吉村美代子の奔走 一章

 喜緑さんを待つと言っても、店の中で居座り続けるには周囲の目が気になりそうな時間はかかりそうだ。そこまで節操なしに居座り続けられる図太い神経の持ち合わせがない俺とミヨキチは、仕方なしに外に出た。行くあてなんぞどこにもないのだが、それでも話をするだけなら歩きながらでもかまわない。
「笑われちゃうような話かもしれませんけど」
 と、ミヨキチはそんな前置きをしてぽつりぽつりと語り出した。
「昨日の朝に──」
 つまり金曜の朝に目が覚めたミヨキチは、寝惚けた頭が覚醒するにつれて普段着のままでいる自分に驚いたようだ。俺にとっちゃどうってことない話に聞こえるが、ミヨキチにしてみれば物凄く違和感のある状況だったようだ。
「それってつまり、お風呂にも入ってないってことですよね?」
 風呂上がりとなれば、まずパジャマなり室内着に着替えるのが妥当だろう。わざわざ一日の汚れを洗い落としたってのに、また普段着に身を包むのは考えにくい。なのに普段着のまま自分のベッドで目を覚ましたということは、つまり風呂にも入ってないことになる。
 だったら風呂に入らずに寝たんじゃないか、と考えるのは男の思考のようだ。金曜の朝にそういう状況だったとなれば普段着のままで寝たのは木曜の夜の話であり、翌日には学校がある。そのことを忘れるようなら、ミヨキチの親も小学生の一人娘を残して旅行に行ったりしない。
 男よりも女子の方が身だしなみに気を遣うのは当たり前の話で、特に思春期に差し掛かった女の子が風呂にも入らずに学校に行こうと思うわけもなく、けれど事実として服を着たまま寝ていた。
 なるほどね。そういうことなら確かに妙な話だと思う。思うが、それでも少し、ミヨキチがここまで気にする理由になるには説得力が足りない。
「わたしも、起きたときはそこまで気にしなかったんです。ただ……」
 目を覚まし、自分が服を着たままだということに疑問を抱きつつも、それはすぐに忘れるような他愛もないことだった。ただ、朝の忙しい時間帯にシャワーを浴びるというひと手間が加わり、慌ただしく学校に行く準備を進めていた……のだが。
「既視感……みたいなものなんでしょうか」
 本人はそう言ってるが、話を聞いた感じでは違うような気がする。何をどう言っていたのかというと、例えば今こうして歩いていて目に入る光景を見ていると、そこに被せてくるように別の情景が脳裏に浮かんでくるらしい。
 ミヨキチが金曜の朝に感じたのはそういうことだ。
 朝起きて、服を着たまま寝ていた自分がリビングに入れば、まず違和感を覚えた。その違和感ってのが、さっき喫茶店で話していた「いつもより綺麗だな」ってことらしく、けれど脳裏では何故か部屋の中がめちゃくちゃになっている光景が浮かんだらしい。
「既視感って言うのは『前にこんなの見たことあるな』っていうことを言うんだろ? どっちかっていうと……何だろうな、別の映像が割り込んでくるから……ノイズみたいなもんか?」
「あ、そう言われるとそうかもしれませんね」
 まるでフラッシュバックするように、覚えのない映像がふとした弾みにチラチラと脳裏を過ぎる。そんなノイズが気になって居間の中をあれこれ見ていた過程で、俺名義の携帯電話を見つけたようだ。
 それだけでなく、さらに俺と喜緑さん、そして何故か朝倉も一緒に自分の家の居間に居るような映像が紛れていて──。
「実際に喜緑さんが居て驚いた、か」
「でも、それだけじゃなくって」
 ミヨキチが気にしている問題は、そういう「身に覚えがないけれど見たことがあるノイズ」ではなく、自分の行動に対する違和感の方だった。
「なんとなく……本当になんとなくなんですけど」
 例えば「電話の前に行かなくちゃ」と理由なく思い立った途端に電話が鳴ったり、学校の授業で出てきた小テストの問題文を見て「前にも見たことあるな」と思ったりすることが、昨日から頻繁に起きている。
「そういうのを既視感って言いません?」
「そういうのなら確かにそうだが」
「もしかしてわたし、予知能力か何かに目覚めたんでしょうか? これって凄いですよね」
「はは、まさか」
 冗談めかして言うミヨキチに俺は笑い飛ばしながら答えたが、内心では気が気じゃなかった。超能力者の知り合いは、ワガママ娘が気まぐれで作り出す限定空間でしか使えないヤツだけで充分だ。ミヨキチまで一般常識から掛け離れた連中の仲間入りをしてほしくない。
「それだったら部屋の中がめちゃくちゃってことも、前にどこかで見かけたことになるんじゃないのか? あるのか、そういったことが」
「それはないですけど……でも、先ほどの喜緑さんのこともそうですし、おまけに身内の方も……朝倉さん、ですよね? いらっしゃるってことらしいですから」
 いる……と言っていいのかどうか悩むところだ。そもそも朝倉は今はもういない。いないヤツとミヨキチが会っているとは思えないし、ミヨキチが言う『朝倉』が俺の知っている『朝倉』と同じヤツなのかどうかもわからない。
 ただ、ミヨキチは喜緑さんに会って「ちらちら脳裏を過ぎるノイズの映像と同じ人」と言っている。その中に出てきているらしい朝倉も、もしかすると……と思えなくもない。
 でも、それならいったい何故? どうしてミヨキチがそんなノイズを見るんだ?
