2007年1月4日



意 見 陳 述


 私は、1949年北海道の砂川市で生まれ、1965年に市内の道立高校に入学しました。高校1年の終わり頃、私が入っていた山岳部の顧問の先生が、本人が希望していないにも関わらず、北海道の端のほうの町に転任させられるということが明らかになりました。それを聞いた山岳部の先輩たちが、この先生が転任しないで学校に残ってほしいと運動を始め、2日連続の生徒総会が開かれました。私も、先輩に協力し、生徒会でチャーターしたバスで札幌の教育委員会に転任取り消しのお願いに行きました。

 この時の経験や高校時代の体験によって、私は将来教育に関わる仕事につきたいと思うようになりました。大学4年生の時、いくつかの県の教員採用試験を受け神奈川県で受かったものの、3月末になっても採用の連絡はありませんでした。4月に入って、産休補助の臨時任用をやることになり、昼間は、相模原で週16時間の授業を行い、夜は横浜の定時制で12時間教え、1972年7月1日に採用されました。

 赴任した県立B高校定時制は、まだ集団就職で地方から出てきた生徒も一部残っており、勉学意欲に燃えている若者や私より年齢が高い生徒もいました。しかし、1年後クラス担任になったときに受け持った1年生は、地方出身者は数えるほどしかいなく、経済的理由や学力などの事情により全日制に通えない子どもたちが大半でした。

 生徒の多くは、様々な問題をかかえているため、いつの間にか学校に来なくなり、欠席が多くなり辞めていきました。しかし、そのなかで辞めずに定時制を続けている生徒たちのなかには、仕事と勉学の両立に涙ぐましい努力を重ねる生徒もおり、教員の私が生徒から教えられることも数多くありました。私は、そういう困難をかかえた定時制の生徒たちのために、自分の持っているものを惜しみなく発揮し、力になってやろうと思いました。

 このような定時制において、卒業式は4年間のなかでもっとも重要で大切な学校行事でした。卒業式は、卒業生にとっては4年間待ち望んだ晴れ舞台であり、そのことを3年生以下の在校生はよくわかっていました。

 1979年に卒業した生徒は、生徒同士のまとまりがよく、前向きで次々と新しいことを始める学年でした。当時卒業生の5、6人ほどで構成されていた卒業式委員会で、卒業式のことが話し合われたとき、「卒業式は卒業生が主役なのだから、自分たちでやりたいような卒業式を考えてみろ」と私が言うと、生徒たちは自分たちで企画できるということで、驚くようなやる気を見せました。「壇上でひとり一人卒業証書を受け取りたい」、「『仰げば尊し』を歌いたい」、「卒業生の言葉は卒業生みんなで述べたい」、「卒業生の言葉の時、今までの高校生活の8mm映像を流したい」、「自分たちの好きな歌を歌いたい」などなどの企画が次々と出てきました。

 結果的には、職員会議において生徒の希望した企画のほとんどが認められ、卒業式が行われました。ステージは使用したものの、卒業生の言葉の時には卒業生全員がステージの前に並び、8mm映像が流れる中、卒業生のひとり一人が一言ずつ卒業への思いを述べるとともに、ギターの伴奏に合わせて『さらば青春』の歌を歌いました。したがって、その時はステージではなくフロアーを使う形になりました。卒業式の感想を、在校生は「この3年間で1番よかった」、「卒業生全員が一言ずつ述べたのがよかった」と伝えてくれました。

 私は、1991年にB高校から県立C高校の定時制に転任しました。ここでは、全日制でも定時制でも2000年頃まで主にフロアー形式の卒業式を行ってきました。体育館のステージは使わずフロアーで、卒業生、在校生、保護者、教職員が丸く向かい合って、その中央付近で卒業証書の授与や「卒業生の言葉」、「在校生の言葉」、スライド上映、卒業生による合唱などが行われていました。

 このような、卒業生が主役となった卒業式は神奈川県内において、1990年代の末頃までいくつもの学校で行われていました。これに対し、90年代の後半頃から次第に圧力がかかり始めました。まず、最初に言われたことは「日の丸」を掲げよということでした。次には、「君が代」を歌うようにということでした。そして、卒業式は厳粛な儀式なのだから、卒業生が各自一言ずつ述べたり、「君が代」や校歌以外の歌を歌ったりすることは卒業式にふさわしくないという圧力でした。

 C高校においても、フロアー形式はふさわしくないので、ステージを使用するようにと、職員会議で校長は何度も強調しました。私たち教職員は、卒業生、在校生、保護者、教職員がフロアーで互いに向かい合い、お互いの顔を見合って卒業の喜びを分かち合うことができる、保護者は自分の子どもを正面から見ることができる、在校生は卒業生の姿を見て卒業への意識を高めることができると述べ、フロアー形式が卒業式にはふさわしいと主張しました。しかし、校長は、「国旗掲揚および国歌斉唱の指導の徹底通知」をもとに、『教育課程研究集録9集』に記載された形式でお願いしたいと譲らず、校長案に賛成する教職員がいなかったにもかかわらず、ステージ正面に「国旗」を掲げ、式次第に「国歌斉唱」を入れました。

