朝倉涼子の面影〜恋文〜 新章:confess

 朱色の光が差し込む部屋の中、室内を満たしている消毒液の匂いは、ここに連れ込まれてすぐに嗅覚が麻痺を起こして感じない。だから俺が目を覚ましたのは、その匂いが理由じゃない。俺を目覚めさせたのは、手に触れる柔らかくて温かい感触だった。
 その感触を、俺は覚えている。手の平そのものを包み込むのではなく、遠慮がちに俺の指を包み込むように握り、けれどその手には力が込められた握り方。薄目を開けると、ぼやけた視界に人影が見える。
「朝倉……?」
 昨晩の記憶が蘇り、何故かそう口にしてしまった。昨日、俺の手を握っていたのは朝倉だったが、でもそれはミヨキチで……いやでも二人は同じで……ダメだ、寝惚けた頭じゃ考えがまとまらない。
「あ、起こしちゃいました?」
 パッと手を離して話しかけられる。……あれ? 違う。そこにいるのは朝倉じゃない。声が違う。しゃべり方も違う。
「あ……朝比奈さん?」
 保健室のベッドの横、椅子に座って遠慮がちに俺の手を握っていたのは朝比奈さんだったようだ。いったいいつからそこにいたんだろう……ってか、今何時?
「もう放課後。キョンくんが保健室で休んでるって涼宮さんから聞いたの。気持ちよさそうに眠ってたから、起こすの悪いかなって思って」
 てことは朝比奈さん、俺が寝てる間、ずっと見てたわけですか。あんまりいい趣味じゃないですよ、それ。
「うふふ、ゴメンね」
「でもなんで朝比奈さんが……あ、そうか」
 学校で落ち合おうと言ったのは俺の方だ。忘れていたわけじゃないが、こんな時間までほっといて、何やってんだ俺は。
「こっちこそすみません。えと、ハルヒや古泉は?」
「涼宮さんはもう帰っちゃいました。みんないなくて退屈そうでしたよ。古泉くんは……今日は見てません。それと長門さんですけど……やっぱり、見かけませんでした」
「そうですか」
 ハルヒが退屈そうってのは……由々しき事態だな。古泉がいないのも、ハルヒの退屈で変な事が起きて『機関』がゴタついてるから、かもしれない。そうでなくて、俺のフォローで奔走して忙しい、と祈るばかりだ。閉鎖空間で赤玉になるよりはマシだろ。
 そして長門……いつも決まったところにいるヤツが行方不明とはね。一番話を聞きたい相手だったんだが……いないんじゃなぁ……。
「昨日の……あの、キョンくんが撃たれたことですけど。あれってやっぱり、長門さんがやったんでしょうか……?」
 ここにいないSOS団のメンバーのことを考えて黙っていると、朝比奈さんが伏し目がちに問いかけてきた。そのことで不安に思う気持ちはわからなくもない。むしろ、俺も不安で仕方がない。仕方がないが、ハルヒの言葉も忘れたわけじゃない。
「朝比奈さん、これ見てくださいよ。この青あざ」
 ぺりぺりっとハルヒの貼ったガーゼを取ると、自分で言っといて何だが、殴られた口元はそれはもう見事なまでに青黒くなっていた。あの野郎──野郎じゃないが──ともかく、あのバカ力で遠慮無しの一発かましやがったんだな。
「わっ! ど、どうしたんですかそれ?」
「ハルヒに力一杯ぶん殴られたんですよ。あいつ、勘が良いですからね。こそこそやってるのに勘づいて、何やってるのか白状しろって問いつめられましたよ」
「うわぁ……。い、痛そうですね。それで、白状……しちゃったんですか?」
「まさか。あいつに言えるわけないじゃないですか。そんなことしたら世界の終わりですよ。死んでも口を割ることなんてできないでしょう?」
「そうですね」
 くすくすと笑う朝比奈さんに、俺は胸の内で安堵する。それでこそ、俺も殴られた甲斐があるってもんさ。
「そんなハルヒが言ってましたけど、あいつはSOS団のみんなを信用してるらしいですよ。それで俺はどうなんだって聞かれましたけど、もちろん俺だってみんなのことは信用してます。朝比奈さんもでしょう?」
「も、もちろんです! 皆さんはあたしにとって大切なお友だちですし、信用も信頼もしてますっ」
 ぐっと両手で握り拳を作って力説する朝比奈さんの姿に、頬が弛む。その台詞を是非、ハルヒに直接言っていただきたものだ。そのときのハルヒがどんな表情を見せるか想像しただけで笑えてくる。
