2005年12月29日
「神奈川こころの自由裁判」第1回口頭弁論(2005.11.29横浜地裁)を傍聴して@
教育とそれに携わるものの不可侵性を深く解き明かした陳述
中陣唯夫(かながわ定時制教育を考える会 代表)
「神奈川こころの自由裁判」、いい名称の裁判(正式名称ではないが)だと心に反芻しながら、秦野から小田急線、相鉄線、根岸線と乗り継ぎ関内の横浜地裁にようやく着いた。地裁前は傍聴希望者の長蛇の列、現役、OBを問わず知り合いの顔が結構見られ、やがて列は80人を超えた頃にストップがかかり、八卦の棒のようなものを引いて抽選、幸い傍聴者定数39名の中に入れた。倍率約2倍強!
清新さと重厚さの原告代理人
すぐれた代理人より発せられる論理と人格の潔癖が、本来の意味での正義を諄諄と播いてみせる陳述は、頭脳と心に気持ちよく吸収されていく。地裁でもっとも大きいといわれる101号法廷は粛として、しかもとても大きな事業が行われている熱気に満たされてゆく。
原告側代理人弁護士・穂積匡史はこの問題をめぐる「神奈川の状況とその不当性」、同栗山博史はこの問題に適用されるべき法規範と「国旗国歌に対する忠誠義務の不存在」について意見陳述、清新で若駒のような姿勢と論述は多くの傍聴者の感銘を誘ったにちがいない。
代理人の最後に、補充と被告(神奈川県)の主張に対する若干の反論ということで、同弁護団代表・大川隆司が左手の原告席に立ち陳述。実績豊かな氏は、威風あたりを払うといった堂々たる陳述で傍聴人と支援者の信頼に応える。氏の要点は次の点である。
そのような(君が代に唱和せずただ座っている)行動が社会的許容されるかどうかという問題は、わが国が基本的人権を尊重する国家なのか、それとも一糸乱れぬ起立斉唱により国家を称える「外形的行動」の美学最優先の国家なのかというテストである。
被告の答弁書は、「指導要領解説」という、法令でもなく、また、法令上の位置づけも与えられていない、文部科学省の課長クラスの作文を唯一のよりどころとして指導要領の文理解釈を展開している。学校の現場でも、またこの法廷においても、被告によって、文科省の課長の作文が、憲法や教育基本法よりも重要なルールブックとして扱われている。このようなことは市民の常識では到底理解できないことである。学校現場に及ぼす教育委員会や校長の権限は、決して治外法権ではない。
「洗脳」を当然視する被告代理人
このくだりで私は被告の代理人弁護士・池田陽子(行政のオンリー弁護士)の「起立斉唱しないという行為は、国旗・国歌尊重の態度を育成する教育を要求する児童・生徒の権利を侵害する恐れがある」とする『答弁書』の奇妙で貧相な論と比較して溜息をついてしまった。教育現場での子どもの「洗脳」の肯定である。
氏の論立ての前提には、憲法も教育基本法も子どもの権利条約も存在していない。氏にとって教育が問題なのではない。行政権力の意向にどう応えるかに腐心している。腐心のあまり自信、法律家であることさえ忘却している。これでは「奴隷の論立て」である。
ここまでで紙幅が尽きた。深く感銘した原告団長のMさん、原告 Iさんの意見陳述にぜひ触れたかったが叶わない。原告団のHPなどで直接お読みになることをぜひおすすめしたい。