが、よくよく耳を傾けていると、要するにそれは「他人に厳しく、自分に甘く」を地でいってるからできる発言だという事が理解できる。
 要するに、責任云々に対して本人が一番無頓着なのだ。
 だから平気で他人に対して正論が吐ける。理想論が述べられる。それは正しい。正しいけれど、間違っている。
 だから、『世界征服』なんて甘えた事が吐ける。そんなものを妖怪が公言するのは、今で言うアキバ系の男性が「俺、幼女でハーレム作るから」と公言するようなものだ。
 本人はただ甘えた発言をしているだけでも、周囲には危険思想を持った悪徳妖怪としか思えなくなる。
 本人にその気はなくとも、大いなる力には大いなる責任がいつまでもつきまとうのだ。
 桜邪は昔から特撮番組のヒーローが好きで、バイクに乗ってる昆虫人間や5つの勇気を一つに合わせて戦う正義の味方が大好きであり、それになりたいと思った事もある。
 同時に、その仇役となる「悪の軍団」の目的が、いつもおさだまりに『世界征服』だというのは何故なのだろうかと常々思っていたのだが。

(……流石にこの人と同じで「ワガママ放題し放題にできるから」とかじゃないかと思うのは侮辱ですよね)

 桜邪の冷ややかな視線に樫の木は気づかず、熱弁を続けている。
 多分、向こうは一応自分の言葉を聞いているのだと思うが、桜邪には興味の無い事だ。
 だからまぁ、ほとんど聞き流している。聞き流してはいるが、時折聞こえるその声は自己満足に満ちた一方的な極論で、大層不快にさせられる。

「あと衣食足りて礼節を知るとも言うが、過ぎたるはなお及ばざるごとしだな。衣食も、満ち満ちた奴で礼節を真の意味で知れてる奴がいるとは思えんな。現代日本で平和ボケしてる連中見てればよく分かるし、中世ヨーロッパの貴族なんか人間の本質は衣食にございと言わんばかりだった。上辺だけは貴族の嗜みとやらがあったがよ。清貧、って言葉があるが確かにそうだな。自分に必要の無い「分」ってものをわきまえずに得ようとすると、要らんものがついてくる。心の贅肉と言うのか。まぁ、どちらにしろろくなもんじゃねぇよ。欲深ぇ人間の薄汚い執着なんてよ。そう思わねぇか?」

「えぇ、まぁ」

「なんだよその適当な返事は。犬猫相手に独り言してんじゃねぇんだぞ、会話をしろ、会話を」

 一瞬、突っ込み待ちのボケかと思ったが、単にそろそろ一人で喋り続けるのが寂しくなっただけなのだろうと思い至って適当な相槌を返す。
 ちなみに。目的はともかく樫の木のような樹木タイプの妖怪に衣食住なんてものは基本的にまったく必要が無い。必要と言うか意味が無い。
 先ほどカレーを食べて文句を垂れてたが、そもそもそういうのは樫の木にとってはタダの嗜好品であって、摂取の必要は皆無だ。
 むしろせっかく山に来ているんだから、新鮮な空気を吸って暖かな日差しを浴びて存分に地中から綺麗な養分水分を吸ってれば良かったのに。
 山登りだからできるだけ装備を少なくしたかった桜邪に、「今日はカレー曜日だからカレーが食いたい」と空気を一切読まずにダダをこねやがったのだ。
 心どころか、脳まで贅肉で埋まってるとしか思えない。甘さも過ぎて腐ってる。
 しかも、それで味気ないだのなんだのと文句を言い、思慮深い行動がどうのこうのとのたまって延々一方的な演説ぶっこいた後会話をしろとか言ってくるのだから、まともな神経で付き合っていたら焼ききれてしまう。
 自分の性格も図太い方だと常々思ってはいたが。どうにも世の中には上には上がいて、その上限も下限も自分の想像の及ぶところではないらしい。

「だからな、こういう『隠れ里』を有効に活用するためには、まず一般人が立ち入れない事を考え、その上でこの潤沢な霊的資源と空間をいかに活用するかが求められてくるんだよ。分かるか?」

 ――分かってたまるか。
 大体、さっきこの樫の木が自分で言ってたように、ここは「山の中はこの世在らざる幽世だ」と思わなくなった現代人が滅多に踏み込めない聖域なのだ。
 樫の木の言い分に一理あるとすれば、その存在を否定し、幽世の入り口ごと山を切り崩していく人間の愚かさだろう。
 だからと言って。妖怪と言う存在の特権を利用してその人間以上に薄汚れた欲望の持ち主が好き勝手して良い訳が無い。そんな事は道理が立たない。
 ここは、数値で物事を判断する人間には、地図の上からでしか尺度を求められない人間には見る事すらできない神秘なのだ。
 だからこそ、桜邪はこの里には常に畏敬の念を持っている。さっきから騒ぎ立ててばかりでなんだが、この里の暗闇と静寂は尊ばれるべきものだと思う。
 闇を恐れ、それを振り払おうとする事に躍起になり、人より上の存在を畏れ敬う事を忘れれば、そこには闇よりも恐ろしい末路が待っているのでは無いだろうか。

「とまぁ、そんな事を私は思うワケでして。そろそろ静かにしたいのですがどう思われますか?」

 精一杯の笑顔と共に、桜邪が樫の木に提案する。
 決して媚びているわけではないが、健全な男性なら頬を緩めて頼みごとを聞いてあげたくなるような甘い笑顔だ。
 惜しむらくは、それを向けられている相手の捻れた精神構造では、「気持ち悪いからニタつくな、ガキ」と解するのが関の山だったところか。

「何言ってやがんだ。目に見えないものの何がそんなに恐れ多いんだか」

 実も蓋も無い言い草だ。
 人間ならともかく、とても妖怪の吐く言葉だとは思えない。

「いいか。王様が王冠被ってるのは何故だと思う? それは目に見える形で権威を示したいからだ! 現実を見ろ桜邪よ。いいか、俺達がこうして怠惰にすごしている間にも、愚かな人間は隠れ里ごと豊富な資源を食い潰し……」

 そこで、再び辺りはパチパチと燃える焚き火の音だけが響く静けさを取り戻した。
 簡略化した退魔の『式』を施した弾丸がこめられた茶色に塗装されたオートマチックの拳銃が樫の木の眉間に突きつけられ、炎に照らされて紅くなった桜邪の唇がゆっくりと『だ』『ま』『れ』と動いたのを樫の木は見た。
 節くれだった背中――と言うか幹である――に冷たい感覚を覚えながら、樫の木はよく分からないが目の前の相手の無言の抗議に屈する事にした。