「なら、長門のことも信用しましょう。いろいろ不可解な行動が目立ちますけど、あいつのことだから何か考えあってのことですよ。それが何なのかわかりませんけど……ま、相手は宇宙人ですからね。わからなくて当然です」
「そっか……そうですよね。あたしたちが信用しなきゃですよね」
「そうですよ。で、話は変わりますけど……俺たちが時間遡航したときに会った、あの野郎の言葉……どう思います?」
 朝比奈さんと学校で落ち合う目的は、その真偽を確かめるためだ。
 あの未来人野郎は気に入らないが、それでも未来からやって来ている。そして歴史を知っている。個人が気に入らないからと、その話をすべてウソと決めつけて、その結果、未来が変な具合に捻れるようなリスクを背負いたくはない。
「それは……ごめんなさい。未来のことについては何も話せないの」
「ええと、じゃあ質問を変えます。あの野郎は時空改変がどうのこうの言ってましたけど、朝比奈さんには思い当たる節がないんですよね? それは、どういうことなんですか? それも話せませんか?」
「んと……キョンくん、去年の夏のこと覚えてますか? 涼宮さんが引き起こした終わらない夏のこと」
「それはまぁ、忘れられませんね」
「あのとき、あたしたちには繰り返して上書きされた日々の記憶はなかったけど、長門さんは覚えてましたよね? そのとき、繰り返した同じ日に、あたしたちは必ずしも同じことをしてたわけじゃないですよね?」
「そう……らしいですね」
 あの一万五千ン百回と繰り返した日々の中で、長門が言うには盆踊りに行ったり行かなかったり、金魚すくいをしたりしなかったりしたらしいな。
「その『異なった同じ日』も広い定義で言えば時空改変なんです。重要なのは終わらない夏が始まり、無事に九月一日が訪れることなの。その途中、あたしたちが盆踊りに行っても行かなくても、関係ないんです。物語には起承転結が必要ですけど、歴史の場合は『起』から『結』に至るまでの『承』と『転』の辻褄さえ合っていれば、どんな経過のお話でも構わないの」
「なるほど」
 なんて同意しているが、いまいち分かってない俺がいる。もっと砕いて言えば……あ〜、例えば俺が学校から自宅まで帰る道のりをひとつの歴史だとすると、その道のりが徒歩でも自転車でも構わない……ってことでいいのかな?
「たぶん、あの人の言う『時空改変』は、ひとつの歴史の大きな流れの一コマを人為的に書き換えたこと……だと思います。だから、あたしは知らないことなのかも」
「あの野郎が言うには……朝倉が人になることで歴史に影を落とすってことですが、それについて思い当たる節は?」
「これからの歴史がどうなるかは……ごめんなさい、話せません。でも、キョンくんも歴史の授業で習ったことを思い返せば、これからの歴史を想像できるんじゃないかしら?」
 それは……歴史は繰り返すってことかな。
 あの野郎の話は信用できないが、これから先の未来の歴史を知るSOS団の朝比奈さんの言葉は信用しよう。その朝比奈さんが、あの未来人野郎の発言に思い当たる節があるって素振りを見せてくれた。禁則事項で何も喋れない隙間を上手く突いて、聞き出せたってことだ。
 だから確信が持てる。あの野郎の話は事実だ。俺を狙撃したのが長門で、朝倉は人になるために時空改変を行おうとしている。それは間違いない。
 それだけわかれば十分だ。十分だが、それだけに未来人野郎の言葉が重くのしかかる。
 ──野蛮な解決方法がひとつ残されている……
 それは……そういうことなのか? それを、俺にやらせようって言うのか?
 ミヨキチの中に朝倉がいるとわかってから、ずっと胸の中でモヤモヤしていた気持ちがある。それがここに来て、ようやく形を見せ始めた。
 今回の出来事は、どうやらほかの誰かが原因の出来事に俺が巻き込まれたわけではなく、俺が中心になって巻き起こっている厄介事のようだ。しかもこれまでにない、ヘヴィな結末が用意されている……だろうね、今の流れだと。
 他人の厄介事に巻き込まれるのは別に構わない。そのことについては、冬のあの日に覚悟を決めた。呑気な傍観者を廃業して、慌てふためく当事者になろうと決めた。
 けれど今は、今回の出来事は……そのために、俺がこの手で……?
