うたかたのセゾン、落城のコクド


 2005年3月、コクド、西武鉄道、プリンスホテル、豊島園、西武建設などの総帥、堤義明が株式の虚偽登録、インサイダー取引で逮捕されてしましました。かつて外からは絶対解明できないグループ内の株持ち合いと、死んでも税金を払わないマジックのような会計と謳われた西武鉄道グループの経営手法が、実はこんな粗雑で幼稚なものだったとは、まさにメッキが剥がれた想いですけどね。そこでまあ、王の落日を迎えるに当たって、かつて私が仕事上ですれ違った西武鉄道グループと、かつて自分がいた兄・堤清二のセゾングループの思い出を少しばかり、つらつら書き残しておこうと思った次第です。


 私は1980年代の初めに社会人となったんですが、就職先が西武百貨店というデパートだったんです。その大半を販売促進部というセクションで、店頭演出や商環境デザイン、店舗内装の仕事で過ごしてきました。「不思議大好き」のコピーで世の中を席巻した後、堤清二氏の標榜する「総合生活産業」という理念と華やかで軽やかなコピー文化、パルコの渋谷活性化、そして資生堂やサントリーよりずっと斬新なアートへの憧憬を持つ企業、というイメージに惑わされて(騙されて、とも言う…笑)入社したようなもんでして、デザイン系の学校を出たので、流通業とかデパートへ就職した、という意識は全く無く、売場で販売をするなど、これっぽっちも考えていませんでした。大半の同期入社の連中も同じで、人気セクションは、1に西武美術館、2に販売促進部、3にスポーツ事業部だったかと思います。しかし、まあ考えてみれば、之は当時の大量学生輩出の伴う就職難の状況では(といっても今の四大卒の就職難に較べればまだまし、でしたが)、例えば商学部や経済学部を出たら営業(販売部門のこと)の幹部候補生でしょうけれど、文学部や芸大、音大出身であっても、人気のセクション、西武(後セゾン)美術館やスタジオ200(池西にあった小劇場)、コミュニティ・カレッジ(朝日カルチャーセンターの西武版)、販売促進部(宣伝部は無かった)にはいけるもんじゃ有りませんね。当時はまだまだリクルートの就職情報誌なんかで、企業情報が学生に共有知識になっていない時代なので、ころっと騙されちゃったんですねえ。今の会社に転職した後、クリエイターの先輩氏に「セゾングループって、まるで蜃気楼のような会社だったねえ。」と言われ、ああ、むべなるかな、と私自身納得した次第でも有ります。
 さて、これを読む皆様がご存じかどうか知りませんが、堤清二という堤康次郎の嫡子にして長男は、学生運動に参加したためもあり、親に半ば放擲され、家禄が弟の堤義明にまかされてしまったため、西武池袋駅の駅売店だけが親からもらえた唯一の財産だった人です。文人としての才覚もありつつ、そちらはほどほどに(今は小説家オンリー)、親と弟に反発しながら一代で駅売店を、一時は三越を抜く年商のデパートにまで発展させた人でした。ですから土地・建物は別として、西武流通グループ(後のセゾン・グループ、いまは、そごうと統合しミレニアム・リテイリング・グループ)は、弟の堤義明の持ち物であった(しかも親から禅譲された)西武鉄道グループとは経営・資本は全く別の企業でした。駅売店から出発し、池袋の本店は一時日本一の売り場面積(2万とび610坪、と今でも暗記してます)になったり、筑波、有楽町(マリオンね)、つかしん(塚口)と出店したりして、西武百貨店を筆頭とする西武流通グループは80年代後半には爛熟期を迎えました。しかし同時に、父・康次郎(東急の創始者、後藤慶太が「強盗慶太」と呼ばれたのに対し、「鉄砲康次郎」と呼ばれた)への反発か、「西武」の名前をどんどん後退させ、自ら発案した「セゾン」というブランド名を全面に押し立てていった頃、同時に弟義明への対抗心からか、ホテル(有楽町)やデベロッパー事業(西洋環境開発)といった西武鉄道グループの事業と被る分野へ進出し、この投資の負債から、バブル時期には既にして、セゾングループは自壊を始めていました。まだ私が在職していた頃から、一勧(メインバンクだった第一勧業銀行)からの借金が一兆円ともそれ以上とも言われ、どんなに西武百貨店やセゾングループの財政が傾いても、一勧も連鎖倒産の危険性が高いので、セゾンから手を引こうにも引けないはずだよ、だからつぶれないのさ、という半ば自嘲めいた言質を諸先輩から聞かされていました。後年、中内功のダイエーが銀行でなく(メインバンクを持たなかったせいで)国の機関である産業再生機構により、倒産をまぬがれ生き残ったことが、そうのような方法論も、あながちうがち過ぎた見方では無かったことを今になって証明したことになりました。
 さて、そもそも流通業は、工場を持つメーカー同様、労働集約型産業であり、就業人口は大変多く、総人件費を按分すれば、その帰結として給料はとっても安かったんですが、一方、鉄道グループと決定的に違ったのは、社員がとっても若かったこと(80年代の頃で役員が50代半ば、本部長クラスが50始め、部長クラスははやければ30代後半、遅くも40代前半)、堤清二の「前年発想否定論」のおかげで、私のような若輩ものも、20代で数千万円以上の予算を執行できたり、京都、仙台、福井、金沢、熊本その他国内各地、あるいはスペインに1ヶ月以上出張に行けたり(オマケでカナリア諸島まで行って、当地では有名だったオカマのゲージツ家の展覧会まで仕込んだ)、給料の安さを補って余りある充実した仕事の楽しさを享受させてもらいました。