「……OK。小声にするから。それでいいか? なにしろこの静けさだ。黙りこくってると耳鳴りがしてかなわん」

「私は貴方が喋ってる方がよっぽど耳鳴りがするし頭痛もするんですけど、まぁいいでしょう」

 そう言って銃を収め、それに、と続ける。

「馬鹿話や現実逃避はともかく、そろそろ仕事の方の打ち合わせをしておかないといけませんからね」

 先ほどまでの笑顔や苦りきった表情とは一転、桜邪の顔が引き締まる。
 それは歳相応の少女の顔ではなく、数々の修羅場を潜り抜けてきたプロの顔つきであった。
 同様に、先ほどまでヘラヘラと笑いながら妄言を吐いていた樫の木の様相も変わる。そして、重々しく口を開き、言う。

「……仕事って、なんかあったっけ?」

 桜邪は心から詫びた。『隠れ里』に醜い雑音をもたらした事を。
 樫の木は叫んだ。断末魔の叫びを。ついでにバキバキと巨木がへし折れる音も鳴らした。






「ぜぇ……ぜぇ……いいですか? 今回の仕事はそれなりに難易度高いんですよ? こうやって無駄な体力使ってる余裕すら無いんです。そこんとこをこれでよ〜〜〜く理解してくださると、私は大変助かるんですけどねぇ!!」

 4〜5分ほど『隠れ里』に騒音が響き渡った後、激しく息を切らせた桜邪が、まるで土下座するような格好でへし折れた樫の木に向かって言い放つ。

「このアマ、いつかケツにダイナマイト突っ込んで吹っ飛ばしてやる……(イエス、マム……肝に銘じておきます……)」

「……本音と……建前が……逆……です……よ……?」

「イ、イエス、マム。と言うか、なんで相手の心の中まで分かりますか貴様」

 これ以上ないと言う程引きつった笑顔で樫の木に微笑みかける桜邪。
 両手は万力のような力を込めて樫の木の幹を握り締め、無理に樫の木の顔をこちらに向けさせてミキミキと音を立てている。

「今回の仕事は無駄な体力使ってる余裕以上に時間の方が無いんです。だからこそ今まで強行軍で一気に山道駆け上がってここで最後の休息取ってるんですよ? そこんとこ、よく踏まえた上で話聞いて下さい。質問があるなら、あくまで仕事に関係ありかつ重要性があると深く判断したものに限って下さい」

「はーい、ひーい、ふーい、へーい、ほーい」

 桜邪のくどくどとした説教をスネた子供のような表情で聞きながら樫の木が答える。
 思わず手がでかかったのを、残されたわずかな理性と十代らしからぬ強固なプロ意識で押し留めながら話を続ける。

「え〜と、まずこの山に来た理由なんですが……樫の木さん。『牛の首』ってお話をご存知ですか?」

 一方的に説明したのではこいつは右から左に聞き流す。
 いかに必要に迫られようが、興味を示さない物には徹底的に無関心な野郎なのだ。
 経験上そう知ってる桜邪は、樫の木の得意分野っぽい薀蓄を中心に樫の木に話を振って話に参加させる。
 自己顕示欲の強い怠け者に参加意識を持たせるため、長い付き合いの中で桜邪が見出した知恵の一つである。

「あぁ、アレだろ。「この世にこれ以上怖い話は無い」って都市伝説」

「そうです、その牛の……」

「元々はな、小松左京って小説家が書いた短編小説なんだよ。内容は都市伝説そのままの内容でな。めっさ怖い話があるけどその正体は誰も知らんっつー話だ。それを筒井康隆がエッセイで「『牛の首』と言う恐ろしい怪談がある」っつったらみんな信じ込んで都市伝説化したんだな。まぁ、都市伝説っつーかこの手のイタズラの手法は簡単だな。いわゆる「友達の友達が実際にあった話」みたいなもんだ。まるでその嘘が現実と地続きであるかのようなリアリティを演出する事で対象を怯えさせる、単純なトリックだ」

 興が乗ってきたのだろう。桜邪の言葉が聞こえていなかったかのように上機嫌になりながらとうとうとまくしたてる樫の木。
 桜邪は、ややうんざりとした表情を浮かべたが、余談とはいえなんらかの役に立つ話かもしれない。
 そんな、暇な学生が単位のためだけにとった大学の講義を聞くような気持ちで樫の木の話を傾聴する。そして、

「……はい、よくできました。私は知りませんがその通りなんでしょうね。では、もしその『牛の首』と言う怪談が実在すると言ったらどうします?」

「……は?」

 無駄に蓄えた情報量が樫の木が誇る数少ない特技であり、それを相手の好むと好まざるとをお構いなしに淀みなくまくしたて、質問がくればさらに延々と薀蓄講義を続けてやって自己満足に浸るのが樫の木の楽しみの一つなのだが、一通りの講座を終えてスッキリしたところに来た思わぬ不意打ちに、即座に理性的な思考に繋げられず反応が間抜けな発声になる。

「『聞いただけで発狂するような怖い話』だぞ? 聞くからに嘘だろうがそんなもん。あるわけがねぇ」

「妙なところで常識的なツッコミをされても困ります。喋る樫の木や地図に載らない土地があるぐらいですから、そういうものがあっても自然でしょう?」

 道理である。
 しかし、人間差別主義者である樫の木にはおいそれと信じられなかった。
 特殊な能力を使ったと言うのならともかく、『聞いただけでそんな誰しもを恐怖で狂わせるような力のある文章』が人類の知能・精神構造で創作できるはずが無い。

「……まぁ、マンドラゴラなんて野郎もいる事だしな。そういう情報(ミーム)系統の妖怪がいてもおかしくは無いと言えるな。で? その牛の首がどうしたって?」

 どうやら人を発狂させる系統の妖怪として折り合いをつけたらしい。
 納得した様子で会話の続きを促す樫の木に、桜邪は軽く頷いてから答える。

「元々は、その小松先生も元の『牛の首』の話を聞いてかかれたらしいんですよ。と言うのも、ミステリ界には伝わってたらしいんです。その、「最も恐ろしい話がある」って言うのが」

「……ミステリってところが、どっかに仕掛け人がいそうな匂いがプンプンするがな。元々自分が持ってた情報ソースを隠蔽しちまえば、それで「誰も知らない」話のできあがりなわけだし」

 微妙に懐疑的な意識を残しつつ樫の木があまり必要の無い相槌を打つ。

「で、その『牛の首』の……原典って言うんですかね? それの持ち主が、この隠れ里に住んでいたらしいんですよ」

「……あぁ、たまにいるな。隠れ里に土足で踏み込んでそのまま居ついちまう面の皮の厚い人間が。そう言うのに限って感受性が強いと言うか要らん事しぃと言うか、とにかくろくなのがいねぇ」

