2006年”春の”第12回全国選抜野球大会にて優勝・全国制覇 
 ・・・ 感動の物語と記念写真
 (2006年5月3日現在の記述
                                                  (写真提供:松永さん、平田さん)
                    クリック → 前のページに戻る


挑戦する事7度、準優勝2度ともう一歩で涙をのんできましたが遂に成し遂げた春の全国制覇です。
なぜか”春”の”大阪”では実力を出し切れずに大会前半で負けてしますことが数年続いていました。
ベスト4進出も1999年を最後に途絶えていました。    
そして12年で8回目の春に出場して遂に優勝・全国制覇を成し遂げました。

物語は2005年8月3日の日本選手権から始まります。
初戦の神宮第二球場での和歌山シニアとの対戦、接戦でしたが7回裏の相手の2点サヨナラホームラン
によって4−5で敗退して先輩たちの夏とシニアは終わってしまいました。 残塁5で決定打不足、
2併殺のあと一歩のまずい攻めでした。一方、失点は死球、エラーの連鎖というもの。
あわただしく新チームが始動し、8/19ー21仙台での東北交流大会に遠征しました。
新チームによる初遠征は4勝1敗に終わりましたが、何よりも風光明媚な宮城の地と地元の暖かい
歓迎を受けて楽しくもチームの結束を固めるのに有意義な3日間でした。
8月末に新旧キャプテンの交代式があり、新キャプテンが先輩たちの無念を晴らす決意を
きっぱりと述べたものです。 一方、二年生(新三年生)はわずか15人で、ひそかな不安もありました。

9月に入るとすぐ南関東支部秋季大会が開幕、毎試合の失点が約2点、得点は安定して5点以上で
危なげない試合を重ねます。 9月4日の掛川シニア戦は12−2(失策1、4回コールド)、
11日の大和シニア戦は4−2(奪三振6、失策0)、18日の横浜東金沢シニア戦は9−2(失策3)、
25日の戸塚シニア戦は8−3(失策2)、10月2日の決勝は横浜金沢シニアと対戦して9−0(失策1)の
シャットアウトで優勝を飾りました。 試合毎に選手達は自信をつけ、安定してきた守備からリズムを作り、
攻撃につなげていくパターンは1997年の夏の全国制覇と同じ雰囲気を感じたものです。 また、どの打順
からでも攻撃の起点を作っていく勝負強さが印象的。対戦した横浜東金沢シニア、戸塚シニア、
横浜金沢シニアはいずれも翌年の2006年の全国選抜大会に出場していますので支部大会とは言え、
大変レベルの高いゲームだったことがわかります。

10月15日からの関東連盟秋季大会ではこちらも毎試合、失点が平均2点、どの打順からでも得点できる
日替わりヒーローの出現で安定して勝ち上がります。 特に準決勝、決勝は連続完封勝ちでした。
10月15日の日高シニア戦は8−0(奪三振12、失策1、5回コールド)。
22日の千葉東シニア戦は6−4(失策0)、ランナーを犠打で確実に得点圏へ送りワンチャンスで得点する
相手チームのセオリー通りの野球で接戦でした。 
連戦の翌23日の小平シニア戦は12−1(失策1、5回コールド)。 30日の竜ヶ崎シニア戦は2−0(失策0),
双方の無失策の固い守りで0−0で6回まで進み、遂に7回表に2犠打を絡めて2点を挙げ、その裏を
2走者を背負いながらも辛くも守りきった試合でした。 
11月3日の決勝戦は佐倉シニアと対戦して2−0(失策1)で連続零封で勝利しました。
ランナーは出すものの点は取られない粘りの守備が攻撃のリズムにつながっていくパターンが毎試合のように
見られました。 

11月のクラストカップ(地方大会)では決勝で座間シニアに乱打戦11−12で敗退、 三位決定戦で浜松シニアに
延長11回の末5−10で敗退。 投手陣の不調と失策の繰り返しで悔しい連敗を喫しました。
と同時に打線のつながりもちぐはぐになって来ました。
これをバネに冬休みは徹底的に守備を鍛えることになったのです。 沖縄でSOLAの監督を務める米田さんの
帰省を待ちかねるように守備練習に没頭したのでした。 また、大石さんのスポーツ心理学を駆使した打撃指導で
徐々に打撃も上向いて来ました。 関東1位で春の選抜出場を確定していたことも
選手のモーチベーションを後押ししていました。 目標を持つことの大切さとすごさを感じたものです。

