2002年10月18日

  9月19日、横浜地地方裁判所において「勤務条件に関する措置の要求に対する決定取消請求事件」(いわゆる中陣不当配転訴訟)の事実上の最終公判が開かれました。そこで、原告の中陣唯夫(神奈川県立秦野曽屋高校教諭)さんが行った「結審にあたっての陳述」を、資料として以下に紹介します。

2002(平成14)年9月19日

陳  述  書

 

原告  中陣 唯夫


 私の訴訟も今日が結審ということになりました。傍聴の方々はじめ、公判を進めてくださった関係者の皆さん方に深く感謝致します。さてこの場に立ちまして、改めて思われることは34年間、夜間定時制高校に勤続して34冊の教務手帳(生徒の出席状況や成績評価、職員会議や学年会議のメモなど書き込んだ)俗にエンマ帳と呼ぱれる手帳を積み上げてきたんだナァ、という感概です。推測しますに、延べ約3200人余りの生徒に約6200時間ほど、現代国語や古典の授業をしてきたのだろうと思います。HR、学校行事なども含めて、どう指導してきたのだろうと思うだけで、茫漠とした自分史が目の前に展開します。

  34冊の教務手帳を思い浮かべますに、まず×印の多かったことがあります。この印は遅刻を示すものですが、これは仕事との両立や全日制と比べて生活習慣を打ち立てにくいことが主な原因だったと思います。また全く思い出せない生徒名、その多くは一学期から三学期まで抹消線が引かれ、それが多くの斜線(欠席印)の上を走っていたのを思い出します。全日制では考えられないことですが、一年生の一学期で早くも挫折していく生徒がとても多かったし、現在もそうだと思います。

 私が30代で教えた生徒は、もう40代の半ぱにさしかかっています。中退していった彼らは今どうしているのだろうと考えると、私は個人生活でも軽薄にはしゃいでなんかいられないという気持ちになります。これは何も、私が教育に格別熱心だったというわけではありません。教師という職業は、そういう性格のものだと申しあげたいのです。職人が道具を粗末にできないことと、事の性質はつながっていると思います。

  この点は、定時制に勤続してきた先生方には特につよいと思います。それは、生徒たちが社会の「厄介な狭間」で苦しむ姿を目の当たりにしながら、教師としての歳月を重ねていくからでしょう。

  彼ら中途退学していった生徒の中でも、特に忘れられない生徒がいます。I君です。もう50歳でしょう。彼の父は短気で、少し生活が怠惰になった彼を詰って、暴君のように息子を退学させてしまったのです。担任であった20代の私は、ただオロオロするぱかりで、結果的には無カでした。彼はその後、父から名刺などの注文を受ける小さな印刷所を引き継いで経営していましたが、この10年ほど、年賀状に今の政治のひどさを嘆いて寄越すようになっていました。高校卒業の学歴がただちに生活の安定に結びつくとは思いませんが、私は賀状を目にするたび、彼の自分史にある中途退学という事実が、彼の生活上の足掻きとなっているように感じて、なぜあのとき彼の退学を回避するために力を尽くせなかったのかと、今もって慚愧の念をもっております。今年の年賀状には、印尉所をたたんでリサイクルの会社に就職しました、とありました。

  定時制に勤務する教師の多くは、教え子をとりまくこのような社会に対して、誰にともなく「コンチクショウ、コンチクショウ」と呟きながら、われ知らず、定時制特有の教師像を培ってきているのだと恩います。

  今日、これまで2回の陳述書でも現場教師の姿をリアルに伝える点で隔靴掻痒の思いがありましたので、添付資料を用意いたしました。
  私自身が解説するように申し上げるのほ面映ゆいのですが、添付資料Iをご覧ください。20代の『惜別の辞』は、生徒を通して社会の峻烈さを知らされ、消化不良を起こしかけている、奥手な青年教師の私がおります。やたらにテンションの高い点によく表れています。30代の『なつのなごりに』は、教師としてどうやらスタンスを持ち得た静かさがあります。50代の『複雑で怪奇な政治はよして』には、定時制に対するこれまでの理解が、効率主義的な「定時制統廃合」の流れに変ってきたことに対する苛立ちと、大人社会の青少年への無責任さについて深い怒りが込められています。そして私なりに教師としての半生から、自身の社会的「役どころ」を認めた「目」が働いていると恩っています・

