吉村美代子の奔走 二章

 姿の見えないミヨキチに少なからず不安を覚えていても、あてもなく捜し続けていたって時間が無駄に過ぎていくだけだ。そもそもミヨキチを一人にするのは危険かもしれないという漠然とした不安だけで離れていられないと思っただけであり、それがミヨキチを是が非でも探し出さなければならない差し迫った理由とするには無理がある。
 それよりも目前に迫った確固たる不安要素は九曜とそれを見た喜緑さん、そんな喜緑さんの提案で呼び出すことになった朝比奈さんであり、そんな三人は俺の家に向かっているはずだった。
 漠然とした不安を感じるミヨキチの行方と、確固たる不安要素のある九曜、喜緑さん、朝比奈さんの組み合わせで、どちらを優先させるかとなれば選ぶまでもない。家には妹と母親がいるとは思うが、それでも俺がいないのに女性三人を、その中の一人は傍目に見れば心神喪失状態と言えなくもない。そんなのを俺がいない状況で家の中に招き入れたんでは、家族に白い目で見られるのがオチだ。ミヨキチにはあとで電話連絡でも入れてみればいいだろう。
 そう考えて急ぎ家に戻れば……思った通りの惨状となっていた。
「あら、お帰りなさいませ」
 喜緑さんが俺の部屋でお茶をすすっている。俺のベッドにはぞんざいに九曜が横たえられていて、マイルームにしてはひどく落ち着かない。
「お、お邪魔してます」
 朝比奈さんが俺を出迎える言葉を口にしてくれるのは嬉しい限りだ。が、浮かべる表情に戸惑いを含んでいる姿はいただけない。そんなことになっているのは、紛れもなく今のこの状況だからこそだろう。
 喜緑さんがいて、ベッドに九曜が横たえられていて、その中にぽつねんと置かれていたからか? もちろんそれもあるだろうが、それだけじゃない。
「あっ、キョンくんおかえり〜」
 妹が朝比奈さんにじゃれついていたわけだ。
「何やってんだおまえは」
 朝比奈さんの膝の上で甘えるように寄り添う妹が羨ましいことこの上ない。だから……ってわけでもないが、その首根っこをひっつかまえ、尋ねたところで返ってくる言葉がわかりきっていることを聞いてみる。
「キョンくん、みくるちゃんたちを連れて来て、自分だけいないんだもん」
「そうかそうか。わかったからおまえは出ていけ」
「えーっ」
 えーっ、じゃなくて。
 そもそもどうして俺の客なのに妹が出しゃばって来るのか意味がわからん。何より今は妹の相手をしているような状況でもく、なもんで部屋から追い出すのは自然な流れだろう。
「さてと」
 座布団も用意せずに申し訳ないが、そんな洒落たものはないので勘弁願いたい。俺は並んで座っている朝比奈さんと喜緑さんの前に向き直る形で腰を下ろし、一息吐く意味合いでため息を漏らした。
「それで、なんで朝比奈さんを呼び出したわけですか?」
 まず最初に問いかけたのは喜緑さんの方からだ。湯飲みを両手で包み込むように持っているこの宇宙人は、朗らかな笑顔を浮かべたまま、わずかに小首を傾げる。
「その前に、わたしに言うべきことはございませんか?」
「……はい?」
 はて? 俺が思う本題を差し置いてまで『言わねばならぬこと』とやらに、さっぱり思い当たる節はないのだが。
「あらあら、あの小娘をこちらまで連れてきたのが誰なのか、すっかり忘却の彼方なのですね」
「ああ、そういえば。本当に、」
「先に申しておきますけれど」
 俺が適当に──適切で妥当という意味での適当に──謝辞のひとつでも口にしようとしたら、その直前で静かに割って入ってきた。
「次にどのような言葉を口にするかで、わたしに対する労いが如何ほどのものかを判断させていただきますね」
 ……俺に何を言わせたいんだ、この人は。
「えーっと、それで朝比奈さん」
「あらいやだ、コメントは先延ばしになさいますのね?」
 そんなことを言われても、何を言ったところでお気に召さないって態度をしてるじゃないですか。だったら多くを語らず、話は先に進めるのが懸命な判断ってものでしょう。
 俺は咳払いひとつ、改めて朝比奈さんに問いかけた。
「それで、喜緑さんは九曜のことは朝比奈さんに聞けって言ってたんですが、どういうことですか?」
「え、えっとぉ〜……」
 けれど朝比奈さんは、何故か困ったように視線をあちこちに彷徨わせている。そんな言いにくいことを聞いた覚えはないし、朝比奈さんが挙動不審になる理由もわからん。
「どうしたんですか?」
「それが……その」
 朝比奈さんは見ていてつい抱きしめたくなるような衝動に駆られるほどに縮こまり、何をそこまでと思うほどに申し訳なさそうな表情を浮かべて。
「あたしもよくわからないんですけど……」
 と言った。
 さて、どうしよう。これは本当にどうしてくれよう。喜緑さんは「朝比奈さんなら一発解決」と言ってなかったかな? その結果がこれだ。俺でなくとも、この落とし前はどう付けてくれるんだと思うはずだ。
「何をおっしゃっいますやら。物事はもう少しポジティブにお考えになられた方がよろしいですよ?」
「何がですか」
「朝比奈さんが『わからない』とおっしゃったのであれば、つまりそこの小娘に起きている出来事は時間絡みの理由ではない、ということになりますでしょう? 漠然として無数にある選択肢の中から、ひとつが除外されたわけです。つまり物事が進展したじゃありませんか」
「そりゃどういう言い訳ですか」
「物事の証明をするには、多岐にわたるアプローチの仕方があるということですよ。ただし朝比奈さん、今の『わからない』という言葉は少々曖昧すぎですね。それは『まったく思い当たる節がない』という意味ですか? それとも『どうしてこんな症状になっているのか原因不明だ』という意味ですか?」
「え? えっとぉ〜……」
 喜緑さんのやんわりとした追求に、朝比奈さんは判断を仰ぐように俺を見つめてくる。そんな眼差しを向けられたところで、俺には塵ほどの決定権さえありゃしない。そもそも朝比奈さんなら、言えないようなことは「禁則事項」という便利な言葉で強制的にシャットアウトされるだろうし、そうでなければ話したところで何の問題もない話だ。違うのか?
