吉村美代子の奔走 エピローグ

 一度捻れた話というのは、元に戻そうとしてもなかなか戻らない。深い禍根があればあるほど、たとえ司法の手に委ねて「仲直りしろ」と言われても、表面的にはそうするだろうが、腹の中はどうなってるのかわかったもんじゃない。
 そんなことを思うのは、目の前をウキウキ気分のハルヒが目の前を歩いているからだろう。どうしてこんなことになっちまったんだと、今さらながら思わずにはいられない。
 例えば──佐々木のこともそうだ。


「佐々木、どうしておまえがあんな手助けみたいな真似をしてくれたんだ?」
 屋上での一幕を終えて、帰り道で佐々木にそれとなく聞いてみれば、さも意外という顔をされた。
「親友が困っているときに手を差し伸べるのは当然だと思うのだがね。キミは違うと言うのかい?」
「いや、俺だってそうするさ。けど、今回のことは……おまえにとって、取り巻く環境というか状況的に、あまり穏やかな話じゃないと思うんだが」
 佐々木がしたことは、結局俺を助ける以外にも長門のことも助ける結果になった。それだけじゃない、朝比奈さんにとっても佐々木の介入は助けになっただろう。そうなることは、佐々木を取り巻く連中にとって嬉しい話ではないんじゃないのか?
「それは関係ないね。確かに彼らにも思うところはあるだろうし、僕にやらせたいことというのもあるだろう。悪く言えば利用する、されるという話だが、それは多かれ少なかれ、他者と関わりを持つ際には発生してしまうことだ。もちろん、僕とキミとの間にもね」
「俺は別におまえを利用するつもりはないが」
「意識するかしないかの問題だよ。だからさ、そのことで文句を言うつもりはない。もし利用するのなら、僕に悟られることなく上手に利用してくれと言いたい」
 それはつまり、佐々木は自分のことを上手くコントロールしてみせろと挑戦しているわけだろうか。俺には到底できそうにないな。
「そうかい? 難しく考えることはないと思うけどね。要は僕が僕自身の考えで行動するように仕向けるだけの話さ。僕は僕自身の考えでの行動に文句を言うつもりはない。逆に、文句を言わせるつもりもない」
「だから……手を貸してくれたのか?」
「そうだよ。僕はキミの助けをすることに嫌悪はないからね。むしろ喜んで手を貸すさ」
「何でそこまで?」
「何故? 何故と聞くのか、キミは」
 いや、佐々木の言いたいことはわかるし、考え方にも納得できる。ただ、どうしてそこまで俺に手を貸してくれるのかなぁと、ただそのことにだけが気になっただけだ。
「そうだね、敢えて理由付けをするのなら……築き上げた友好を壊すのがもったいない、と言うところかな。敵対するのは簡単さ。差し伸べられた手を払い、唾を吐けばいい。けれど互いの信頼関係を築くのは、一朝一夕とは行かない。長い時間の積み重ねが必要になるんだよ。僕はキミとの関係を壊すつもりはないんだ。だから困っていれば手を差し伸べるし、そうしたいと思う」
「んー……そうか」
「納得できない、という顔をしているね」
 佐々木は俺の顔をちらりと見て、そんなことを言いやがる。それは勘違いというものだ。俺はただ、佐々木の言葉が遠回しすぎていまいち話の軸になってるところが掴めていないだけなんだ。
「では単純に、貸し借りの話にでもすり替えておいてくれたまえ。それならそれで僕が損をする話でもない」
「損得の話にされてもな。じゃあ何か? これは俺がおまえに貸しをひとつ作ったってことになるのか?」
「いいや、ふたつだよ」
「ふたつ? 今回のことと……それ以前に何かあったっけ?」
「キミが忘れている話さ。どちらにしろ、今回のことにプラスして、後でしっかり支払ってもらうとしよう」
「……俺に何をやらせるつもりだ」
 ほくそ笑む佐々木に薄ら寒いものを覚えつつ、聞かないことには始まらないと尋ねてみれば、素っ気なく背を向けられた。
「ではキョン、また」


 それっきり何の連絡も寄越さない佐々木が不気味で仕方がない。あいつ、何かの折りに無理難題を吹っ掛けてくるんじゃないだろうか。ハルヒじゃあるまいし、そんなことはないと思うが……底が読めないだけに、考えれば考えるほど気が滅入る。近々、こちらから連絡を入れてみるか。
