フェイク・ファイターズ列伝
「Wの悲喜劇」

Tragicomedy about Messerschmitt Bf109W-1
「水の泡と消えたドイツの水上戦闘機-Bf109Wこぼれ話-1」2001.12.16


<はじめに、、、話の出所>

これから書き記す事柄は、数年前入手した英国の航空模型雑誌「Fanatic Scale Modelers」の1992年3月号に掲載された「Tragecomedy about Messerschmitt Bf109W-1 」を転記したものである。アップロードに際し版権の確認を取ろうと連絡をしたが、版元が変わっており、編集氏はこの雑誌廃刊後「Funky Models a Go」「Naughty Modelers」などいくつかの専門誌に携わったが現在は消息が知れない。従ってこの記事の信憑性には疑問が残っていることをおことわりしておく。なお掲載許可は現在の版元から貰えたが、同時にいささか軽蔑の意も込められていたように思う。

<開発の背景または喜劇の序章> 

1939年も終わりに近づきつつある頃、RLM(ドイツ空軍省)は、来るべきノルウェー侵攻に備えて、水上戦闘機の発注を行った。
 ノルウェ−へは陸路からの補給が出来ないため空輸が重要になるが、RAFのコースタル・コマンドのボーフォートや北海に進出する可能性のある英空母の艦上戦闘機に対し、Ju52をはじめとする輸送機は余りに無防備であった。しかし敵地飛行場を奪取しない限り、メッサーシュミットBf109の短い航続距離では、長い長いノルウェーの海岸線沿いに輸送機を援護することは不可能であった。
 一方RLMはこの時期に、幻に終わった空母「グラフ・ツェッペリン」艦載用Bf109T型をメッサーシュミット社に発注していて、機体のほうは順調に開発されていたが、肝心のドイツ初の航空母艦がノルウェー侵攻に間に合わないことは明白だった。
 こうしてドイツでも、飛行場の代わりにノルウェーのフィヨルドから離陸できる戦闘機、つまり水上戦闘機というジャンルが必要となったのである。そしてRLMは、特に深く考えることなく、Bf109戦闘機のフロート付き水上機バージョンをメッサーシュミット社に発注した。

<メッサーシュミットまたは膨張の行方> 
 当時メッサーシュミット社は、競速機Me209の戦闘機化、Bf109E型の後継機F型、Bf110の後継機Me210の開発など、絶頂期を迎え(同時に凋落の種を育てて)多忙を極めていた。しかしそれでも109Wの基礎設計は行われた。スケッチによれば、双フロート装備、大面積垂直尾翼などが、この時点での構想として既に現れていた。大面積尾翼は、フロート装備による横安定性の減少対策として、開発が終わっていたMe209に似たシルエットのものを装着した。ただメッサーシュミット社で行われた設計はこのスケッチレベルまでだったようで、どうも真剣に取り組んだ節が無い。RLMも、ルフトヴァッフェの航空機メーカーとしてメインストリームである同社にこのような枝葉の仕事を任せるつもりも無かったようで、実際の開発は1939年後半にフィーゼラー社に委託された。

Bf109W-0 prot type designed by Messerschmitt

Note with two floats like Spitfire

<フィーゼラーまたは進式> 
 Bf109E-1、Werk.Nr.3365がメッサーシュミット社の生産ラインから抜かれてフィーゼラー社に廻され、Bf109W-0として改修された。これに先立ち、フィーゼラー社は同時期に同社で開発中であった艦上戦闘機Bf109T型同様、重量増加のための翼面過重軽減と、航続距離増加を狙って11.08mの延長翼を採用することにした。ただしフィーゼラー社にしてもT型と同じ設計スタッフが事にあたったため、陣容不足は否めず、経験の少ない水上機としての艤装関係については検討の時間が足りなかったようである。
 こうしてとにもかくにも、ドイツ空軍初の水上戦闘機、Bf109W-0(Wはドイツ語のWasser=水の意の頭文字)は、1939年12月23日に初飛行した。
 しかしながら、テストの結果は惨憺たるものであった。信じられないことに、機体が離水できなかったのである。つまり正確にいえば、この日はW型の「初滑水」にしか過ぎず、「初飛行」では無かったのである。原因はどうやら、水上機に不慣れなフィーゼラー社のフロート設計がまずかったかららしい。