「貴方に言われる筋合いは無いと思いますが、その通りです。で、その人物と言うのは偏屈な古書マニアで、戦前にこの隠れ里に自分専用の図書館兼別宅を建てたそうなんですが、それもその人がもうそれなりにお歳を召された時の話と言う事でして……」

「盗って来いってのか。その牛の首を」

 馬鹿馬鹿しい、とぼやきながら樫の木が言う。
 桜邪は、少しバツの悪そうな表情を浮かべるとコクリと頷いた。
 歴史の闇に埋もれた価値ある逸品を再び光の下に戻してやると言えば聞こえはいいが、
 要するに身寄りの無い老人の遺品に希少価値のある物があるから無断で拝借してこいと言うものだ。
 裏社会よりさらに隠れた闇社会の仕事には基本的に汚れ仕事が多いとはいえ、どうにも桜邪はこういうことに気乗りはしなかった。
 しかし、自分もプロの端くれ。齢17の小娘とはいえ、闇社会に生きると決めたからには甘えた事を言うなど許される事ではない。
 精々、帰りがけに身寄りなく孤独に死んだ老人の墓でも作ってやろうと思いながらこの仕事を請け負う事にしたのだ。

「ま、同じ盗掘でもエジプトでピラミッドに潜って来いって言われるよりゃあ楽だわな。同じ隠れ里状になってても、あの中は迷宮になってたり呪いが満ちてたりする事があるからな。ありゃ、二度と勘弁だ」

 もちろん、隠れ里と言うのは山の中にだけできるものではない。人の踏み入らぬ洞窟の中、海の底、あるいは近所の路地裏にできる事もある。
 山を異界の入り口と考えていた人間の意識のように、霊的なエネルギーが溜まった場所に人が異界への思いを馳せた時、そこに幽世への入り口が開く。
 幽世はその入り口となった部分のイメージに大きく影響され、『隠れ里』として小さな世界を作るのである。
 実世界よりもよりスピリチュアルな空間であるため、皮肉にもその空間を作り出した人自身が足を踏み入れる機会は稀だが、妖怪やそちらの世界に近い人間はその隠れ里を有効利用する術を見つけ、表の世界と上手く住み分けているのが現状だ。
 もっとも、未知未開な部分が存在する事を許せない物質主義者の手によって次々と隠れ里が暴かれ、潰されていくのもまた深刻な現状でもあるのだが。
 苦い顔で笑う樫の木には、過去にその中でも危険な部類に入る隠れ里に侵入する機会があったのだろう。

「あまり楽観はできませんよ。依頼を受けた時に可及的速やかに、って言うのが条件でしたし」

 念のためと言うより気休めと言った思いで樫の木に釘を刺す。
 この間抜けが仕事中に気を抜かない確率は、明日全人類が滅びるよりも低い。

「書類一式が送られてきて、触りの部分だけ読んですっ飛んできましたからね。なんせ、この隠れ里に入るにも決められた時間があるようでそっちもギリギリでしたから」

「スピード重視か……やだなぁ。そう言うの。手間のわりに報酬安いんだよなぁ」

 ブチブチと文句を言う樫の木を無視して桜邪は話を続けようとする。
 時間は無いと分かっているのだから、それを理解しようとする気のない奴を相手にしていられない。

「でもまぁ、なんかちょっと前に一度そこに行った人達がいたらしくて。その人達が残した報告書みたいなのがあるそうなんですよ。だから対策は立てやすいと思いますよ?」

 桜邪はそう言って持ってきたナップザックの中身をゴソゴソと漁り始める。

「先発隊だぁ? なんでそんなのがいて、報告書まで付けて戻ってきて、肝心の品がねぇんだよ?」

「さぁ? 失敗したのかその時の調査で隠し部屋の可能性でも見つかったのか……とりあえず、報告書ざっと読んじゃいましょう。考えるのはそれからで十分だと思いますよ」

 ナップザックを逆さにして中身をバサバサと出し、間の抜けた声をあげて質問する樫の木の方を見ないまま返答する。

「まぁなぁ。未知のものに未知のまま対処するのは馬鹿のやる事だ。できる限り情報を仕入れて正体を明らかにしてやれば傾向も対策も練りやすい。情報を制するのは兵法の極意だからな。未知には常に恐怖し、それを解明する努力が必要だ。しかして、埒の明かぬ事に対しいつまでもありえない可能性まで追って思考の迷宮に入り込むのは愚者の所業。まぁ、俺なんか基本的に頭脳畑のもんだからな。そう言う分析とかは愚昧な人間などは及びもつかんよ」

 桜邪は、益体も根拠も無い自慢話を聞き流しながらガサガサと外に出したナップザックの中身を漁っていた。
 その顔には、やや焦りの色も浮かんでいる。

「おい、どうしたんだよ。まさか無くしたとか言わねぇだろうな? とっとと探さねぇと日が昇っちまうぞ」

 ここぞとばかりにたっぷりと皮肉を込めて言う樫の木。
 桜邪は探す手を一時止めると、困惑した表情で首を傾げながら言う。

「いえ……そんなはず無いんですよ。あれ、おかしいな。ほんとに見つからない……食事の前に確認した時にはちゃんとあったんですよ?」

 再びあまり多くない中身をざっと確認した後、頭を抱えて樫の木の方を見る。

「その時に出した覚えも無いですし。ねぇ、樫の木さん。見かけませんでした? こういう書類の束なんですけど」

 藁にもすがりたい、と言うようにやや取り乱した表情を樫の木に向け、指先を使ったジェスチャーで書類の大きさを示してみせる。

「はぁ〜? 知るかよ。そんなもん、自分できちんと管理しとけってんだ。そんな、A4サイズで十数枚程の書類の束なんか……?」

 一瞬、樫の木の顔が凍りつく。その隙を見逃す程桜邪の注意力は散漫では無い。
 恐々と目を逸らそうとする樫の木の顔をガシッと掴み、努めて冷静に問いただす。

「差し支えなければ。書類がどこにあるかこの愚妹な人間めにお教えいただけますか?」

 笑顔を作ろうとするが、どうしても目に殺気が篭るのを抑えられない。
 その表情に恐れおののき、ガチガチと歯の根が合わなくなりながらもおずおずと樫の木は枝の一本をそれへと向ける。