「あたし、その……本当によくわかってないんですけど……キョンくんのベッドで寝てる人のこと、ですよね? どうしてその人……浮いてるんですかぁ?」
 浮いてる……? 浮いてるってのは、どういう意味だ? 少なくとも俺の目には九曜が安っぽい3D映像のようにブレて見えているわけでもないんだが、朝比奈さんには何がどう見えているんだ?
「あ、ううん。そういうことじゃなくて……えっと、これは感覚的な話っていうか……その、なんて言えばいいのかな? その人の時間がおかしいの」
「ええっと……だから?」
「うー……んと、その人だけ別の時間にいるっていうか……同じ場所にいるけど違う世界にいるっていうのかな……? こんなことってあり得ないし、あたしも自分で言ってて信じられないことだから……うまく説明できないんだけど」
 朝比奈さんの言葉は、どこまでも自信なさげだ。いや、自信のあるなしとは別に、もしかすると禁則事項に抵触しないように言葉を選んで説明しようとしてくれているのかもしれない。そのせいなのか、結果としてさらに訳がわからなくなっている。
「つまりですね」
 俺の困惑と朝比奈さんの戸惑いを他所に、湯飲みを手の中で弄びながら口を開いたのは喜緑さんだった。
「心霊写真の作り方、なんですよ」
「しっ、しし、心霊写真なんですかぁっ?」
 えー……っと、喩えにしてはますます混乱させるようなことは言わないでもらいたい。言葉だけで朝比奈さんが怯えてるじゃないか。
「いえいえ、ですからトリックアートと申しましょうか、世の中にあるすべてが嘘か誠かは別として、人の体が透けて写っているものがございますでしょう? あれの作り方ってご存じですか?」
「作れるんですか、ああいうのは」
「カメラというのはフィルムに光りを当てて場の映像を焼き付けるものじゃございませんか。では仮に、同じフィルムに別々の映像を焼き付けようとするとどうなると思います?」
「どうなるんですか?」
「一枚のフィルムにふたつの映像が重なります」
 多少の期待を寄せて聞いてみれば、ごくごく当たり前の返答で肩すかしを食らった気分になった。
「ですから、そうなるとひとつの場面にふたつの映像が重なってしまうのですよ。たとえばこの部屋を撮影し、次に外の景色を同じフィルムに収めたとすれば、出力される映像は部屋の中なのに外の景色が映っている映像になるんです」
「はぁ……なるほど」
 その理屈はわかったが、それで今の状況と何がどう関係するんだ?
「つまり朝比奈さんには、そこの小娘が二重写しの写真のように見えているのではありませんか?」
 二重写しの写真みたいに? 実際のところ、どうなんですか朝比奈さん、と聞くまでもなく、朝比奈さんは喜緑さんの憶測を受けてキョトンとした表情を浮かべていた。
「あ、あのぉ〜……なんだかよくわからないんですけど……」
 やっぱりこの人はイマイチわかっていなかった。
「あたしが思ったのは、その人が……えっと、正しい絵なのに違う手法で描かれているって言うのかな? だからええっと……キョンくん、初めて会ったころに時間のお話したことは覚えてる?」
「え? ああ、まぁ……パラパラマンガを喩えに出してたあれですか?」
「そう、そうなんです。あたしは、そのぅ……」
 言い淀み、朝比奈さんはちらりと喜緑さんを見る。何事かと思ったが、ふと思い至った。
「喜緑さんなら平気ですよ。えーっと、長門の親戚みたいなもんですから」
「そう言われてしまいますと、まるでわたしが長門さんのおばさんみたいですね」
 なんで親戚という単語でそういう発想になっちまいますかね。
「せめて親戚の優しいお姉さんとでも、」
「とにかく大丈夫です」
「え、えっと……」
 朝比奈さんも物凄く困った表情を浮かべてしまってるじゃないですか。余計なことは言わないでもらいたい。
「それで?」
「あ、はい。えっと、だからね。あたしはこの時代だと関係ない絵柄ってお話したでしょう? でもベッドで横になってるその人は……うーんっと、たとえばこの時代を鉛筆書きのパラパラマンガだとすると、その人は水彩で描かれたように感じるの。場面にもシーンにも合ってるんだけど、鉛筆描きの中に別の道具で描かれたみたいに」
 鉛筆描きの中に水彩の絵? それは確かに違和感があるし、朝比奈さん自身が言った『浮いている』というのも納得できる。鉛筆画の中に水彩画があれば、確かに浮いて見えるだろう。だとしても、だ。
「それって、どういうことになるんですか?」
「さぁ……?」
 朝比奈さんは指先を頬に当て、首を横に捻った。その仕草は大変可愛らしいのだが、今のこの状況では心ゆくまで堪能できそうにない。結局のところ、朝比奈さんでは俺とは違う視点で状況を把握できちゃいるが、根本的な疑問は俺と同じレベルにいるらしい。
 となれば、残る頼みは一人だけ。
「どう思います? 喜緑さん」
「ひとつだけはっきりしたのは、その小娘が過去やら未来から連れてこられたわけではない、ということですね。そうなのでしょう? 朝比奈さん」
「え? え、ええ……それは間違いないです」
 そこだけはさすがに時間絡みが専門なだけあって、朝比奈さんもしっかり断言する。
「でも、そういうことは喜緑さんにもわかるんじゃないですか?」
「ええ、まぁ」
 聞けばあっさり頷いた。
「ですからわたし、おおよそは把握してました。けれど確証が持てなかったものですから、時間関係の専門家からコメントをお聞きしたかっただけです」
「それで、九曜はどうなっちまってんですか?」
「はっきりとはわかりませんけれど……」
 喜緑さんはしばし考え込む素振りを見せて、
「もしかすると、何かしらの情報的な干渉を受けているんじゃないでしょうか」
「情報的な干渉?」
「わたしもそうですが、その小娘も別系統とは言え母体は情報生命体です。情報生命体には時間的概念がありません。けれどインターフェースという物質情報を得てこの惑星表面上に存在する以上、時間というものの束縛を受けることになります。わたしは最初、小娘は時間的な要素による攻撃情報を受けたのではないかと思ったのですが……」
 ちらり、と喜緑さんは朝比奈さんを見る。まさか朝比奈さんを疑ってるのか?