  添付資料U、県立厚木南高校定時制でのものです。B4判の学級通信ですが、40代の私が若い教師に負けまいと思って、クラス経営の武器である学級通信の発行をムキになって進めている姿を思い出します。3年生の時の『峰』は60号、4年生の『麒麟』はさらに発行号数を増やそうと、途中中絶することのないよう、左にタスキのように日本国憲法の全11章103条を掲載しました。全108号、おおよそ年間登校日数は210日ほどてすから、隔日刊の新聞だったわけです。
 この『麒麟』のNO45号で、一学期期末テスト前に生徒を励まして、高校時代に感銘を受けた、M.ゴーリキーの『母』の一節を掲載しています。それほ、酒乱で飲めぱ暴力を振るう夫に仕えるしかなかった無学の1人の老女が、息子を通して人間として目覚めてゆき、息子の友人の書斎で、好きな蝶の図鑑を広げながら感動して述べる件です。

 「ニコライ・イワノービッチ、なんて美しいでしょうね?またどこへ行っても、美しいものが何てどっさりあるんでしょう。ところが、それがみんなわたしたちの目からふさがれていて、わたしたちに知られないまま、素通りして飛んでいくんですからね。人間はあくせくして何にも知らず、何ひとつゆっくり跳めることができないんです。みんなはそんな暇もなけれぱ、そんな欲望もないんです。地球がこんなに豊かで、びっくりするようなものがこんなにたくさん住んでいると知ったら、人々はどれだけ喜ぴをくみとることができるかわかりませんね。そしてすべては万人のためにあり、各人はまた万人のためにあるんですね。そうでしょう?」
 
 私は、生徒に言ってきました。「向こう三軒両隣、いろんな学歴、経済事情の人たちと生活していくわけだから、きちんと肩を並べていけるようにマナーや勉強を身につけなくては」と。その思いがこの一節の掲載になっています。しかし、それは同時に学生時代、アルバイトに明け暮れざるを得なくて「力不足」を感じていた私自身への戒めの思いでもあったのです。私はこの点で、彼らと「同級生」でした。

 この訴訟が縁で旧交を温めている、今は50歳すぎになっている教え子のSさんが昨年母を亡くした時の話をしてくれました。

 「おふくろはこう言っていましたよ。『私の人生ぱつまらなかった。学問がないために何もわからず、つまらない人生だった』と。先生、勉強する機会がなかったというのはそんなことなんですね」。「金の卵」として、中学卒業の息子を都会にやらざるを得なかった母親の終焉の言葉に対して、私は何を言っていいか黙るよりほかありませんでした。

  『母』の一節とSさんの話の符節にびっくりするとともに、そこに公教育というものの佳格が、巧まずして込められていると思いました。

 それは人間を人間たらしめる機能を発揮しないではおかないという使命感を熱く内在しているはずのものだということです。『麒麟』の父母の方々のアンケートの回答が、この点を見事に射ております。

 教育の営みは、淡々として清邃な、将来に願いをかけた国民的な営みであると私は思っております。その営みは、毎日のように報道される「教育改革」のように賑々しいものではありません。

   生きかはり死にかはりして打つ田かな   鬼城

 この句が、教育の営みをみごとについているように私には思われます・私は、そのひとりの「農夫」にすぎません。しかし、冒頭に申し上げましたように、この「農夫」は、34年間34冊の教務手帳に生徒状況を書き込み、3200人を前に蛍光灯の下、6200時間ステージに立ち続けてきた「農夫」です。

 34年間「耕し続けてきた農夫」である教師が、問答無用に外の土地へ追い立てられていい存在であるはずがありません。追い立てた「不在地主」の態度こそ、社会的に容認されるはずのないものです・

 安心して教師の仕事をおこなえること。これが教師が教育現場で働ける条件だと思います。一罰百戒のように不当人事を断行すれぱ、生徒たちの思いを伝えようとしても、不安でできなくなってしまうでしょう・

 私は神奈川県教育委員会といたずらに係争するつもりはありませんが、この不当人事は、教育行政機関が教師の当然の教育活動を脅かし、統制するものだと認識したので、神奈川県人事委員会に冷静で公正な「第三者機関」としての判断を期邃待したのです。

 教育の条理と『人事異動要綱』を無視した神奈川県教育委員会による不当人事について、「管理運営事項」を絶対化し、その異動理由を明示させることさえも拒否する「第三者機関」の神奈川県人事委員会。

 私は今、先に述べてきました教師歴を踏まえてみまして、理由を明らかにしないで異動を断行し、しかもそれを調停できない神奈川県の行政機構に、公教育を枯らしかねない危うさを感じております・

 公判を通して、教育に携わる教師の重みを今一度、計量し直していただきたいと切にお願いしまして、結審での原告の陳述を終わります。
 ありがとうございました。

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