2016年10月23日


随想 2

「系統性をもって学ぶ」機会ということ

 

中陣 唯夫(元県立定時制高校教員・「考える会」前代表)



退職の翌年の秋、それを記念する思いで妻と北海道を旅行した。出生の地でもないのにこの地は一筋の風にも、車窓から遠く望む一点の人家の灯にも、深い郷愁にかられる地だったからである。
 その途次、網走に近い斜里町の土産物店で、『語り継ぐ女の歴史』という表題にひかれて、100ページほどの文集のナンバー三冊を求めた。私は「口碑」といったこうした記録が好きなのである。


 この文集は「斜里女性史をつくる会」が聞き書きで、都合154人のいわば「蝦夷地の自分史」を六冊まで編んだものである。どの証言もその紙背から寄せてくる力にただ叩頭するほかないものだった。
 採録時(1996年)に85歳だった松岡マサさんの証言も、何度も読ませられた一編である。

 彼女は第一子で、四歳の時に開墾していた父を倒木で失っている。再婚した母の苦労を見ながら、幼い弟妹の世話で毎日は通えない小学校をどうやら卒業。西村裁縫所に行かせてもらうが、さらに妹ができたので半年ほどでそこを断念せざるをえなくなっている。その時を彼女はこう述懐する。

 縫い物の大好きだった私は、とても悲しく残念でなりませんでした。仕方なかったのです。縫い物をしたくて、出来上がったものを解いては又縫ったり、縫い方のわからない物は、ほどいて縫い方を覚えました。

 この一節には、学校や裁縫所で「系統性」をもって学ぶという機会を持てなかった彼女が、「解いたり縫ったり、ほどいたり」の繰り返しでそれを獲得していった、すぐれた器量がうかがえる。

 奉公先(北海道帝大教授宅)のおばあさまが、「十五才のねえやが自分で着物を仕立てて着るとはえらいものです」とほめ、古いものも含めたくさん着物を下さったと述べているのもうなづける。


 これを読んでいた私の頭は、思いもよらぬ50年ほど前の中学卒業ころの一場面に飛んでいた。

 高校受験直前の教室。担任が突然こう言った、「進学しない者はグランドで遊んでいてもいいぞ」。就職組はいっせいにワァッと歓声を上げてどやどやとグランドに出ていった。窓越しに見る彼らの後姿は、春めいてきた北陸の空漠とした陽光のもとに放たれていた。しかし、その歓声は立ちのぼってゆくことなく、シンバルの一打ちで終わった響きのようであったと耳に記憶している。

 その後姿のうちの一人が仲のよかった金藏君で、漁村育ちの、質朴のうちに賢さと闊達さを秘めているような少年であった。数年後東京で会った折に撮った写真の中の彼は、私と並んしゃがみ、手を前に重ねてややうつむき加減にはにかんでいる−−−。


 この写真を見ながら、彼も松岡マサさんのように「系統性」をもって学ぶという機会を持てなかった分、それを埋めるほどの器量をもって生き、過不足のない老境を迎えているはずだ、と思った。
 

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