牛の首とは、この世で最も恐ろしい怪談である。
だが、それを語る者はこの世のどこにもいない。
知っている者はいても決して語られる事は無い。
牛の首とは。つまりは、そういう話なのである。
牛の首
狐者異は高慢豪情の一名にて 世話に云無分別者也 生ては法にかゝはらず 人を恐れず人のものを取くらひ 死しては妄念執着の思ひを引て 無量のかたちを顕し仏法世法の妨げをなす
絵本百物語・桃山人夜話巻第壱/第三
「今は昔のお話です――」
無限のような深みある暗闇の中、冷たい光に照らされながら。
暖かみのある声が静寂を打ち払うように周囲に広がっていく。
「これ――違――そうな――ていると――しか――の時――れは――ったのです――」
ゆっくりと、優しい口調で語られる話。
それは、この世で最も恐ろしいと言われる話。
聞く者は狂い、語る者も正気ではいられなくなると言われる話。
とても恐ろしい。すでに自分は知っている内容だが、それでも聞いているだけ震えが来るような恐ろしい話だ。
「しかし――」
その読む声だけを聞けば、それはまるで子供を寝かしつける母親が寝物語をつむいでいるようにも聞こえる。
あんな恐ろしい話を、よくもこのような口調で語れるものだ。
これは慈愛のなせる技なのか。それとも勇気と言うもののおかげなのだろうか。
よく分からない。理解ができない。しかし、しようとも思わない。
だから、その救いの声を聞こうとも思わない。
その優しい声は、自分に対する救いではないのだから。
途切れ途切れに聞こえてくる、温もりのある声。
その合間に、途切れ途切れに訪れる冷たい静寂。
静寂は嫌だ。静寂が訪れるたびに耳鳴りがするから。
よくあの読み手は耐えられるものだ。この恐ろしいものに。
はっきり言って、自分は今にでも逃げ出してしまいたかった。
いや、それよりもまず叫びたかった。
周りに火でもつけて盛大な篝火を炊きたかった。
この暗闇が嫌だ。
この静寂が嫌だ。
あの、暗闇に住まうものが嫌だ。
この、静寂の合間に訪れる耳鳴りが嫌だ。
どうして自分がここにいるか分からない。いる意味が無い。
意味が無いなら、しなければいい。そうだ、しなければいいんだ。
だから、ただ聞き入っていると言うこの役割を放棄してしまおうかと思った。だが。
――ケリをつけていらっしゃい。
ふと、脳裏に女の声がよぎる。
それを思うと、腹立たしくなった。
ほんの少しだけ、恐怖が和らいでいった。
――仕方ない。
そう思って、視線を暗闇の一点に集中させた。
視線の先にいるのは本の読み手では無い。
それは、とてもコワイものだ。
怖い理由も分かった。畏れた理由も分かった。
全てが分かっても、こうして向き合ってみるとまだ怖かった。
それは、蠢いていた。読み手の声に反応しているのか。
深く耳を傾けているのか、その場を決して動こうとしなかった。
ついこの前までは、あれほど浅ましく振舞って暴れていたくせに。
貴方は怖くはないのか。
あぁ、そうだったか。そういえば、そうだった。
カタカタと歯の根が合わなくなるのを感じる。自分は怯えているのか。
理由なんて瑣末な事だ。意味づけができてもそんなものに意味は無い。
恐怖は感情だ。感情が発露する事に理由も意味もいるワケが無い。
小賢しい小理屈も理論武装も通じない。怖いものは怖いのだ。
ただそこにいるだけで恐怖に蝕まれていくように感じる。
暗闇に身体が溶け、静寂は耳鳴りを伴って意識を溶かそうとしてくるようだ。
もう――耐えられそうに無い。
何度もそう思い、先ほどの決意が覆りそうになる。
その時、不意に視線を感じる。
読み手がこちらを向いている。
やめてくれ。
お前に同情されるいわれは無い。
お前に救ってもらおうなどとは思わない。
読み手は聞き手の事だけを考えていればいいじゃないか。
