2002年8月2日

 7月5日、神奈川高教組第62回定期大会において、本会代表中陣唯夫が「勤務条件に関する措置の要求に対する決定取消訴訟」に対する組織支援のお礼と訴訟の意義を述べた挨拶を、以下に資料として紹介します。


中陣訴訟(勤務条件に関する措置の要求に対する決定取消請求事件)の結審を迎えるにあたって

組織支援へのお礼と、この訴訟の意義について

神高教秦野曽屋高校分会    中陣 唯夫



  神高教62回定期大会にご出席の大会代議員の皆さん、ごくろうさまです。
  2000年3月、『県立高校人事異動要綱』(以下『異動要綱』)に反して「人事異動対象除外者」である私を強制異動した事案について、第60回定期大会で「組織支援」の決定を皆さんからいただいてから、ちょうど2年が経ちました。

  その年の7月21日、強制異動した神奈川県教育委員会に対する措置要求を、第三者機関としての役割をなげうって却下した神奈川県人事委員会を被告として、2名の弁護士の原告訴訟代理人をもって、『勤務条件に関する措置の要求に対する決定取消請求』と題する訴状を横浜地方裁判所第一民事部に提出、行政訴訟を起こしました。以来約2年間、7回の公判、3回の進行協議をたたかってまいりました。

  私の主張は「労働基本権を制約されている代償として、職員の勤務条件の適正を確保するために人事委員会があるのであり、地方公務員法第40条<勤務条件の措置要求>にいう『勤務条件』は、民間労働者の『労働条件』と同様に捉えられるべきである。どこでどのような公務つくかはまさしく一つの『勤務条件』であり、その異動理由を求めることは措置要求そのものである。それを教育長の「管理運営事項」であるから『勤務条件』ではないとして措置要求を却下するのは違法である」とする点にあります。

  今月18日の第8回公判をもって結審、秋には判決が出る予定のようです。

  この間、前任校の平塚商業高校定時制の皆さん、現任校の秦野曽屋高校の皆さん、そして組合執行部の皆さん、組合員の方々、公判には必ず傍聴して下さったOBの方や先生方、また何度も総会にお招きいただき、訴訟報告の機会をお与え下さった秦野・伊勢原支部の皆さん、県外から声援を送って下さる教育訴訟をたたかっておられる先生方、教育学者の方々等々。こうした多くの方々に支えられ、この7月18日に結審を迎える運びとなりました。ここにあらためて、この場をお借りしまして、厚くお礼を申し上げます。


  さて当初、この事案は内容がわかりにくいと、よくお聞きしました。それは、教師生活の大半を占める34年間も勤続してきた夜間定時制から、『異動要綱』の運用に反してまで、なぜ私が全日制へ強制異動させられたかという点が、今ひとつ理解しがたいということだったろうと思います。
  たしかに、教職員組合の人数と教育活動の根本を擁護する立場から本部執行部がただちに出した「見解」」は、私の強制異動の不当性を正鵠を射て、次のように指摘しました。

 @理由を明らかにしないままの異動の強行は、「異動要綱」の恣意的な運用となる。
 Aこれを許せば「異動要綱」の信頼性が失われ、同時に人事異動そのものの信頼が失われること。
 B人事が組合の組織攻撃に使われる恐れがあること。
 しかし、それでも多くの方が、この強制異動がなぜおこったのか、理解しがたいと思います。

  なにしろ、この『異動要綱』は、高校教育の状況変化に伴う人事上の問題点に、神高教が<神奈川の高校教育に責任を持つ>等の視点で主体的に取り組んできたことがその成立背景にあり、88年以来今日まで労使間に尊重・運用され、約延べ14〜15万人に運用されてきているものですから、なぜ、中陣だけがその運用から外されたのか、不祥事によるものとでも考えないと理解できない人事だったわけです。

  しかし、もし私が不祥事を起こしたのでしたら、そうした人物を組合が組織支援などできるわけがありません。私のことを真剣に考えてくださった方ほど、ますます理解に苦しまれたのではと思います。
  そこでこの5月18日の、初めて原告尋問が行われ、事実上の結審でもある第7回公判で、この不当人事がなぜ起こされたのか、その原因と思われることを傍聴の方々にも理解されるようにする方向で望むことになりました。

  その原因と思われる「事件」は、次のようなことです。
  発端は1999年9月、私が学年主任をしておりました第4学年の修学旅行実施10日前に、いきなり学校長と定時制教頭が、30年前に県教委が定めた『修学旅行実施規定』に「参加者基準70%」とあることを根拠に、<50%の参加率ではそれに反する>と、一方的にその中止を明らかにしたことです。

