「うなぎの寝床」

Tragicomedy about Messerschmitt Bf109W-1
「水の泡と消えたドイツの水上戦闘機-Bf109Wこぼれ話-2」2001.12.16


航空模型雑誌「Fanatic Scale Modelers」の1992年3月号に掲載された「Tragecomedy about Messerschmitt Bf109W-1 」を転記。

 <かもめ、実はうなぎ> 
 これらの6機のW−1は、1940年4月に、ノルウェー南部のクリスチアンサンのII./JG77に配備され、スタバンゲル分遣隊が組織され、テスト運用が開始された。しかしながら、「ヴェーゼル演習」はこの時既に始まってしまっていた。既にしてその将来を暗示させるが如く、一番必要とされた舞台にはWは間に合わなかったのである。
 スタバンゲル分遣隊は公式には「メーヴェ・シュタッフェル(かもめ中隊)」または「アルバトロス・シュタッフェル(あほうどり中隊)」と命名されたらしい。ただし実際にその呼称が使われていたかは定かではない。組織的には戦闘機部隊であったが、整備や実際の運用はAr 196A やHe115などを扱っていた、水上機部隊(Ktenfliegergruppe 706の管理下に置かれた様である。
  このテストから、このタイプがJu52など輸送機防衛任務にも、Fw200コンドル長距離哨戒機の護衛任務にも、不適当であることが明白になった。なにしろまともな作戦行動にかかれなかったのである。
 まずフィヨルドの奥深くとはいえ、波が少しでも高いと転覆しやすく、また急機動を行うと、延長した翼が離散する事故が相次いだ。また、パイロット自体、水上機への転換訓練が不足したままであり、水上滑走中の操作技術が著しく劣っていた。K.Fl.Gr.706.のAr 196Aパイロット3名は転換訓練の教官を努めてくれたが、本来の哨戒任務に忙しく、また、さらに付け加えれば、これら3名の「教官」も単フロートの機体をまともに操縦できなかったと言われる。
 W−1のテスト運用は10月までの4ヶ月間続けられ、この間5機が、事故の結果失われた。うち3機が翼端折損による墜落(パイロットはいずれも脱出して無事)、うち2機が滑水時の転覆による水没事故である。もちろんこの他に修理可能な事故は多発した。
 この翼端折損事故は重大な問題で、運良く片翼で帰還した機体をすぐにブロム・ウント・フォス社に送って原因究明に努めた。風洞実験の結果、翼端スラットを元もとの通常翼から延長した分長くしていたのだが、これではスラットが長すぎ、開いた瞬間の衝撃が過大になって、桁が折損してしまうのだった。また、翼の補強自体もジグを作らず手作業での改修だったため、延長した桁の強度不足もあったようである。どうやらブロム・ウント・フォス社も、この機体が量産されることは無いと踏んで、かなりアバウトな仕事で済ませてしまった節がある。あくまでルフトヴァッフェにあっては、水上戦闘機などという代物は継ッ子だったのである。

Bf109W-1、緑2番機。スタバンゲル基地での撮影と思われる


 こうして残った3機については、翼の補強強化(外板の上から、追加の鋼製補強材を留めただけ)とスラット短縮(スラットの板金を金鋏で切断、切断した板金を固定し直しただけ)改修が現地で行われた。
 一方戦果については、スタバンゲル分遣隊はJG77とは基地が別で、撤収時にログブックが失われてしまったため、はっきりしたことが分からないが、十数回の作戦行動において撃墜記録は無いようである。まずとにかく、機体の信頼性が不足しているため、パイロットが搭乗を常に渋った。もともと陸地上空しか飛んだ経験しかないルフトヴァッフェの戦闘機パイロットにとって海は鬼門であった。そのうち厭戦気分が高まり、夜戦部隊以上に通常の戦闘機部隊への転属を願い出るものが多くなった。そのため、スタバンゲル分遣隊「かもめ中隊」のパイロットはかなりll/JG77と頻繁に交代している。なお、しばらするとその稼働率の低さからいつのまにか「アール・シュタッフェル( うなぎ中隊)」という通称に変わってしまった。分かっている範囲では、ll/JG77から、ハンス・トロイチェ、ホルスト・カルガニコ(エクスペルテ)、ヴィルヘルム・モリッツ(後に本土防空戦でフォッケウルフ突撃中隊を指揮)など有名なパイロットも搭乗したことがるらしい。

emblem variations of Aal Staffel

 上図は「うなぎ中隊」各機が機体に描いたと言われる非公式な中隊エンブレムである。実働していた各機とも絵柄が異なっていたらしい。図柄を見るとこれは「うなぎ」では無く深海魚の「ほうらいえそ」である。飛べない飛行機に嫌気が指したためための苦いジョークにしても、いささかこれでは寂しいマークである。