その、心配するような視線を向けられる必要なんてないんだ。
――が隣にいれば楽ですよ。
あぁ、確かに楽にはなったよ。
楽になったけど、これでは無理をするしかないじゃないか。
怖くても、無理をして向き合わなければいけないじゃないか。
そう思うと、やはりその視線は迷惑だった。ただ迷惑なだけだった。
だから、その迷惑はいらないと。自分の内にあるものを振り絞って何度もそれと向かい合う。
「そんな――が――なんて――れに――うか――らない――では――」
優しい声は、まるで呪文だ。
拝み屋の唱える呪文のようだった。
だが、その呪文は自分に通じるものではない。
通じない呪文は、不信心なものが聞いている念仏と同じものだ。
信じなければ、畏れなければ、いくら読み上げても経文など単なる子守唄だ。
つまりこれは、不信心なものを眠らせるための呪文なのだ。
だから、その声は聞かない。その間に途切れ途切れに訪れる静寂を聞く。
――耳鳴りがする。
酷く恐ろしい気持ちになる。
目の前で蠢くそれも恐ろしい。恐ろしいが。
――自分で理解できる程度の形にしてしまえばいいのです。
あぁ、そうだったかな。
そうすれば、怖くないんだったかな。
それは理屈だけれども。その理屈は心を打った。
感情を抑える理屈だってある。その理屈に安易に名前をつけるなら。
それは、勇気と言う名の屁理屈だったりするのだろうか。
「――もう――」
物語は、そろそろ半分を過ぎる頃か。
鳴き声のような語り口が耳に引っかかる。
そして、声の合間に静寂が訪れる。次に耳鳴りが――
――いや、違う。
これも鳴き声なのだ。
そして、目の前のモノを見る。
暗闇の中で溶けるように、しかしそれを拒むように。
震えるように蠢く、いっそ儚くすらある恐ろしいそれを見る。
二本の角がわなないている。
読み手の声に反応しているかのように。
丸い体はまんじりともせずに、ただ角だけが動いている。
――あれは蝸牛なのだろうか。
いや、違う。あのように乾いた蝸牛などはいない。
あんなささくれ立った奇妙な蝸牛など存在するはずが無い。
もっともらしく形はにていても、それが蝸牛などであるはずが無い。
そもそも、生きてはいないが死んでもいない蝸牛などいるはずが無い
ならば。
あれは首だ。
二本の角を振るって無い耳の代わりをしている首だ。
いるはずのない蝸牛よりも、その方がまだ理解もできる。
そうだ。あれは首だ。牛の首だ。
牛の首が、少女の話を黙って聞いているのだ。
そう思うと、もうなんの怖さも感じなかった。
だったら。
救ってもらえ。身体の分まで。
その読み手はきっと救ってくれるから。
「――しかし、そこに一頭の牛が現れました」
物語は半分を過ぎたか。
読み手の優しい言葉を、牛の首は聞き入っている。
そうだ。あと半分だ。黙って聞いていればあと半分で救われる。
声は相変わらず途切れ途切れだ。
静寂が訪れる。耳鳴りがする。いや、違う。
牛の鳴き声が耳に届く。鳴いているのは牛だ。あの牛の首だ。
あの牛の首が、相変わらず鳴き続けているのだ。だからこの静寂が嫌だったんだ。
――あの牛の首が嫌だったんだ。
言葉にするつもりはさらさらないけれど。
ただの自己満足だけれど。
心の中だけで告白させておくれ。
自分は、貴方の事が嫌だったんだよ。
一目見た時から、話を聞いた時から。
段々と嫌いになって、ついに嫌いが怖いになったんだ。
何故かって? そんなの、簡単じゃないか。
自分は、少しだけ羨ましかったんだよ。
先をこされたと思って、悔しかったんだよ。
見下していたけど、本当は少しだけ見上げていたんだよ。
自分の進むべき道の先に、貴方がいるのだと思っていたんだよ。
だから、自分もこうなるんじゃないかと思って、それで怖くなったんだよ。