 私は好むと好まざるを別にして、西武百貨店の早期退職制度が始まる前、90年代初頭にはセゾングループを辞めてしまったんですが、世はバブル景気で踊っていた頃から、先に述べたデペロッパー事業の負債のため、西武百貨店、西友といったセゾングループの中核企業にも暗雲がたれ込め、とうとう90年代終わりには瓦解、いや自壊を初めてしまいました。転職後、私はこれまた瓦解したダイエーの仕事をした事があり、そこで思ったのは「ワンマンオーナー企業×大企業病」の会社は、やっぱり根っこは同じだなあ、ということでした。天皇になって独裁政権を敷き、苦言を呈する役員を放逐してしまえば、経営者は裸の王様。南方の戦線から命からがら逃げ帰って、焼け跡から立ち上がった雑草・中内功さんと、東大出のエリートである堤清二さんとは、文化の度合は月とすっぽんなんですが、表出される経営の仕方は結局のところクリソツでした。ただこの二人の最期が違ったのは、堤清二はセゾングループの終焉にあたり、私財を投じて、いわゆる「ケツを拭いた」のに対し、中内功は最期まで権力へのしがみつきと老害をまきちらしながら、醜い最期を迎えたことでしょうか。出自の差と言ってしまえば身も蓋もないですけどね。