 私たち教職員は、「国歌斉唱」を強行するにしても、卒業生や在校生には強制ではないということを説明すべきではないかと校長に申し入れました。予行演習の時、卒業生は管理職から「きちんと立って歌うように」という長く執拗な指導を受けたことに反発し、卒業式当日は、誰一人立つことなく歌いませんでした。次年度の卒業式予行演習の際にも同様な管理職からの強制に対し、一人の生徒が興奮して管理職に詰め寄り問いただすという場面もありました。

 私は、卒業式は単に卒業証書を学年やクラスの代表に手渡す儀式というのではなく、3年間なり4年間高校生活をおくってきた卒業生が、これまでの高校生活で得たもの、身につけたものを凝縮して在校生や保護者、教職員に示し、まわりから祝福を受けると同時に、卒業生と在校生がこれからの生き方を決意していく行事なのではないかと思っています。したがって、あくまでも卒業式の主役は卒業生であり、卒業生の気持ち、声、考えが反映された卒業式を行うことが、教育的にも意義があると思います。『子どもの権利条約』では、「こどもの意見表明権」を保障し、子どもの意見を尊重していかなければならないとうたわれています。

 現在、卒業式や入学式で「日の丸」、「君が代」が強制され、教職員にも『学習指導要領』を根拠に、起立し歌うことが強要され、さらには子どもたちの声や意見を聞くこともなく「君が代」を歌うように指導しなければならないと圧力がかかっています。


 私は、高校や大学の時に、米軍によるベトナムへの北爆や「ソンミ事件」などの報道に接し、侵略と民族の独立のことを深く考えるようになりました。また、明治以降の日本の近現代史を学ぶ中で、「日の丸」や「君が代」が天皇崇拝、皇国思想の精神的支柱となり、日本のアジア侵略を推し進める手段のひとつとして使われたことを知りました。さらに、教員になり定時制に勤める中で、外国籍の生徒からいろいろなことを学んできました。

 ある時、野球部の顧問をしていた私に、クラスの一人の生徒が試合を申し込んできました。当日、彼のチームはすべて言葉をしゃべりサインを出していました。しかし、私たちは何を言っているのか、まったくわかりませんでした。私は、その時初めて彼が在日コリアンであることを知りました。また、あるクラスにはベトナム難民の生徒がいて、彼は「日本や日の丸、君が代が嫌いだ」とはっきりと私に言いました。「どうしてなのか」と私が聞くと、「日本はアメリカに屈服したのに、ベトナム人を蔑む。しかし、ベトナムはアメリカをうち破った」と彼は胸を張りました。また、体が小さいカンボジア難民の生徒は、同級生より年上なのにからかいの対象になっていました。彼は、生活体験発表会で7才くらいの時からポルポト派の軍隊に入り、政府軍と闘い死線をさまよってきたことを話しました。

 私は、外国籍の生徒たちがいかに様々な事情と歴史を背負っているのかを知りました。そして、このような様々な事情や歴史を十分に踏まえ、彼らを丸ごと理解し、接していかなければならないと思うようになりました。日本に来て、日本の学校に通って、日本の税金で学んでいるのだから、「日の丸」「君が代」に敬意をはらうようにとは簡単には言えないし、それを強制してはいけないと確信するようになりました。

 私は、2003年にC高校から全日制のD高校に転任しました。D高校には、国際コースがあり一つの学年に10名ほどの外国籍の生徒がいます。それらの生徒のことも考え、「日の丸」と「君が代」を強制しないでほしい、内心の自由があることを生徒に伝えてほしいと校長に申し入れました。しかし、その申し入れは受け入れられることなく、強制は県内の他の学校と同様に生徒や教職員に及んでいます。

 2005年の入学式で、新入生の担任になった私は、「開式のことば」で立ちあがり、そのまま「国歌斉唱」の時も座ることができず立っていました。私は、自分の内心の自由がこのようにして踏みにじられるのかと、怒りをこらえながら体育館の天井を見つめていました。この後の入学式のことは、今思い出そうとしてもよく思い出せないほど空虚に過ぎていったような気がします。式が終わった後、自分のクラスの生徒と対面する「学級開き」のために、自分の落ち込んだ気持ちを全力で高めようとしていたことが思い出されます。

 教職員がこのような自由のない、強制された状態におかれていて、本当に子どもたちの声を聞き、意見表明を保障し、子どもたちの願いを実現することができるのでしょうか。私は、教職員にも、子どもたちにも憲法で保障されている、思想・良心の自由、内心の自由が認められることによって、子どもたちが本当に「自分たちが主役なんだ」と実感できる卒業式や入学式を行うことができる日が、もう一度学校にもどってこなければならないと思います。
 これで、私の意見陳述を終わります。

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