2000年9月29日
さる9月21日、横浜地裁民事法廷において、「勤務条件に関する措置の要求に対する決定取消請求訴訟(不当人事取り消し訴訟)」の第1回公判が行われました。そこで,原告の中陣唯夫が述べた陳述書を資料として掲載します。
2000年9月21日
陳述書
原告 中陣 唯夫
私は1966年(昭和41年)4月に県立商工高校の定時制に国語科の教師として赴任してから、この3月までの34年間にわたり、商工高校、厚木南高校、平塚商業高校の各定時制に勤務してまいりました。
まさか、夜間定時制高校だけで34年間過ごすことになろうとは、当初夢にも思いませんでした。
当時の定時制は500人から600人の大規模校でしたが、田舎ではごく少人数の特異な印象を持たれた学校でしたから、私の母は「唯夫はちゃんとした就職をしたのか」と心配して上京、商工高校の立派な建物を見て安心して帰っていったものでした。姉も世間体が悪いから早く全日制に移れと手紙に書いてきたのを思い出します。
当時の定時制に対する社会認識はそんなもので、新採用の先生はまず定時制で養成期間のように2、3年過ごし、終わるとたいていの先生方は「年季奉公」が明けたように、そそくさと全日制に転任するのが一般でした。
しかし、この頃から自覚的に定時制に残り、学力問題や生活指導など定時制教育全般にわたって取り組む先生が少しずつ増えていったような気がします。私もそんな影響を受けたのでしょう、しんがりについて門前の小僧のように教育について少しずつ目が開いていったように思います。
今振り返ってみますと、夜間定時制高校だけで34年間過ごすことになった決定的な出来事は、ある生徒が何気なく言った「先生、俺たちのことわかっているようなうまいこと言ってるけど、どうせすぐ全日制へ行くんだろう」と言った一言です。私はこの時、この一言により教師生活の方向付けがきちっとされたのだと思います。
そして今日まで夜間定時制高校に勤め続けてこられたもう一つのテコは、生徒たちとの思い出です。
学校の映画会で『二十四の瞳』を見た生徒が「先生は大石先生みたいだな」と言ってくれたこと。
中途退学した生徒がクリスマス・イブの晩に「先生のあの授業が忘れられない」と電話をしてきたこと。
九州から福島に養子にやられた卒業生が「辛い」といって逃げ出してきて、新婚の私の家に3泊もして九州へ帰っていったこと。
盗癖のある生徒が遊びに来て、当時幹事で預かっていた「同僚会」の積立金を盗んでいったこと。
留学に失敗した帰国子女で、喫煙の癖がどうしてもやまなかった生徒が、「先生に何もあげる物がないから」と、とっておきのライターをくれて卒業していったこと。
初めて、産みの母に会いに行って失望して帰ってきた女子生徒の話。
新宗教に凝った両親に捨てられた生徒を家庭訪問したら、弟が金だらいで煮たインスタントラーメンを手掴みで食べていたこと。
3校も転校してきた番長格の生徒を大学に進学させ、その彼が今も盆暮れには決まって酒2本届けてくること。
先輩が後輩に「中陣先生には絶対に逆らうな」という申し送りをし、一種のファンクラブのようなものがあるのを知ったこと。
挙げればキリがありませんが、私はこうした生徒たちのその年齢には重すぎる、両肩に背負っているものを通して社会というものに少しずつ明るくなり、彼らの思いを推し量ることによって、自分の背筋がひどく歪まないうちに正してきたような気がします。つまり、教えていたつもりが私は生徒たちに教えられていたからこそ、この34年間勤め続けられたのだと、今に思い知っているところです。
時々、定時制勤務を続けることに迷いもありました。このまま、スタンダードな全日制高校で勤めることなく教師生活を終えていいのだろうか、夕食を一緒にとれないような生活を家族に押しつけたままでいいのだろうかと、悩むこともありました。しかし結局のところ私は、生活に目一杯であった学生時代の自分の姿や、中学卒業の学歴で生活に奮闘してきた兄の姿を生徒たちの中に見出して、定時制高校勤務から離れることができませんでした。
今、夜間高校定時制は生徒の持つ事情も変わってきて、学力に遅れをとっている子、家庭の経済上や複雑さを背負っている子はもちろん、障害を持っている子、中学までいじめにあって引きこもっていた子、保護観察を受けていた子、不本意入学や非行で全日制を退学した子など、多様になってきています。そして、定時制高校が教育再生の場として、その役割がクローズアップされてきているところです。
現行の『人事異動要綱』では、定年まで異動がないと信じていた私は、定年までの残された期間、私がこれまで生徒から学んできたことや、現代における定時制のもとでの教師のあり方について、これから整理し、自分なりに最後まで全力を尽くしきりたいと思っていました。そしてこれからも定時制で教える人々に少しでも私の経験を生かしてもらえたらという思いもありました。
それだけに定年退職まであと3年となった春、『人事異動要綱』の適用から外れた、しかも理由不明の異動発令はショックでした。私の34年間の定時制勤続の人生は何だったのか、言葉もありませんでした。
『人事異動要綱』の例外となるようなことがあるのかと質問しましたが、何も明らかにされませんでした。
ルールに沿った人事であれば、それに従わざるを得ないと言うことは理解できますが、理由不明で、「異動対象外」とわざわざ明記されている項目に該当する私が強行異動させられたわけです。
当座は何が何やらわかりませんでした。しかし、このような異動がどんなに教育現場を萎縮させてしまうものかと考えたとき、私は私自身だけの問題ではない、前例にしてはいけない深刻な問題を含んだ異動だとの認識を持ち、訴訟するに至りました。
よろしく私の訴えの本意とするところをご理解いただけるよう、お願いしまして、私の陳述を終わります。