 けれどミヨキチには、事実体験したことがないのに覚えがある日常を見たり、同じ日が繰り返されている錯覚のようなものを感じているようだ。偶然と言うにしてはその頻度が多いようだし、喜緑さんや朝倉の名前までドンピシャで当てるからには、そこに何かしらの理由があることは間違いない。超能力とか関係なしに。
 体験していないはずなのに身に覚えがあり、知らないはずなのに知っている。だとすればその理由は……ん? 何やらそういう話は前にどこかで……あれは……そう。
「……夏、か……」
 去年の終わらない夏に俺たちが感じていたものと似ている。
 ハルヒが夏休みを終わらせたくなくてループさせた日々。一万ン千回と繰り返したあの日。そのときに俺やSOS団の連中が感じていた既視感。ミヨキチが感じているものは、それに近いものがありそうだ。
 ということは……ループしている? またそんなことが起きているのか? ハルヒが何かをやらかそうとして、それでミヨキチにそんな症状が出ているとでも? いやしかし、だとしたら何故、ミヨキチなんだ?
 そこがわからない。
 俺にはそんな自覚がまるでないし、ここ数日の出来事で既視感を感じることも何もない。にも関わらず、ミヨキチにはそれがある。
 もしノイズやら既視感やらと呼んでるものが長門や古泉、朝比奈さんに出ているなら俺が鈍感だって話で終わり、こっちも解明に向けて東奔西走するだけの話だ。けれど、ハルヒと縁もゆかりもなさそうなミヨキチにそんな症状が出て、ハルヒの側にいる俺たちには何の自覚もない。今日の、午前中に行われていた市内不思議探索の中で長門は……いつも通りだし何があっても動じなさそうなヤツだが、古泉や朝比奈さんを見た限りでは、何か感じるところがあったようには見えない。
「お兄さん?」
「……まー」
 俺も以前に同じような経験をしたんだ、とはとても言えない。何より、涼宮ハルヒという訳のわからんパワーを持ったキテレツ女と俺が知り合いだなんてことを、ミヨキチに知られたくもない。
「あまり気にするようなことじゃないと思うけどな。問題は、」
 と、俺がそれとなく話の軌道を修正しようとしたときだった。
「ごるぁっ!」
「げほぉっ!?」
 怒鳴り声とともに、真後ろから俺の腰椎をだるま落としのように吹き飛ばさんとする物凄い衝撃が襲ってきた。
「ひゃあっ!」
 傍らのミヨキチが上げる悲鳴が聞こえた。むしろ何かを叫びたいのは俺の方であり、けれど俺が怒鳴るよりもその声は飛んできた。
「こンのエロキョンがあっ! あんた、こんなとこで何やってんのよ!」
「は……ハルヒ……」
 憤怒の形相で仁王立ちしているその姿は、涼宮ハルヒで間違いない。ミヨキチからハルヒの話を遠ざけようとしたつもりが、よりにもよって本人登場とは何事だ。
 おまけに──。
「きょ、きょきょきょ、キョンくん大丈夫ですか!?」
 言葉をどもらせながら駆け寄って来たのは朝比奈さんだ。この二人が一緒に居るということは、長門と古泉もいるのかと思ったが、けれど二人は居ない。
「なんでおまえがここに、」
 と聞いてもハルヒは答えない。俺の問いかけをしっかり耳に入れて返答するだけの精神的余裕がなさそうな面持ちで一気に捲し立ててきた。
「なぁにが『急用が入ったから午後はパス』よ、このバカ! 午後の市内不思議探索を休む理由が女の子とのデートとは何事!? あんた、そんなんだからいつまで経ってもヒラなんでしょっ!」
 ああ……なるほどね。つまり俺が抜けた後も市内をぶらぶらしていたわけだ。ここに朝比奈さんがいて長門と古泉がいないのは、そういうペア組になったからだろう。
「ま……まぁまぁ涼宮さん。キョンくんにも事情があるでしょうし、それを聞かないで一方的にっていうのは……その、あまりよくないんじゃないかなぁって、」
「みくるちゃん」
「はっ、はぅいっ!」
 そこはかとなく朝比奈さんが俺の助けにまわろうとしてくれているようだが、いかんせん相手はハルヒだ。ひと睨みされただけでガクガクに震え上がっている。
「キョンはね、重要かつ重大、神聖にして厳粛な団活を抜け出して女の子と二人でいるの。しかも団活から抜け出す理由が『急用』っていうたった一言で。そんなことをするヤツに理由も事情もあったもんじゃないでしょう?」
 まるで気力体力ともに充実した休日の午後に訪れた爽やかな風が吹く草原で、小さな子供に世の中の道徳を伝え教える保母さんのように、ハルヒは慈愛にも似た笑みを浮かべて淡々と、とつとつと、とうとうと朝比奈さんに言って聞かせている。それが嵐の前の静けさなのは言うまでもない。余計に怖い。
「そ、そそそ、そうですね……」
 どうやら朝比奈さんも俺と同意見らしい。フォローにまわろうとしてくれたのはとても有り難いのだが、ハルヒの凄惨さを前に震え上がっている。
 どう考えてもハルヒの言い分はあまりにも傍若無人で、そんなものに同意しないでくださいと言いたい。が、このハルヒを前にすれば誰であろうと逆らう前にまずは謝っておこうかな、などと思ってしまうのも仕方がない。
「んで、キョン」
 このまま朝比奈さんにハルヒの怒りの矛先が向くのは本意ではなかったが、だからと言って俺に戻ってくるのも勘弁して欲しかった。
「あんた、この落とし前をどう付けてくれるつもり?」
「落とし前って、」
「あ、あのそのっ!」
 何をどう言い訳すれば五体満足で切り抜けられるかなぁ、などと考えつつハルヒのあしらい方をシミュレートしていたのがマズかったのか、ハルヒの蹴撃ならぬ襲撃から立ち直ったミヨキチが、ただでさえ注目されている周囲の目をさらに引き付けるような大声を出して割って入ってきた。
「わ、わたしがその、お兄さんを無理に呼び出したんです。だからお兄さんには何の非もないっていうか、だから……」
 ハルヒの迫力に対抗するように一気に捲し立てたミヨキチだが、そういうテンションは普段からでなければ長続きしないらしい。
「ええと、どちら様ですか?」
「あんたこそ……誰?」
 ミヨキチはハルヒを見て不思議そうに小首を傾げてから、ハルヒはミヨキチをまじまじと頭のてっぺんからつま先まで目を這わせてから、互いが互いに俺を見る。
 そんなことを言われても、俺が言うべき台詞はひとつしかない。
