2017年11月18日


随想 6

私のどこが いけなかったのだろう

 

中陣 唯夫(元県立定時制高校教員・「考える会」前代表)



 教師の世界に踏み込んだ作家、そしてこの世界から「足を洗った」作家 ― ラフカディオ・ヘルン(ハーン-小泉八雲)と夏目金之助(漱石)。この二人の興味深い横顔を点描してみたい。


 ヘルンは来日時(明23)40歳。すでに欧米で知られた記者、作家、論評家であった。が、先立つものは生計。九月、島根県松江尋常中学と師範学校に職を得る。その折の『英語教師の日記から』がおもしろい。

 眼前の生徒の勉学量に比べ、質素というより粗末な食事に驚き、かつ嘆いているのもその一つ。
生徒が米の飯と豆腐の食事でもって習わねばならぬ近代科学の知識とは、本来、肉という高価な食事で強化された頭脳により発見され、開発、総合されたものであることを忘れてはならない。

 天皇制というシステムでもつぱら国力を精神の発揚に求めて、“欧米文化の摂取=欧米文明の物質レベルへの達成”と考え違いした「富国強兵」策の一断面を、この一節は期せずして抉(えぐ)り出している。

 『教育勅語』の奉読、天長節の記述なども記者経験の精確さで、立派な「近代史史料」となっている。
 面倒見のいい、涼やかな声で歌うように英学を講じたというこの教師は、欧米文明の脅威を嫌悪するあまり日本に「桃源郷」を見たが、やがて、欧米の跡を追っていくこの国の実体を知り裏切られていく。
 その悩み、葛藤を抱えた彼こそ教師であり、それを察知し得た学生こそ学生というものだろう。

 1904(明37)年、与謝野晶子が日露戦争に従軍する弟を案じた「君死にたまふことなかれ」を発表した九月。その下旬に、ヘルンは聲の枯れてきた松虫を草叢に放してやり、間もなく心臓発作で急逝する。


 金之助は帝大で特待生の秀才。教師生活は、英国留学を挟んで松山中学、熊本第五高、帝大講師など通算15年。授業は論理的で予習しない者を頭から叱る反面、学生の課題の添削に没頭したという。

 この彼がなぜ「足を洗った」のだろう。憶測すれば、突然ヘルンが郵送の解雇通知で帝大講師を馘首(かくしゅ)され、留任運動まで起きた件にその遠因の一つがありそうだ。その後釜に自分が任命されたのだから。

 通知したのは『教育勅語』の解説書『勅語衍義(えんぎ)』の著者で、文科大学学長(文学部長)だった井上哲次郎である。この国家主義者は、巻末で憚りなく、要旨「世に愉快なことは多いが、男子たる者には、国家のために死ぬより愉快なことはないだろう」と書いている。金之助が帝大入学の年に『勅語』発布、『衍義』刊行と続いているから、ヘルンの件と重ねて、こんな人物の下ではナァと思ったのではなかろうか。 

 おもしろい事に、「足を洗い」漱石になって9年足らずの間の著作―『坊っちゃん』「私の個人主義」、博士号辞退の件などにこの余波が散見する。金之助にとって教師は、「個人主義」のない世界だったようだ。 この一件で、文科大学が得難い教師を二人も失ったとみるのは、そう的外れではないだろう。それは学生の甚大な損失をも意味している。教育官僚の愚は、一世紀を跨いで今も揺らいでいない。


 彼らの高い識見が魅力ある授業を形作り、学生を教科の修得にとどまらず、より広く深い知的世界へと誘(いざな)ったものと思われる。学生はわれ知らず人格的陶冶(とうや)を享受したことだろう、「道徳」という劇薬など服むこともなく。「今日」を俯瞰(ふかん)すれば、幸せなことであり、うらやましいことである。

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