「…………」

 軽い眩暈を覚えながら、桜邪はそれを見つめる。
 煌々と輝く、闇を照らす光。人類が手に入れた最初の文明。
 目頭が熱くなるのを感じるのは、炎の光があまりに暖かかったからだろうか。
 じっと炎を見つめたまま押し黙る桜邪に、静寂に耐えかねたのかベラベラと弁明を始める樫の木。

「だ、だってよぉ。お前がさっき俺の枝へし折って火にくべたじゃん? いくら隠れ里を手付かずのままにするためだからって、いくらまた生えるからって、流石にあんまりだろ? そ、それにだよ? やっぱり、契約者同士同じ痛みを分かち合ってこそのパートナーだと俺は思うんだよ! そのために俺は自分でもやりすぎかな〜と思っても、結束を固めるために心を鬼にしてお前が大事そうにしてた物を炊きつけのついでにしてやろうと……」

 ――ごりぐちゅ。めしめし。がきっ。「ひぃぃぃぃぃっ!!?」。めらめら

 隠れ里に響き渡る、多種多様な音と声。

「え〜、『隠れ里』さん。ごめんなさい。貴方の本来不可侵であるべき静寂と暗闇を、無知で愚劣で蒙昧で、なんというか形容する言葉に困るゲス野郎の断罪のために乱します」

 燃え盛る炎の前に桜邪は懺悔する。目の前にあるのは、焚き火に突っ込んで、ついでに油もかけたために豪快に燃え出すファイアー樫の木。

「熱い! 熱いぃぃぃぃぃぃぃ!! 猪木祭ぐらい熱いぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

「それなら……いえ、なんでもないです。あと、山火事の恐れがありますからいくら熱くてものたうちまわろうとしないで下さいね。したら、蹴り戻しますから」

 若干不穏当な発言をしそうになったのを喉の奥に押し止め、もう怒りも呆れも通り越して、虚しさだけしか残らなくなった瞳で燃え盛る樫の木を見つめる。

「うおお、木差別だ! そもそも書類焼いたぐらいで火刑に処される前時代的な司法体系に意義を申し立てたい!! いくら大事な書類とはいえ、パートナーの命には代えられないと俺は思うのだがそこんとこどうなんだこの暴君!!」

 燃え盛りながら必死に弁解する樫の木。
 何が腹が立つかって、まだそれだけの余裕があるのが腹が立つ。
 故に、桜邪は樫の木の訴えを退けるため、最大限もっともな返答を返す。

「書類は焼いたらもう二度と戻りませんけど、貴方は焼いたぐらいじゃどうにもならないでしょうが!!!」

 これが、桜邪が見出した樫の木の才能。
 生命力においては他の妖怪の追随を許さない樹妖の中でも特に群を抜いた、異常種の中でも特に特異な『不死性』
 単に寿命が長いとか生命力が強いとかの話ではない。たとえば、先ほどの「仕事あったっけ?」発言に対する折檻においても、体を真っ二つにへし折られながら、この妖怪は薀蓄を語る時にはすでに健全な状態を取り戻していた。
 多くの妖怪使役者は、この樫の木の性質を知りながらも、「いくら不死身でも低級妖怪は低級妖怪」「性格が論外」「とてもじゃないが手に負えない」「つーか、できるもんなら即行で退治したい」などの理由から契約する事もなく迷惑がり、なるべく関わりたくないものとして前代未聞の封印指定ならぬ放置指定をした。
 『他人の足を引っ張るだけの役立たずは相手にするな』。それが、この妖怪に出された結論だった。

「……えぇ、ほんと。あの時みんなが私を止めてくださったありがた〜いお心遣いが今になって身に沁みますよ」

 やっぱり契約なんてしなければ良かった。
 本日10回目の後悔に苛まされながら、桜邪はこれからの事を考え、頭を痛めていた。







 数十分後、食後のミーティングタイムが台無しになったためもてあまし気味になった時間を、桜邪はプロとして自分のコンディションをピークで保てるように座禅を組んで休息と精神安定のための時間にあてていた。
 どんな不条理な事態に遭遇しても、冷静に対処してこそのプロだ。仕事以外のところでこれ以上体力と精神力の消耗があってはならない。故に、桜邪は樫の木の再生が終わるまでに、自分を律するための『覚悟』を決める事にした。

「ぐぅ、酷い目にあった。あぁ、まだ俺のつるつる玉子肌が消し炭になったままだ……仕方ない。ツバつけて治しておこう」

 うっすらと目を開けて、自分の覚悟が一瞬にして揺らぎそうになるのを堪え、
 再び努めて穏やかな笑顔を樫の木に向け、自分でも不自然だと思う程の優しい口調で問いただす。

「ねぇ、樫の木さん。貴方はこの落とし前、どうつけてくれる気ですか?」

「どう……って。お前、ふざけんなよ! そもそもお前が人の枝を焚き付けにするからこうなったんだろうが!!」

 必死に自分を抑えようとする桜邪と裏腹に、怒りを隠そうともしない樫の木。
 果たしてこのタチは利点と呼べるのだろうかと、関係のない思考で怒りを紛らわせながら桜邪は続ける。

「えぇ、それについては私にも非はありますね。でも、そこに遡るなら、そもそも貴方が炊きつけになる原因はなんでしたっけ? 人が大急ぎで隠れ里に入るために強行軍してたと言うのに、普段は入る事を嫌がる呪符の中に隠れて休んで、隠れ里に入ってようやく出てきたと思ったら、いつの間にか飲んでたコーラのペットボトルをそこらにバラ巻きましたよね?」

「それと俺が燃やされんのとどう関係あんだっつーんだよ!!」

「えっと、隠れ里に対して畏敬の念が欠けているにも程があると言うか、そもそも植物の妖怪である貴方が山にゴミ捨てて帰ろうとするのはどういう了見でしょうか?」

「んなもん、空のペットボトルなんて邪魔だろうが! 大体、この山は俺のじゃねぇし、ゴミぐらい捨ててもいいだろうが!! そんなお前の自分勝手な考えで妖怪権無視されて燃やされたんじゃたまんねぇや!!! いつもお前はそうだ! 人に自分の価値観押し付けて! 俺の生き方ぐらい俺の好きにさせろってんだ!! この前の仕事の時だって……」

 OK、論議はまったくの無駄だ。
 樫の木のボヤキを聞き流しながらそう確信する。
 だが、ここまでは想定の範囲内でもある。桜邪はあくまで笑顔を絶やさずに続ける。
 プロとして、これ以上予定外の事態を増やさないようにと自分に強く言い聞かせながら。