<ブロム・ウント・フォスまたはフォークト技師の暴走> 

 あきれた空軍省は、このプロジェクトを即座に飛行艇の名門、ブロム・ウント・フォス社に移管した。フィーゼラーの設計を見た、ブロム・ウント・フォス社の主任設計技師フォ−クト博士は、即座に双フロートを単フロートに変更、翼面積のさらなる増加の仕様変更を行った。当時ヨーロッパでは珍しい単フロート水上機の案は、技師が日本滞在中、指導して弟子筋に当たる川崎の土井技師が、三菱の零式観測機などの成功事例を伝えたためとも言われているが、確証は無い。なお、後の二式水戦となる日本海軍の水上戦闘機は、1940年になってからの試作発注で、初飛行は1941年12月である。またこのプロイェクトは、後にBf109T型の後継艦上戦闘機として計画されたMe155を引継ぎ、B&V155として開発していくことになるフォークト博士と109の初めての出会いでもあった。後々怪物機に変身していくB&V155の萌芽を、この109W-1に既に見ることが出来る、といったらさすがに言い過ぎであろうか?
 なお、フォークト技師はW-2として、塩害に弱いラジエーターを廃し、表面蒸気冷方式にし、胴体を延長する案、翼下面の後のBv155を彷彿とさせる大型ラジエーター装備のW-3などのスケッチも起こし始め、すでにして暴走の兆しを見せていた。RLMも、また特に技術局長のウーデットもフォークトのこうした性向を熟知しており、W-2以降の案はそうそうに必要なしとして差し戻した。

<Bf109W-1またはヘルマフロディトス>
 こうして、翼幅14.44mというグライダー並みのロングスパンに変身したBf109W−1は、1940年2月試験飛行を行った。E型に比べて250Lの重量増加対策として、97オクタンのガソリンを使い、出力がわずかに強力なDB601Nエンジンを装備、少しでも抵抗を軽減するため機首下面のオイルクーラーをフロート支柱に埋め込み、主フロートの中央部と左右の副フロートのほとんどを燃料タンクにあて、1000リットル分の増加を可能にした。また緊急時には主・副フロートともども、結合ボルトを爆薬で切り離して、機動性を高めることができるように改修された。ただし、オイルクーラーをフロート支柱に移動してしまったので、当初予定した支柱の根本から切り離すことは不可能になし、フロート部のみ落下する。フロート落下後は支柱は残ってしまい、かえって抵抗が増えるような気もしないでもない。
 デンマークのオールボルに展開していたアラドAr196偵察機の第706沿岸警備飛行隊の助けを借りて、ヘリゴランド島海岸で行った試験の結果は、最高速度は約90km/h低下し時速460km/h、操縦性は余分な重量の悪影響を受け低下、逆に航続距離は巡航で約1800キロまで増加した。これはデンマークから飛べば、一応ノルウェー中部のベルゲン当たりまでなら往復可能ということを意味した。戦闘機としての性能はBf109E型に相当劣るのは当然にしても、速度、航続距離ともに、哨戒用としてもいささか不満足ではあったが、いよいよ空母グラフ・ツェッペリンの完成は望み薄になっていった状況では、他に代替策が無く、とりあえず既存ラインからの抽出で6機が改造される決定が下った。もしも空母にのって英軍のハリケーンが飛んで来たら敵わないが、グラジエーターなら十分すぎる性能ではあった。元々、来るべきノルウェー進駐、「ヴェーゼル演習」に使うつもりだったので、急いでE−4型の生産ラインから6機が抽出され、改修作業が開始された。

Bf109W-1 prot designed by B&V

Note single main float

Bf109W-1 (wing span:14.44 m was larger than Bf109 T or H, nearly equal Ta152H)

Bf109 T (wing span:11.08 m )

(part2 作戦行動その他へ続く)