  学年団の4名は、<○現実には「基準」は定時制の実情に合わなくなり死文化している。○旅行準備の費用損失の面、勤務先に休暇申請を出した生徒が職場で信用を失う懼れ。○不登校や「いじめ」で修学旅行の経験がなかったりして、この修学旅行に『夢』をかける生徒がいる。○生徒たちが学校への信頼感を失う。>等々、教育的に大変な事態になると管理職に訴えました。半数以上が20歳以上である生徒たちは、当然のことながら怒りました。一部には集団退学の動きさえ出かかりました。<あの校長の名の入った卒業証書は受け取りたくない>というわけです。しかし、2人の管理職は<この県財政危機の折にこんな参加率は非常識で、県民が承知しない>と<非常識>の言を繰り返しました。夜間定時制の教師として34年間、陽が沈んでから蛍光灯の下で勉強する生徒たちの姿と事情を見続けてきた私は、この<非常識>の言を、揺るがせにできない響きを持った言葉として聞きました。そして本当にこれが<非常識>なことなのか、社会一般の良識に問いかけようと、朝日新聞の『声』欄に投稿しました。趣旨は、教育界の硬直した姿勢が今日の学校を魅力ないものにしている一因ではないか、との問いかけでした。小さな世界に事件だけれども、教育的に問題はとても深刻であることを指摘したつもりです。

  規模の小さい夜間定時制に「実施基準」を言い立てて、参加予定者15名の青春から修学旅行の「夢」を奪い取ってもいいのかと、他の一般教職員もみな体を熱くして管理職に<実施すべきだ>と主張して下さいました。
  しかし、最初に抗議した直後に、管理職は秘密裏に電話で旅行社に「キャンセル料請求書」を要求、修学旅行中止を通告していたのです。それを学年団が偶然知ったのは、2日後でした ― 。これが「事件」の概要です。

  県教育委員会はこの2名の管理職を処分せず、むしろ高校教育課専任主幹という役職を付して教育センターと県教育委員会に「更迭」、その一方で私たち学年団には、修学旅行の再計画、実施を要請してきました。
  そこで私たちは、学校への不信から参加意志を喪失した生徒をなだめたりしながら計画を立て、3泊4日の北海道旅行から一回り小さくなった2泊3日の「関西方面思い出づくり旅行」を、明けて2月中旬に実施しました。
  ところが、それから半月もたたない卒業式の翌日に、この訴訟に関わる強制異動の内示が出されたわけです。

  私は、この訴訟を通して、あらためて今日の教育行政の当座性、不公平性、保身性、無謬性、そして、一般行政と何ら選ぶところのない官僚性の弊害を痛感しております。

  当座をしのぐ『修学旅行実施規定』への対応、問題の管理職は処分せず問題のない一般教職員を「人事で始末をつける」不公平、年度末人事で関係者のおおよそを異動させて幹部責任を糊塗する保身性、これらが合流、収斂したところに抜きがたい官僚性がはびこっている ― 、と教師としては希有な体験であろう「中陣訴訟」をたたかってきた身には感じられます。

  今日の教育行政の「迷走」は、ここにその背景を持っていると思われてなりません。そして、もう一つ歴史的背景として、戦前・戦中における中央集権的な教育体制を排し、教育の「地方自治」を実現するために創出されたはずの公選制の教育委員会制度、1948年の発足からわずか8年の1956年に任命制の教育委員会制度 ― 「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(地教行法)に代わった事実があると思います。
 この時点を濫觴として、教育界を「いつか来た道」に退行させはじめたのがこの法律であり、その施行から約半世紀が経っていることに、今日の教育行政の現実を重ねてみて深い感慨を持っております。


  私は、定年退職まであと一年もありません。そんな立場で敢えて訴訟に踏み切った主な動機は、○教師生活37年間の有終の美を飾りたい私自身の思い。○私への多くの方々から寄せられている激励に応えたいとの気持ち。○公教育に対する信頼を、特に生徒や父母・保護者から失ってはならないという切実な判断。○人格を軽んぜられた生徒の名誉をきちんと回復したいこと。○現場で教育活動に奮闘している、特に若い先生方に、このような理不尽なことで身分を脅かされることが二度と起こらないよう願って、この訴訟判決を「置き土産」にしたい、等と考えたからです。

  あえて申し上げれば、当局が「人事評価制度」の実施をうかがう今日の状況の下で、教育に携わる者の重みを唾棄するような現実が教育行政の名によって跋扈しております。ついめいげてしまいそうな毎日です。

  しかし皆さん、この攻撃に頭を振って立ち向かおうではありませんか。それが生徒や本当の「県民の目」に応える道ではないでしょうか。教育の条理は、父母・生徒・県民の側に温められていると私は確信しております。

  最後に、皆さんのご健闘と神高教の前進を切に願って、私の挨拶といたします。ご静聴ありがとうございました。

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