 やれやれ、だ。


「要約すると」
 ひとからせしめ上げた小銭で買ってきたファーストフード店のLサイズドリンクをちゅごごごごっと飲み上げながら、ハルヒはドリンクを持っている手の指をピッとミヨキチに指し示し、視線はしっかり俺を捉えて逃がさないでいる。
 そんなミヨキチは朝比奈さんと一緒にウィンドウショッピングに興じている。美人同士、何か意気投合するものがあるらしい……という話ではなく、俺がハルヒからの事情聴取を受けている間、ミヨキチの保護を朝比奈さんが買って出たというのが近しい表現かもしれない。俺としても、もっともらしいハルヒへの言い訳をする際に、ミヨキチが側に居られると厄介なので、これはこれで有り難い状況だ。もしかすると朝比奈さんがそれとなく気を利かせてくれたのかもしれない。
「あの子は妹ちゃんの親友で、あんたが機関誌に自慢気に書いてた映画館デートのお相手ってわけね。ふーん」
 何だよ、そのひとを蔑むような目は。
「あんたがロリコン趣味だったなんてね。嘆かわしいったらありゃしないわ」
「あのなぁ……」
 言うに事欠いて人をそういう目で見るな。そもそも俺にそんな趣味はない。
 確かに俺が四〇代や五〇代のおっさんで小学生のミヨキチに傾倒してりゃ紛う事なきロリコンだし、そう呼ばれても反論の余地はないが、俺は健全な一〇代の若者でミヨキチとの年の差だって五歳くらいだ。その差でロリコン呼ばわりされたんでは、世の年の差カップルすべてがロリコンやシスコンの類になるぞ。
「はっは〜ん」
 俺がそう言えば、何故かハルヒは笑っているのか怒っているのかどっちつかずの奇妙な表情を浮かべ、手に持っていたソフトドリンクのカップをパキベコっと握りつぶしやがった。
「つまりあんたにとって、あの子は安全圏バリバリの、ついつい手が出ちゃうようなストライクど真ん中ってわけ?」
 何がどうなって「つまり」なのか、さっぱり訳がわからん。
「だから、何度も言うがミヨキチは妹の親友であって、俺にとっては顔見知り程度だと言ってるじゃないか。今日だって、俺が忘れた携帯を届けてくれただけで、」
「ウソばっかり」
 確かに少し話を誇張しているが、俺の言葉に偽りはない。俺自身に覚えはなくとも、自分が契約している携帯電話をミヨキチが持ってきてくれたという事実は覆らない。
「まぁ確かに、今日あんたの携帯に連絡入れてもちっとも出なかったからおかしいとは思ってたけど」
 そうだろう、そうだろう。だから連絡して……連絡?
「連絡したのか、俺に」
「したわよ。何度も。でも、何回掛けても機会音声のアナウンスが流れるし」
「ちょっと待て。もう一回、俺の携帯に電話してみろよ」
「はぁ? 何言ってんのあんた。どうして顔をつきあわせている今のこの状況で、あんたに電話しなくちゃなんないの?」
「いいから、掛けてみろって」
「何なのよ」
 俺が重ねて頼んでみれば、その勢いに押されたのか他愛もないことだからなのか、ハルヒはぶつぶつ文句を言いながらも自分の携帯を取り出してダイヤルを回してくれた。
 俺が何をそこまで気にしているのかと言うと、これがかなり重要な話だからだ。
 ハルヒは俺に何度か携帯に電話をしてきてると主張している。けれど俺にはそんな身に覚えはない。事実、ハルヒも俺が出なかったと言っている。
 前提条件を忘れないでもらいたい。俺は自分の携帯電話を無くしちゃいない。携帯電話は『携帯する電話』だから携帯電話と呼ばれるわけで、その存在を表し示す名の通り、俺はちゃんと常時携帯していたんだ。
 だったら、ハルヒはどこに電話を掛けていたんだ?
 その答えはすぐに示された。
 俺のポケットの中で、バイブレーションモードになっていたのか、携帯電話がぶるぶる震えている。その震えている電話は……ミヨキチが自分の家のインテリアとして飾っていた壷の中に隠されてあった携帯だった。
 ハルヒは俺の携帯電話の番号を知っている。これまで何度も無遠慮な連絡が飛び込んで来ているのだから知っているのは当たり前だ。が……問題なのは、どうして俺自身すら見覚えのない携帯電話の番号を、ハルヒはさも当然のように知ってるんだ?
「ふぅ〜ん」
 俺が不思議に思って取り出した携帯電話に気を取られていると、ハルヒはそんなことはお構いなしとばかりに冷ややかな声を出す。
「どうやら本当に携帯電話をあの子の家に忘れてたみたいね」
「え? あ、まぁ……」
 ハルヒが謎の携帯電話へダイヤルしたことに気を取られていたせいか、少し曖昧な態度を見せたのが悪かったらしい。
「つまりあんたは、自分で『顔見知り程度』とか言ってた子の家にお邪魔して、携帯電話を忘れちゃうくらいな付き合いがあるわけね。ふぅーん、あそぉ〜。それを『顔見知り程度』って言うんなら、だったらあたしも、あんたにしてみりゃ顔見知り程度ってことか」
 ネチネチと納豆のように糸を引く言葉が、俺のナイーブな心にチクリチクリと突き刺してくる。いったい何が言いたいんだ、おまえは。
「ねぇ、キョン」
「なんだよ」
「完全犯罪って、どうやるかわかる?」
 何を言い出してるんだ、コイツは。
「なんで犯罪の話なんだ」
「いいから黙って聞きなさい。例えばね、とある場所で殺人事件が起きたとするじゃない。その殺害方法がかなりずさんで、証拠も凶器も犯行時刻もすぐにわかって、なのに犯人が逮捕されないとすれば、どういうことが考えられる?」
「意味がわからん。何の話だ?」
「推理小説ではよくある話のトリックよ。被害者が全員から嫌われていて、容疑者全員が互いに口裏を合わせて成り立たせようとする完全犯罪。閉鎖された場所で起きた事件に外部から事件を解決しようとやってきても、内部で結託して犯人を隠蔽したら、どんなに証拠が挙がっても逮捕できない。つまり関係者全員がグルってわけ。仮に逮捕しても、立証することができずに無罪になる。そんな事件って推理小説でもたまにあるわよねぇ? 実際にも海外じゃそういうことがあったとかなかったとか」
「……で?」
 いきなりそんな完全犯罪のレクチャーをされたところで、俺にどんなリアクションを求めているのかさっぱりだ。まさか俺に完全犯罪をやってこいとか言い出すんじゃないだろうな?
