2018年9月1日


  通信制生徒からの寄稿

        

総てを焼きつくした

        

神奈川県立高校通信制生徒



 敗戦をまぢかにして相手はとどめをさすように、全土にB29を飛ばし焼きつくし殺しつくす迄、日本国向けに製造した焼夷弾を雨のように落下させた。それは首都東京に恐ろしい状況をもたらした。私たちは深川の家を失った。

 熱風は熱風をよび、火はますますいきおいを増し、とても人の手には負えない状態になり、逃げるよりしかたない。あんなにバケツリレーをして、焼夷弾を落とされたら屋根に上って水をかければよい、用水桶の水を頭からかぶり火が衣服に飛火しないようにしろ、現場から逃げずに消火に専念しろなど、そんなことでは火勢をくいとめることなどできないのに、国、町内会は住民に命令した。

 私たちは深川の家を失った。日本全土が爆撃によって焼土と化しているのに、それを知らせずにたたかわせた国の責任は重い。

 私と母親は3月10日、偶然にも横須賀に居た叔父の家に遊びに行っていた。東京が燃えているぞ! !の声に起こされて、物干し台に上ってみたら東京は火の塊になっていた。母と叔父が深川の家に行くが、焼け出された人達が真っ黒な顔をしてぞロぞロ歩いていて、とても家にはたどりつけず帰ってきた。5才上の姉は学童疎開で新潟の寺に居た。それからが、一家3人の苦難の旅のはじまりになった。

 母の姉が北海道に居てそのつてで小樽に少し住み、それから札幌の姉の家に行き、そこで8月15日の終戦の日をむかえた。庭にラジオを置き天皇の降伏の弁を聞いたが子供にはモゴモゴした声でわからず、それから伯母の一家と秋田の大舘につきそこでしばらく過ごした。

 その後横須賀の叔父の所に行き、そこから一家は横浜の六浦に掘っ立て小屋を建て、それから又苦難の生活がはじまった。母親は家政婦、姉は病院勤め、私は精神不安定で高校には入学したけれどついてゆけず早々(はやばや)と退学してしまった。職を転々としてやっとの思いで大和市役所の現業になり、今は長女とその息子の4人家族で生活している。

 戦争は何ももたらさない。人殺しと破壊だけが実体だ。世界が話し合いで手をつなぎ、平和が一番と声をあげよう! !

◇寄稿は戦争被害の体験に多くを割かれている。しかし、被害の一つであろう「精神不安定」で一度は学ぶ機会を断念したものの、高齢で自主夜間中学(厚木えんぴつの会)に学びながら、さらに県立高校通信制課程に活路を見出している方の一文である。その重さを汲んでいただきたい。 ― 編集部 

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