「小娘の立場で言えば、敵勢力の時間担当は朝比奈さんですから」
「あ、あたしそんなことは、」
「存じてます。そもそも朝比奈さんにそういうことができるとも思えませんし」
 まぁ、俺だって朝比奈さんがそこまでできるとは思ってない……が、大人の朝比奈さんだったらどうだろう? 時間の流れとは時に残酷なもので、そういうことも……あってほしくないが『あり得ない』と断言できない。
 だからそれとなく、朝比奈さんの上司の仕業だっていうようなことを、オブラートに包んだ表現で口にしてみたのだが、けれど返ってきた反応は予想とはまるで違うものだった。
「あ、あたしたちは、そのぅ……時間的な移動ができるだけであって、時間の流れに直接干渉できるような真似はできません。現時間平面に未来からの直接干渉はできないんです」
 それは本当にそうなのだろうか、と少し考えたが、できないという理由も以前に朝比奈さんは言っていた。時間の流れがパラパラマンガみたいなものなら、未来人というのはパラパラマンガの一コマに書き足された余計なイラストだと。何百ページもあるパラパラマンガのワンシーンに落書きをしても、ストーリーは変わらない。
 だから九曜が宇宙人であっても『今のこの時間』が存在すべき正しい時間なら、未来から直接的な干渉をすることはできない。せいぜい、言葉で誘導し、長いスパンで今後のストーリーが変わるように誘導するしかできない……って理屈か。
「だから直接的で時間的な……攻撃? みたいなことは、誰であってもできないんです」
「そうなんですか? うぅ〜ん……」
 朝比奈さんがそう断言すれば、喜緑さんは何故か納得いかないように考え込んでしまった。
「どうしたんですか?」
「いえ……ふと思っただけです。もしかして、この小娘だけ時間を巻き戻されてるんじゃないかと」
 唐突に突拍子もないことを言い出した。何なんだ、時間を巻き戻すってのは?
「朝比奈さんがおっしゃるには、あの小娘はこの時間軸が正しく存在する場所なのに、時間的に見れば場にそぐわないのでしょう? それを考えると『一度進んだものが巻き戻されてここに在る』ということに近いのでは? なんてことを思いまして。どうでしょうか、朝比奈さん」
「え? あ……そう、そうですね」
 喜緑さんの言葉を吟味するように考えながら、朝比奈さんは自信なさげではあるものの、頷いた。
「今が正しいのに正しくない、ということですから……うぅ〜ん、そういうものに近い……のかしら?」
「────────違う────」
 ようやく解決の糸口が見えかけてきたか、と思えたその矢先。喜緑さんと朝比奈さんの合致した憶測を一言で否定する声を飛ばしたのは、ようやく目を覚ました九曜自身だった。
 目を覚ました九曜は、けれどベッドから起きあがるわけでもなく、横たわったままで首だけをこちらへ巡らせ、瞬きしているのかどうかさえ疑わしくなるような眼差しを向けてきている。まるで死体がこっちを見ているようで落ち着かず、事実、朝比奈さんなんかは小さな悲鳴を上げて俺の後ろに隠れてしまわれた。実のところを言えば俺もどこかに隠れたい気分ではあるが、そうも言ってられない。
「違うって、どういうことだ? おまえ、いったい何があった」
 ベッドの縁に詰め寄って九曜に問いかければ、眼球だけを動かして俺を見る。そういうのはそこはかとなく怖いからやめてくれと思うのだが、本当にやめて欲しいのはその次にこいつが取った行動だ。
 何の前触れもなく、無動作でいきなり人の手首をがっちり掴んで来やがった。
「え?」
 と、思う暇があったかどうか。九曜が掴んだ手首に電気が走ったような痺れが襲ってきた。そういえば街中でこいつが倒れる直前にも同じような真似をされたが、それにも増して今は──何だこれは?
「やめなさい」
 今度は後ろから喜緑さんに引っ張られ、九曜から引き離された。
「そんな真似をして、一般人に受け入れられるわけがないでしょう」
「え……え? ちょっ、何ですか?」
「何のことはありません。自分が持っている情報をあなたに直接流し込もうとしてたので止めたまでです。ただ、そんな真似をしても一般人には受け入れるだけのキャパシティがございませんから、よくて廃人、最悪死んでしまうかと思いまして。止めない方がよろしかったかしら?」
 止めてくれてありがとうと、声を大にして言いたい。そもそも、そんなことを平然とやらかそうとしていた九曜にはゾッとする。
 いきなりなんて真似しやがるんだ、と憤るのは当たり前だ。けれどその反面、ほんのわずかな一瞬だったが十倍速で流された映像らしきものが見えたのも事実。九曜が俺に渡そうとしていた情報が、今の映像だったってことか?