「まぁ、お互い遺恨はあるでしょうが、今重要な問題は、「ではこれからどうするか?」、です。ご存知の通り、私は迅速な行動を優先するあまり、報告書を最後まで読まずに一旦放置しておくと言う愚を犯しました。それに関して、貴方が「カレー曜日云々」と言って準備段階で余計な手間を増やさせたり、ここまでの移動中にペットボトルのコカコーラ飲みながら契約妖怪携帯用の呪符内部でくつろぐ暇はあってもそこで先に依頼書を読む暇が無いとのたまってたのも、この際だから責任のなすりあいにするのはやめましょう。私の判断ミスです」

「まぁ、そうだよな。いくら時間無いって言っても情報はこういう仕事では生命線なわけだし。大体、報告書つきの依頼の手紙なんてどうせ大した事書いてないと思うもんだから、俺が読むのを面倒くさがるのも当然だよな。それに、お前の弁護をしてやるなら、急を要するからと言ってそんな書類なんかで依頼を寄越す方も悪い。だからまぁ、100%お前が悪いって言うんじゃあないな。そこは寛容な心を持って許してやるとする」

 しれっと。
 真顔のまま樫の木は桜邪の言葉に続く。

「えぇ、そういう反応も想定の範囲内ですから話を続けましょう」

 さらっと。
 煮えくり返りそうになるはらわたに心の差し水を加えて冷静な態度を保つ。

「問題はですね。私が読んだ範囲では、まず牛の首の回収と隠れ里について書いてありまして、分かっているのはこの隠れ里に入れるタイミングは特定の刻限だけで、後はこのまま真っ直ぐ東に進めば件の所有者の図書館兼別宅があると言う事だけです。先発隊が向かったらしい、と言うのは読み取れましたがその先発隊の報告書部分や彼らがどうなったか、と言うのは分かりません。ついでに言うと、その別宅の中に何か危険となりそうな因子があったのかどうかも分かりません」

 お手上げです、と言うように両手をあげてため息をつく桜邪。
 顔には作り笑いが張り付いているが、それは樫の木への怒りを隠すためと言うより、現状を自分の口から再確認した事により溢れそうになった今後への不安を押し隠そうとする性質の方が濃くなっていた。
 樫の木は再度いれたコーヒーをガブガブと飲みながら話を聞き、あきれ果てたと言うような口調で言った。

「……分からないづくしじゃどうにもならねぇなぁ」

「でもどうにかしないといけないんですよ。アマチュアじゃないんですから」

 桜邪もコーヒーを口に含んで答える。
 今の気分に阻害されて先ほど飲んだ時の爽快感には程遠いが、赤々と周囲を照らす焚き火以外に数少ない暖を与えてくれる貴重な恵みの一つだ。
 せめてコーヒーのアロマで今の荒んだ気持ちを落ち着けようと、ゆっくりと味わう事にする。

「つーかさ、お前はもうちょっと想像力を働かせろよ。一を聞いて十を知るとか、そういう高等な判断をお前なんぞに求めようとは思わねぇけどさ。せめて、読んだ部分からその先を読んで何が書いてあるのか推理して語るぐらいはしてもらわないとなぁ。不慮の事故とはいえ、こうやって報告書が急遽紛失する事態が無いとも限らねぇんだからさぁ。お前もプロの端くれなら……」

 ――ミシリ、と言う音で樫の木の言葉は遮られる。
 体力の消費を避けるため、最低限の動きで放たれた桜邪の直突きが眉間にヒットしたのだ。

「まず隠れ里の位置や入界条件、確保対象などの確認を優先するのは当たり前でしょうが! その上で迅速に行動しようと、これでも最善を尽くしたんです! 最低限必要そうな部分拾って読んで、急いで支度して、おかげでまだ半分しか読んでなかったんですけどねぇ!!?」

「落ち着け! いいか、よく考えろ。物は考えようなんだ……」

 怒り狂い、今にも襲い掛からんとする桜邪を伸ばした枝葉で制そうとしながら樫の木がゆっくりと語る。

「お前は甚だしい考え違いをしている。お前は「まだ半分しか読んでない」と言うが、それは言い方を変えれば「もう半分も読んだ」と言う事にウヴォー」

 最初から戯言を聞くつもりなんて無い。
 ただ、ちょっと認識を変えるためにワンクッションおいただけだ。
 自分はプロである以前に、一人のキレる17歳なのだ。迸る若さを抑えきれずに暴走する一匹の獣なのだ。ウダウダやってるヒマの無い特攻天女で番長連合のガキ警察なのだ。
 コンマ1秒のスピードで理論武装を再構築し、とりあえずこの怒りをしかるべきやり場に全て拳で追いやってから後は考えよう。それだけ考え、後は思考を停止させてただただ怒りに任せて拳を振るう暴力マシーンへと桜邪はその身を変貌させた。







「作戦! とりあえず今日は寝る! 朝一でその建物に行く! 頑張って確保対象奪取して帰る! 以上!!」

 夜の静寂を吹き飛ばすように、桜邪が吼える。
 それは、湧き出る不安を振り払うために己を鼓舞する目的もあるのだろう。
 とにかく、報告書があろうとなかろうと何が起こるかわからない事に変わりは無いのだ。
 プロなら、いかなる窮地であろうとも目的を達成するのみである。もう、そう開き直るしか桜邪にできる事はなかった。

「頭脳派の俺としては、そんな穴だらけの作戦に従うのは御免被りたいのだが」

「じゃあそのご自慢の頭脳でこの窮地を奪回するような作戦を出してもらえませんかねぇ軍師殿!!?」

 怒りで涙が出そうになるのをこらえながら桜邪が吼える。
 もう隠れ里の静寂もへったくれもねぇ。

「……お前、あんまり契約妖怪に頼ろうとするんじゃねぇよ」

 憤って語気も息も荒くなる桜邪に対し、樫の木は妙に真面目腐った顔をする。

「忘れんなよ。所詮、俺達妖怪はお前達人間とは相容れぬ闇の存在なんだ。お前にできるのは、闇に近づきすぎないようにおっかなびっくり距離を測る事だけウヴォー」

 今の自分の行動はプロとして失格かもしれない。だが、人間としては大合格なはずだ。
 そう信じながら桜邪は要らん事ばかりアスベストのように吐き出す口めがけてひたすら蹴りを打ち込む。

「そう言うカッコいい台詞はクライマックスフェイズか2〜3エピソード後にでも残しときなさい――っ!!」

 ぜぇぜぇと息を切らしながら桜邪が叫ぶ。
 樫の木は顔が木目と変わらないような面相にされたままピクピクと痙攣している。

「……とりあえず、私は失った体力を回復させるために休息をとります。朝日が昇ったら起こして下さい。こうなったらもう、力押しの体力勝負で力の限りGOGOGOしかありません」

