川崎サポーターの歴史

 

 <1996年:富士通川崎時代>  


96年当時のサポーター

        ↑サポーター部分拡大
 この頃はまだちゃんとしたサポーターらしき団体は形成されておらず、中原区商店街連合会青年部+富士通の社員の応援団と言った感じでした。メインスタンドの入場口を上るなり、「富士通川崎応援の方はバックスタンドにお回りください!」と常に呼びかけているおじさんが居たことを強く覚えています。人集めは積極的で、「バックスタンドに来れば、源平(当時のFW)のサインあげるよ!」なんてよく聞きました。

 サポーターの陣取る位置はバックスタンド中央ややホームよりで、97年にファンクラブ会員になるともらえたガイドブックにも、集まる場所として紹介されていました。

 あと、写真を見ておわかりの通り、当時はスーツやYシャツ姿の観客が非常に多かったです。

 

 <1997〜1999年:川崎フロンターレ発足〜J1参入決定戦〜J2優勝で昇格決定>
 残念ながら、この頃サポーターの姿が写っている等々力での写真がありません…。なぜなら、バックスタンド(今ではいわゆるGゾーンやアウエイ側のGゾーン?とよばれるところに居たので、サポーターは2階席に居たため写らなかった)から選手を撮るのに必死になっていた頃だったので、偶然写ったと言うのもないのです…。唯一写ってる写真は、J1参入戦出場を獲得した98年10月の国士舘大戦@駒沢でとったこの写真。

 チーム発足当初は引き続き中原区商店街連合会青年部が中心となっており、このサポーター集団はESPRITO AZUL(青い魂)という名前で呼ばれるようになりました。

↓写真左上隅がサポーター         

 J1昇格決定戦で苦い思いを経験したフロンターレは、99年シーズンに悲願のJ1昇格の夢を達成させる。このシーズンも相変わらずバックスタンドで一眼レフを構えていたので、サポーターの写真がないと思っていたが、偶然にも一枚だけ発見。現在、Gゾーンと呼ばれる場所も、昔はのんびり試合を観戦する場所の一つに過ぎませんでした。

 このシーズンに、1万人大作戦と称する集客作戦を決行(9月の札幌戦、10月の東京戦)し、成功した。初の1試合1万人超の集客を記録する。

 

 <2000年、J1>


J1ホーム開幕戦(3月18日、vs鹿島)

 


今後、見られない光景。等々力アウエイ側を陣取るフロンターレサポーター。(4月22日、川崎ダービー)


大体この位置がコアサポーターの中心の定位置でした。(11月11日、vsC大阪)

 

 <2001年、再びJ2へ>


2001年開幕戦。一角に密集するサポーター。

 この年は自らサポーターゾーンには入ってしまった、という理由でスタジアム全体の雰囲気がわかるようにサポーターが写っている写真がない。しかし、コアなサポーターの様子がわかるような写真は何枚かあります。この年は降格1年目&結果が振るわず、観客が減る一方で今思えば大変な時期でした。しかし、山形の昇格を阻止したり、天皇杯では4強になるなど年末に輝きを見せはじめたフロンターレ。この辺からフロンターレのことを知っている人が増えてくるのではないでしょうか。

 現在の応援の中心、川崎華族はこの年に誕生。


平日開催となると、コアサポも集まりが悪かった。

 

<2002年、Gゾーンの誕生>

 相変わらず、Gゾーンに出没していた訳なんですが、ホームページ作成に目覚めた頃でもあり、様々な角度から写真を撮ろうと思うようになり、写真撮影のパターンが多様化した年でもありました。

 この年からは原則2階席の開放が禁止され、いわゆるGゾーンが誕生しました。また、この頃は1ブロックに密集する程度で、その左右には空席が目立っていました。

 そして、10.13セレッソ戦の等々力満員大作戦では見事2万人を超える入場者数を記録!ホームゴール裏〜Gゾーン〜バックスタンドまできれいに青く染まりました。

 

 <2003年、サポーター急増期>


2003年前期、2002年に比べ、サポ数やや微増。

 この年は今までにない盛り上がりを見せた1年でした。声を出して応援する人が増え、Gゾーンも拡張していきました。

 記憶に新しい10.4新潟戦と11.23広島戦。第4クールでかなりサポーターの数が増えたのではないかと思います。