2019年1月25日


随想 9

教職に「自主研修」は要らないの 

中陣 唯夫(元県立定時制高校教員・「考える会」前代表)



 乗らない授業を中断し、個別にまたはグループと交わしたとりとめない話、帰りがけの生徒を呼びとめて話した数分の「キャッチボール」……。こんな時、朋子さんでない八重さんが、康夫君でない洋介君が、しかとそこに存在していた。それは彼ら個々に「重力」があるということだった。

 それが、同僚に「このごろ生徒とのムダ話がなくなったね」と話しかけるようになったのは、80年代に入ったころだったろうか。世間では「効率」が「賢明」と一緒くたになり、「ムダ」が「無意味」と同義語になって、生徒とのムダ話はすっかり些末なことのように思われるようになっていった。ムダ話は、海深く集魚燈を下ろしていくようなものだと感じていたのだが。

 今に思えばこんな意味付けは、「自主研修」で気づかずに体得していたもののお陰かもしれない。

 「研修」といえば、戦中派の先生から「戦前の教育が『国体本位』の価値観で悲惨な敗戦をもたらしたから、深く広い認識を持つように研修が『教育基本法』で定められているんだ。」と教えられた。

 それからは、研修は教師の使命と考えてきたが、その眼目である「自主性」が怪しくなってきたころ、現場は行政の姿勢(スタンス)を押し戴くような「全体の奉仕者」が増えていったと記憶している。



 どんな機会だったか、学校は授業、部活動、学校行事、学力テストetc、ことごとく「集団・群(マス)」と「修得・評定(クレジット)」で機能している世界で、そこに二律背反的な因子が内在していると考えた。

 学校は、“競い合いは成長の糧”という抗(あらが)いがたい常識に「優勝劣敗」の観念が加わり、生徒と学校の「序列化」が醸成され、そこに生じる優越性に比例して、「異質者」の排除と「没個別性」が昂進(こうしん)する世界。そして、その副産物のように公認され正当化されている世界、の二つに分断されている。

 ここにコラムがある。教育実習の最終日の放課後、文字も計算もおぼつかない、小学六年生とは思えない小柄で痩せた女子児童が、「先生行っちゃうの?…行かないで」と腰に顔を押しつけてポロポロ泣いたという内容だった。それは「副産物のように正当化された」学校―夜間定時制の「主張」を思い出すのに十分すぎるほどだった、思えば、こうした生徒と多く目線を合わせてきたのだから。

 教育の営みが、複数の格付けを付与した学校を生む――。これが二律背反の一つだろう。
 これは教職にある身にとって、とんでもない自己撞着(どうちゃく)であり大変な「陥穽(かんせい)」ではなかろうか。

 「人格の完成」が謳われていたはずが、学力や部活動の戦績から「優劣」観念に漬(つ)かっていってしまう。やがて、アイデンティティの立ち枯れがはじまる――。二つ目の二律背反はこれである。



 こうした空間に「優生思想」でも浸潤した日には……。他力を待つように、「自主研修」など高嶺(たかね)の花だ、などと嘯(うそぶ)いていられるだろうか。

 職人は道具の手入れを欠かさない。不具合になっては糊口(ここう)に障(さわ)るからだ。この厄介な二律背反を快刀乱麻する見識は、当座は糊口(ここう)に不都合がないから不要、というものではなかろう。
 

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