朝倉涼子の面影〜恋文〜 序章

『突然このようなお手紙を差し上げること、心からお詫び申し上げます。この手紙が貴方にとって甚だ迷惑なことは重々承知しておりますが、私はどうしてもこの気持ちを伝えたいと思い、したためる決意をしました。
 私は、貴方のことが好きです。
 貴方は私のことを覚えておられないかもしれません。それも仕方のないことだと思います。けれど私は、貴方とともに歩いたあの日のことを忘れられず、ただ私が勝手に恋慕の情を抱いているにすぎません。自分でも恥ずかしく、貴方にとっては気味の悪い思いを抱かれていることでしょう。
 それでももう一度、一度だけでいいのです。貴方の横を歩き、一言声を交わすことを許していただきたいと思います。
 もし私の願いを叶えてくださるのなら、次の土曜日に駅前の公園に来ていただけないでしょうか。私は白い帽子をかぶって、貴方が来ていただけるそのときまで、ただただお待ち申し上げております』

 と、書道二段は間違いなさそうな楷書で書かれた手紙を見つけたのは、日の暮れた金曜日の放課後のことだった。いつものようにSOS団の部室で古泉とゲームに興じ、ハルヒがぐでぐでとPCでネットサーフィンに没頭し、朝比奈さんのお茶を堪能して、長門が本を閉じる合図で帰る頃合いとなった放課後の俺の下駄箱の中に、それはあった。
 最初にそれを見つけたときは、嫌な予感がしたもんだ。俺の下駄箱は、どういうわけか未来人御用達の特製ポストになっている。また面倒事に巻き込まれるのかとさえ考えた。
 けれどその封筒は、朝比奈さんが愛用しそうな可愛らしいものではなく、どちらかというと履歴書でも入っていそうな白い封筒だった。
 宛名は書かれておらず、差出人の名前すらない。そして中を開けて読んでみれば、ずいぶん堅苦しい文面だが、「好き」という言葉からラブレターだと思われる。
 真っ先に思ったことは、ここから考えられる展開は二つだな、ということだった。
 まず、これは本当に俺へ向けて出された手紙なのかということ。
 差出人の名前も書いていなければ、愛する相手の名前すら書いてないときたもんだ。おまけに俺と一緒に歩いたことがあるとか言ってるが、残念なことにそんな淡い思い出は、頭の中の引き出しをひっくり返しても思い当たる節がない。となると、手紙を入れる下駄箱を間違えてるって可能性を考えなきゃならん。
 そしてもうひとつの可能性は、これが誰かのイタズラかもしれないってことだ。ハルヒが……ってのはなさそうだが、谷口あたりなら嬉々としてやりそうなこった。生まれてからの十六年、今まで一度として恋愛沙汰の経験が皆無なもんだから、そんなヒネクレた考えが脳裏を過ぎるのも仕方がない。
 ここまで熱烈なラブコールが、本当に俺宛とはどうしても思えないんだ。間違いかイタズラの二者択一と思うのは仕方がない話ってもんさ。
 ──さて、どうしたもんか……
 生まれて初めて手にしたラブレターに、何故か心躍るのではなくため息が漏れる俺は、いろいろな意味で病んでるのかもしれないな、と思った。