「キョンくん……何を考えてるんですか?」
「え?」
 強張った朝比奈さんの声。あれこれ考えていた俺の思考が最悪の『結論』に達する前に、強制終了させられる。
 いかん。ホントに俺は何考えてるんだ。いくらなんでも、それはさすがに……な。
「いや、長門はどこにいるのかな〜って考えてただけですよ」
「……キョンくん、今すごく怖い顔してました。何か……あるんですね? キョンくん、何をしようとしてるんですか?」
 不安というよりも、怯えを見せる朝比奈さんに俺は困惑した。普段はどこか天然入ってるのに、なんでこういうときだけ鋭いんだ。女の直感は侮れないね。
「俺は別に何もしやしませんよ。したくても、何もできないじゃないですか。だから、心配しないでください」
「本当ですね?」
「ハルヒ相手ならともかく、朝比奈さんにウソなんて吐きませんよ」
 よくもまぁ、そんな台詞が言えたもんだ。我ながら感心するね。
 ……ホントに。

「キョンくん、今日は一緒に帰りましょう!」という朝比奈さんの言葉は鬼気迫るものがあり、とてもじゃないが拒否する気力も根性も持ち合わせてない俺は、どこぞの居酒屋よろしく「よろこんで!」と答えた。
 俺が何かをしでかすと思っているらしい。別に俺の方からアクションを起こすつもりはないんだが、朝比奈さんがそう思いこんでいる以上は何を言っても無駄そうだ。このままじゃウチまで着いてきそうだが、俺は自分の家に戻るつもりはない。朝倉の……というか、長門のマンションに向かうつもりでいた。
 行方を眩ませているのは長門だけじゃない。美代子もどこかに消えてしまった。長門よりも美代子の心配をするほうが先かもしれん。中身は朝倉とミヨキチが半々、外見はミヨキチそのものだからな。もし変なのに襲われたら、自力で切り抜ける術はない……って、平和な日本でそんなことを考えなきゃならんとはね。平穏な日常は遠い昔だな。
「ん……?」
 校門で朝比奈さんと待ち合わせして、下駄箱でのこと。どうやら俺は下駄箱じゃなくて郵便受けを開けたらしい。
 いや、郵便受けでもないな。放り込まれていたのはノートの切れ端。これはどう見ても郵便物じゃない。ま、日本の旧郵政省は干しイカに規定の切手と住所を書き込めば届けてくれたらしいからな。ノートの切れ端に書かれてある文字は手書きは間違いなさそうだが、ワープロで打ち込んだような文字だ。
『光陽園駅前公園で待つ』
 これは何の果たし状だ。今の世の中、法律で決闘は禁止されてなかったかな? それは乱闘だっけ? ともかく、呼び出すなら呼び出すで、もうちょっと色気のある手紙で呼び出してほしいもんだ。
 しかし、文句も言ってられない。これは待ちに待ったコンタクトだ。
 長門……これは、おまえからの呼び出しと考えていいんだよな?

 校門で待ちかまえる朝比奈さんを連れて行っていいのか迷う。
 長門の置き手紙にはそのことについて何も書かれていなかったが、よくよく冷静になって考えれば連れて行くわけにもいかない。もしそれでOKなら、何も下駄箱に手紙なんぞ投げ込まなくて直接姿を現して言えばいい。それをしないということは、俺一人で来い、と言ってるんだろう。
 仕方がない。校門で待つ朝比奈さんと二人っきりで下校するという夢のようなシチュエーションは次の機会に延期だ。
 先に校門で待っている朝比奈さんに直接会うわけにはいかない。今の朝比奈さんなら、何を言っても着いてくる。仕方ないので、帰ろうとしていた見ず知らずの女子生徒に校門で待つ朝比奈さんへの伝言を頼むことにした。急用が出来たから先に帰る、と。
 その伝言を聞いたらしい朝比奈さんは、そりゃもう遠目に見ても慌てている風だった。辺りをキョロキョロ見渡した後、一目散に地獄のハイキングコースを駆け下りていった。
 やれやれ、思惑通りとは言え、学校から出るにはそのルートしかないんですよ。先に校門で待ってる朝比奈さんに気づかれずに帰れるわけないでしょう……本当にすいません。

 すっかり薄暗くなった町中を走り、指定された公園に滑り込むと、等間隔で立ち並ぶ街灯の下、既視感を覚えるほどに酷似した姿で長門はベンチに腰を下ろしていた。
 微塵も動かない。たまに吹き抜ける風が髪を撫でて吹き抜けるが、それでもその細っこいシルエットは動かずに、ジッと虚空を見つめ続けていた。幽霊でも、もうちょっと愛想があるだろうと思う姿だ。
「よう」
 いったい何を見ていたのか、それとも物思いにふけっていたのか、長門は俺が声をかけるまで動かなかった。むしろ俺が声をかけて、初めて気づいた、と言わんばかりにわずかに眉を動かす。今日まで姿を眩ませていた奇行といい、今の反応といい、らしくない。
