2002年1月25日
シリーズ 「教職員人事制度研究会報告」を斬る A
成績主義は、集団として行われ長期的に成果が測られるべき教育には、適合しない
10月に出された「教職員の人事評価のあり方について」(以下「報告」)に対し、前回は概括的な批判を述べた。今回は、より具体的に内容に対して批判したい。
頭のてっぺんから足の先まで使い古しの模倣
はじめに、この報告は、国や都や民間の、それも今となっては少し古くなった成績主義をそのまま持ち込もうとするもので、その中には、何ひとつ新しいものも、独自のものも、教育界らしいものもなく、おそらく時代に一周遅れの代物である。
例えば、「地方分権」を標榜しながら、国の動向と軌を一にする制度を提案することは、お笑いである。県は、これぞ神奈川の「特色ある」人事制度と胸を張れるものを出せるものなら出してみたらいい。
また、「企業の人事管理の動向」という一節を設けていながら、企業で成績主義がうまくいかず見直しが始まっていることに全く触れていない。「激しく変動する社会の動きに敏感に反応」せよとのお説教は、そのままそっくりそちらにお返しする。
さらに、学校が「なべぶた型」組織だと非難しているが、情報機器の発達により中間管理職の存在意義が薄れ、今後企業の組織が「なべぶた型」に近くなっていくだろうとする知見もある。
学校職場の特性をまともに取り上げない報告 民間での見直しはまさにこの特性に関わる
報告の最大の問題は、人事評価システムを、「学校組織や教職員の職務の特性に考慮しながら」検討されなければならないとしながら、その「特性」については、まともに取り上げておらず、そのため上記の文章が言葉だけのものになっている点である。
報告が、考慮すべき「特性」として述べた箇所は、「新採用時から上司の指導や指示をあまり受けず、ベテランの教員と同様に児童、生徒に接し、各自の発想や自主性に委ねられるところの多い教育活動に従事しており、互いに切磋琢磨する契機が少ないことから、ともすると職務活動がマンネリ化しやすくなる」であろう。仮にそういう状況があるとしたら、ここから出てくる結論は、教職員同士が議論しあい学びあい切磋琢磨する場とそれができる条件を整えることであろう。しかるに、報告は「各自の取組を待つだけではなく・・・・・人事管理の仕組みの整備が強く求められる」と全く唐突に「人事管理」と結びつけるのである。
私たちが経験している学校での仕事の特性は、上記の@個人の発想や自主性に委ねられるところが多い、という点にとどまらない。これに加えて、A教職員集団として行う仕事であること、B短期的には成果の見えにくい仕事であること、などがあげられる。
民間での成績主義の破綻は、まさにこのAやBに関わって起こっている。
まず、A集団で行う仕事という点では、次のような問題が起こっている。
成績主義が採用されると、「能力ある人は、自分で見つけたノウハウを秘密にして、しゃべらなくなる」(『町工場の底力』)。個人の成果が処遇にはね返るとすれば、だれが同僚や後輩に仕事を教えるだろうか、情報を提供するだろうか。
別の例では、「成績主義は『他人を蹴落とすこと』と考える風潮があり、他人のミスをあげつらったり、(先輩社員を指さして)『仕事ができない』と言い切る場面も。社内の雰囲気は悪くなり、チームワークは悪化」(『週刊スパ』)。
学校も導入されれば同様になるのが目に見えるが、教職員が助け合わない学校で学ぶ生徒の人格形成への悪影響は計り知れない。
次に、B短期的な成果の見えにくい仕事という点では、次のような問題が起こっている。
「脚光を浴びる仕事で評価を得たいがために、地味だが大切な業務を避ける傾向がある」「面倒なこと、短期で成果が出ないことはみんなやりたがらない」(富士通)「会社挙げて目先の利益を追い、失敗したら責任のなすり合い」(『週刊スパ』)。短期で成果の見える事柄に力が注がれ、本来の教育の営みが軽視されるのが見えるようだ。
つまり、民間での成績主義の破綻は、学校での仕事には成績主義は適合しないことを能弁に語っている。
目標管理手法は、「企業内ファシズム」?
報告は、人事評価の具体的手法としても、都や民間で導入され、多くの問題点が指摘されている「目標管理手法」を模倣している。まず、「学校目標」等が設定され、それを「踏まえた」個人目標を設定させられる。
「学校目標」が教職員の意見を十分反映したものにならない場合、この手法は「企業内ファシズム」となる。しかし、今の状況の中で、「学校目標」の決定に教職員の意見を充分反映させようとする校長が県下に何人いるだろうか。
全く不透明に選ばれている校長、教頭は、評価者として不適切
どんな評価制度であっても、「評価を行う者」と「評価される者」の間に、一定の信頼関係がないとき、うまくいくはずがない。現在の神奈川県の校長、教頭はその選ばれ方が全く不透明であり、教育に関する見識のある人が選ばれるとはいえないという点からも、またこの間急速に教職員との信頼関係を壊してきたという点からも、評価者として適切であるとはとても考えられない。それどころか、特定の思想・信条が評価に関係づけられることが十分考えられる。
また、公正性のために、複数者による評価をするとあるが、同質の者を複数立てても、何ら公正性は向上しない。
さらに、評価期間を1年という短期としているが、@短期の成果に力が注がれ、本来の教育の営みが軽視される、A成果はその時々の条件によって左右される、B短期では評価者の恣意が強く出る恐れがある、の理由で、短期の評価は特に問題が多い。
それから、教職員だけがなぜ一方的に評価されなければならないのだろうか。企業でも上司への評価を取り入れ始めたが、評価が必要なら、校長・教頭は教職員、保護者、生徒から評価されるべきであるし、また教育行政は県民から評価されるべきではないだろうか。
給与等への反映は、教育の歪みをより大きくする
報告は、「評価結果を、・・・・・給与上の処遇へ適切に反映させることが求められる」としている。しかし、評価の目的は教職員の力量向上にあったはずである。しかも、その評価は「成果も短期的では現れにくいうえ、個々の教職員の業績として数量的に把握することも容易ではない」(『報告』)ところを無理に出す評価である。
このように、学校職場に不適合でかつ客観性・公正性の確保ができない評価が給与等に反映されることで、以上取り上げてきた問題点は増幅され、教育活動の歪みは極大化する。私たちは、評価の給与等への反映に、強く反対する。
以上、報告の内容が実施されれば、教職員間の協力関係が弱まり、短期的に目に見える成果だけを競い、長期的に成果が測られるべき本来の教育の営みが軽んじられ、教育問題はいっそう深刻になります。教職員の間でも大いに議論し、保護者・県民にも訴えていこうではありませんか。
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