EDWIN HUBBLE 1889-1953

エドウィン・ハッブル 1889-1953

アラン・サンディジ (Allan Sandage)

訳:片山泰男(Yasuo Katayama)


"EDWIN HUBBLE 1889-1953" (1989 THE JOURNAL OF THE ROYAL ASTRONOMICAL SOCIETY OF CANADA (JOURNAL DE LA SOCIÉTÉ ROYALE D ASTRONOMIE DU CANADA) Vol. 83, No.6 December 1989 Whole No. 621) NASA の 1996年の宇宙の大きさの議論のサイトに掲載された、天文学の大御所アラン・サンディジ によるハッブルの解説(1989)。できるだけ正確な直訳を試みたが、翻訳の不手際による誤りの発生は、全て翻訳者の責任である。 Web 公開された論文であるが、翻訳の許可を得ていないので、著者等からの要請があれば、閉鎖する。


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ハッブルの役割
性格
4つの中心的業績
(a) ハッブルの銀河分類系列
(b) 銀河は島宇宙であることの納得させる証明
(c) 銀河の空間分布
(d) 赤方偏移ー距離の関係
(e) 他のプログラム
評価査定
参考文献


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ハッブルの役割

今年は、エドウィン・ハッブルの生誕 100年にあたる。この時代の科学の進展を書く未来の歴史家は、疑いもなく 20 世紀を どう宇宙が組織されたかについての初めて正しい見方を与えた変革の時代と記述するだろう。宇宙の大規模な内容が発見され、 その基本的宇宙論的問題が 1920年から 1936年の間に観測的に解かれた。ハッブルは、この発展の中心人物だった。 銀河が宇宙の印であって、それの測定方法を用意するという知識は、星雲の性質についての新しいデータの最初の納得しえる分析 によって得られた。それは、対話的議論または、啓示によるものでなく、空から直接来る知識であった。

ハッブルの時代、新しい天体物理学に基づく観測的仕事、そして後に宇宙論として我々が知るもののセンターがウィルソン山天文台 にあった。ふたつの世界最大の望遠鏡がそこにあり、これらの問題に規則的に使うことができた。1919年、ハッブルは、彼のウィルソン山 のスタッフを予約し、60 インチと 100 インチフッカー反射望遠鏡の両方を連続して使用した。

彼はまた、星雲の性質に関するまだ解かれていない問題の核を切り取る最も注目すべき能力を持っていた。彼は、問題のエッセンスに 向かって不断に進み、普通、解決の途上にある多くの魅力的な休憩処に止まらず、1920年代には星雲の問題に関する率先する天文学者になった。 1924年から 1936年までの 12年間に彼は、観測的宇宙論の留る基礎を打ち立てた。非常に大きな問題の解決においての彼の中心的役割から、 ハッブルは、遺産となった。しかし、彼の生活の部分は、また神話となっているため、我々は、彼の出版された論文の研究だけによって、 宇宙論の発展への彼の莫大な影響の合理的理解を得るのである。

ハッブルの名は、毎日の天文学の生活の多くのことに付けられている。ハッブルの避けた領域、ハッブルの銀河型、ハッブルの系列、 反射星雲へのハッブルの光度法則、楕円型銀河へのハッブルの光度特性、ハッブル定数、ハッブル時間、ハッブルダイアグラム、 ハッブルの赤方偏移-距離関係、宇宙のハッブル半径、そして、ハッブル宇宙望遠鏡がある。ガリレオ、ケプラー、ニュートンの時代以来、 (パラダイム変化において) 最も偉大な天文学者と幾らかの人々が呼んだ科学者の記憶をこの 100 周年に祝うのは、適切に思える。 何を彼がしたか、そして、どうやって?