そしてその全てを認める事が何より嫌で、怖かったんだよ。
でも、違うんだ。自分と貴方は違うんだ。
はっきりと認める事ができたから。その違いが分かったんだ。
言葉にすれば陳腐なものが自分にはあったから、貴方と同じにはなれないしならない。
そもそも、自分と貴方は住む世界も生きてきた世界も根本から違うと。それに気づいてしまったから。
自分と貴方は、相容れぬ存在だったんだ。だから。
もう、怖いとは思わない。
もう、可哀想とは思わない。
もう、羨ましいとは思わない。
もう、貴方のものが欲しいとは思わない。
だからもう、貴方に会いに来る事もないだろう。
これで本当に、ケリもオチもついたのだから。
精々、物語として語り継ごう。暇潰しにはなるだろうから。
「――――――――」
物語は、終わっていた。
牛の首は、もう動かなかった。
満ちていたものが足りたのだろう。
成仏できたのだろうか。
いや、仏にはなれないだろう。牛は仏など信じていない。
では安らかに眠れたのだろうか。
いや、もうそんな事はどうでもよかった。
自分が気にするべきではないと言う領分と言うものはある。
静寂の中では、もう耳鳴りはしない。
鳴いていた牛は、もう首だけになって転がっているから。
読み手は、本を閉じると、それを大きな墓標の上に置いた。
もう二度と、あの読み手はこの本を読む事も語る事も無いだろうから。
だから、この世界の中心に。あるべき場所にあるべきものを返そうとしているのだ。
供え物としては、この程度でいいか。
どんな墓を作ってどんな弔い方をしたところで、こんなものを救う神などいやしない。
信じられてもいないのに、救う義理など神仏にも無いだろう。
ならば、せめて人が救ってやるしかないのか。
こんな奴でも、人なら救ってやれるのか。
これは墓ではない。眠るためのゆりかごだ。
自分は、牛の首を拾って、本の上に置いた。
牛の首の絵がかかれた本の上に。
貴方も、眠るのならここが一番いい寝床だろう?
大きなゆりかごに、まず漢字が二文字、書き綴られる。
それを横から不意を打つようにカタカナが四文字書き加えられる。
非難するような目と呆れたような声を伴って、漢字二文字が書き足される。
これで、完成だ。
永遠に眠るための大きなゆりかご。
自分達は生きている。ゆりかごの下にいる者は死んでいる。
これで、明確な区別ができた。決別の時だ。ならば、別れの言葉を言わなければ。
それで、この世界は眠りにつく。完全な静寂と暗闇に、半永久的に閉ざされる。
でも、もうそれでいいだろう。満足する事ができたのならば。死して眠りにつくならば、潔くもう何も欲する事は無い。
そして、自分は――
そこまで考えたところで、思わず嘆息する。
先ほどから、随分と自分らしくない思考を繰り返していたものだと思う。
やはり、語り継げるような話ではない。あまり思い出したくも無い気恥ずかしい思いだ。
明日から。いや、この世界を出た後から。日常に、いつもの自分に戻って振舞おう。
日常は恐怖とは無縁だから。安定しているから。そこは、とても落ち着ける場所だから。
せめて、次に非日常に踏み入れる時まで。そこで安穏と、いつも通り素直な自分を曝け出していよう。
心は晴れ晴れとしていた。
最後に、一言だけ。神妙な別れの挨拶が静寂を乱し暗闇にこだまする。
「おやすみなさい――さん」
「くたばってろ。二度と化けて出るんじゃねぇぞクソ人間の成れの果て、――」
呼ばれた名前は、それぞれ微妙に違うものだった。
そして、そのまま声の主達はそこを去り、そこで世界は眠りについた。
小さな世界の外では、騒々しい日常が繰り広げられていた。
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