 連絡と言えば、朝比奈さん(大)からも連絡があった。実際に顔を合わせての話ではなく、いつも通り俺の下駄箱を郵便受けにした未来通信だ。
 それによれば朝倉がいることによる朝比奈さん自身の未来についての齟齬は、現状では起こり得ないらしい。ただし、という前提条件付きでだけどな。
 その前提条件というのは、今この時代に駐在している朝比奈さんが朝倉と会わない、ということだ。かなり危険な状況であることは間違いないが、逆を言えばそれさえ守られれば大丈夫とのこと。
 あんな大袈裟な態度でこの世の終わりみたいな感じに俺の前に現れておいて、結局はそういう単純な回避方法で事が済むとわかり、朝比奈さん(大)もそれとなく気恥ずかしく思ってるようだ。文面にそれが滲み出ている。
 ただ……俺が思うに、それは「ハルヒが朝倉の存在を認めた」今だからこそ通じる話であって、そうでなければ、今のこの時代に朝倉と朝比奈さんが同時に存在しているだけでもおかしなことにってたかもしれない。最大の危機は回避したが、小さな火種は最後まで消せなかったという……そういうことなんじゃないだろうか。
 だからとにかく、俺は朝倉と朝比奈さんを会わせないようにする役割を背負うことになっちまった。ただ、それは俺一人で背負うにはあまりにも面倒で厄介なので、事情を知っているヤツも巻き込むことにしたわけだ。
 つまり、古泉のことだ。


「なるほど、そういうことでしたか」
 部室で二人きりになった折りに朝倉のこと等を含めて詰問された俺は、ここぞとばかりに包み隠さず古泉にすべてを白状した。これでこいつも重要な関係者だ。
「それにしても涼宮さんの力を借用して一週間の記憶改ざんとはね。あまり褒められた話ではありませんが、現状では特に世の中がおかしくなったということもありません。それどころか涼宮さんもどうやら上機嫌です。我々にとってプラスになることはあれども、マイナスになることはないですからね。ここは素直に『よかった』と言っておきましょう」
 笑顔で語る古泉は、どこまでが本当にそう思っているのか計り知れない。すべて口先だけという可能性もあるが、それならそれでも別にいいさ。こっちとしては、いざというときの手駒が増えただけでも有り難いんだ。
「それよりも、ひとつ気になるんだが」
 と、聞いたのは俺の方からだった。
「長門がハルヒの力を借用して一週間の記憶改ざんを行ったらしいんだが、どうして佐々木だけが影響を受けなかったんだろうな」
 九曜は……よくわからんが宇宙人が持つ技術的な面で改ざんを回避していた。ミヨキチは、俺の携帯電話が何故か自宅にあったという取っ掛かりで違和感を覚え、どこで会ったのか覚えちゃいないが、おそらく上書きされた一週間の間に朝倉と出会い、知っていたんだろう。
 でも佐々木は? 佐々木は何かしらの取っ掛かりがあって覚えていたわけでも、九曜みたいな宇宙的パワーで改ざんから逃れたのでもなく、初めから影響を受けずに覚えていた。
 佐々木自身は自分を「裏側だから」と言っていたが、その意味もよくわからん。
「言葉通りの意味ではないでしょうか」
 俺の疑問を他所に、古泉はさらりと言い放った。
「我々『機関』にとって、唯一にして絶対なのは涼宮さんです。世界の中心という言葉も、事実我々にとってはそうです。そうですね……」
 古泉はルーズリーフを取り出し、その中心に点を打った。
「この中心が涼宮さんです。彼女を中心に世界は成り立つという考えを我々は持っています。そしてこの紙が、涼宮さんの能力が及ぼす範囲だと思ってください。ではこの中で、涼宮さんの能力の影響を受けない地点はどこにあると思いますか?」
 中心点以外に何も記されていない紙を前に、俺はしばし考える。どこにもなさそうだが、古泉の性格を考えればこういう答えだろうか。
「紙の外か?」
「それも間違いではありませんが、けれど涼宮さんの能力に有効範囲があるとは思えませんね。紙の外というのは、あまり現実味のない話です」
 ハルヒの能力を前に現実味もあったもんじゃないと思うのだが、じゃあどこになるんだ?
