1997年”夏の”全国大会にて優勝・全国制覇 
 ・・・ 感動の物語と記念写真
 (2004年7月1日現在の加筆した記述)

                    クリック → 前のページに戻る

関係者の間ではもはや伝説に成りつつある97年夏の全国制覇。
その驚嘆する固い守備と素晴しいチームワークはいまでも語り継がれています。
決して平坦ではなかったそのチームの短くも長くもあった1年の足跡を紹介します。
トーナメントである以上一戦毎に山有り谷有りで、強いチームだったから勝てたのではなく
勝てたから強かったのだと言えるのではないでしょうか。

前年の1996年秋、新チーム最初の大会「南関東支部秋季大会」からこの物語は
始まります。 初戦の二回戦で同じ横浜市の緑シニアに7−0で勝利、順調なスタートを
切ったかに見えました。 しかし、三回戦(9/15)で静岡の伝統の強豪チームの
浜松南シニアに3−10で無念の敗退、良く守ったものの浜松南シニアの強打に
屈したのでした。 この時、翌年春の全国選抜大会への道は閉ざされたかに見えました。 
が、一念発起した選手達は同大会の敗者復活戦を勝ち上がっていきます。
敗者復活戦の一回戦(9/16)で戸塚シニアに8−0、二回戦(9/23)で秦野シニアに
3−1、三回戦(9/28)で厚木シニアに4−0で勝利。 そして代表決定戦(9/29)で
横浜の強豪東金沢シニアに8−0で勝ってついに「関東連盟秋季大会」に駒を進めました。

同大会では危なげない試合運びで勝ち進みます。 一回戦(10/6)で庄和シニアに
8−1、二回戦(10/13)で山梨峡西シニアに4−0(1被安打・無失策で完封)、
三回戦(10/20)で福生シニアに7−0(3被安打・無失策完封で5回コールド)、
準決勝(10/27)で目黒西シニアに5−0(2被安打・2併殺・2失策で完封)で勝利。  
駒沢球場での決勝戦(11/4)では伝統の東京の強豪チーム調布シニアに
8−1(5被安打・1失点)で勝ち、翌年春の選抜大会出場を確実にしました。 
南関東支部の敗者復活戦から数えて9試合で2失策、55得点、失点はわずかに
3点という素晴しい内容でした。

97年春の「第三回全国選抜大会」の万博球場での二回戦(3/30)では前日からの
雨天順延で外野に水が残る寒いコンデイションの中、初戦の緊張をものともせず、
由良シニア(関西)に4−0で(3被安打・無失策で完封)勝利、三回裏のワンチャンスに
9番から連続ヒット、4番の本塁打で一挙4点を奪って試合を決めたのでした。 
前日が雨であったため、連戦となった同日の三回戦では青葉区の緑中央シニアと地元決戦、
雨混じりの寒い空の下で攻守ともにミスの多い苦しい試合を4−3の延長8回裏の
サヨナラゲームでものにしました。 オリンピック用に作られたという立派な舞洲スタジアムでの
準決勝戦(3/31))では遠来の北海道の空知滝川チームに8−1(4被安打・無失策)で
5回コールド勝ち、ついに決勝へ。 同日連戦の決勝戦は前年秋の関東大会決勝戦と同じ
調布シニアとの対戦、雪辱に燃える調布シニアの気迫はすさまじく、一進一退の攻防が続くなか、
ついに7回裏にサヨナラの決勝点を奪われて5−6で敗退、悔し涙の準優勝に終わりました。
しかし、初の大阪遠征、初の全国選抜大会で選手・親・指導者・応援団の延べ100名が
得た感動や経験は大変に大きく、後輩たちに受け継がれていったのです。
少し気抜けした南関東支部春季大会(優勝)、春季関東大会(二回戦敗退)を経ていよいよ
「夏」に入っていきます。