舞台は大阪の選抜に移っていきます。 3月26日夜にバスで大阪へ出発し、27日の大阪ドームでの
開会式に参加、その後淀川シニアのグランドをお借りして守備練習。 28日はシードで試合無く、
生駒山間の大阪産業大学の室内練習場で守備と打撃の点検。
 初戦の29日の山陽シニア戦は6−2(失策3)で勝利、手元で伸びる球に詰まって苦戦しましたが6回裏に
連打で4点を奪い、やっと勝負を決めた試合でした。 初戦の硬さか、1回表に2失点、その裏に1死、
一・ニ塁でフライを連続して打ち上げていやな雰囲気で始まりましたが、2回裏に下位打線の連打からやっと2点を
返して同点とし、6回裏に下位打線の連打から4点を奪い、突き放しました。  
 30日の京都東シニア戦は20−2(失策3)で勝利、打線がつながりました。 
 31日の知多東浦シニア戦は7−5で勝利(失策3)、7回裏の相手の反撃を2点に抑えてやっと勝利、
センターラインを捕手中心にしっかり固める相手の守備に押されっぱなしでした。 1回、2四球とバント内野安打を
絡めて2点を先取、その裏被安打3なるも最小の1失点でしのぎました。 2回裏にさらに4四球で1失点で同点。
しかし、3回に連打で1得点、5回に2四球を足がかりに連打で3得点、さらに6回にも連打で1得点して計7点するも、
5回裏にエラー絡みで1失点、さらに7回裏にも連打で2失点して点差以上に接戦でした。 
初出場ながら東海連盟を代表するにふさわしい攻守にまとまったチームでした。
 4月1日の準決勝戦は尼崎北シニアと対戦して2−1(失策0)で勝利、互いの守備が素晴らしく1点がまことに重い展開
でした。 明暗を分けたのは1回、緑東は先頭打者がセンター前ヒット、二番が犠打で送り、三番のレフト線二塁打で
1点先取。 一方、相手は1死2塁から、ショートライナーで併殺。 緑東はその後はカーブにてこずり、凡打の山。 
3回のニ・三番の連打で挙げた追加点1点を守り切りました。 基本に忠実なプレーでとにかく守って守って
守りきった試合で、二年生投手の気迫の継投が光っていました。
   
 (接戦の展開に基本プレーの徹底、次の1プレーへの集中を指示する監督 〜 尼崎北シニア戦より)



2日の決勝戦は武蔵府中シニアと対戦して9−5(失策1、奪三振8)で勝利して遂に優勝。 最優秀選手に
輝いた二年生投手が完投で相手打線を被安打14なるも、懸命の守備で5失点に抑えました。 
初回に連打で3点を先制されたいやな展開、1回裏は相手ライトの超ファインプレーのダイビングキャッチ、
さらにはゲッツーで無得点に終わり重い雰囲気がスタンドにも漂いました。 しかし、2回表の相手の攻撃を
3三振でしのぎ、流れを少し引き寄せます。 そして2回裏に先頭打者の四番・主将のバックスクリーン左横への
ライナーホームランで一気に試合の流れを引き寄せ、 打者12人で8点を奪い、主導権を奪いました。 
1球の怖さ、面白さを感じたものです。 さらに4回に一番からの連打で貴重な1点を追加し、勝利を決定するダメ押し。
強打の相手打線に6回表に4連打を浴びるもファインプレーと堅実な守備で投手を援護して2失点でしのぎました。
そして最終回の相手の攻撃、1投1打に大歓声が上がる中、選手達は集中力の途切れない守りで、1時間27分の
濃密な時間を終えたのです。 
→ 決勝戦試合結果(クリック) 
→ 大会全試合結果(クリック)

(優勝の瞬間、駆け寄る選手たち 〜 小雨の天気でした全員が輝いていました)
 



そして雨中の表彰式は舞洲BBスタジアムの玄関先で行われ、優勝旗授与、メダル授与で感激を新たに
しました。 緑東シニアから最優秀選手、優秀選手、ベストナイン3名が選ばれました。


(全員での記念撮影 〜 新調した横断幕が雨に濡れて鮮やかでした) 



(エピローグ)
選手達は大阪から戻り、選抜優勝の余韻もそこそこに関東連盟春季大会を戦っています。
そして、関東連盟夏季大会を次の目標として練習を重ねています。

 
 (文中、他シニアチームには失礼の無いように留意したつもりですが、万一無礼な表現がありましたら
    ご容赦ください。 また、プライバシー保護のため個人名は使用しておりません)