奇ッ怪なりアンシャン・レジーム


 最近、ドメスティックな大企業のゴタゴタがニュースに良く取りあげられます。自動車などの我が国の現在の基幹メーカーは、販路の多くが大分前から日本国内だけでなく欧米やアジアなど海外だったので、グローバルな論理で仕事をしてきており、内向きな指向は既に内部の自浄効果により淘汰されてしまっています。しかしながら、ドメスティックかつワンマンオーナーカンパニーのいくつかは、ここのところ業績悪化による淘汰とか、内部リークによる体制崩壊が続いてきました。ダイエーの中内功さん、ミサワホームの三沢千代治さん、NHKの海老沢<エビジョンイル>」さんや西武鉄道(コクド)の堤義明さんなどがその筆頭でしょうか。あるいはプロ野球を巡る読売新聞社主などと、新興IT企業の相対する姿勢の温度差なども一連の流れに沿うものでしょう。不祥事ではないですが、フジテレビとホリエモンのライブドアの敵対的買収も、時代を感じさせてくれます。
 さてここで私は、何も大上段に振りかぶった企業論とか、世代論をかまそうという積もりはありません。非政治的人間だし、経済音痴で株もやってません。ただ戦後を支えてきた滅私奉公(あれ、戦前から日本はそうですね?)の論理が象徴するもののおかしさを、常に団塊世代の下で働き続け、少しだけその人たちの持つアトモスヒャー(^_^;)を実体験してきた私の個人的エピソードによって、それらを少しだけ表出させてみたいと思うのです。お題は西武鉄道グループ。2005年3月に、オーナーであった堤義明が逮捕されてしまいましたね。雑記録前項「
うたかたのセゾン、落日のコクド」Pt.2という訳です。なお、最初に注記しておきますが、おなじ「西武」の名がついていますが、西武百貨店と西武鉄道は、基本的には何の資本関係も無い全く別の企業グループです。

 さて話は、まだ私が前職である西武百貨店の池袋店販売促進部でディスプレイや店舗内装の仕事をしていた頃、しかも20代半ばの頃のことです。兄・堤清二の西武流通グループと弟・堤義明率いる本家西武鉄道グループの反目、愛憎劇は昔から知る人ぞ知る事実だったのですが、社員である我々は経済評論家:針木某の経済誌記事や週刊誌ネタでしか知りようが無く、お互いの心の内など知る由も有りませんでした。ただ80年代半ばというのは、兄・清二が流通業以外に「総合生活産業」を標榜して、ホテルやデヴェロッパー事業に進出する以前でして、二人の関係=両グループの関係が、比較的険悪でなく、一例としてセゾンカードがプリンスホテルで使えたりしました。

 ここでふと思いつきましたが、西武鉄道グループという表現は、今にして思うと、西武流通グループ、のちのセゾングループ側の言葉であって、いまでいうコクド・グループ側、すなわち西武鉄道、プリンスホテル、西武建設、西武不動産、国土計画・現コクド?、豊島園などの社員は、自らを西武鉄道グループと称したかは不明ですねえ。80年代半ば以降、流通グループ内に、セゾン○○や西洋○○と冠する企業ができ、兄・清二が弟の領分であったデヴェロッパー事業に進出すると、一切関係が切れてしまいました。それからは「西武グループ」と言えば鉄道やプリンスであり、流通は「セゾン・グループ」になった訳です。

 ここでやっと本題、数少ない両グループの交流関係のひとつに、二人の父・堤康次郎の「墓守」という仕事があったんです。堤康次郎は、東急グループの創始者・後藤慶太が「強盗慶太」と呼ばれたのに対し「鉄砲康次郎」と言われた稀代の山師的実業家であった訳ですが、戦後衆議院議員なども務めた後、昭和30年代に没しました。もとは近江商人であったので、お骨は滋賀のほうに有るのでしょうが、実質的に企業の母胎があった関東地方では、鎌倉の鎌倉霊園にもお墓が有りました。西武鉄道グループの幹部は毎年正月に、この鎌倉墓所に一同に会し、弟・義明以下全員で新年の挨拶を行うことが恒例行事でした。この風習も2005年のコクド株違法操作事件のあおりで、とうとう中止になってしまいましたが、逆に事件報道の関連で新聞やTVに取りあげられたため記憶に有る方もいらっしゃるかもしれません。