「ここです」
 と言って、古泉が俺に指し示したのは、紙の裏側。表に中心点を打ったその真裏だった。
「涼宮さんの能力は、彼女を中心にしたものです。ですから、世の中がどれほどおかしなことになろうとも、そのすべてを涼宮さん自身が受け入れればその通りになります。言い換えれば、涼宮さん本人には影響がない、とも言えますね。台風と同じですよ。中心は快晴です。その中心点に重なる位置に立てば、台風の影響は受けない。そして佐々木さんは『機関』にとっての敵対組織では涼宮さんと同列と見られている。そんなことはあり得ないと思っていますが、仮にそうだとすれば、彼女もまた、涼宮さんと同じ位置にいることになります」
 だから佐々木に影響は出なかった……か。いや、待て。それだとつまり……。
「その理屈だと、ハルヒにも上書きされた一週間の記憶が残ってることになるぞ」
「おや、そうなってしまいますね」
 そうだとすれば、かなり困ったことになるんじゃないだろうか。にもかかわらず、古泉は涼しい顔をしていた。
「仮にそうだとしても、涼宮さんは何かを訝しんでいる様子はありません。気になるようでしたら、聞いてみては如何です? 僕はそんな藪を突いて蛇を出す真似はしたくありませんけどね」
 俺だってそんな真似はしたくない。


 とは言っても、当のハルヒを目の前にすれば抑えつけている好奇心もむくむくと頭を上げてくる。かといって、聞こうと思えば自制心が働いて聞くに聞けない。そりゃ聞かない方がいいのはわかっているが、それでもなぁ……なんというか、フラストレーションだけが溜まっていくのさ。
「なぁ、ハルヒ」
「ん? 何よ」
 後ろの様子なんぞちっとも気に留めず、前を行くハルヒについ声を掛けてみれば、こっちの声は辛うじて届いていたようだ。歩む足取りは止めないまでも、ちらりと振り向いて顔を見せた。
 その爛々と輝く目を前にすると、どうにも迂闊なことが言えなくなる。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、けれど呼びかけた手前、何か話題を提供しなければならない。
「本当にこれから行くのか? もう帰りたいんだけどな、俺は」
「何言ってんの、アンタ? これも大事な団活の一環よ。ツベコベ言わず、さっさと着いてきなさい」
 それだけを言い放ち、ハルヒはずんずん突き進んでいく。悟られることなくため息を吐き出し、俺はただただ重い足取りを引きずって着いていくしかない。
 ハルヒが向かっているのは、長門が住むマンションだ。が、目的地は長門の部屋ではない。その二階下の505号室。そこが誰の部屋なのかと問われれば……意味深に引っ張る必要もないな、朝倉の部屋だ。
 ハルヒがエントランスのパネルを手慣れた様子で部屋番号を入力し、ベルボタンを押し込めば、すぐに反応があった。
「あたし」
 無遠慮なハルヒの言葉に、何故だろう、自分が長門の部屋を訪れる際に、ここまで不遜な態度で応対していたのかと思えて少しばかり恥ずかしくなってきた。おまけに対応も長門みたいな反応で、すぐに自動ドアが解錠される。ちっとは拒否れ。
 そんなありもしない願いはするだけ無駄だとばかりに、ハルヒは自動ドアをくぐって先を急いだ。俺も仕方なく後に続く。
「いらっしゃいませ」
 玄関で俺たちを出迎えたのは、けれど部屋の主ではなくミヨキチだった。何故にミヨキチがここにいるのかというと、それは今では「当たり前のこと」と成り果て、誰も疑問に思わなくなっている。
 それでも俺は、ここでミヨキチに遭遇したときは驚いたもんだ。驚いたというかあり得ないとさえ思ったのに、当のミヨキチは「お友だちになったんです」とにっこり笑顔で答え、あまつさえ「お勉強とかお料理とか、いろいろ教えてもらってるんですよ」と追加情報も教えてくれた。教えてもらうのはせめてそのくらいまでにして、余計なことを知るような立場にならないでくれと願わずにはいられない。
「朝倉は?」
「夕飯の準備中です。あ、わたしはそろそろ帰りますけど」
「じゃあ遅い時間だ、俺が家までちゃんと送って、」
「キョン、あんたは残るの」
 俺の目論見は一瞬で露見し、ミヨキチと一緒に脱出することは叶わず、ハルヒに襟首を引っ張られるままに室内に足を踏み入れることになった。
「お兄さん、ガンバッテくださいねぇ〜……」
 玄関先で手を振るミヨキチに「おまえだけでも生き延びてくれ」などという台詞が脳裏を過ぎったが、それはあからさまな死亡フラグになりそうなので必死に打ち消した。
「あら、有希も来てたの?」
 ハルヒに引きずられるままでリビングに赴けば、そこでは長門が、どこにいてもやることは変わらないとばかりに本を読んでいた。俺たちの姿を目に留めて、それは疑問を表しているのかそれとも挨拶なのか、わずかながら斜めに小首を傾げて本に視線を戻す。