 そう。今、確かに見えたんだ。俺がいて、喜緑さんがいて、そしてあれは……朝倉、か。朝倉だった。そこに見えたのは確かに朝倉であり、けれど俺の記憶にない映像でもあった。
「おい、今のはなんだ? 何を見せようとしたんだ!?」
「──────歪み────情報を────正し──────創造した────データを定着────させた────……」
 さっぱりわからん。こいつの通訳は誰に頼めば正確に伝えてくれるんだ? 佐々木か、橘か、それとも藤原か。どっちにしろ今ここにはいないので、どうしようもない。
「言語での情報伝達は難しいものですから、だから直接自分が保持していた情報を渡そうとしていたんですね」
 そんな九曜を見て喜緑さんが冷静に分析しているが、じゃあどうするんだ? こいつが持っている情報がなんなのか、俺が垣間見た今の映像が何なのか、とても今の九曜がまともに伝えてくれるとは思えない。
「そうだ、喜緑さんが代わりに受け取ってください。俺じゃ無理でも喜緑さんならできるんでしょう?」
「わたしが、ですか? 嫌ですよ、そんなこと」
 問答無用で即座に却下された。悩む素振りすら見せちゃくれない。
「そんな得体の知れない相手から渡される情報だなんて、触れたくもありません。他所を当たってください」
「他所って」
 喜緑さんがダメで、じゃあ他に誰がいるって言うんだ。長門か? 長門だって喜緑さんと同じだろうし、そもそも九曜が相手じゃ喜緑さん以上に断固とした態度で拒否するに決まってる。
「あのぉ〜……もしよかったら、あたしが代わりに受け取りましょうか?」
 嫌がる喜緑さんをどうやって説き伏せようかと悩む俺の耳に届いたのは、遠慮がちな朝比奈さんの声だった……のはいいが、代わりに受け取るって、朝比奈さんが? そんなことができるのか!?
「ええ、その程度のことなら。前に……えっと、朝倉さんにTPDDのバッチファイルを渡したように、ある程度の情報なら直接的な接触でやりとりできると思うんです。ただ、受け取り側になったことがないから、ちゃんとできるかわかりませんけど……」
 ……いや、できる。今の朝比奈さんは知らないだろうが、もっと未来の朝比奈さんは長門が世界を改変したときに、長門自身から指ちょんで改変時間のデータを受け取っていた。
 だから相手が九曜でも、できないことはないはずだ。ただ……できるからと言って、それを朝比奈さんにやらせるのには気が引ける。
「相手は九曜です。万が一のことがあったら、」
「あら、朝比奈さんではそうも心配なさるんですね。わたしとは大違いですこと」
 そこはかとなく喜緑さんがチクチクと突っかかってくるが、そりゃ心配する原因をあなたが作ったからでしょう、と言いたい。
 喜緑さんでさえ拒否する九曜が持つ情報とやらを、宇宙人と妙な方法で情報のやりとりができるとは言え、ただ未来から来ているだけの一般人である朝比奈さんに任せるのは、そりゃ気が引けるってもんだ。
「だ、大丈夫ですよ。ええっと……詳しくは禁則ですから言えませんけど……意識下でやりとりするデータに悪性のものがあっても汚染はあり得ないですから。それにその……九曜さんもそこまでして何かを伝えたいとしているんでしょう? それが出来ないのって想像以上に苦しいんです。だから何かお手伝いができるなら、やりたいって思うし」
 なんという献身的な発言だ。こんな台詞は、思っていてもなかなか口にできるもんじゃない。自分もそうだが、喜緑さんにこそ、是非とも見習ってもらいたい。
 が、朝比奈さんの決意がどれほどのものかわかったからと言っても、素直に「お願いします」と言えるわけでもない。わずかでも危険性が残されているのなら、個人的な心情としてやらせたくはない。
「けれど妥当な折衷案です。わたしは嫌ですし、あなたでは無理。なら朝比奈さんにお任せするしかありません」
「そりゃ……」
「大丈夫ですよ、万が一のときはわたしが責任を持ってお救いいたします。多少なりとも信用してくださいな」
「……わかりました」
 普段なら絶対信用ならない人だが、こういうときばかりはまったく逆だ。長門とは違う意味で頼りになるし、信頼もおける。喜緑さんが『責任を持つ』と言うのなら、そこに朝比奈さん自身に及ぶ深刻な『万が一』はあり得ない。
「じゃあ……」
 朝比奈さんがおずおずと九曜に手を差し伸べる。それとは対照的に、九曜は迷いもなく朝比奈さんの手を掴んだ。
 俺にやらかした時のように静電気が走るような音は聞こえず、見た目的には何ら変化はない……のだが。
「え……っ?」
 朝比奈さんはわずかに目を見開き、中腰だった体はよろめくように尻もちをついた。
「そ……んな、ことって……」
「朝比奈さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか!?」
 今にも倒れ込みそうな朝比奈さんを支えて声を掛けても、朝比奈さんは茫然自失のままで反応が薄い。いったい、九曜から渡されたデータで何を見たんだ?
