2017年1月14日


随想 3

”おもかげ” 

中陣 唯夫(元県立定時制高校教員・「考える会」前代表)



 教師の仕事は、顔を憶え名前を諳んじ、それを一致させて脳裏に反芻させることから始まる。やがて、エンマ帳(教務手帳)にはこれをベースに「操作」しながら、あれこれを記入する――。

 ところが、肝心のこの記憶力が弱く、生徒からはよく「もう、名前覚えてよ」となじられ、「まぁ、そう怒るな」と切り抜けてきたものだが、リタイアから十数年。そんな私に皮肉にも、この弱い記憶力でもって彼らの“おもかげ”が揺曳(ようえい)する。


 新採用着任したその夏。夕方の会議室で白いカーテンが涼風をはらみ、その一隅に女生徒が三、四人ひっそり立ち話をしていた。時折聞こえてくる細く澄んだ笑い声の主が、お客さん風だったと記憶しているが、ここでプッツリとこの光景は消えてしまっている。そして二学期。その声の主は亡くなっていた。彼女が長い療養生活をしていた事情を知り、あの日はおそらく、机を並べた友だちに永(なが)の暇乞(いとまご)いに来ていたのだとわかり、この新米教師は初めて、花に嵐の「現実」にど突かれたのである。

 うっすらと暑さを感じる麦秋のころ、汗まみれの顔で中間試験に遅れてきて「仕事で遅れて……問題ください」と急き込み、席に戻るや一生懸命答案を書いていた生徒が、確か単車事故かでカネタタキを聴くころ亡くなった。正月にあと数日という日に、ぱったりプラットホームで出会った生徒も、「オートバイは心臓を乗せて走っているようなもんだから、乗用車が乗れる年齢(とし)まで我慢しな」と言い聞かせると、とても素直にうなずいていたが、それきり顔を見ることはなかった――。

 「死ぬる子は眉目(みめ)よし」である。こんな死との遭遇が、あるいは私を長く夜間定時制に留めたのかもしれない。人はそれと知らぬままに、ある事に繋がれて生きている場合があるだろうから。


 まだ三十代半ばころの夏休み明け、吉井君という生徒が「先生これ、おみやげ」と小さな箱をくれた。佐渡に旅行してきたという。お礼を言って開けると、当時まだ珍しいループタイで黄のループに留めが紺の石で素敵だった。年配者のグッズだったから、口では感謝しながらンッという思いはしたが、少し態度が粗野だなと思っていた彼が私を頭(あたま)に思い浮かべながら、土産物店でこれを見立ててくれたと思うとうれしかった。物をもらうのが好きな私は、ただ彼を見上げてにこにこしていた。

 その彼が連絡なしで三日間ほど欠席したことがある。理由を訊くと「先生、おれ保護観察中の身なんです」と言う。私は「そうか」と言っただけで、それ以上は訊かなかった。もう成人に近い大人びた誠実さが感じられる彼に、内心「訊いてお前に何ができる?」という自問反問があったからである。

 それから数年。出勤する夕方、大型トラツクの運転台から「センセー、センセー」と呼ぶ男がいた。吉井君だった。とっさのことで「おゝ元気か、しっかりやれよ」と教師の“印判言葉”しかかけられなかったが、それにしても、学校を離れると彼らはどうして、あんなに精彩を放つ顔になるのだろう。

 40年近く経った今、どんな親父になっているだろう。ご子息があれば三十代かもしれない。

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