「あんた、まだわかんないの?」
 ハルヒはどこぞの探偵が犯人を理詰めで追いつめている時に見せる得意気な──俺からしてみりゃ癪に障る──笑みを浮かべてみせる。
「そんな使い古されたトリックじゃあ、このあたしは騙されないってことよ! あんたとあの子の間で口裏を合わせようったってそうはいかないんだから!」
 鼻息も荒く言い放つハルヒを前に、俺は心底頭が痛くなった。こいつはつまり、端から俺の話なんて信じちゃいないと断言してるようなもんじゃないか。
「さぁ、キョン! あんたいったい何をたくらんでるのか、しっかりきっぱり白状しなさい! この千里眼を持つあたしを前に、適当なウソでごまかそうったってそうは行かないんだから!」
 頭に来るどころか呆れ果てる。こういうヤツを前に、あれこれ説明してもすべて無駄になりそうだ。そもそも、どうして俺はハルヒに言い訳めいたことを必死になって話てんだ?
「だから俺が話してることは全部本当だって」
「はっはーん、まだシラを切るつもりね? じゃあいいわ。あの子にも聞いてみるだけよ。ちょっとー、ミヨキチちゃーん」
「は、はい?」
 俺が止める間もなく、ハルヒは飼い主から逃げ出す子犬のような足取りでウィンドウショッピングをしているミヨキチと朝比奈さんまで駆け寄った。
 あいつを野放しにするだけでなく、ミヨキチと直に話をさせるのはいろいろとマズい。それは何もやましいことがあるからではなく、ミヨキチが俺と会うことになった口実が問題なんだ。
「そういうわけで、今日はキョンと何するつもりだったの? 大丈夫、あたしだってそこまで無慈悲じゃないんだから、正直に話してみなさい」
「え? え? え……っと」
 そりゃミヨキチが戸惑うのも無理はない。いきなり呼ばれてそんなことを言われれば、誰だって「何事だ」と思うだろう。
「あのな、ハルヒ」
「ちょっとキョン、あんた黙ってなさい。みくるちゃん、ちょっとこのアンポンタンを隔離しといて」
「か、隔離って……あのぉ、どうすれば……」
「あーもー、いいからここらこっちに近付かないこと!」
 などと言いながら、ハルヒは足で地面にビッと見えない境界線を引いて見せた。ここから俺の陣地〜とか言い出す小学生か、おまえは。そんなもんにどれほどの効力があるのか敢えて言うまでもなく、陣地侵略も持さない覚悟も当然あるのだが、傍らの朝比奈さんを見ると不憫で仕方がない。
 もしここで強引にハルヒとミヨキチの間に割って入ったら、俺を隔離しとけと言いつけられた朝比奈さんにもとばっちりが行かないとも限らない。なんの強制力もない線引きされた陣地より、朝比奈さんの存在こそがかなり束縛してくれてやがる。
「あ、あのキョンくん。あたしのことは気にしなくても……いいんですか、吉村さんを……その、涼宮さんと二人にしちゃって」
 それでもそんなことを言ってくれる朝比奈さんがいじましい。ここはもう、ミヨキチを信じて耐えるしかない──と、そうだ。
「それより朝比奈さん、少しお聞きしたいことがあるんですが」
「はい?」
 ミヨキチに事情聴取ばりに詰め寄っている今のハルヒなら、こっちの話が聞かれてるってこともなさそうだが、それでも俺はやや声を潜めて朝比奈さんに尋ねてみる。いくらおっとりなこの人でも、忘れちゃいないと思うが……。
「去年の夏、覚えてますか?」
「え、去年……夏って?」
「ハルヒがしでかしたエンドレスな夏休みのことです」
「えっ? ええ……もちろん覚えてますけど……」
 俺が何を言いたいのかわかってないのか、朝比奈さんはちらりとハルヒに目を向けて、聞かれていないことを確認してから頷いた。
「それなら、確かそのときって朝比奈さんが真っ先に異変に気付いたんですよね」
「え、ええ。詳しくは言えませんけど、未来に連絡しようとしてもできなかったからですけど。あの……本当にどうしたの?」
「ええっと」
 朝比奈さんから話を聞くには、こっちも慎重に言葉を選ばなければならない。迂闊な態度で尋ねても、冗談か何かと思われて笑顔ではぐらかされてしまう。
「まさかまたループしてるとか、そういうことはないですよね?」
「えっ?」
 俺のストレートな問いかけに、朝比奈さんは虚を突かれたような表情を浮かべたがすぐに破顔し、くすくすと笑い出した。
「やだ、キョンくんったら。そんなこと、あるわけないじゃないですかぁ。もぅっ! いくらあたしでも、そんな簡単には引っかからないんだから」
 ストレートに聞くのは逆効果だったか。朝比奈さんはくすくすと微笑みながらそんなことを言う。とかく、未来人の守秘能力は極めて高い。朝比奈さんのようにのんびりおっとりなドジっ子でも、未来や時間に関係する話になった途端に言葉を濁らせてしまう。
「そうですか」
 もっとも、今は何も未来のことや時間の仕組みについて聞きたいわけじゃない。重要なのは『実際にループが起きているのか』ということであり、朝比奈さんの態度を見る限りでは、そういうことになっているように見えない。
 もしループしているのなら、いくら二度目だからと言ってもこの朝比奈さんがここまで平穏のほほんとしているはずがない。
 起きてないのか、ループは。いや、俺とてそんなことが二度も三度も頻発するとは思ってないが、それならミヨキチの身に起きていることはいったい何なんだ?