「何を見たんですか?」
 朝比奈さんの反応に、さすがの喜緑さんも気になったらしい。問いかけるその声音には、どこかしら探るような慎重さがある。
「どのようなデータを渡されたのか、詳しくお聞かせ願えますか?」
 より丁寧に、朝比奈さんの肩に手を添えて喜緑さんが声を掛ければ、朝比奈さんはようやく我に返ったらしい。
「あ、あの……記憶データなんです。なんですけど……でも、こんなことって……信じられません。それが本当に……でも、だとしたら……今日って」
 何を言ってるのかまるでわからない。それは俺たちに説明しようとしていると言うよりも、自分自身でもよくわからずに情報を整理しようとしているのかもしれない。
「要領を得ませんね。仕方ないですね、朝比奈さん。そのデータとやらをわたしにも渡してください。記憶データなのでしょう?」
「……え? あ、はい。ただの記憶データです。何かしらのプログラムファイルじゃないから改ざんされてるわけじゃないし……だから、ますます本当なのかって、」
「わかりましたから。はい、お願いします」
「え、ええ……」
 その申し出に頷きつつも躊躇いがちな朝比奈さんの手を、喜緑さんの方から積極的に握りしめる。さっきの九曜から朝比奈さんにしたときと同じように俺の目にはこれといった変化はないものの、喜緑さんの表情に僅かながらに陰りが入った。
「これはまた……無茶なことをしたものですね」
 どうやら喜緑さんも九曜から出てきたデータを朝比奈さん経由で把握したらしい。俺だけが蚊帳の外だ。そろそろちゃんと説明してくれたっていいだろ?
「いったい、何がどうなってんですか」
「上書き……ですね、一言で表すなら」
「上書き?」
「先ほど朝比奈さんがおっしゃっていましたけれど、時間というものは堅牢にして強固です。その流れを飛び越えることができるのは言うまでもないですけれど、時間そのものを操ることはできません。時間の流れというのは、誰にでもわかるシンプルで不動の物理法則なんですね。ですから、時間の流れに逆らうことはできますが、時間の流れそのものに干渉することは不可能です」
「……だから?」
「それでも時間の流れを巻き戻すことはできるようです。時間の流れそのものに干渉せず、けれど時間を巻き戻すには……さて、どうすればいいと思いますか?」
 まるで古泉みたいな問いかけ方だ。そんなことを聞かれても、わかるわけがない。
「観測者の感覚を狂わせればいいんです」
「……えーっと……?」
「今日は土曜日です。わたしもそう認識しております。あなたもそうですよね? おそらく世界中の誰もが──時差はあるとしても──今日は土曜日だと思っているはずです。では何故、今日が土曜日なのかと言うと、時間の流れという目に見えない概念を認識している我々が『土曜日だ』としているからです。けれど本来の時間が日曜日とか月曜日、いいえ土曜日以外の日であったとしたら……それってどういうことになるんでしょう?」
 どういうことって……何だ? 何の話だ? まったく意味がわからないし、どんな喩えだそれは? だからそれで、いったい何がどうなってるってんだ?
「ですから、今日が土曜日だとこの惑星規模で、いえ情報統合思念体ですらだまされてますから最低でもこの惑星がある銀河規模で、約一週間分の曜日感覚情報が改ざんされているんです」
「はぁ?」
 待て。待ってくれ。話が急にでかくなったぞ。何だって? 銀河規模で曜日感覚が改ざんされている!? それじゃ今日は……え? いやでも、曜日感覚が狂わされているからって、その間に起きたことは? それはどうなってんだ。
「おっしゃるとおり、実際に時間が巻き戻されたわけじゃありません。ただ、この一週間に起きた出来事すべての記憶が消され、その間に起きた物理的事象において致命的な差異情報を修正し、今日という日を『土曜日』に設定したんです。まぁ……あまり難しい理屈を抜きにすれば、時間が巻き戻されたと思っていただいて結構ですよ」
 結構ですよ……って、そんなことになってる事態そのものが、ちっとも結構な話じゃない。そもそも、その話は本当なのか? 時間の専門家は朝比奈さんだ。朝比奈さん的に今の話はどうなんだ?
「じ、時間の流れに……直接干渉することってできないんです。時間の流れっていうのは録画されてるものじゃなくて……ええっと、生放送のテレビ番組みたいなものなの。だから巻き戻すことなんて当然できなくて……でも、生放送の番組で同じことを同じ役者さんが同じように演じることは可能でしょう? その理論で言えば、擬似的に時間を巻き戻すことは可能だし……でも、そんなことって普通はできないもの。必ずどこかに差異が現れるはずよ。あり得ないわ。あり得ないけど……できないことじゃないし……」
 どうやら朝比奈さんは、理性でそれを否定したいのに現実問題として喜緑さんの言うとおりのことが起きている、と認めているようだ。認めたくないのに、状況がそれを認めざるを得ない、ってことか。
 なら、そんなことをやらかしたのは誰だ? 宇宙規模で一週間分の時間を巻き戻すような情報改ざんなんてでたらめなことをやらかしたのは……思い当たるところでは一人しかいない。そんなイカレた真似ができるヤツの心当たりはたった一人だ。
「ハルヒがまたそんな……厄介なことを?」
 呆れつつもそんなことを聞いてみれば、喜緑さんはふぅっとため息ひとつ。
「この情報改ざんは、確かに一週間の出来事をなかったことにして、いかにも時間を巻き戻しているようにしています。『存在しない日々を作り出している』と言えますし、つまりそれはゼロから情報を作り出しているに等しいものです。情報創造能力を持つ涼宮さんらしい力です……が、程度はひどく雑なものです。例外がそこにおりますので」
 と言って、九曜を指さす。そういえば、こいつはどうして上書きされた世界で以前の記憶を持ったままなんだ?
