科学の法則と倫理の法則

The law of science and the law of ethics
Albert Einstein (1950)
in "Out of my Later Years"(Citadel Press)
(訳 片山泰男 Nov.19 2014 - Jul. 8 2015)
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科学が探求するのは、探求者から独立に存在すると考えられている関係である。これは、人間自身が主題であるような場合を含む。 また、科学の言明の主題は、数学でのように、我々自身によって作られた概念でありえる。そのような概念は、外界の対象のいずれにも 対応するとは必ずしも考えられない。しかしながら、全ての科学的言明と法則は、ひとつの特性を共通にもつ。 それらは、"真または偽"(適正であるか否か)である。大まかにいえば、我々のそれらへの反応は、"イエス"か"ノー"である。

科学的な思考方法は、さらに特徴をもつ。それの統一的なシステムを組み上げるのに、それが使う概念は感情を表現しない。 科学者にとって、"存在"だけがあり、希望、価値、善、悪、または目標はない。我々が科学の専従者の領域に止まる限り、我々は 次のような文章の型に決して出逢うことがない。すなわち "汝、嘘をつくなかれ。" 真実の探求する科学者には、なにかピューリタン の自制に似たものがある。すなわち彼は、主意主義的な、又は、感情的な全てのことから、遠く離れている。 ちなみにこの特性は、緩慢な進歩の結果であり、近代西洋の思想に特有である。

このことから、論理的思考は倫理学には無関係、のように思えるかもしれない。事実と関係の科学的な言明は、確かに、倫理的な指令 を作成できない。しかし、倫理的指令は、論理的思考と経験的知識によって、合理的に、首尾一貫になれる。もし我々が何らか基本的 な倫理的な命題に合意できれば、そのとき、他の倫理的命題がそれらから導かれる、もし、元の前提が十分に正確に述べられるなら。 そのような倫理的な前提は、倫理学において、数学において公理系によってなされるのと類似の役割りを果たす。

これはなぜ、次のような質問をすることが無意味とは決して感じないかの理由である。"なぜ、我々は嘘をつくべきでないのか?" 我々はそのような質問に意味があると感じるのは、この種の議論の全体のなかで、倫理的前提が暗黙のうちに当然のことと受け入られている からである。我々が満足を感じるのは、これらの基本的な前提への問いをもって、倫理的指令から、逆追跡に成功するときである。 嘘をつくことについての場合、これらは多分、次のようなある方法でなされるかもしれない。すなわち、虚偽は、言明に対する他の人々の信頼 を破壊する。そのような信頼なしには、社会的な協力は不可能になるか、少なくとも困難になる。しかし、そのような協力は、人間の生活を可能にし、 我慢ができるようにするのに不可欠である。このことは、"汝、嘘をつくなかれ。"という規則が、次の要求へ、逆追跡されたことを意味する "人間の生活は保存されなければならない"、そして、"苦痛と悲哀は最少化しなければならない。"

しかし、そのような倫理的な公理の源は、何であろうか? それらは、任意だろうか? それらは、単に権威に基づくのだろうか? それらは、人々の経験に由来し、そのような経験によって間接的に条件付けられているのか?

純粋な論理にとって、全ての公理は任意である、倫理の公理を含めて。しかし、それらは心理学的な、遺伝的な視点からは、決して任意でない。 それらは、苦痛と絶滅を避けるという我々の生来の傾向から、そして、彼らの隣人の行為への個々人の累積的な感情的反応から、導出されたものである。

それは、人類の道徳的な非凡さの特権である。霊感を得た個々人たちが役を演じ、非常に包括的でよく確立されているので、 彼らの個人の感情経験の膨大な量のなかで、基盤として人々がそれらを受け入れるだろう、倫理の公理を[さえ]、前進させることは。 倫理の公理は、科学の公理とさほど異ならず、発見され、試験される。真理は、経験の試練に耐えるものである。