1999年10月27日
「修学旅行直前中止事件」のはらむ問題点
中陣唯夫(神奈川県立平塚商業高校定時制教諭)
この「事件」は、校長・教頭が修学旅行直前の10日前に、突然「中止」を言い出し、教職員も生徒も知らないままに旅行社にキャンセルし、露見するまで「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいたという、およそ前代未聞の「事件」である。
発生から1カ月半、今になっても何一つ解決はしていない(注:この小論を発表したのは10月27日であるため、このような表現になっている。次の日の28日に、濱崎秀昭平塚商業校長と小池正春平塚商業定時制教頭の異動 ― 事実上の更迭が発表された)が、あらためて一般にもましてや教育の場ではあるべからざる異様な「事件」との思いを深くしている。
今もって生徒、保護者、教職員の怒りと批判が収まらず、何も解決していない(注:前注参照)原因の一つに、この学校責任者のこの不祥事を認めようとしない不誠実さがある。
曰く「参加率の70%未満は県の『実施基準』に違反している」、曰く「50%未満では世間の常識に反し、県民に申し訳ない」、曰く「学年団は私たちに何も言わなかった」、曰く「生徒に了解を得る時間がなかったから」等々、挙げ句に「50%以下でも実施して下さい」と県教委ともども今になって恩着せがましく言い、それで生徒が納得すると考える身勝手さである。
言わ場、修学旅行というおいしいメニューの並んだテーブルをいきなりひっくり返した行為をし、4年生から怒りにかられた批判を浴びながら、自己保身の弁明しかできない校長、教頭。こうした姿を目の当たりにした記憶は、私の34年間の教師生活では皆無である。二人は「教育職の適性」以前の存在なのである。
濱崎校長は、前任校で人権侵害問題(注参照)を起こしている人物ではなかったのか。小池教頭は、98年度に教育センターで「教育相談研究室長」を務めた人物なのに、4年生女子の中学時の「不登校」事情を保護者に書いて出せ、という人権侵害を起こしている。二人の管理職登用の責任は誰にあるのか。どう責任をとるのか。
さらに驚くべきことは、学年団からまったく事情聴取することなく、こうした人物二人の言い分だけにより、10月5日の文教常任委員会で「教員側に問題がある」と答弁した斉藤俊英高校教育課課長の姿勢である。現場は、「管理職に問題がある」である。批判されて、「『教員側にも』と言ったんだが、新聞記者が勝手に書いたんだ」とうそぶき、来校した白鳥稔教育部長も、「私もその席にいたから、『教員側にも』と言ったはずだ」と言う始末。
事の重大さは、責任ある答弁が義務づけられているはずの公の文教常任委員会で、不公正にも片方だけの言い分に基づいて答弁したという職権乱用による信用を失墜させる行為、その事にこそあるはずである。それがわかっていない。
白鳥稔教育部長は、「斉藤答弁はすべて私の責任」と言いながら、具体的にどう責任をとるのかは明らかにしていない。世間一般では、こうした言には決して信を置かない。しかも、斉藤俊英高校教育課課長は、次期の教育部長に目されていると聞くから、開いた口がふさがらない。これでは、神奈川県警の相似形版ではないか。この人たちを幹部として、私たちの子どもや孫がマイナスの影響を受けることが予想される「県立高校再編計画」が推進されると思うと寒心に堪えない。
管理部のもとにある教職員課は、議会対策の名目でさかんに、一般教職員の「服務」を言うが、この件に対する姿勢に、その鼎の軽重が問われているといえよう。
この事件が発生して、生徒への説明会と全体の説明会に、合わせて4名の高校教育課の専任主幹が来校した。斉藤答弁後には、「行政事務監察」と称し、総務室長代理、教職員課課長代理ら4名、そして白鳥教育部長ら2名が来校し、現場教職員の強い要請もあって、実質的な発言の場を確保して、対応してきている。
しかし、対峙すべき神奈川高教組(神高教)本部執行部(書記次長2名)が来校して、分会員と意見交換したのは1度だけであり、白鳥教育部長が現場教職員に面会を拒絶されて、2回目に来校するという前日であった(強く要請したにもかかわらず、書記長は県外出張ということで来ず ― 組合の幹部なら出張から帰ってからでも来校すべきところ)。
神高教本部執行部は、この「事件」を教職員組合の問題としてどう認識し、どう解決を図ろうとしているのだろうか。それが見えてこない。中央委員会でも、分会代表者会議でも、議題や報告があったとは聞いていない。
この「事件」は、学校責任者による教職員の教育活動への干渉に止まらない破壊行為である。生徒、教職員の人格を無視したハレンチ事件である。にもかかわらず、斉藤俊英高校教職員課課長は「学校責任者は、県の『規則』を順守したから問題はない」とする一方で「教員の(管理職に一々の報告を能動的にしなかった故の)意思の疎通を欠いた行為」と強弁しているのである。こうした強弁が教育現場で一人歩きし始めたらどうするのか。今言われている『公立学校管理運営規則』の改悪による「校長のリーダーシップ」方針の具体化でなくてなんであろう。にもかかわらず、神高教執行部は動いていない。「日の丸」「君が代」は、どう闘うつもりなのか。
執行部は動いていると言うかもしれない。しかし、当局への「批判」や分会や当事者との電話のやり取りだけでは、それは「打ち合わせ」であり、そのレベルの反復で組合員の要求の実現や問題の解決が図られると考える組合員はいない。 「批判」や「打ち合わせ」の前提には、きちんと分会に出向いて調査し、その本質、問題点をつかんだ上での、解決をめざす組合方針がうち立てられてしかるべきである。これは、執行部への格別の注文ではない。組合活動一般のあり方である。当局と一線を画し、この問題のもつ意義されつかめば、団体交渉、抗議電、罷免要求、集会をもつなど、7000人の組織は多様に、機動性をもって闘えるはずである。
注 1998年3月19日付の『朝日新聞』は、「『知的障害者が専門教育受けないと・・・・オオカミ少年になる』と校長」と伝えた。「県立深沢高校の校長(この時の校長が、濱崎秀昭氏であった)が受験予定の知的障害を持つ生徒の両親に対し、『オオカミに育てられた少年』のたとえ話を引き合いに、知的障害者が養護学校などで専門教育を受ける必要性を説いていたことがわかった。・・・・校長から『しかるべき時期にしかるべき教育がされないと、オオカミに育てられた少年のようになる』と言われたという」というように書かれている。知的障害者の人権を侵害したことは明らかである。
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