2019年8月1日


新元号「令和」を学校教育の「徹底」に利用すべきでない  

中陣 唯夫


 新元号発表の直前に神奈川県教育委員会は、一九九九年の「国旗国歌法」施行以来「指導」してきたその成果を誇示するかのように、公立学校全てで「国歌斉唱時の不起立教員は初めてゼロとなった」と公表した。しかし、教育の条理と、新憲法と一体的に生まれた教育基本法(一九四七年年施行法)の精神を否定した恥ずべき「史料」として、私には見える。

 同様の姿勢で、今回の新元号騒ぎを教育の「徹底」の名で行政に取り入れ、さらに教育の「空白」を生み出すことがないよう警告したい。この思いで、他に書いた拙文を以下に転載する。
 

 元号は、約二千年前に中国で、帝(みかど)本位の支配欲から生まれたものである。その中国で、約百年前に政治体制(共和政体)が変わったのを機に、元号制度はそれにそぐわないと廃止している。もちろんわが国でも、立憲民主制の憲法のもと、元号制と両立するはずがない。「元号法」があるではないかという方もいるが、戦後三十数年たって成立した、ムリ筋の奇態な法である。

 政治的権限を全く認められない象徴天皇の代替わりの機会に、立憲民主制の下で生まれたはずの内閣が、最大限に政治的利用に走って見えるのは、この国の政体の「不健康さ」をさらしているようなものである。新元号の語義や出典があれこれ取り沙汰される割には、「元号史観」という得体の知れないものに取り込まれる危機意識が、識者も含めて薄いように思われる。

 私は新元号をこう見る。「令」はよい評判を意味する「令望」という熟語もあるが、「令和」となると、基本的な漢文の構文を用いれば、「国令民和兵役」などの例文が成り立つ漢字二字である。

 つまり、「令」は日本語では人を使役する意を持つ助動詞で、「〇〇をして△△し(令)む」と働く漢字だからである。例文は「国民をして兵役に和(こた)へし(令)む」と読み下し、「国家は国民を兵役に服させる」というほどの意味になる。「兵役」を「重税」「徴兵制」「原発」「格差」に置き換えると、にわかに現実味を帯びた例文となる。

 元号法の速やかな廃止を前提に、もし私を考案者と仮定するなら、新元号はためらわずに「治災」とする。天災―水害・地震・津波、人災―政治の劣化・富裕者本位・福祉・教育政策の粗雑、戦災―これを避ける平和憲法の護持・核廃絶・平和外交…、こうした三災を治める国づくりが始まることを願って。

 それにしても漢字「令」が醸(かも)すかもしれない、潜在的、社会的な作用の広がりに不安を感じる。「徴兵制」は杞憂と一笑に付せるだろうか。
 私たちは、冷静に考えるべき時にお祭り騒ぎというチグハグで、戦争にもたれ込んでいった痛恨の「昭和史」を共有している。

 この浅はかな新元号騒ぎで、忌まわしい歴史の轍をふたたび踏むことがあってはならない。  

(二〇一九・五・二〇記)

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