「じゃ、丁度いいわ。有希も交えてミーティングといきましょう。ちょっとキョン、朝倉呼んで来て」
「何で俺が、」
「ついでにお茶もよろしく」
「…………」
 俺がそうすることがさも当然とばかりに考えているコイツには何を言っても無駄らしい。無駄を嫌う俺は仕方なしにキッチンへ向かう。
「あ、ゴメンね放っておいて。こっち今、手が離せないから。いらっしゃい」
 そこには当然ながら朝倉がいた。見慣れない光陽園学院の制服のままエプロンを装着し、オーブンとコンロの前を行き来していた。
「やっぱり見慣れないな、その制服姿」
「仕方ないじゃない、状況もそうだし、何よりそういう風にしたのはどこの誰?」
 俺だった。ハルヒに詰め寄られてつい口を割いて出たでまかせが、結局そのまま押し通すことになり、朝倉は北高ではなく光陽園学院に通う羽目になってしまったわけだ。
「でもそのおかげで、わたしはわたしなりに役割が出来たわけだけど」
 その役割というのは、どうも九曜の監視、らしい。良くも悪くも朝倉は九曜に気に入られている。かといって二人の親玉連中も仲良くなったわけではない。故に朝倉は長門のような『ハルヒの監視』ではなく、敵対勢力のインターフェースでもある『周防九曜の行動を監視、あるいは抑制せよ』という役回りになったようだ。
「変に懐かれて、監視って感じじゃないけど」
 懐かれて、ねぇ……。朝倉が光陽園学院で九曜を相手にどんな目に遭ってるのか、考えないようにしておこう。それは俺に関係のない話だし、知ったところでどうしようもない。
「懐かれて〜……って言えば吉村さんもよね。何でかしら?」
 ミヨキチに関しては妹の親友でもあるし、九曜よりは気になる。ミヨキチにそれとなく聞いたのだが、本人曰く「何でもできる頼れるお姉さんみたい」と言うことらしい。
 ミヨキチ自身が性格的にも見た目的にも大人びているところがあるから、自分が頼ることができる存在をまぶしく思っているのかもしれないな、なんて分析しているが、そんなことを朝倉に言えば図に乗りそうだからやめておいた。
「迷惑だと思うなら、断ればいいじゃないか」
「それもちょっと忍びないわね」
 などと口にするが、どうせその気はないんだろう。憎らしいくらいに嬉々とした表情を浮かべていれば、本音と建前が真逆なのは一目瞭然だ。
「ああ、でも涼宮さんからの頼みは本気で断りたいんだけど……どうすればいいかな?」
「知るか。それよりお茶はないのか? そのハルヒがご所望だ」
「冷蔵庫にペットボトルが入ってるわよ」
 つまりそれを勝手に持っていけと言うわけか。どいつもこいつも人使いが荒すぎる。
「……ねぇ」
 ぎっしりと食材の詰まった冷蔵庫を物色していれば、朝倉も料理を作る手を止めずに声を掛けてきた。
「なんだ?」
「今まで慌ただしくて言えなかったんだけど……」
「何を?」
「いろいろと、感謝の言葉というか謝罪の言葉というかなんというか」
「何言ってんだ?」
 俺は別に朝倉から感謝されるようなことも謝罪されるようなこともしてないしされてもいないよ。なにより、どうしようもない状況を打ち破ったのはハルヒだし、朝倉のことで悩んだのは長門だ。
 だから、そういう言葉を口にしたいなら、俺なんかより二人にこそ言ってくれ。こっちは何もしていない。
「……そっか……」
「そうさ」
 それでも何かを呟いた朝倉の言葉を、俺は聞かなかったことにした。記憶からも抹消しようと思う。だから、あえて言うべきことは何もない。
「おぉーっそぉいっ! お茶の準備でどんだけ手間取ってんのよ、あんたはっ!」
 ああもう、何なんだいったい。ハルヒがバカでかい声を張り上げて乗り込んできやがった。結局キッチンまで出向いて来るなら、自分で茶の用意をしろ。
「ふざけんな。あんたはそのための雑用でしょっ! 朝倉も、何をそんな手の込んだ料理なんて作ってんのよ。そんな要領の悪さじゃあたしの代わりを任せらんないわ!」
「あ、あの涼宮さん……その話なんだけど……やっぱりわたしには無理……」
「いいからとっととリビングに集合!」
 一人息巻くハルヒに逆らうのは得策じゃない。鉛のように重いため息を吐いて、俺も朝倉も渋々リビングに戻ってみれば、ハルヒは仁王立ちで待ちかまえていた。
「それでは早速!」
 俺と朝倉が席に着く暇もない。ハルヒは極上の笑顔で声を張り上げる。
「SOS団光陽園学院支部活動報告およびミーティングを開始します! さぁ支部団長、今日こそはめぼしい戦果を期待してるわよ!」
 ハルヒの無茶振りを受けて、朝倉が頬を引きつらせている。長門は興味なさそうに本を読み続け、俺は肩をすくめた。
 こんな日常が、果たしていつまで続くんだろうなぁ……と、疑問を抱かずにはいられない。