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性格

歴史家が現存の書庫の源の幾つかを使ってハッブルの正確な個人的伝記を書くのは難しいだろう。カルフォルニア州、サンマリノの ハンティングトンにあるハッブル収集の中の資料から設定された記憶の一部分は、事実との矛盾が知られているため、その他の部分が正確 であることを知るのは難しい。ハッブル夫人は、彼の没後 26 年生存し、書庫の材料を組織したが、ハンティングトン収集の中にも、 彼自身への評論の辺りの幾つかは、彼に栄光を与えるのに人生よりも大きい方法でする。この観点から、オスターブロック、ブラシェア、そしてグィン (1990) の"1922年ごろまでのハッブルの教育と経歴"の権威ある歴史的随筆を参考にすべきである。彼らの歴史は、可能な限り個人的記憶 から独立な資料、ヨークとリック天文台の記録からの多くは手紙と書類に基づいている。

しかし、偉大な科学者の人生の個人的側面としての興味は、彼が解にどのように到達したかを理解することにあり、解自体、個性とは独立に違いない。 そうでなくては、結果が客観的現実性をもたない。解への到達への内的興奮は、決してまだこの冷たいもの、個性自身の中のものではありえない。 すべての科学者は、想像の世界の中に生きている。問題が大きければ大きいほど、想像力も素晴しいに違いない。 そしてハッブルは、言い表しようのない問題、もっとも大きなスケールの世界構造の発見とともに生きていた。 彼または彼の世代の他によってなされたこの仕事から、次のことが広く信じられている。"宇宙の創造の出来事"のいくらかの光彩が、 他の時代のように超物理や思索によってではなく、客観的な方法によって科学に手に入るようになったと。

ハッブルは、彼が何を扱い、何を達成したのかを、他のひとよりももっと明確に理解しているに違いない。理解が最終的に宇宙が組織される方法 に到達すること、そして何より、宇宙膨張の発見が実現して、ハッブルが日々の出来事とどう生きるかの方法に影響したに違いない。 彼の批評家によってしばしば言及される、彼の明らかに超然とした態度は、想像するに、初めてそのような視点をもった者達の間にある人として 普通でないとはいえないのではないか。

しかし、我々は実際、ハッブルの内部の世界をほとんど知らない。彼とヒューメイソンがその速度ー距離関係とともに発見したことの意味について、 彼は、注目すべきほど沈黙している。彼の個人的会話、書き物においても、宇宙の原始的状態からの進化についてとか、"創造の出来事" に関係した その意味についてとかの、アイデアの含意するものについて議論したことがない。現代の書物では非常に普通であるこれらのことについて、 彼の考えはほとんど見出せず、彼の出版された論文から推察しなければならない。


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4つの中心的業績

1922年から 1936年まで、ハッブルは、宇宙論における 4 つの中心的問題を解いた。そのうちのひとつでも彼に歴史上第一級の地位を保証するものである。

(a) 1922年〜 1926年ハッブルは、銀河内の拡散星雲と外銀河との両方について星雲の分類システムを提案した。 銀河分類システムは、ハッブルの銀河型の形態学的系列となった。

(b) 1924年に彼は、NGC 6822 にセファイドを発見し、M33 と M31 にも並行的に発見。ハッブルは、銀河の性質の問の正解を、決定的に確かにした。 その正解は、Curtis, Lundmark, and Öpik によってすでに与えられていたが、多くが結論のない議論と信じることを使っていた。

(c) 1926年から 1936年に銀河の分布を多くの立体角において平均し、距離において一様と決定した。このテストは、log N(m) 等級に対する計数の分布の係数が、 明るい等級で約 0.6 をもつことを示すことでなされた。これは、銀河が真に宇宙自体にとって重要な空間の印であることを証明する。 ウィルソン山の 100 インチ望遠鏡の限界等級に対する銀河の計数は、かすかなユークリッド的値からの偏差によって空間の曲率半径を測定する試みに使われた。

(d) ヒューメイソンの 1931年と 1936年の間の引き続く論文の後、線形の速度-距離関係が 1929年の発見的論文に設定された。それらを確認しその関係を 大きな赤方変移(〜60,000 km/s)に拡張した。この発見は、膨張する宇宙の概念に導く今日の宇宙論的モデルにとって中心的ピース (必要条件) であった。


