2019年12月10日
随想 10
ふるさとに聴く、潮の遠鳴り
中陣 唯夫(元県立定時制高校教員・「考える会」前代表)
時季は忘れてしまったが30代の半ばころ、県西地区の全日制高校の社会科準備室で、五、六人の教師が「札掛」について話し合っていた。何でも丹沢の山地にある名称らしいが、その内容も忘れたし、調べようという気も今は起きない。ただ、生まれ育ったところで教師をし、その地のことを興味深く話し合っているのが羨ましかった。
思い返して、羨望の思いに火をつけたのが故郷(ふるさと)のあれこれであった。出身高校から目と鼻の先の割烹旅館は、一大冤罪事件である横浜(泊)事件の舞台だったではないか。首謀者とされた細川嘉六はこの町で赤貧の下に育ち、篤志家の援助と苦学で東大を卒業した経済学者。泊(現朝日)は魚津、滑川とともに米騒動の発生した町の一つでもある。
シベリア出兵の余波で米価が騰貴。ただでさえ、遠くは北海道へ出稼ぎの夫の留守を守り、八月は妻たちが、鍋に入れるものがないので「鍋割月」と呼んだというほどの倹(つま)しく貧しい所だったから、明治以降十数回も米騒動を起こしている。
芭蕉は糸魚川との間の川ですっ転んで旅衣を干しているし、市振では一句「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」をものし、旧村の地名「上路(あげろ)」は、謡曲「山姥(やまんば)」で善光寺への道として出てくる……。
故郷の教壇で、担当の「国語」とこうした事跡とをどう絡めて授業をしようかと夢見たこともあったが、皮肉なことにその思いが募るにしたがって持ち家の事情と第二子誕生が重なって、ついに世帯の重みに身動きがとれなくなってしまった。そうでなくとも三十代教師の中途採用など聞かないころだったから、造園業者の植え溜めの樹のように異郷の地に根を下ろすしかない身となった。
“地産地消という言葉があるが、教師の仕事は生まれた地で生業(なりわい)とするのが妥当なのではないかと“地(ち)生地業(せいちぎょう)”という造語も考えてみたが、それは拙い者の足掻きというものだったろう。
しかしその故郷も、帰省のたびに子どもの姿がみえなくなり、家並みを歩くと戸口の奥に人の気配が微かにするばかりになっていった。それも多くは老人のそれが。
満期退職し帰省したとき、都会に一旗揚げに行ったわけではないから、山川に「空しく帰らば故山冷たし」とは感じなかったが、母校廃校の報と潮の遠鳴りとが相まって、すっかり「時」が剥落した町は凄みさえ漂わせていた。もう人の気配は全く感じられなくなっていた ――。衰亡していくとはこういうことか、誰がこんな「町」に追い込んでいったんだろう。
浜辺に出てみた。米騒動の時、艀(はしけ)に米俵を積み沖合の本船に運ばれるのを、オカカたちがしがみついて抵抗したという浜辺である。そんな昔をかき消すように、単調に波が寄せては返している。沖合を見わたす者の心と潮鳴りが共鳴してきて、いつまでも慰藉(いしゃ)してくれるような優しさがある。
ヒトは海から来たという。生命には生存本能と種の保存本能があるという。寄せてくる潮鳴りに助けられるように、この町もいつの日か蘇生するときがくる―と静かに確信が湧いてくるのだった。
乗らない授業を中断し、個別にまたはグループと交わしたとりとめない話、帰りがけの生徒を呼びとめて話した数分の「キャッチボール」……。こんな時、朋子さんでない八重さんが、康夫君でない洋介君が、しかとそこに存在していた。それは彼ら個々に「重力」があるということだった。
それが、同僚に「このごろ生徒とのムダ話がなくなったね」と話しかけるようになったのは、80年代に入ったころだったろうか。世間では「効率」が「賢明」と一緒くたになり、「ムダ」が「無意味」と同義語になって、生徒とのムダ話はすっかり些末なことのように思われるようになっていった。ムダ話は、海深く集魚燈を下ろしていくようなものだと感じていたのだが。
今に思えばこんな意味付けは、「自主研修」で気づかずに体得していたもののお陰かもしれない。
「研修」といえば、戦中派の先生から「戦前の教育が『国体本位』の価値観で悲惨な敗戦をもたらしたから、深く広い認識を持つように研修が『教育基本法』で定められているんだ。」と教えられた。
それからは、研修は教師の使命と考えてきたが、その眼目である「自主性」が怪しくなってきたころ、現場は行政の姿勢(スタンス)を押し戴くような「全体の奉仕者」が増えていったと記憶している。
どんな機会だったか、学校は授業、部活動、学校行事、学力テストetc、ことごとく「集団・群(マス)」と「修得・評定(クレジット)」で機能している世界で、そこに二律背反的な因子が内在していると考えた。
学校は、“競い合いは成長の糧”という抗(あらが)いがたい常識に「優勝劣敗」の観念が加わり、生徒と学校の「序列化」が醸成され、そこに生じる優越性に比例して、「異質者」の排除と「没個別性」が昂進(こうしん)する世界。そして、その副産物のように公認され正当化されている世界、の二つに分断されている。
ここにコラムがある。教育実習の最終日の放課後、文字も計算もおぼつかない、小学六年生とは思えない小柄で痩せた女子児童が、「先生行っちゃうの?…行かないで」と腰に顔を押しつけてポロポロ泣いたという内容だった。それは「副産物のように正当化された」学校―夜間定時制の「主張」を思い出すのに十分すぎるほどだった、思えば、こうした生徒と多く目線を合わせてきたのだから。
教育の営みが、複数の格付けを付与した学校を生む――。これが二律背反の一つだろう。
これは教職にある身にとって、とんでもない自己撞着(どうちゃく)であり大変な「陥穽(かんせい)」ではなかろうか。
「人格の完成」が謳われていたはずが、学力や部活動の戦績から「優劣」観念に漬(つ)かっていってしまう。やがて、アイデンティティの立ち枯れがはじまる――。二つ目の二律背反はこれである。
こうした空間に「優生思想」でも浸潤した日には……。他力を待つように、「自主研修」など高嶺(たかね)の花だ、などと嘯(うそぶ)いていられるだろうか。
職人は道具の手入れを欠かさない。不具合になっては糊口(ここう)に障(さわ)るからだ。この厄介な二律背反を快刀乱麻する見識は、当座は糊口に不都合がないから不要、というものではなかろう。