「ちょっとキョン!」
 時間がループしているわけでもない。けれどミヨキチには俺たちが去年の八月に体験したようなループに似た疑念を抱いている。その違いは何かと思いあぐねていると、俺を呼ぶハルヒの鋭い声音が思考を中断させた。
「何だよ」
 やや苛立ち混じりに反応すれば、けれどハルヒの方こそ苛立ちを倍加させていた。次いで出た言葉には、そんな気持ちが十二分に含まれている。
「朝倉がいるかもしれないって、どういうことよ!?」
 その名前がハルヒの口から出て、俺は立ち眩みでも起こしそうな気分を味わった。
 よもやハルヒが、ミヨキチからそこまで話を引き出すとは思わなかった。いったいどういう話術を使って問い詰めたのか気になるが、今はそれを気にしていられる状況でもない。
 これはマズいことになった。ハルヒが妙な興味を示す前に、この話題を打ち切らなければならない。余計な知識を与えて妙な事態に話が転がることなんて、俺でなくても望んじゃいない。
 そのためにはどうするべきか。
 ………………。
 やばい、何も思い浮かばない。
 制限時間が残り少ない中で、最適な答えを導き出さなければならないわけか。下手な高校や大学への入試試験より難しい問題だぞ、これは。
「朝倉ってカナダに転校した朝倉のことでしょ? なんで今頃になって、この子からあいつの名前が出てくるのよ」
「あー……いやそれは、」
「転校?」
 口からは曖昧模糊とした言葉を垂れ流しつつ、脳内では詰め寄るハルヒをあしらうに最適な一言を検索する作業に集中したくて脊髄反射ばりに言葉を濁した俺だが、けれどしっかり耳を傾けて強い反応を示したヤツもいる。
 ミヨキチだった。
「朝倉さんて、転校されてたんですか?」
「ああ、まぁ……去年の五月に」
 と、ここまで応えて閃いた。
 最適とも最善とも言えず、下手すれば更なる混迷を招く事になりかねないし、何より打開案にさえなっていない方法だが、ハルヒを遠ざけるという一点においては他に手がないように思える妙案だ。
 それを実行するには俺自身の……なんて言うか、道徳心というか罪悪感というか、とにかくそういう後ろめたい気持ちを押し殺す覚悟が必要になる。おまけに朝比奈さんの助けも期待したいが、そこは賭けだろう。何より判断にあぐねいていても、覚悟を決めるまで状況は待ってくれない。
「そう、そうなんだ。朝倉は去年にカナダへ転校してるんだ。それから戻ってきたっていう話も聞かないし、いるわけがない」
「え、でも……」
「それでな、ハルヒ」
 何かを言いかけたミヨキチをあえて無視して、俺はハルヒの肩をがっちり掴んで有無を言わさず話を先へ進めた。
「おまえさっき、ミヨキチから何をどう聞いたんだ?」
「何って、あんたとその子が今日会ってた理由とかよ」
「ああ、そうかそうか。つまり俺の携帯が何故かミヨキチの家にあって、それを届けに来てくれたって話だろ? 携帯のことならあれだ、たぶん妹が勝手に持ち出したんだ。ほら、うちの妹は携帯なんぞ持ってないから興味本位で勝手に持ち出して、ミヨキチの家に忘れただけだ。わからんが、たぶんそうだ。間違いない」
「曖昧なのか明確なのか、どっちよ」
 いちいち細かいところを突っ込んでくるな。そのことは重要じゃないだろ。だからあえて無視して話を進めることにした。
「とにかく! それで? 朝倉のこと? おいおい、バカ言うなよ。朝倉のことはほら、おまえも知ってるだろ? おまえからもミヨキチに説明してやってくれ」
「説明も何も、今はあたしが聞いてんでしょ?」
「いいからほら」
「何なのよ……。朝倉はあれでしょ? 去年の五月に突然カナダに転校したじゃない。それがなんで日本にいるのよ? しかもあんたが会ってたって、」
「俺は会ってない。そう、会ってないわけだ」
 半ば強引にハルヒに話を打ち切らせて、自分の都合のいいように話を進める。今はとにかく勢いこそが重要なんだ。
「てことは、どういうことが考えられる? 突拍子もないことを考えるなよ? 常識の範囲内でよくある話として考えてみろ。出てくる結論はひとつじゃないか。つまりすべてはミヨキチの勘違いってことだ」
「え? あ、あのわたし、」
 戸惑うミヨキチに今は心の中で謝罪をしておく。だが、場を収めるにはこれしかないんだ。もしかすると別の方法もあったかもしれないが、追いつめられた今の俺ではこの程度しか思いつかなかった。
 つまり、こういうことだ。
「今日ここでミヨキチと会っていたのは、妹が勝手に持ち出した携帯を返してもらうためさ。でもな、届けてもらったわけだから、受け取ってすぐ追い返すのも礼儀知らずじゃないか。なもんでお礼も兼ねて茶でもご馳走していたわけで、そんな話の中で『俺が会っていたのは誰ですか?』ってなって、それがまぁ、どこでどう間違えたのか、話を聞けば俺が思い当たる人相風体のヤツは朝倉くらいで、それが……そう! コミュニケーション不足による認識の齟齬とでも言うのか、ミヨキチは俺が会っていたのは朝倉だったと思い込んでいるらしく〜……」
 状況は突き詰めれば二者択一。つまり、ミヨキチを立ててハルヒに俺自身さえも理解できてない話をバカ正直に説明するか、それともミヨキチの勘違いで済ますかってことだ。そしてそのどちらを選ぶかによって『世界が滅亡しかねない』ときている。
 ミヨキチを勘違いするドジっ子さんに仕立て上げることは本意じゃないが……そのことと世界の安定とが天秤に掛けられれば、どちらに傾くかは言うまでもない。
 故に俺はミヨキチを悪者……ってほどでもないが、そこはかとなく『すべての非はミヨキチにある』とばかりの言い訳を並べ立てたわけだが、突き刺すようなハルヒの冷ややかな視線がすべて無駄だったと思わせてくれる。
「……ウソくさ」
 ズバリ言うなよ。わかってるんだって、そのくらい。いくら俺でもわかっちゃいるんだ、今の話が限りなく胡散臭く無理のある話だってことは。
 けれどそのくらいしか思い浮かばなかったんだから仕方がないだろ?