97年の夏の「関東連盟夏季大会」では初戦の二回戦(6/1)で文京シニアに7−2、
三回戦で春日部シニアに8−1(6回コールド)、四回戦で市川シニアに11−2(5回コールド)
で順調な滑り出し。 しかし、五回戦(6/22)で東京の強豪の杉並シニアに2−3で
競り負け、さらに9〜16位決定戦(6/29)で千葉北シニアに1−4で連敗してまたも
全国大会出場に暗雲漂う状況となりました。 そして、13〜16位決定戦(7/6)で東京の
八王子シニアに6−0でやっと勝ち、13〜14位を確定して土壇場で辛くも全国大会出場を
確実にしたのです。 13〜14位決定戦(7/13)では東京の目黒西シニアに8−0で勝ち、
関東13位で夏の全国大会出場へ出場しました。

夏の「第25回日本選手権大会」ではまたも苦しい試合の連続、一回戦(8/6、神宮第二)の
山口東シニアには5−4でやっと8回サヨナラ勝ち、1回と3回に4点を先制したものの
5回と6回に4点を取り返されて延長戦、8回に相手の不幸なエラーによって辛勝、
相手チームのなんとも切ない涙が今も思い出されるゲームでした。
二回戦(8/7、神宮)では春の選抜に続き、またまた地元の緑中央シニアと対戦して
6−2で勝利、5回に打者一巡の集中打5点で逆転したゲームでした。。
続く三回戦(8/8、神宮)では和光シニアと大接戦、4回と5回に2点を先制されたものの6回に
1番から始まる打順で2点を返して同点、そして7回裏に1死一,三塁から再び1番打者に
打順が回り、難しいカウント2−1からスクイズを決めて逃げ切ったのです。
3−2で薄氷の7回サヨナラゲームでした。
次に準決勝戦(8/9、神宮)では前年に同じ日本選手権で東京ドームで対戦して1−2の
緊迫した試合で競り負けた熊本北シニアとの対戦 ・・炎熱のグランドでは双方の攻守が激突、
双方で3併殺を含むファインプレーが続出してプロ関係者をもうならせたほどでした。 
特に緑東の二遊間は鉄壁で、今風に言えば”エリア4−6”でした。 そして、勝利の女神は
わずかに緑東シニアに微笑み、5−3で激闘をものにしました。 投手の継投が一段と冴えた
試合運びでもありました。
翌日の8月10日の神宮球場での決勝戦は関西の雄、泉佐野シニアとの対決、双方とも連戦の
疲れは覆いがたく、投手陣の豊富な緑東の一方的な試合となり、20−5で優勝して感動の
全国制覇達成。 多くのOB・関係者・父母が見守る中、選手達は会長と監督を胴上げして
感激をかみしめたのでした。 主将で4番の5連続三塁打が本人の最優秀選手賞に花を添え、
ベストナインにも5名が選ばれたのです。   

レギュラー、控え、ランナーコーチ、スタンドで応援の各選手が良く監督の意を理解して
チームワークも最高でした。 走攻守投共に日替りヒーローが出、監督の選手への信頼度も高く、
ピンチでの守備はキャプテン(捕手)からの指示がほぼすべて、ここ一番の攻撃の場面では
中軸選手にはほぼノーサインで打たせたものでした。 ”お前にまかしたぞ!”と監督の声が
良く響いたものです。 関係者にはつい昨日のことのように思い出される記念写真をじっくりと
ご覧ください。
 
 (文中、他シニアチームには失礼の無いように留意したつもりですが、万一無礼な表現がありましたら
    ご容赦ください。 また、プライバシー保護のため個人名は使用しておりません)

 



エピローグ : あれから4年半が過ぎ去りました。 あの選手達は今大学4年生
(2004年7月現在)の年代です。 当時の多くの選手達が高校野球で活躍した後、
野球を離れて勉学や仕事に打ち込む者がある一方、全国に散らばって社会人や
大学のチームで野球を続けています。 将来に幸あれ!。