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出版された論文

(a) ハッブルの銀河分類系列

銀河には 1926年まで満足できる分類システムがなく、その年にふたつの類似するシステムが文献に現れる。 英国ケンブリッジの国際天文学会連合 (IAU) の 1925年会合によれば、そのときまでに設定されたシステムは、Wolf (1908) による純粋に記述的システムだった。 しかし、その分類の間が連続的でなく、Wolfによる型は、更新する必要があると一般に考えられる。ハッブル(1920) は、その Ph.D. 出版で、Wolf の分類に ついて述べている。 "形式的に許され、重要なシステムが構成される べき までの時間的な穴埋めのための優秀な方法を提案するものである。" (強調はここ(Allan Sandage)で加えられた)そして後で同じ出版に、"「Wolfシステム」は全体として実験的で、多分、物理的重要性を欠くが、手に入る 最良のシステムであり、後に 重要な順序が確立 されたとき偉大な助けとなるだろうものである。"(同じく、強調はここ(AS))

これに助けできるわけではなく注意しうることは、これらの二つの引用の構成が示すことは、ハッブルがその領域に入ったとき、彼がその上を達成する確信 をもっていたことである。彼のその後の書き物の多くを特徴づけるこの言葉の確かさは、技術的結果だけでなく散文によってその領域を征服する傾向をもつ (そしてそれを意図した) 確かさである。彼のいくつかの論文が他者の優先的な仕事以上にそのような優勢を与えるたのは、ハッブルの言語の熟達である。 しばしばその問題は、実際すでに解かれていたが、しかし、ハッブルが全力を出したとき彼が持つと同じだけの型の優美さ、表現の力、そして集約の優秀性を 持たなかった。明らかに、学生への教訓として、偉大な科学をすることを学ぶと同時に書くことを習うことである。

新しい銀河分類スキームの裸の概略は、ハッブルによって彼の冗漫な銀河的星雲 (Hubble 1922a) の性質についての彼の基本的論文によって、 まるで脇せりふのように与えられた。そのスキームは 4 年後に拡張され二つの写真パネルにイラスト (Hubble 1926b) された。 Raynold による批判に答える明確化コメント(Hubble 1927)、そして "星雲の領土" (Hubble 1936d)の 5 章には多少の拡張した説明によって 彼の 1926年の銀河分類のシステムの議論の拡大の程度を示している。しかし、ハッブルの分類系列は、非常に広く使われるようになり、 ハッブルが Raynold に返したコメントでは、彼がした原理的な公表、1926年のシステムは、単なる "いくらかの一般的統計的検討の前置き" と表現している。

ハッブルは、それにも拘わらず、彼の "前置き" を真面目にとり、彼は 1926年の論文の第1章の脚注に暗示されたその優先権を防御した。 Lundmark (1926,1927) によるほぼ同時の分類システムに対する彼のコメントがある。ハッブルの不平不満のいくらかは根拠がなく、 彼がほとんどそれを公表せず、その感受性を示し一般に隠された。いくらかのハッブルの告訴は、実際に実行され、Lundmark からの Lundmark のほぼ偉大なしかし広く無視された論文の中の同様な脚注をつかう部分的に正当化できる辛辣な返事 (1927) によって対処された。

ハッブルが彼のパワフルな分類スキームの文献に与えた全く貧弱な記述は、しかし、この共同体にそのシステムのその意図と その単純さとそしてその力を知らせるには十分だった。最終的にそのシステムを一目で集約する有名な曲がったフォークのダイアグラムは、 一度もハッブルの天体物理雑誌の 1926年の技術的論文には現れず、彼の一般的な本、"星雲の領土" にだけ現れたことを注意する。


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(b) 銀河は島宇宙であることの納得させる証明

ここでその物語は良く知られていて、再度詳細をいう必要がない。ハッブルの、

NGC6822, M33,そして M31 のセファイドの発見は、Lundmark, Curtis, そして Öpik による銀河が天の河の外部であることの議論が正しかったこと への "単純" に最終的、そして結論的なデモンストレーションだった。しかし、その状況は、もちろんそれほど単純でなかった。その年に二つの類似する システムが文献に現れる。英国ケンブリッジの国際天文学会連合 (IAU) の 1925 年会合によれば、van Maanen による固有運動の測定が与えられた。