 だからここで朝比奈さんの助けが欲しい。さすがの俺でも限界だ。限界点を軽くをぶっちぎっている。もう勘弁してくれ。ホントに勘弁してください。
「うっ、嘘くさくてもだな、事実ってのは蓋を開ければそんなもんばっかりなんだよ。そんなことより……えー、だから朝比奈さん」
「……ふぇっ? な、ななな、なんですかぁ〜!?」
「他の二人と合流する時間もそろそろじゃないですか? いいんですか、ここで時間を潰してて。奢るとなると大変でしょう?」
「へ? い、いえそんなことは、」
 お願いします朝比奈さん、多少でいいから空気を読んでください。頑張れば何でもできる人だということを俺は知ってますから。
「大変ですよね?」
「あ……あーっ、そっ、そうです! そうですよねっ! 二人を待たせちゃったらダメですよね! だ、だからそのぅ、涼宮さん。ほら、早く戻らないと……ね?」
「何言ってんのよ、みくるちゃん! 二人にだったら連絡入れとけば、」
「ほらハルヒ」
 嫌々かもしれないし渋々かもしれないが、それでも朝比奈さんが頑張って気遣ってくれた好機を逃すわけにもいかない。
「朝比奈さんもそう言ってんだ。時間厳守はSOS団の鉄則だろ? それを団長自ら破るのは団員たちに示しが付かないじゃないか。じゃ、朝比奈さん。あとはよろしくお願いします」
「えぇ〜っ!? う、ぅぅぅ……が、がんばります……」
「そういうことで、またな!」
「あっ! こらぁっ!」
 後始末のすべてを朝比奈さんに押しつける形になったが、俺にだってすべてを投げ捨てて逃げ出したくなる時がある。凡人であり何の特技も能力もない俺には、もうこれ以上の言い訳は無理だ。
 騒ぐハルヒを後目に、俺はミヨキチを引っ張ってその場から逃げ出した。


 最悪な一時だった。どこをどう思い返しても最悪以外の言葉が見つからない。おまけに、今もなお無事に切り抜けたとは言い難い状況が続いていることに辟易する。
 あれはどう見ても、誰が考えても、問題を先延ばしにしただけで解決には至ってない。だがしかし、金輪際もう二度とあんな生き地獄を味わうのは勘弁願いたい。
 そう思うのは当然だ。そう思う俺を『無責任』と言うヤツがいるのなら、あの状況の俺になって考えてみるといい。即座に額を地面にこすりつける勢いで土下座をし、「ごめんなさい」と連呼するはずさ。
 そんなピンチ切り抜けたんだ。少しは安堵のため息を吐きたいところだが──。
「………………」
 ──どうやらそういうわけにもいかないようだ。
 俺の傍らには『釈然としない』という面持ちで頬を膨らませているミヨキチがいる。ハルヒの方はしばらく保たせることができるだろうが、こっちは今すぐにでも解決しなけりゃならん問題だよな。
「なんだかわたしが全部悪いみたいですね」
 ミヨキチにしては珍しい、つっけんどんとした声音が俺を落ち着かない気分にさせる。いかに小学生と言えども、レディのプライドを傷つけた代償はかなりのものになりそうだ。
「あー……いや、そういうことじゃなくて」
「親友の潔白を晴らすために言っておきますけれど、お兄さんの携帯電話を持ってきたことはありませんから」
 どうやらミヨキチは、俺が妹をダシにしたことでも怒っているらしい。我が妹ながら、いい親友を持ったもんだと羨ましくなる。
「だいたい、最初におっしゃってくださればよかったんです。さっきの方に、朝倉さんのこととか知られたくなかったんでしょう? そうすればご迷惑をおかけすることもなかったのに」
 それはそれでミヨキチにウソを言わせることになるから申し訳ないのだが……そもそも、そんなことを言う暇さえなかったじゃないか。
「別にミヨキチが迷惑かけたとかではなく……まぁ、なんだ。さっきの言い訳は下手だったとは自分でも思う。悪かったよ。でもなぁ」
 緊急のその場しのぎのためと言っても、ミヨキチの自尊心に傷を付けるような真似をしてまで切り抜けた俺に非があることは認めよう。それは認めるが、不幸中の幸いとでも言うのか、これでミヨキチにもわかったことがあるはずだ。
「何がですか?」
「朝倉のことだよ。ハルヒも言ってただろ? あいつはカナダに転校してんだ。そんなヤツと俺が、どうやってミヨキチの前で会うんだ?」
 実際、朝倉はカナダにいるわけでもないが、どっちにしろあいつはいない。いないのだから、ミヨキチが俺と朝倉、それに喜緑さんの三人セットでいるところを目撃することはできないんだ。
「俺が契約してる携帯電話がミヨキチの家にあったことはわからんが、少なくとも──」
「あっ!」
 そこはかとなく話を逸らすことが出来たかな、などという不埒な考えを脳裏に過ぎらせつつ、ミヨキチに朝倉の現状を伝えていたというのに、当のミヨキチは急にデカイ声を上げて話を遮りやがった。
「今! お兄さん、今あそこに朝倉さんらしい人がいませんでした!?」
「……え?」
 朝倉が? 今そこに!? そんなバカな。あいつがいるはずが……また過去から来てるとかか? いやしかし、それはもうできないはずだ。そうそう何度も朝比奈さん(大)があいつ自由に時間移動させるとは思えない。
 あいつはいない。いないはずだ。事実、ミヨキチが指さす方向には人の数こそ多いものの、俺が知っている朝倉の姿も朝倉らしき人影も見あたらない。
「どこに?」
「いました、いたんです! 今そこに……ああん、もう! 待っててください、捕まえて来ますから」
「おっ、おい!?」
 そんなことを言い出したかと思えば、ミヨキチは俺を置いて人混みの中に駆け出して行った。
 あの様子から、確かにミヨキチは何かを見たのかもしれない。『何か』と言葉を濁したのも、朝倉がいるはずないと俺は思っているからだ。そもそもミヨキチの言っている『朝倉』と俺が思い描いている『朝倉』は本当にイコールで結ばれているものなのか?