 創業二代目のワンマンオーナーカンパニーでしたら、別段西武鉄道グループでなくとも、先代の墓詣りに社員が行かされることは不思議では無いでしょうし、創業者の墓でなくとも、自社ビルの屋上に神社を設け総務部の社員がお参りしている企業は今でも数多く有ると思います。しかし西武鉄道が異様だったのは、正月の墓参だけでなく1年365日社員が墓守をしていたということです。そして80年代半ばまでは、その365日のうちほんの1日か2日だけ、西武百貨店の当番の日があったんです。これが百貨店だけに割り当てられたのか、パルコの社員や西友の社員も年に1、2日など割り当てがあったかは不明です。何にせよ、その希有な輪番制墓守の業務に、何と私も行かされたことが有るんです。

 安全管理部(営繕や建築、防犯などのセクション)の課長さんと二人でペアを組まされた私は、当日社に出勤のあと、午後から鎌倉にある鎌倉霊園に向かいました。多くの霊園がそうであるように、鎌倉霊園も山を囲んだ立地でして、入り口の管理事務所で申し出ると、車を出してくれ、どんどん上にあがっていきました。やっと着いた堤康次郎の墓所は霊園のほぼ頂上にありました。一般の墓所とはエリアが違うことを明示するためか、康次郎の墓はまわりが生け垣で囲われており、門扉のすぐ先に二階建ての小さな一軒家があり、これが堤康次郎のお墓専用管理事務所でした。多分、命日や正月の墓参りの際に1階の土間が集会所になるんでしょう、日中は専従の管理人がちゃんといるんです。墓守はその管理人が帰った後、夜中の仕事だったんです。我々は2階の十畳ほどの畳の間を待機場所兼仮眠場所としてあてがわれ、そこに一晩寝泊まりした訳です。仕事自体は大した作業量ではなく、夜中に確か3時間おきに見回りに行くことと、確か朝方鐘を突くことだけだったのじゃないかと思いますが、いまや記憶もかなりあいまいになってしまいました。

 墓所は、鎌倉霊園の最上部にさらに小山のように一段盛り上がった敷地で、もちろん一般人は入れず、その有様はまさに、円墳とか、古代の御陵そのものでした。一人の墓が御陵みたいなんて、なかなか滅多に有る話じゃないと思います。権力への妄執ってすごいんですね。ただし墓石自体はかなり小振りで地味なものでした。当時から本当にそこに康次郎のお骨が分骨されているのか良く分からなかったそうですから、墓石自体より、小山のような敷地と大勢の社員が集まれるスペースという意味合いが大事だったのかもしれません。年長の安全管理部の課長さんを立てつつ、交替で夜回りし、二階の寝所にあった康次郎の業績を記したアルバムなどを繰っているうちに、すぐに夜が明け、康次郎の怨霊がなにゃら祟るんじゃないか(^o^)など言った怪談めいたことが起きるわけででは勿論なく、特筆することも無いまま、つつがなくその墓守当番は終了しました。その日は明け番でそのまま家に帰ったのか、迫った発注締切のため社に戻ったのかも定かでは有りませんが、通常業務を一晩だけ寸断した、古式豊かというべきか、公私混同甚だしいというべきなのか、不可思議な、いや奇ッ怪な仕事はこうしてあっけなく終わってしまいました。なお私の当番だった年から数年を経ずして、セゾンとコクドの関係が決定的に分断された事に伴い、兄・清二さんは、この墓守当番を断り、以後、西武百貨店からは誰も行っていないはずです。鉄道グループでさえ2004年を最期に正月詣でを中止したそうですから、1年365日の墓守夜勤交替勤務も続いているかも不明ですが、近代の企業において、こういった土着的・封建的な行事が有ったのだという事実には変わりが有りません。あるいは封建的と言う日本古来の文化としての文脈で語るべきではなく、単なる独裁政治の結果と言うべき代物かもしれません。しかしいずれにせよ、こういう風土はもはやコンプライアンスの名のもと、21世紀に許されようも無く、鉄壁の資本持ち合いと評されたコクド以下の西武鉄道グループも、意外にあっけなく瓦解の時が来てしまったようです。ただ墓守に象徴される滅私奉公の御旗の下で、コクドの前社長や総務部長さんなどが操に殉じ、秘密を抱いて自殺されてしまったのは、アンシャン・レジームの最期の犠牲者だった訳で、あだやおろそかな事は言えませんね。私自身、墓守の一件だけでこのようなアンシャン・レジームの一端を垣間見ただけであり、西武百貨店の頃から今に至るまで、大の大人が「○○ちゃん」とちゃん付けで呼び合う業界(^_^;)に居るもんですから、圧制の内側の人の気持ちや風土については、やはり肌感覚で理解することはできません。

2005.03.13