 どうしたもんか……なんて心の内で考えたが、どうもこうもない。翌日の土曜日、俺は手紙に書かれていた場所へ向かっていた。
 これが宛先間違いの手紙なら、そのことを教えてあげるべきだろう。またイタズラだとしたら、こんなくだらん真似をしくさった相手をたしなめてやるつもりだ。拳で。
 そんな気持ちで手紙に書かれてあった待ち合わせ場所にたどり着く。遠目で見てすぐに気づいた。つばの広い白い帽子をかぶった女性が一人、街灯の下で静かに佇んでいる。
 顔は見えない。見えないというか、後ろ姿なのでわからない。ただ、腰まで届く長い髪が、日の光を浴びて深緑色に輝いて風になびいている。
 たぶん、彼女がラブレターの差出人なのだろう。周囲に人影はないから、間違いない。ということは、イタズラの可能性はこれで消えたわけだ。逆に、宛先間違いの可能性が高くなったわけだが……どちらにしろ、まずは彼女に声をかけなければならない。
 ……えーっと、なんて声をかければいいんだ? ここは爽やかに「やぁ」とでも言えばいいのか? それとも無難に「こんにちは」なんだろうか。
 下手すりゃ相手は俺のことを知らないかもしれない。ナンパ野郎と勘違いされるのは俺としても不本意なんだが……そんなことで悩む必要もなかったようだ。
 俺が近付くと、彼女は気づいて体ごとこちらに向き直った。広い帽子のつばで、その顔はわからない。右手で左手を覆うように握り、優雅に会釈した。
 おいおい、マジで俺だったのか? 彼女が待っていたのは俺で間違いないのか?
 こんなことを期待していなかったわけではないが、それが現実ともなれば少なからず動揺する。足は前に進むが気持ちは後ろに逃げ出しつつも、相手の方からも近づき、手が届きそうな距離になってから、俺は改めてラブレターの主を見た。
 背は俺より低い。俺の首の付け根くらいが彼女の頭のてっぺんだ。だから、ここまで近付いても表情が読めない。鼻孔をくすぐるのは、シャンプーか香水かわからないが、彼女の香りか。その香りは……俺のザルのような記憶力を多少なりとも復元してくれた。
 この香り、どこかで嗅いだことがある。ごく最近のような気もするし、遠い昔のことかもしれない。ただ、妙に心が粟立つのは何故だろう。嫌な香りじゃないんだ。にもかかわらず、飯を食った後の全力疾走のように横腹が痛む。
「えっと……」
「ご無沙汰しております、お兄さん」
 その声を聞いた瞬間、正直な感想を言えば「やられた」ってとこだろう。この再会は予想外だが、あの手紙の文面をよくよく思い返せば、なるほど、確かに俺は彼女と一緒に歩いたことがある。妙に粟立った気分も吹っ飛ぶってもんだ。
 こういうのも、サプライズと言うのかね? 俺を驚かせようとして、あんな文面にしたんじゃないだろうか。
「名前を書いててくれれば、すぐにわかったのに。俺の名前すら書いてないから、何かの間違いかと思ったぞ」
「ごめんなさい。自分の名前を出すのは恥ずかしくて……。それに、お兄さんの名前、実は知らなかったんです。彼女はいつも『キョンくん』って呼んでるし」
「彼女?」
「お兄さんの妹の……」
 ああ……まったく、こんな所にまで俺の妙なあだ名を広めなくたっていいだろう。年上を敬う気持ちをそろそろ育ててくれ。
「あの、それが本名じゃないですよね?」
 いくらうちの親だって、自分の息子にそんな情けないアホみたいな名前は付けない。そんな真面目に聞かれても、逆に俺が困る。
「俺の名前なんてどうでもいいが、それよりあの手紙……あれは、」
「はい、わたしが。ご迷惑だと言うことは、わかっています。でも、ごめんなさい。今日一日だけでいいんです。今日一日だけ……」
 尻すぼみで小さくなっていくその言葉は、最後に何を言ったのか聞き取ることはできなかった。できなかったが、察しは付く。ここで聞き返すのは野暮ってもんだし、俺が言うべきことは、その申し出に対しての答えだけで十分だ。
「あ〜……今日は、どっちにしろヒマな一日なんだ。だから、今日くらいなら付き合える。ただ……それ以外のことは、全部棚上げでいいか?」
 今日一日付き合うということは、相手にちょっとは期待させているに他ならない。にもかかわらず、肝心なところは棚上げなんて、自分でも都合が良すぎる、とは思うね。
 けどな、相手がどんなに美人でも、まだ中学生にもなっていない幼さだ。申し訳ないが、恋愛感情がわいてくることはない……と思う。
 だから返答に窮するのは仕方がないじゃないか。だからこそ、俺はそんな曖昧な返事しかできなかった。
 にもかかわらず、彼女の言葉は「ありがとうございます」であり、彼女の──。
 吉村美代子の表情には、満面の笑みが浮かんでいた。