 ミヨキチはいったい何を見てるんだ? まさか本当に……?
 どちらにしろ、事は朝倉が絡んでいるかもしれない話だ。放っておくのも一人にすることもできない。それは……何だろう、正体不明なだけに不気味すぎる。
「おい、待てって!」
 とてもじゃないがミヨキチを一人勝手に先走らせるわけにもいかない。朝倉を取り巻く状況を何も知らないからこそ、本人も危機感を抱いてさえいないのが危険極まりない。
 そうそう滅多なことが起こるとはさすがに思えないが、それでも俺が一緒に後を追い掛けようとした──そのとき。
「────────」
「……は?」
 俺の前に立ちはだかるように、あまりにも唐突に周防九曜が現れた。
 九曜の様子がおかしいのは今に始まったことじゃないが、俺の前に唐突に現れたこいつは、それでも普段に比べて格段に様子がおかしかった。
 どこがおかしいって、すべてがおかしい。その体はバランスが上手く取れていないのかフラフラとしており、視線も焦点が定まっていないようにどこかしら虚ろに感じる。硬質鋼よりも無機質な有機体と見ていた俺にとって、九曜のこの変化は劇的な──それでいて訝しげに思える方向への──変化とも言える。
 何があったんだと、俺でなくともそう思うだろう……が、けれど思うのはそこまでだ。親身になって心配する謂われもないし、俺がそこまで気に掛ける理由もない。何より今は朝倉らしい人影を追って駆け出したミヨキチを一人にさせるわけにもいかず、すぐにでも後を追い掛けなければならない。
 何を思って九曜が現れたのか知らないが、かまけている場合じゃない。どんな様子であろうと、何もこちらから声を掛ける理由も必要性もなく、警戒しつつその横を素通りするつもりだった。
「──────待って────」
「ぉわっ!?」
 今さら九曜に話しかけられて、悲鳴みたいな声を俺が出すわけもない。
 そうではなくて、すれ違い様に俺の手首をがっちり鷲づかみにして引き留められたから驚いたのであり、それにも増して掴まれた瞬間に静電気でも走ったのか、ビリッと来たから驚いたまでだ。。
「おいこら、今何しやがった!? こっちは急いでんだよ!」
 こいつが現れたことから少なからず俺に用があるとは思っていたが、案の定というか狙い通りというか、まさにその通りになった。だからこそ、俺もすぐに返す言葉が出てくるってもんだ。
 すぐに払いのけるつもりだったんだ──が。
「──────あなたに────たす────……おね────がい──────」
 それがすべてか、それとも言葉途中だったのか、そこまで口にした九曜はふらふらさせていた体をさらによろめかせ、ネジの切れたゼンマイ人形のように倒れて来やがった。
「おっ、おい!?」
 不本意ながらもこうなれば抱き留めるしかない。倒れ込んで来た九曜はそのままピクリとも動かず、それこそ電池が切れたとしか表現のしようがない有り様だ。
 何なんだこれ? どうすんだよ。全身から力でも抜けているのか、その質量をまんま俺の腕に預けてこないでもらいたい。かといって周囲の目もある手前、放り投げるわけにもいかず、とてもじゃないがミヨキチを追い掛けられる状況でもない。
「おい、九曜。おい、どうしたんだ!?」
 呼びかけてもまるで反応を示さない。気絶してるとか眠ってるとか言うよりも、凍結されたような……突拍子もない言い方をすれば、こいつだけ時間の流れから切り離されたような状態だ。
 どうなってんだ。どうすりゃいいんだ、これは?
「あらまぁ、こんなところでそんなものを抱えて何をなさってるんですか?」
 俺が途方に暮れていると、背後から投げかけられるのは鈴を転がすような声。振り向けば、深緑の中に薫る百合のような香りを漂わせて、喜緑さんが笑顔を浮かべてそこにいた。
「なんでここに?」
「あら嫌ですね、わたしに何か話があるとおっしゃってたのはそちらじゃありませんか。お仕事を切り上げて参りましたのに、先ほどとはまた別の方を、それも公共の場で抱きかかえていらっしゃるなんて不純なことこの上ない方ですね」
 何を言いたいんだろう、この人は。笑顔を浮かべちゃいるが、本心は笑顔から掛け離れたところにあるんじゃないだろうか。
 そんなことをちらりと思ったが、それはどうでもいい話だ。むしろ、よくこのタイミングで来てくれたと喜ぶ気持ちが大きい。諸手を挙げて歓迎したい。
「こいつを何とかしてください。ぴくりとも動かないんですよ、これ」
「わたしが? 彼女を? どうしてですか?」
「どうしても何も……明らかにおかしいじゃないですか!」
 九曜に対してプラスの印象なんぞありゃしないが、それでも目の前でこんな様子を晒されてりゃ捨てておけない。人道的に放っておくことなんてできるわけがない。
「別によろしいんじゃありません?」
 放っておけと言うらしい。
「だって、そうじゃありません? これまで彼女にはいろいろ煮え湯を飲まされておりますので。勝手に自滅していただけるならそれはそれで……あら?」
 薄情ながらも正論を並べ立てていた喜緑さんだが、ちらりと九曜に視線を止めたときに何を思ったんだろう。朗々と語っていた言葉を切り上げて、考古学者が掘り出したものが石なのか遺跡の欠片なのかを見定めるように、改めて九曜の姿を凝視している。
「これは……ずれてるのかしら? それとも……うう〜ん」
 九曜の姿に喜緑さんが何を見たのかわからない。もしかすると、この人たちと俺とでは見ているものが根本からして違うのかもしれないが、興味を持ってくれたのなら願ったりってヤツだ。
「これはちょっと面白い症状ですね。ここでどうこう出来る状態でもありませんし……むしろこれは、わたしよりも朝比奈さんの専門じゃございませんかしら?」
「朝比奈さんの?」
「ご相談なさるならわたしより適材かと」
 朝比奈さんが適材? あの朝比奈さんが!?
