2017年6月24日


随想 5

酌み交わす その背には

 

中陣 唯夫(元県立定時制高校教員・「考える会」前代表)



 修学旅行は生徒の素(す)の姿を発見する機会だったが、卒業後にそれは、忘れたころに誰かが幹事になって開かれるクラス会になった。少し歳の離れた兄弟のようになり、盃を交わす誰にも軽くはない「生活」が見える。一段高みで説諭した者が聞き役になり、感慨にふけるのもクラス会の滋味である。
 

 機械科で担任したクラスの会は、根岸線は石川町の和食屋。十七人の出席。栃木の黒磯市から五島さんも来ている。日帰り宴会だが、その分、幹事がずいぶん気を使っただろうご馳走が並び、カラオケの賑(にぎ)わいも加わって、たちまち宴たけなわに、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)の態となっていった。

 そのうち、胡坐をかいている私の席に、二三人の生徒が「先生、 誰かいい娘(こ)いないかな、一人じゃこれからが不安で―」と寄ってきた。東南アジアやアルジェリアに技術指導に行っているうちに気がついたら婚期を逸していたという。企業の海外進出で国内の「産業空洞化」が始まったころ、その先駆けとなって奮闘したのだろう。当時この「空洞化」について、部活「いのち」の若い社会科教師に問うたところ、「小さい時から勉強々々で、もう何も勉強したくないよ」と、すげなく逸(そ)らされたのをチラと思い出す。

 それはさておき、この「注文」には世間が狭いこの仕事では、おいそれとは応えようがなかった。
 ただ、今もって鮮明なのは、知命、五十歳ほどの彼らが、秋田地方でいう、親の腰にまつわりつく子ども−「胴乱子(どうらんこ)」のように私から離れず、集団就職の「金の卵」として定時制に学んだころと同じ顔、姿に見えたことである。これは酔いのせいばかりではなかったろう、いまだに、この「錯誤」は消えてないのだから。
 

 初めて担任となった電気科のクラス会。梅雨時の夏至を前にした熱海が会場。大阪から駆けつけた二人、広瀬さんと福岡さんを含め十二人。部屋割りの後、老担任だけには「さん」付けの雑談が始まる。 

 夕食はバイキングで飲み放題。部屋に戻って飲み直し。六十代半ばのおじさんたちの、開けっぴろげの談論の中に、そこはかとない抑制と労りがあり、「いじらしい」なんて言葉が浮かび、ツンとくる。  

 翌朝。同室だった大阪からの二人と、はだけた浴衣のまま蒲団の上で雑談した。 

 広瀬さんはリーゼントの髪形に、いつも怒気を含んでいるような生徒で、皆が怖がっていた。その彼が、北海道の大手スーパーの店長として単身赴任十年。今は、高齢者マンションの事務員という。「おれ、結婚して親と同居してやれなかったから、どこかで年寄り大切にする仕事で再就職したかったのかなぁ」と言う。福岡さんも証券会社の社員として北海道に単身赴任の経験がある。「金曜日の夜に帰宅。日曜日の夕方に一人娘を残して千歳空港に戻ると、“皆様ご苦労様です。明日からまた頑張りましょう”とアナウンスが流れる。あの時の気分は忘れられないなぁ」と、穏やかな彼は同意を求めるように話す。


 朝のバイキング。飲みすぎで食器だけを前にした私に、「朝食は一日の始まり、しっかり食べましょう」と誰かが声をかけていく。修学旅行の時に叱咤した言葉が、ブーメランのように戻ってきた。

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