 そんな作戦とも呼べないような穴だらけの行動指針で上手くいく見込みは限りなく薄い。
 そう理解はできていても、もうそれしか方法は無いのだから仕方が無い。
 不安を振り切るように力強くそう宣言して食事の片付けをし、寝袋に包まって目を閉じようとする桜邪。
 そこで、ようやく顔面を再生させた樫の木の間の悪い抗議がなされる。

「ちょっとマテ。お前、こんな薄気味悪いところで俺に寝ずの番をしろってのか?」

「えぇ。どうせ貴方、寝る必要なんて無いでしょ。木なんですし」

 冷たく言い放つ桜邪。ただでさえ薄ら寒い山の空気がますます冷え込むような冷たい言葉だ。

「なんて酷い言い草だ。貴様……貴様……それでも人間かっ……!!?」

 夜の山が薄気味悪いなんて言う樫の木に言われたくない。
 桜邪は薄目を開けながら、うざったそうに適当な返事をする。
 あまり相手はしていられない。こうなっては、少しでも体力を温存する事で仕事の成功率を高めなければ。

「仕方ないでしょうが。これ以上対策の立てようもありませんし」

 まぁ、怨むならわざわざこんな辺境中の辺境を隠棲場所に選んだ人を怨んで下さいよ、と素っ気無く言い放つと清浄ではあるが薄気味悪いぐらいにひんやりとした空気を大きく吸い込む。
 胸の奥が冷たい空気で満たされ、思わずぶるっと身を震わせる。
 こう間の悪さが重なると、「悪い流れ」すら感じて不安も募るが仕方が無い。
 何しろ一度出てしまえば半月は入り直せないような特殊な条件が必要になる隠れ里だ。
 できる事なら、一度外に出て依頼主に詳細を聞き直したいところなのだが、それはできない。
 何しろ、現状では分からない情報があまりにも多すぎる。
 先駆者がいたのに何故彼らは対象を奪取できなかったのか?
 これから向かう場所には何があるのか?
 危険は?
 隠れ里内部に危険のある存在はいるのか?
 報告書には何が書かれていたのか?
 『牛の首』とは――なんなのか?
 はぁ、と深くため息をつく。胸の内が再びひんやりと冷やされる。
 隠れ里の静寂は、いやおうなしに桜邪の不安を掻き立てる。考えずともいい事を考えさせる。
 このままでは体力だけでなく精神まで消耗してしまう。それだけは絶対に避けなければならない。これ以上のリスクは勘弁だ。
 こんな事でつまずいて失敗するワケにはいかないのだ。何度も己にそう言い聞かせ、無理矢理に意識を遮断し睡眠に入ろうとした時――

「つーかさ、失敗でいいじゃん今回」

 眠らない馬鹿の寝言が聞こえてきた。こっちはすぐにでも眠りたいのに。もう思考をしたくないのに。
 もう怒るのも疲れて馬鹿馬鹿しくなったので、桜邪はほとんど肉体の反射のような態度で返答する。

「そーですねー。それで世の中渡ってけるんだったら私も働いたら負けかなと思って日がな一日公園でベンチに座って過ごすんですけどねー」

「だろ? やっぱりさ、額に汗して労働なんて社会的弱者がするもんだと思うんだよ。精神的貴族に位置する俺みたいなのは、やっぱ労働なんてしちゃいかんのだよ。世の中の仕組みとしてさ、勝ち組負け組に分かれてるって言うけど、それだって仕事の質の話じゃん? だったらさ……」

 グダグダと続けられる益体も無い話。
 人が眠ろうとしている時にわざわざする事でもないだろうに。
 だが、桜邪には怒りは湧かなかった。なぜなら、樫の木には悪気は無いのだから。
 樫の木は単純に、自分だけが起きて一人でずっと見張りをしているのが寂しいだけなのだ。
 そう考えると、怒りすら湧かない。
 湧くのはもう、汲めども尽きぬ殺意のみだ。

「こうなるともう悪気あるよりよっぽどタチ悪いですよねぇ……」

 胸に溜まった気分が悪くなるガスを吐き出すようにボソリとつぶやく。
 とにかく無視して寝てしまうのに限る。ほっておくと、朝まで時間の浪費に付き合わされる。
 本日十一回目の後悔だ。仕事が終わったら今後二度と逆らう気力がなくなるまでボコボコにするしかない。もうこれ以上、この役立たずに足を引っ張られるのは御免だ。
 強くそう考え、険のよった瞼を強く閉じようとした時、静寂に溶け込むかのようなゆったりとした声が闇から届けられる。

「今回の依頼主。秋桜だったのか」

 ピクリ、とその言葉に桜邪の体が反応する。
 そして、ゆっくりと目を開けて星の明かりに照らされる樫の木を見る。

「……依頼書、見たんですか?」

「んにゃ、見てたのはお前の反応だよ。あとはまぁ、簡単な推理だよワトソン君」

 ニヤニヤと笑いながら桜邪を見下ろして言う。
 これが一を聞いて十を知る事だと言わんばかりの得意げな笑みだ。

「書類送付されただけで裏付けもせず即行動くような妙な信頼感持ってるが、仕事に対して気負いが強い。隠れ里に対してもやたら神妙な態度だしな。あの女の言葉でも思い出して感化されたか。書類は見てないが、報告書以外の部分でお前がそんな短時間に理解して残りを後回しにするってことはよほど内容が巧妙に要約されて書かれてたんだな。って事は、依頼主はお前の姉貴分の秋桜以外にゃちぃっと考えられねぇな。ローズマリーや百合姫らが噛んでる線もあるが、それならそっちが連絡ぐらいする。書類だけ送付って事は、あいつも今仕事中で『言葉』はそっちに使ってんだ。なら多分、その仕事に緊急に『牛の首』が必要になってるってとこだろうな。報告書の送付は、危険度だ。先発隊は多分もう生きちゃいない。生きてても、少なくとも意識はねぇ。報告書を書くだけで手一杯な何かがあったんだ。気負ってるのはアレだろ。失敗への不安と、お姉ちゃんに心配かけたくねぇとか、そう言う殊勝な考えだろ。めでてぇこったな」