「改ざんされる直前にプロテクトを構築したらしく、難を逃れたようです。それでも余波でそんな有り様ですけれど……どっちにしろ、インターフェースに防がれる程度の改ざんを涼宮さんが行うはずがありません。彼女が行う情報創造能力は、そんな抜け穴のある代物ではございませんので」
 ハルヒのことを褒めているのか貶しているのかわからんが、つまり今回の出来事はハルヒがしでかしたわけじゃない、ってことを遠回しで言ってるようだ。
 なら、他にそんなことができるのは……九曜でもなく、喜緑さんでもなく、ハルヒの能力を流用して世界を再構築したヤツは……そんなことができるヤツの心当たりが、俺には一人だけあった。
「──────長門……有希────……」
 俺が思い描いていた人物の名を、九曜が口にする。
 長門か。消去法で言えば、やっぱり長門しかいないのか。認めたくないし信じたくもないが、今のこの状況にある九曜がそう言うからには、疑いようもない。
「それに」
 否定要素を探そうとしてもまるで見つからない俺に、喜緑さんから告げられる言葉がとどめを刺す。
「銀河規模での情報改ざんとなれば、少なからず涼宮さんの能力を借用したのでしょう。以前のような大規模な改変ではなく、それぞれをそのままに記憶だけの削除を目論んでのことでしょうから、各々が持っている能力はそのままのようです」
 つまり長門は、ハルヒを利用してまで世界の改変を行ったってわけだ。観測する立場だと自分でも明言していたあいつが、その立場を捨ててまでハルヒの能力を借用して小規模ながら世界を改変させたのか。
 何故だ? どうしてそこまでしなけりゃならなかったんだ。どうして長門は、そんな真似をしてまで世の中の時間を一週間ほど『なかったこと』に……そこにはいったいどういう意図があるってんだ?
「──────歪み────」
 そんな言葉を九曜は口にする。そういえば、さっきも同じ台詞を口にしていたな。それが……長門が時間を一週間近く巻き戻した原因だとでも言いたいのか。
「その歪みってのはいったい何だ?」
「朝倉さんのこと……でしょうか」
 九曜に詰め寄る俺へ応えたのは、九曜ではなく喜緑さんだった。
「朝比奈さん経由で拝見させていただいた記憶情報には、どうやら朝倉さんの姿もありまして。この時代の現状において、長門さん自ら行動を起こしてまで正さねばならない歪みとやらがあるとすれば、それは朝倉さんのことではないかと」
「朝倉が?」
 朝倉の姿があった?
 それは……一瞬だが、確かに俺も見た。九曜に手を掴まれた瞬間、静電気が迸るような一瞬の映像の中には、確かに俺と喜緑さんと、そして朝倉もいた。
 あれは……もしかして九曜が無理やり俺に送り込もうとしていた記憶データとやらの一部だったのか? 完全ではないかもしれないが、それを俺は見たのか?
「憶測混じりでよければ、長門さんが一週間の時間を上書きした顛末をお話しましょう」
 是非もない。朝倉のことを長門と同じくらいにわかっている喜緑さんから話してくれるなら、もちろん聞かせてもらうさ。
「まず、朝倉さんのインターフェースを再構築したのはそこの小娘です」
 いきなりだな。前置きも何もなく、そんな爆弾発言をさらりと落として来やがった。
「どうやら朝倉さんに何かしらの思い入れがあるようで、復活させたかったみたいですね。でもそのためにはこちら側で管理している朝倉さんのパーソナルデータが必要だったんです。何しろ彼女が作ったのは容れ物だけでしたから。それで……どういうわけか、わたしとあなたがそれに協力していたみたいで」
「俺と喜緑さんが?」
 なんで俺と、しかもよりにもよって喜緑さんが、わざわざ九曜に協力してまで朝倉を復活させようとしてたんだ?
「さて……その小娘の記憶データによれば、もともとわたしとあなたが朝倉さんを復活させようとしていたみたいですよ。その理由を彼女は知らないようですので、記憶にございませんけれど」
 俺と喜緑さんが協力して? んー……ダメだ、そんなことがあったことすら思い出せない。思い出せないが……そうだな、もし朝倉を復活させる手段があるとすれば、それを実行しようと最初に提言したのは、たぶん俺の方だろう。
 今でこそだが、朝倉が消えちまう理由を作ってしまったのは俺のせいだ。そう言えば誰もが『違う』と言ってくれるが、それでも自分の中に少なからず負い目というか、しこりがあったんだ。今さら何をどう言ってもやり直せないから口にこそ出さなかったが、それでも目の前に可能性があれば、手を出そうとしたかもしれない。
「だとすれば、わたしが協力していた事にも納得です」
「え?」
「だって、朝倉さんを復活させた方が面白いことになりそうじゃありませんか」
 ……なるほど、いかにも喜緑さんらしい理由だな。
「ただ、そうなると……ああ、だからなのでしょうね。お話していて、長門さんが擬似的にとはいえ、時間を巻き戻した理由もわかりました」
「と言うと?」
「わたしたちインターフェースは端末です。ですから母体である情報統合思念体と繋がってこそ、わたしたちはわたしたちになるんです。けれど朝倉さんにはその回線がないものですから、それを補うために……『朝倉さん復活』を主目的に置いていれば、わたしのことです、自分の回線を使うかもしれません」
「え……っと、そうなると喜緑さん自身はどうなるんですか?」
「存在を維持できなくなるんじゃないでしょうか。試したことがありませんからわかりませんけれど」
「ちょっ、ちょっと待ってください。それじゃ……そんな方法を使って朝倉を復活させようとしてたんですか?」
「可能性の話です。ただ、その手段を用いた算段は高いでしょうね。ですから長門さんはそれらすべてを『なかったこと』にするために涼宮さんの力を借用し、銀河規模で記憶の改ざんを行い、その間に発生した決定的な差異を無理やり修正したんでしょう」
 絶句した。
 つまり喜緑さんは、自分を犠牲にしてまで朝倉を復活させようとしたってことか。そりゃ長門でなくても止める。俺だって止めるはず……なのだが、それを頼んでいた俺は止めなかったのか。そのときの俺は何を考えてたんだ。
「たぶん、わたしの方から何も話さなかったんでしょうね。言えばあなたのことですから止めるでしょうし、それではつまらないですもの。あなたが気にすることではございません」
「気にするなって言われても……ん?」