 ここでまた西武流通グループと鉄道グループに話を戻すと、80年代半ばまでは、兄清二の弟義明へ反駁する感情はまだ頂点に達していなかったか、あるいはフォーブスに世界的富豪とまで紹介された義明の鉄道グループに対する力がまだまあ弱かったせいか、鉄道グループの施設である苗場プリンス内にスポーツグッズの売店を出店したり(大半のスキーヤーの方は好日山荘しか知らないでしょうが、本館の端にあったんです)、大磯ロングビーチにも出店していたり、セゾンカードがプリンスホテルで使えたんです。またこれは清二氏の実母、操夫人(最初はご多分にもれず妾であったが、後、堤康次郎の正妻となり、清二も嫡子となった。後継の義明は非嫡子)の思い入れもあり、中軽井沢には夏期のみ西武百貨店が出店していました。新入社員というのは、生活なんちゃら産業とはいえ、実質は小売りという労働集約型産業においては、大量採用された人員の一人でしか有りません。また、当時も相当就職難の時代でしたが(もちろん、2005年の現在のようにフリーターや派遣産業があったわけでは無いですが)、超人気企業のため200人以上の大卒を採用しており、ヒューマンリソースは潤沢だったのです。そこでまだまだ本業にそれほど役に立つ訳でない新人は、ていのいいアルバイトとしても活用できた次第。当時のお決まりは、「夏の大磯」「冬の苗場」売店応援でして、私は冬の苗場に行きました。スポーツの店外催事部隊の社員が常駐で冬中、苗場に出張して店長をつとめ、アルバイトと新入社員を交替で使いまわして、スポーツグッズの売店を切り回していくのです。でも好日山荘があるので、売れるのはワックス、グローブ、イアーマフくらいだったかな。今にして思えば、人件費効率を考えれば実に低コストで運営できる良いアイデアですね。さて行かされる方は、体育会の合宿さながらの、たこ部屋に缶詰生活なんですが、唯一にして最大の良いことは早番・遅番勤務時間以外は、リフトのフリーパスをもらえて苗場のゲレンデをすべり放題なこと。私も大学生の頃から少しはスキーというものをしたことは有りましたが、下手でもなんでも、どんな急斜面の山の上からなんとか降りてくることができるくらいになったのは、この時の苗場勤務のお陰です。1週間(普通の新人はは2週間ですが、私の場合、販促という普段から人手不足、常時残業の職場なので短縮された)、毎日3-4時間すべり続けるって、普通都会に住んでいてはなかなかできないお大尽レジャー並ですよ。奥手の私は、男ばっかの合宿とスキーしか念頭になかったですが、でもプリンス・ホテルでも応援部隊の人は大勢居るわけで、知り合った箱根プリンスの女の子をたずねて、翌年箱根プリンスへ遊びに行ったとかいうのは、また別の話(^o^)
 ここで異様だったのは、プリンス・ホテルにオーナーである堤義明が来るとき。普段は流通グループと言って我々を下に見ているプリンスホテルの幹部が、ガチガチ・ビンビンに緊張してオーナーの堤義明を出迎えること。プリンスのメイン導線にはマジな話、赤い絨毯が敷かれるんですよ。それも一般客を差し置いて!後で聞いて分かったんですが、義明さん、自家用ヘリで、冬の苗場、夏の箱根には神出鬼没で査察に行く。行ったときにほんの少しでもチョンボがあれば、時の支配人は即 首チョンパなんですねえ(-_-;) まさに現人神、天皇、絶対神だった訳です。

 後年夏の軽井沢西武百貨店の店舗内装(といってもリース什器を搬入する程度)を手がけるようになった時、セゾングループの店とはいえ、やっぱり軽井沢と言えば、国土計画、プリンスホテル、西武建設の町。鉄道グループの方々にお世話にならないと仕事になりません。そこで見聞きした西武鉄道グループ残酷物語として有名なのは、やはりヘリコ視察関連の話。プリンスホテルの総務部長といえば、突然査察に来る堤義明のお出迎えが死命を決する大仕事。ところがあの近辺のヘリポートには、上田ともう1箇所あって天候次第でどっちに降りるか分からない。そもそも堤義明さんは気まぐれで、急に思い立っては抜き打ち査察するもんだから、国土計画(現コクド)という企業は、事前にお上に出さなければいけないはずのフライトプラン破りの常習犯だったそうです。さてその結果大変になるのは迎える側の総務部長。急に降りるヘリポートが変更になった、と長野県に入ってからヘリコより連絡があったとて、地上を走る送迎車よりはヘリコのほうが断然速い。ヘリコが着陸した瞬間、出迎えのクルマを事前にヘリポートに着けることができなかった総務部長さんは、その場で左遷か解雇の憂き目だたそうです(-_-;) 同様の話では豊島園っの園長さんは、義明さんがいつ来るか分からないので1年365日無休だそうです。

 そんな独裁政権、王政が21世紀まで続いたこと自体、不思議といえば不思議ですが、ライブドアのホリエモンみたいな新時代のわがままボンボンが出現してくるこの時代、やはり老兵は消え去るべき運命なんでしょうね。北朝鮮の独裁政権という政治形態の内部を今や想像すらできない程民主化した我ら日本人ですが、いやいや同じようなことはまだまだまだ日本にも残っているんですよ。なにもトヨタやソニー、ホンダ、キャノンだけが日本の企業じゃないんですね。

この項、また少し続けます。2005.03.10