 一息に語り終えるととても満足げな表情で桜邪の反応を伺っている。
 間違っているとこがあれば言ってみろと言わんばかりの自信満々ぶりである。

「えぇ、少なくとも私の分かってる範囲に関してはその通りですよ」

 ――とんでもなく迷惑な男だ。
 おかげですっかり眠気が飛んでしまった。
 嫌がらせで依頼書焼いてしまうような粗忽者のくせに、無駄な部分で確かに頭脳派だ。
 確かに一言一句この樫の木の言う通り。この依頼は姉貴分の拝み屋、中禅寺秋桜(コスモス)からのものだ。
 さほど歳の違わない身でありながら、身寄りの無い自分を育ててくれた恩人であり、最も尊敬している人間だ。
 闇社会で生きていこうと決めたのも、それが自分の性に合うと言うのと同時に、同じく闇社会に身を置く彼女の仕事の手助けができるからだ。
 秋桜自身は桜邪が危険な仕事をするのを快く思ってはいないようだが、いつまでもぬくぬくと庇護に甘んじているのでは桜邪の気が済まない。
 誰が依頼主であろうと失敗の二文字がありえてはならないが、秋桜からの依頼には樫の木の言うとおり、いつもわずかながら気負いが増えてしまう。
 彼女の手助けをするため。彼女の足を引っ張らないため。彼女に喜んでもらうため。彼女を失望させないため。彼女に自分の存在を認めてもらうため。様々な感情がない交ぜになって、仕事の成功へのプレッシャーをより感じるようになる。
 自分自身により完璧を求め、失敗に対する恐怖は自身の身を脅かすそれよりも大きなものとなる。
 いや、仕事には成功しても、もし桜邪が大きな怪我を負えば、それだけで彼女は自分に仕事を与えた事を悔やむだろう。
 それは桜邪にとって肉体的苦痛以上に耐え難い事だった。ただ成功するだけでは秋桜の助けにはならない。
 どんな困難な任務であろうと余裕を持ってこなしてしまうような。そんなファンタジーヒーローのような完璧が桜邪に求められるのだ。だが……

「(……ちょっと、余裕が欠けてましたかね)」

 今回は資料が多い、と言う事でまず油断していたのだろう。
 そこに来ての資料紛失だ。失った情報がどのようなものだったのか、
 それを考えさせられる事で不安が増大してしまったのだろう。
 不安とは、安心でない事だ。心が安らかでなければ、余裕も欠ける。
 自分の顔を自分で見れないように。己だけでは気付けない事もある。
 自分で自分の事を見て知れる範囲など、精々全体の半分と言ったところだろう。
 そして、その気付かない部分にある『傷』のせいで取り返しのつかない失敗をしてしまう事もあるのだ。
 完璧を求めるなら、まず己を知る事。
 そして己を知るためには他者の視点によって、欠けているもう半分の視点を埋めてもらうしかないのだ。
 なんだかんだ言って、足を引っ張るだけではない。桜邪は、樫の木の存在に本日一回目の感謝をした。

「まぁ、お前がどんな考えを仕事に持ち込もうとそりゃ勝手だよ。だがよ、下手に気負われると逆に失敗のリスクが高くなっちまうんだよ」

「はい、申し訳ありませんでした。今後気をつけます」

「まったくだよ。そこんとこ、よ〜〜〜〜っく理解しろよ。俺はお前に足引っ張られるなんて御免だからよ。つーか、仕事なんてテメェ一人でやりゃいいだろうよ。なんで俺まで出張らにゃならんのだ。あ〜あ、なんで俺こんな無能と組んでるんだろうか……どうせなら、なんでも自分一人の力で解決して、それでいて俺の面倒も完璧に見て野望の足がかりにもなるような、そんなまともな人間と契約できなかったのか……自分の悪縁ってのを怨むよまったく」

 寝袋に入ったまま器用に転がり、ゲシリと樫の木に両足の蹴りを入れる。
 樫の木が悲鳴の後に猛烈な抗議を始めたが知った事ではない。悪縁はお互い様とか思いたくない。
 本日十二回目の後悔だ。盛大にため息をついた後、桜邪は再び眠るための準備を始めた。
 樫の木は、へし折れた自分の歯を元の場所に戻してくっつけながら、怒りに燃える瞳で桜邪を見た。

「人がせっかくありがた〜い助言をしてやればこの仕打ちか……テメェ、そのまま眠って無事に目を覚ませる保障なんてねぇと思えよ」

 相変わらず嫌なところをついてくる。
 睡眠中が最も無防備になる瞬間だと言うのは百も承知だ。
 意識の無い瞬間に何か異変に襲われたら対処のしようがない。
 何があるか。考え出したらキリは無いが、意識を闇に沈める事は、体力回復のリターンと共に窮地へのリスクを格段に跳ね上げる。
 桜邪は、じと目で樫の木を見ながら答える。

「……そんな事考えてても仕方ない事でしょうが。いくら心配でも寝ないわけにはいかないんですから。それに、寝てる間の万が一が無いように見張りを立てるんでしょ?」

 すると、樫の木は邪悪に歪んだ笑顔を浮かべて桜邪をねめつけた。

「さ〜て、それはどうかな? 思えば、俺も今日は散々酷い目に合わされたしな〜。いや、別にだからどうしたってワケじゃないよ。普通は、そんな目に合わされたら仕返しを考えて当然だって話だしさ。ん? なんか言いたそうな顔だな。駄目だぞ、この仕事絶対成功させなきゃならないんだろ? なら寝といた方がいいぞ。まぁ、ベトナム戦争じゃゲリラが怖くて眠れない兵士が相当数いたらしいけどな〜。あぁ、これも独り言だから別に聞かなくていいが……」

「想像してみて下さい」

 タイミングよく樫の木の言葉を遮り、ポツリと桜邪が呟く。

「もし、私が戻らなくて。貴方だけが戻る事になったら。どういう事になると思いますか?」

 途端に樫の木の顔色が喜色から渋面に変わる。
 樫の木自身がどう考えていようと、依頼主にしてみればこれは桜邪と、そして樫の木が受けた依頼だ。
 失敗すれば当然その責は樫の木にも及ぶし、見捨てたにしろ直接手を下したにしろ、桜邪に何かあれば、こいつの知り合いにどんな目に合わされるか分からない。
 樫の木には何故か分からないが、腹立たしい事に桜邪を好み樫の木を嫌う者が大勢いる。
 特に、先に話に出てきた秋桜などは最悪だ。アイツは、人間の中でも特に苦手な部類に入る。