 今ここに喜緑さんがいるってことは、結局朝倉はそういう手段での復活ができなかったってことなんだろうか。いやでも……。
「確認しますが、長門は時間そのものを巻き戻したわけじゃないですよね?」
「ええ、そうです。時間を巻き戻すなんて真似は……そうですね、涼宮さんでなければ出来ません」
 確認の意味を込めた問いかけに、時間関係の専門である朝比奈さんが大きく頷いて俺の考えを補強してくれる。それなら。
「朝倉は? 俺にも一瞬だけ見えたんだ、朝倉の姿が。あれが上書きされた一週間で起きていた出来事だとすれば、朝倉がいたんですよね? だったらその朝倉は今どこにいるんですか」
 上書きされた一週間の中に、朝倉はいたんだろう。俺だって一瞬とはいえ九曜から渡されそうになった記憶データの一部を垣間見て、その中に朝倉がいたことを確認している。
 いや、『いた』なんて過去形の話じゃない。一週間という時間が厳密に言えば巻き戻されたのではなく上書きされたと言うのであれば、今もこの世界のどこかに朝倉はいるってことじゃないのか?
「さて、どうでしょう。長門さんは朝倉さんの存在こそが歪みと判断して、擬似的に銀河規模での時間を巻き戻しています、。その歪みを修整するためだとすれば、その原因たる朝倉さんは消えていると、」
「──────いる────」
 喜緑さんの言葉を遮って静かに、けれど力強く断言したのは九曜だった。
「いる? いるって、朝倉が? いるのか、あいつは。まだこの世界に」
「────────言葉を────残し────選ぶ未来は────ない、けれど────願い────叶うなら────と────……」
 何の話だ? そんな禅問答みたいな言葉はいらないんだ。こっちが聞いてることを端的に答えてくれればいい。朝倉がいるのかいないのか、それだけをハッキリしてくれ。
「────いる────」
「どこに? 朝倉は今、どこにいるんだ?」
「──────不明────」
 おい待てこら。不明って、何だよそれは。わかってないのに『いる』って断言するその根拠はなんだ。
「────例外────わたし、や────他にも────残る記憶が────ある────完全では────ない、なら────」
 ああ。ったく! どうしてこいつはこうなんだ!? もう少しマシなコミュニケーションが取れるようになってくれ。
「喜緑さん、わかりますか?」
「そうですねぇ……つまり、自分のような例外が存在する程度の改変だから、朝倉さんが消されている可能性は低いという……可能性を言ってるのかしら?」
「可能性かよ」
 それじゃ結局、朝倉が今もまだいるのかどうか確証もないってことじゃないか。
「とは言っても、可能性があるということは無視できない話です。いないと証明できればそれでいいのですが、もし存在していたとすれば消すしかありません」
 いきなり話が飛んだ。
 消すしかない……って、なんでそういう結論になるんだ!? いくらなんでも話が飛躍しすぎじゃないか。
「だってそうじゃありませんか。どうやら記憶を消される前のわたしとあなたは、朝倉さんを復活させようとしていたみたいですけど、それは世界に受け入れられない出来事だったみたいです。だから長門さんは涼宮さんの力を借用してまでそれを正したのでしょう。もしここで同じように朝倉さんを復活させようとしても、結果は同じ。繰り返すだけです。どう足掻いても成功しません。だとすれば、朝倉さんはもう消すしかない、と。そういう話ですよ」
「それは、」
 そういう……話になるのか? 結局、朝倉の復活は不可能な話だってことなのか。それがすでに証明されていると……喜緑さんは言っている。
「無意味に朝倉さんを復活させようとした罰なのかしら。すでに役割すらもない彼女を蘇らせたところで、害はあっても益がありません。そこを無理に通そうとしたことが歪みとやらになってしまっているのかもしれませんね」
 だから世界は改変された、か。それをやったのは長門だが、もし長門がやらずとも誰か他のヤツが、それこそ自然発生的に歪みとやらは正されていたかもしれない。喜緑さんはそういうことを言ってるのかもしれない。
「あの……それって罰なんですか?」
 と、そんな言葉で割り込んで来たのは朝比奈さんだった。
「んと、今のお話って、役割のない朝倉さんを復活させようとしたから世界の在り方が歪んでしまう、ってことですよね?」
「簡単に言えば、そういう話ですね」
「本当にそうなんですか?」
 喜緑さんの説を聞いた朝比奈さんは、それが本当にそうなのかと言わんばかりに首を傾げていた。それは受け入れられない話だからというわけではなく、本当に理解できない話だと思っている素振りでもある。
「それだとまるで、役割がないと存在しちゃいけませんって言ってるみたいじゃないですか。あたしが今この時代のこの場所にいるのって、確かに役割があるからです。他の人もそうなのかもしれませんけど……でもその役割がなくなれば、ここにいられなくなっちゃうんですか? それって……何か間違ってる気がするんです。違いますか?」
「朝比奈さんがおっしゃることもわからなくありませんが、」
「それに」
 朝比奈さんにしては珍しく、人の話を遮ってまで言葉を続けてきた。
「朝倉さんには『会いたい』って思ってくれてる人がいるじゃありませんか。それって存在する理由にならないんですか?」
「ですから、それは感情論なんです。気持ちとしては朝比奈さんのおっしゃるとおりですが、世界はそこまで優しくありません。朝倉さんを蘇らせることは世の理に反することとさえ言えるでしょう。それでもそれを強行すれば、取り返しの付かないことになるかもしれませんよ」
「そうですけど……」
 それでも朝比奈さんは納得できないらしい。喜緑さんも、無理に朝比奈さんを納得させようとしているわけでもないらしい。そもそも二人の言い分は、互いにわかっていることなんだろう。俺にだってわかる。ただ、朝比奈さんは感情を優先させており、喜緑さんは理性を優先させている。そんな二人の議論ではこれといった着地点が見つかるわけもない。
「どちらにしろ」
 結論が出ない議論を続けていたって仕方がない。朝倉を蘇らせるかさせないか、そんな話は今は棚上げしておくしかない。それよりも先にしなくちゃならないことがある。
「朝倉が存在してるか否か、その確認が先ってことですかね」
 ただ、その確認をどするかってことなんだが……確認方法なんてあるんだろうか?