<怒りと栄光(ザ・フューリー・アンド・ザ・グローリー)> 


地図がトホホですみません。ありもの地形図に地名だけ書き込みしました。

 唯一特筆する戦歴があるとすれば、1940年の春、英空母フュ−リアスおよびグローリアスが度々北海を北上してきた。未だ独軍が占領していない、ノルウェー中部以北、特にナルビックからの撤退作戦の援護のためであった。ここで付け加えて置くならば、この時点でノルウェー空軍はもはや存在しないも同然であった。ハインケル115水上機6機、カプロニの「干鱈」とあだ名された軽爆4機、グラジエーター9機、あとは第一次大戦かくやというポンコツ機ばかり総勢88機であり、まともにルフトヴァッフェに対抗できるものでは無かったのである。頼みは英軍だけであった。しかし、英軍ももたつきはなかなか堂に入ったものであった。4月に出航したグローリアス搭載のグラジエーターはノルウェー内陸のレシャンスコー湖に進出したが、ハインケル111の爆撃で壊滅、遁走してしまう。次に5月、今度はフューリアスも一緒だ。しかし、フューリアス搭載のグラジエーター19機はソードフィッシュに先導されナルビックへ飛び立ったが、ソードフィッシュがフィヨルドの山肌へ激突、続いていたグラジエーターも2機が衝突してしまい。残り16機はほうほうのていで空母に逃げ帰った。この時、ソードフィッシュから「単フロートのハインケル115に追われている!」という無電が発信され、これは空母でも記録されている。He115の単フロート仕様は存在しないので、もしかしたら翼の長いBf109Wを見誤ったものと推定できる。もしそうならば、これがメッサー水戦唯一の戦果になるが、前述のようにドイツ側記録が残っていないので、確証は無い。なお機関銃を使わず撃墜した場合、各国とも撃墜記録にカウントしていたようである。
 一方グローリアスは、新鋭ハリケーンを搭載、内陸のナルビック近くに進出させることができた。しかしこちらへの攻撃はJu88よBf110が主で、南部のうなぎ中隊の出動する場面は無かった。ハリケーンのほうもグラジエーター同様良く闘ったが、ドルニエど26飛行艇のような弱い相手には滅法強くとも、通常の109相手では損耗も激しく、6月にはバーデュフォス飛行場を撤退し、グローリアスにフック無き着艦という離れ業で帰還してまった。これによりドイツはノルウェーを完全攻略、同時に本来の意味でのBf109W型の存在意義もほぼ消失してしまったと言える。
 なお、英空母グローリアスはナルビック撤退英仏連合軍を満載して英国へ遁走を図ったが、6月8日、ドイツ海軍の戦艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」の砲撃により撃沈されてしまった。この戦闘にはドイツ空軍も、Uボートも関与していない。つまりドイツ戦艦が華々しかった最後の時代でもあった訳である。もしこの時点で空母「グラフ・ツェッペリン」が完成していれば、太平洋より先に北海で空母による海戦が実現したわけであるが、ドイツは結局空母を持てないままに終わった。また、メッサー109Wは、艦戦109Tが活躍するまでの「繋ぎ」のはずだったが、全くその役目を果たすことなく、その短い生涯を終えたと言える。 

<ハンナとその失敗>

 戦果の無かったらしい、109Wであるが、変わったことと言えば、1940年7月に有名な女性グライダー・パイロット、ハンナ・ライチェがリッター・フォン・グライムの肝いりで、DFS(ドイツ滑空研究所)から派遣され、エンジンを止めて滑空による航続距離延長実験を行った。これにより最大2400kmまでのびたと言われる。これは増槽を積んだBf110Dと同等であった。しかし、基地目前まで帰投中、何を勘違いしたか、フロートを切り離してしまい、ハンナはパラシュートで脱出し無事だったもの、機体は失われた。

ハンナ・ライチェ。2級十字章があるので、JG77訪問の後、阻塞気球ワイヤカット試験成功後、1941年頃の写真であろう。この後、プロバガンダに利用されていく。 ハンナの自伝、邦題「大空に生きる」(絶版)。グライムの愛人だの、ベルリン陥落直前のヒトラーへの訪問飛行ばかり喧伝されるし、特攻隊の組織化を提唱するなどの思想もいささか危ない人だが、この当時はDFSの単に優秀な一テストパイロットというだけであった。JG77訪問時はまだ28歳の妙齢であった。
 

 
<始まらないのに終わり>

 通常の戦闘機に乗っていたパイロット達は、9月になって、新たにII./JG77の指揮官になったハインツ・ランゲに対し、全員転属願いを出した。ランゲもこの間の事情は良く分かっており、第5航空艦隊で上申、即座に命令がくだり、1940年10月、怒りにも栄光にも縁遠く、またいつ始まったかかもはっきりしないこの中隊は、終息を迎えた。
 ライバルになるやもしれなかった、スピットファイアのフロート装備型も結局実戦かされなかった。遠く中部太平洋ソロモン海域で、日本海軍の二式水上戦闘機がそれなりの活躍を果たすのは、ずっと後の1942年秋以降の話である。

(あるパイロットの手記へ)


※この記事は全てフィクションであり、いかなる実在の事象とは関係ありません。「Fanatic Scale Modelers」という航空模型雑誌も存在しません。なお、執筆に際し、下記を参考にしました。