「……想像したくもねぇや、そんな恐ろしいの」

 先ほど、樫の木は『牛の首』などと言う存在の創作は不可能だと考えた。
 しかし、こと秋桜と言う女の事を考えれば話は別だ。そして樫の木は思う、あの桜邪と似た薄い桜色の髪の色をしていながら桜邪とまったく違う女の事を。
 コロコロと表情を変えるこの娘と違い、あの女の表情が変わる事は特に稀だ。
 桜邪は同じ年頃の娘と違い、それ程化粧や衣装にこだわる事は無いが、それでもわりと自然な服装をする。
 しかし、あの女が何か色のついた服を着ている姿を見た事が無い。服の種類はそれなりに見た事があるが、それは常に見ていて寒々しさを覚える程の白無垢だ。
 一度、好奇心から尋ねた事がある。何故、白い服以外を身に纏う事をしないのか。
 すると、秋桜は唇をかすかに上げるだけの儚い笑みを浮かべてこう言ったのだ。

「貴方程博識な方ならご存知でしょう? この御国ではかつて、死者の国に参る者も、喪に服す者も、等しく白衣を纏って葬儀に臨んでいたのです」

 それ以上、樫の木は何も問う事はできなかった。
 完全に気圧された。ただ薄く微笑むだけの女の迫力に。
 迫力、と言うのは違うか。
 女の何気ない仕草の中に闇が見えた。
 その得体の知れない闇に圧されたのだ。
 その時の印象を樫の木はよく覚えている。
 あの女を慕う桜邪の事が正直理解できない。
 あの女の闇は、人を呑む。
 長い生で樫の木は様々な経験を積んできたが、その経験を総動員して、ただ一つの事を感じ取った。

 ――この女は、怖い。

 生涯敵に回す事は御免蒙る。ただでさえ、拝み屋などと名乗る輩――言霊使いと呼ばれる人種――は、上級の精神構造を持った生物の天敵なのだ。
 なんの霊力も異能の力も使わずに、当たり前の言葉を紡ぐだけでより糸をほぐすように精神を解体していく。
 樫の木は自身がダイナマイトで吹き飛ばされても死ぬ事は無いと自覚しているが、精神を壊されてしまえば話は別だ。
 あの女の言葉には、自分を自分で無くさせる事ができる。それがどういう事になるかは分からない。分からないから――樫の木はあの女が恐ろしかった。

「ようやく、目的が一致したと見えますね」

 苦々しい顔で思考を巡らせていた樫の木を見て、桜邪がクスリと笑う。
 先ほどまでは、樫の木にあんな事を言われて切り返せるような余裕は無かっただろう。
 そう言う意味では、感謝はしている。柔らかな微笑みで樫の木の邪念を受け流し、暖かな眼差しを向ける。
 それと目を合わせると、樫の木はとても不機嫌そうに「ちっ」と舌を鳴らした。

「そうだな、俺もお前も、しくじるのが怖い。つーかあの女が怖い」

「えぇ」

 あっさりと認めた後、桜邪は苦笑いを浮かべる。

「あの人は本当に、怖いですからねぇ」

「仕方ねぇ。分かったよ。全力でフォローしてやるから、テメェも下手打つんじゃねぇぞ」

「貴方に言われたくはありませんが、了解しました」

「あとな、もし厄介な敵がいたら……そん時はあくまで戦うのはお前だ。そこんとこ、よ〜くわきまえとけよ」

「えぇ、分かってますよ。そのために貴方と契約してるんですから。それに、ガチンコは数少ない私の楽しみの一つなんですから。そう易々と他人には譲れませんねぇ」

 玩具を与えられた子供のように桜邪は微笑む。
 そして、寝袋の中で懐に入れてある『札』を服の上からそっと撫でる。
 大丈夫。「楽しもう」とする余裕も戻った。不安に恐怖する事は無い。むしろ、何が起こるかわからないこの状況。秋桜や樫の木には少し申し訳が無いが、桜邪はそれに対しワクワクを抑えられなかった。
 ――眠れなさそうな理由が増えた。
 まるで、遠足の前日のような気分だ。
 このスリルが欲しいと言うのも、自分がこの仕事を選んだ理由の一つだった。
 隠れ里の静寂に耳を傾ける。何も音はしない。耳鳴りだけが津波の前の引き潮のように頭に響く。
 ここでは何が起こるかわからない。
 とびっきりの「未知」に溢れたテーマパークだ。

「ちっ……テンパってても余裕でもその暴力癖は直らねぇかこのジャンキーめ」

 桜邪の様子を見て、呆れたように舌打ちする。

「まぁいいや。俺も精々楽しませてもらうさ。帰ったら、成功報酬で蟹でも食わせろよ。煮ても焼いても生でもなんでもいいから皿に山盛りにしてな。あと、書類紛失の責任は折半な」

 あの女の事だ。成功して帰っても書類の紛失についてこってり2〜3時間は説教が続くだろう。
 罵倒するでもなく叱責するでもなく、飽きる事も慣れる事もできず、ただひたすら延々と続けられる『説教』。
 何を聞かされるのか分かったもんじゃない。そのくせ、とんでもない苦痛だと言うのだけははっきり分かる。
 嫌な事ばかり想像すると気が滅入る。だからせめて、樫の木はその後の楽しみを残す事で憂鬱な気分を紛らわせたかった。

「その言い方ですと、沢蟹とかスペスペマンジュウガニとかでも良さそうな気もしますが、了解しました。後者はあまり了解したくありませんが、どっちにしろ仕事の後のお説教はいつもの事ですしねー」

 樫の木と同じく、まさに地獄と形容するのが相応しい説教を思い出し、ちょっと虚ろな目をした後。
 桜邪は、樫の木を見て自然にニッコリと笑いかけた。

「では、話もまとまったところで。私は明日の鋭気を養うためにぐっすり眠りますから一晩よろしくお願いしますね♪」

「あ〜……まぁ、もう『根』は張り巡らせといたからな。山の隠れ里は土が素直だから張りやすくていい」

 樫の木の身体がもぞもぞと蠢く。
 地中に溶け込んでいくように。枝葉から幹へ。幹から根へ。根から大地へとうねりが伝えられる。

「少なくとも、半径五百メートル以内に異物はねぇな。あと、気脈の乱れを感じる。地図も燃えちまったようだが、覚えてるか? ここから東へ……そうだな。三キロメートル程行ったところか。そこに気脈を乱す大きな異物がある。合ってるか?」

「間違いありませんね。そこが目的地です。それでは、私は貴方に任せてゆっくりと惰眠をむさぼる事にしますよ」

「朝日が昇って起きない時は鼻の穴を茄子が入るまで広げてやるからな。覚悟しとけよ」

「あはは、それは怖いですね。しっかり起きられるようにしますよ。それでは――おやすみなさい」

 そして目を閉じると、深い闇が目の前に広がる。
 草木の揺れる音も虫も鳴き声もしないそこは、耳鳴りがやかましく思えるほどの静寂だ。
 しかし、不思議とそれは――安らぎを感じる事はあっても、怖いとは思えなかった。




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