 こんな状況で、未だかつて朝比奈さんが頼りになったことなんて一度もないんだが……いやしかし、朝比奈さんでなければダメというのなら、これは時間絡みのことなのか?
「その可能性はなきにしろ……ということなんですよ。もし可能でしたら、朝比奈さんをお呼びいただけますかしら? その方が状況理解も早く済むかと思いますけど」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
 いきなり呼び出せと言われても、さっき会って別れたばかりだ。連絡を取ることはすぐに出来るとは思うが、あんな無茶振りをした直後に駆けつけてくれるんだろうか。
 試しにダイヤルしてみれば、幸いなことにすぐ繋がった。
『も、もも、もしもしもしっ!?』
 携帯のスピーカーから聞こえてきた朝比奈さんの声は、ヤケに切羽詰まっていた。タイミングがいいのか悪いのかさっぱりわからん。
「あの、朝比奈さん。俺ですけど」
『は、はいっ! はい、えっとあの……ど、どうしたんですかぁ?』
「えっと……大丈夫ですか? 掛け直しましょうか?」
『待ってぇっ! キョンくん待ってぇっ! お願いこのまま……もう本当にあのその、どうすればいいんですかぁっ?』
 朝比奈さんのこのテンパり具合から察するに、ハルヒに何やらされていたのかもしれない。そこに俺から電話が掛かってきたのを好機と逃げ出しているんだろうか。だとすればタイミングはよかったのかもしれない。
「あの、少し……ですね。朝比奈さんにお願いがありまして。ああ、その時間移動とかそういうことではない……とは思うんですが」
『……ふぇ? あ、あのぉ……何かあったんですか?』
 俺のその一言が利いたのか、朝比奈さんの声に若干の落ち着きが戻る。
「それがその……少し困ったことになってまして。ええと今、隣に喜緑さんがいるんですが、その喜緑さんが朝比奈さんを呼べと言い出しまして。こっちに来られないですか?」
『あたし……ですか?』
「無理なら無理で、こっちに来られなくても……」
『いえそんなっ! そんなことないです! むしろすぐ行きますっ! お願いですからそっちに行かせてくださいぃ〜っ!』
 何やらすがりつく勢いで朝比奈さんの方から懇願してきた。いったいハルヒに何をされているのかと不安になってくる。
『どこですか? どこに行けばいいんですか? すぐに行きますぅ〜っ!』
「あー……じゃあ、さっき会ったところから少し進んだ先にいますんで」
『わっ、わかりました。すぐ、すぐ行きますから待っててください!』
「あっ、それと……!」
 まだ伝えておきたいことがあったんだが、それを言う前に通話が切られた。よほど早くハルヒから逃げ出したかったらしい。
 朝比奈さんの身に何が起きていたのか想像するのも躊躇われるし、何よりそういうことになった経緯は俺にありそうなので何とも言えないが、逆を言えばこっちの無茶振りがあったからこそ朝比奈さんがすぐに来てくれることになったわけか。嬉しいやら切ないやら、なんともやりきれない気分だな。
「すぐに来てくれるそうですよ」
「それはよかった」
 喜緑さんはニッコリ微笑んでそう言うが、この人は九曜の様子に何を感じ取ったんだろう。それを聞きたいんだが、尋ねたところで返ってきた言葉は物の見事に逸らされた。
「どちらにしろ、どこかに場所を移した方がよろしじゃありませんか。こんな往来のど真ん中で話していても仕方ありません。そうですね……朝比奈さんがいらっしゃったら、あなたのご自宅に参りましょう」
「うち……ですか」
「他にどこかございます?」
「えー……」
 喜緑さんの家ではダメなんだろうか? どうやらダメそうだ。
 九曜をうちに連れて行くのには多分に躊躇いが残るんだが……いや、それよりも。
「わかりました。じゃあうちに連れて行きましょう。それよりも喜緑さん」
「はい、なんでしょう?」
「ここで朝比奈さんが来るのを待っていてください。俺はちょっとミヨキチを捜して来ますんで」
「ミヨキチ……ああ、先ほどお店にいらっしゃってたお嬢さんですか。そういえば、機関誌に書かれていたお嬢さんのお名前もそうでしたね」
 またその話か。さっき会ったハルヒもそんなことを言ってたな。
 …………あれ?
「前に話しませんでしたっけ?」
「いいえ、記憶にございませんけれど」
 そうだっけ? ミヨキチの話をした覚えがあるんだが……って、これじゃまるでミヨキチと同じだな。喜緑さんが「記憶にない」と言うのなら、事実そうなんだろう。この人や長門に思い違いということは、まずあり得なさそうだ。
「とにかく、すいません。朝比奈さんが来たらそのまま俺の家に向かってください」
「それはかまいませんけれど、この小娘は如何なさるつもりですか」
「連れてってください。家にはすぐ戻りますから」
「あら、ちょっと」
 このときばかりは喜緑さんに呼び止められても立ち止まるわけにはいかない。九曜のことがどうこうよりも、俺にとって重要なのはミヨキチの方だ。一人にさせておくわけにもいかない。いかないんだが──。
 方々捜し回ったけれど、ミヨキチを見つけ出すことはできなかった。