 俺がそう思っていたとき。
 ポケットの中に入れたままにしておいた携帯が、ぶるぶると震えだした。
 こんなときにいったい誰だ。
「もしもし?」
 どこからの着信か確認もせずに通話に出てみれば、相手は意外と言えば意外な、けれど待ち望んでいたと言えばそうとも言える相手からだった。
『あ、お兄さん? 今どちらにいらっしゃるんですか』
「ミヨキチ!?」
 九曜の登場とその後の話ですっかり忘れていたが、その前まではミヨキチと一緒にいたんだ。そのミヨキチは……そうだ、ミヨキチは朝倉のことを知っていて、おまけにその姿を見かけたと言い出すや否や後を追い掛けてはぐれて──。
「おい、今どこにいるんだ? さっき朝倉がどうとか言ってたが、どうなったんだ!?」
『そう、その朝倉さんのことで。ええと、ここって学校……お兄さんの通ってる学校かしら。今そこまで追い掛けたんですけど、そこからちょっと見失っちゃって』
 俺の通ってる学校? 北高のことか? なんだってそんなところに。
「おい、ミヨキチ。その前に聞きたいことがあるんだ。おまえ、どうして朝倉のことを、」
『あっ! いた、いました。ごめんなさい、またあとで連絡しますから。ええと、お兄さんもこちらに来ていただけますか? そうすればほら、わたしが言ってたこともウソじゃないってわかると思いますし』
「いや、そういうことはいいから。それよりも、」
『すみません、またあとでご連絡します』
「お、おいっ!」
 って切りやがった。頼むからこっちの話を聞いてくれ。
「今の電話、朝倉さんがどうこうおっしゃってましたが、どうされたんですか?」
 喜緑さんが訝しげに聞いてくるが、どうもこうもあったもんじゃない。
「ミヨキチからですよ。ああ、そうだ。ミヨキチのヤツ、どういうわけか朝倉のことを知ってたんですよ。それで街中で見かけたとか言い出して後を追い掛けて……ともかく、今は北高付近にいるらしいです。すみません、今からちょっと行ってきます」
「では、わたしたちもご一緒した方がよろしいですね」
 そうしてくれるなら有り難い。有り難いのだが……それよりも、任せたいことがある。
「喜緑さんは長門のところに行ってください。あいつが世界の情報を改ざんした理由が朝倉なら、今もまだ朝倉がいることでどう動くかわかりません。それに朝比奈さん」
「は、はいっ」
「朝比奈さんはそこの九曜を見ていてください。ええっと」
 いくらなんでも、朝比奈さんと九曜をペアで置いておくには抵抗がある。そもそも九曜の保護者は俺たちじゃない。然るべき相手に引き取りに来てもらわねばなるまい。
 俺は携帯から佐々木の電話番号を呼び出して、メモを──。
「あら?」
 メモを残そうと思ったら、喜緑さんが人の携帯を見て妙な声を出した。
「何ですか」
「その携帯……ちょっとよろしいかしら」
「はい?」
 喜緑さんは、俺から携帯を取り上げてまじまじと見ている。その携帯は……そうだ、俺がもともと持っていた携帯だ。ミヨキチの家にあったものじゃない。
「これって……あ、よいしょっと」
 可愛らしい掛け声だが、それが本当に必要だったのかよくわからん。わからんが、けれど携帯は喜緑さんの手の中で形を変え、髪留めに変化した。
「これ、わたしの髪留めだったものを作り替えて携帯にしていたみたいですね」
「喜緑さんの髪留め?」
 どうしてそんなもんが俺の携帯にすり替わって……いや、そもそもどうしてそれを、俺は『自分のもの』と思って持ってたんだ?
「上書きされた一週間の間に、こういうものを渡さなくちゃならないことがあったのかもしれませんね」
 そんなことを言われても、思い当たる節はない。もとからないのだから当然……って、じゃあミヨキチの家の壷の中にあった携帯こそが、本来の俺の携帯ってことなのか? なんでそれがミヨキチの家に……いや、そんなことを考えている暇はない。
 ともかく、俺は佐々木の電話番号をメモして朝比奈さんに押しつけた。
「ここ、佐々木の番号です。あいつに連絡を取って引き取りに来てもらってください」
「わっ、わかりました」
「それじゃすみません、あとはお願いします」
 おざなりな一言を残し、俺は家を飛び出して北高へと向かった。