「昨日の部室から今までか。短い間なのに、ずいぶん長いこと会ってない気がするな。ちゃんと説明してくれるのか?」
 問うと、長門は肯定も否定もせずに腰を上げて歩き出した。暗に『着いてこい』と言ってるようなので、俺は嘆息してその後に続く。
 向かう場所は案の定、マンションだ。朝倉の505号室ではなく、長門の部屋。そこには喜緑さんの姿は当然なく、他に誰かがいる気配すらない。完全に長門と俺の二人きり。
 コタツの前に腰を下ろし、その正面に長門が座る。何があってもお茶くらい出してくれるのに、それすらない。表層的にはいつもと変わらないのだが、なんというか、心ここにあらず、って感じがする。何を考えているのか……いや、迷っているのか? 今の長門が何をどう思っているのか、察することもできない。
 一向に口を開かない長門を前に、仕方がない、俺の方から聞くべき事を聞くしかなかった。
「昨日、俺を狙撃したのはおまえか?」
 こくん、と頷く。
 そして沈黙。
 こうなってくるともう、ため息すら出やしねぇ。長門も俺とにらめっこするために呼び出したんじゃないだろう。貝じゃあるまいし、口を閉ざされても俺にはテレパス能力なんてないんだ。考えを読み取ることなんてできやしない。
「喜緑さんから聞いたんだが……あの狙撃、本来はミヨキチを狙ったものなんだってな。携帯を狙ったんだっけ? ともかく、おまえならあそこにいたのが俺だってわかってたはずだ。それでも撃ったのは何故だ?」
 伏し目がちだった長門が、ようやく顔を上げる。俺の目を真っ直ぐ見つめて──一言。
「楔」
 ……さて、どうしてくれよう。ここまで口の堅い長門は初めて見る。普段もそりゃ無口だが、聞けば答える口は持っている。にもかかわらず、今日は問いかけてもロクな返答をよこさない。意識的に黙ろうとしているとしか思えない。自分から呼び出したってのにな。
「わかった。もう、いい。俺のほうからいろいろ聞くのはやめよう。それでも俺を呼び出したのは長門の方だ。その理由だけは聞かせてくれるんだろうな?」
 本当ならいろいろ聞きたいさ。朝倉のことや今まで姿を眩ませていたこと、さらに行方不明のミヨキチのことだって、長門なら知っているだろう。そんな気はする。するが、聞くのは諦めた。今の長門は俺の質問に答えるつもりはない。あるいは、答えられない。そのどちらかだな。それでも俺を呼び出したのには理由があるはずだ。
「……明日、朝倉涼子が時空改変を行う時間と場所を伝えるため」
 やや躊躇いがちに、長門はそう言った。
「時刻は明日の水曜日、十七時三十五分。場所は北高のあなたの教室内。そこで、行われる」
「そこに俺は行けばいいのか?」
「逆。決して近付かないで」
 近付くな? だったらなんで、俺に場所と時間を教えるような真似をするんだ。
「知らなければ、あなたは必ずそこに行くから」
「知っても、俺は行くぞ」
「ダメ」
 いつもより、断固とした口調で長門は言う。そこで行われるという、朝倉主体の時空改変がどんな意味を持つのか、長門には予想できているようだ。
「朝倉はそこで、人になるのか」
「そう」
「人になって、あいつは何がしたいんだ?」
 ──沈黙。
「ミヨキチはどうなる?」
 ──沈黙。
「おまえに朝倉を止められるのか?」
 ──沈黙。もう、いい加減にしてくれ。
「なら最後に聞く。俺なら朝倉を止められるか?」
 ──沈黙……のあとに、わずかに首を縦に振る。
 そうか、やっぱり俺じゃないとダメなんだな。なら、覚悟は決めるさ。
「わかった。それならそれで仕方がない」
 俺は腰を上げた。長門には悪いが、やっぱり朝倉が時空改変を行うその場所には俺が行かなくちゃいけないことなんだと思う。他の誰かに肩代わりをさせられることじゃない。
「明日の放課後、俺は朝倉に会うよ。そうでなきゃ、話は終わりそうにない。悪いな、長門」
「待って」
 部屋を出ようとしたところ、背後から長門に引き留められた。言葉だけではなく、俺にしがみつくように、長門の細い腕が腰に回される。
「ごめんなさい」
 呟くように、囁くようにこぼれる長門の謝罪。何も長門が謝る必要など何も……あれ? なんだ急に……目の前が……。
「……ごめんなさい」
 再び耳に届く謝罪の声。
 しまった……まさか長門がここまで強硬な手段に出るとは思わなかった。抗おうにも到底不可能な睡魔が襲ってくる。睡魔というよりも、意識そのものを断ち切られそうな感覚。
 ここで気絶するわけには……けれど……。
「な……がと……おまえ……」
 俺が最後に見たのは、長門の今にも泣き出しそうな顔だった。