科学の法則と倫理の法則

The law of science and the law of ethics
Albert Einstein (1950)
in "Out of my Later Years"(Citadel Press)
(訳 片山泰男 Nov.19 2014)
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科学が探求するのは、探求者から独立に存在すると思われる関係である。これは、人間自身が主題であるような場合を含む。 または、科学の声明の主題は、数学のなかのように、我々自身によって作られた概念であり得る。そのような概念は、外界の どの対象にも対応すると必ずしも考えられない。しかしながら、全ての科学的声明と法則はひとつの特性を共通にもつ: それらは、"真または偽"(適切であるか否か)である。大まかにいえば、我々のそれらへの反応は、"イエス"か"ノー"である。

科学的思考方法は、さらに特徴をもつ。それの統一的系を組み上げるのに、それが使う概念は感情を表現しない。科学者にとって、 "存在"だけがあり、希望、価値、善、悪、そして目標はない。我々が科学の専従者の領域に止まる限り、我々は次のような文章 の型に決して出逢うことがない:"汝、嘘をつくなかれ。" 科学の真実の探求は、ピューリタンの自制に似たものはある:彼は自 発的な又は感情的な全てから遠くにいる。ついでにいえば、この自制は遅い進歩の結果であり、現代西洋の思考の特徴である。

このことから、論理的思考は倫理学には不要のように思えるかもしれない。事実と関係への科学的声明は、実に、倫理的な指示を 制作できない。しかし、倫理的指示は、論理的思考と経験的知識によって、合理的、首尾一貫になれる。もし我々が何らか基本的 な倫理的陳述に合意できれば、そのとき、他の倫理的陳述がそれから導かれる、もし、元の前提が十分に正確に述べられるなら。 そのような倫理的な前提は、倫理学において、数学において公理系によってなされるのと類似の役割りを果たす。

これはなぜ、次のような質問をすることが無意味とは決して感じない理由である:"なぜ、我々は嘘をつくべきでないのか?" 我々は そのような質問が意味があると感じるのは、この種の議論の全てのなかで倫理的前提が、暗黙のうちに当然のことと受け入られている からである。我々がそのとき倫理的指示から遡って追跡を続け、これらの基本的な前提に問をもつようになるとき、我々は満足を感じる。 虚偽についての場合は、これらは、多分、次のようなある方法でなされるかもしれない:虚偽は声明への他の人々の信頼を破壊する。 そのような信頼がなければ、社会的な協力は不可能になるか、少なくとも困難になるだろう。そのような協力は、しかしながら、 人間の生活を可能にし、我慢ができるようにするのに不可欠なのである。このことは、"汝、嘘をつくなかれ。"という規則が、次の要求 へ逆追跡されたことを意味する:"人間の生活は保存されなければならない"、そして、"苦痛と悲哀は可能なかぎり教訓されなければならない。"

しかし、そのような倫理的な公理の源は、何であろうか? それらは、任意だろうか? それらは、単なる権威に基づくのだろうか? それらは、人々の経験に由来し、そのような経験に間接的にも条件つけられているのか?

純粋な論理にとって、全ての公理は任意である、倫理の公理を含めて。しかし、それらは心理学的遺伝的な視点からは、決してそうでない。 それらは、我々の生来の傾向から、苦痛と絶滅を避けるため、そして彼らの隣人の行動への、個々人の累積的な感情的反応から導出される。

それは、彼らの個人感情の広大な集団のなかで基礎として、人々がそれらを受け入れるように、非常に包括的でよく確立された 倫理の公理を前進させるために、霊感を得た個々人たちが役を演じる、人類の道徳的な非凡さの特権である。倫理の公理は、 それほど科学の公理と異ならずに、発見され試験される。真理は、経験の試験に立つものである。