いずれの研究においても、知識のなかにどのデータの合成の重要性があって、どこが無視されるべきかがある。知ろうとすることを経験したひとは誰でも、 どの仕事のなかにも、つねに偽の乗員が出席していることを知っている。ハッブルの能力は、どれが信用できる乗員でどれが捨てられるべきか、そして、 どれを事実に結びつけ、事象を作り上げるのに優先するかを知ることだった。 van Maanen の結果を無視して、その周期ー光度関係とともにセファイドの存在をハッブルが示したことは、完全かつ最終的だった。 その問題にはたった 3 つの論文が書かれた。最初の NGC6822 (Hubble 1925) において議論を終わらせた。M33 (Hubble 1926a) と M31 (Hubble 1929a)は、 結果の一般性を示し、誰も 1925年の最初の結果にまじめに批判しなくなった。


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(c) 銀河の空間分布

ハッブルの最終証明、銀河が天の河の向うにあることとともに、それらが宇宙の均一な印であるか、それともそれらが物質の組織の中の次の段階への 階層的構造の部分にすぎないかが主要な問題になってきた。その解決は銀河が距離において分布している方法のなかにある。 もし、それらが捜索サーベイする体積に比例して数が増加すれば (その縁の問題はさておき、我々の銀河の中の星ぼしのように)、 そのときそれらは明らかに分布の基本的単位になる。

明白なテストが様々な大きさの限界の銀河の計数を使って作られた。計数する目的は増加する体積にともなった銀河数の増加の比率を 見い出すことである。銀河の光度の関数についての彼の仕事から、(多くの論文を通して繰り返される校正、つまり Hubble 1926b, 1934b, 1936a, 1936b, 1936d) ハッブルは、銀河が絶対的等級において広がりをもつことを知った。しかしながら、 光度関数がその暗い端において乖離しない限り、異なった限界等級の計数は、次のような値の分布を示すだろう。

log N(m) 〜 0.6m,

物体が距離において一様に分布している限り、光度関数の形式によらない。

この知識とともに、ハッブルの計数の仕事の初期の目的は、等級の項の係数の値を数値的に定めることであった。彼の 1926年の注目すべき 論文の中での最初の議論の中において、ハッブルは、そのとき知られるデータが、一様を示す 0.6 の値をもつ必要に、整合することを示した。 (Hubble 1926b の Table XVII の彼の式 10) 彼は,そのとき入手可能な標準的ソースから得たデータを使って、Seares(1925) による銀河分布の古典的仕事を含め、 今日、"ハッブルの避けたゾーン" として知られる大多数の主要な議論を一般的に無視した。

しかし、そのデータが基本的には 2.5m 反射鏡の莫大な力によって進歩し、実行できたことは明らかである。 彼の Ph.D. の仕事の経験によって組み立て、ハッブルはただそのように大量の観測のプログラムを始めた。 その結果は、論文の列の中に現れ、空間の曲率を測定する試みの中で 1936年に頂点に達した。

彼の最初の論文の中でハッブル (1931) は、1935年に R.C.Tolman とチームを組んで曲率の決定に向かってどのプログラムが とられるのかの方向のヒントを与えなかった。1931年のアナウンスは、単にウィルソン山望遠鏡によってなされた銀河の計数の 新しい彼のサーベイの初期的な結果の概略であった。

その分布に対する詳細な論文は 3 年後に現れた (Hubble 1934a)。 その 10 年前のセファイドの仕事と同じく、この論文も徹底して納得を与えるもので、そのとき終わるまで 100 年以上存在した 平均銀河分布の問題を提起し、論文は古典になった。その力は、大量の新しいデータを提示することにあり、 そしてハッブルの直線的な思うに単純な分析にあった。それは多くのハッブルの仕事の特色であった。

データと素材を "均一な平坦条件" に還元する技術的な方法を提示した後、ハッブルは、(1) Seares (1925)の優先する仕事を回復し、 銀河の "避けた領域" の概略をきめる銀河の範囲の中の分布を扱い、(2) 銀極における消滅 (カウント数の有名なコセカント分布、 それは現代の議論において非常に混乱している;Noonan 1971 の批判をみよ。)を扱い、(3) クラスタの傾向、計数の残余の性質に 基づき、フィールドとフィールドの残余は N(m) 自体でなく log N(m) の中でガウス分布であること、(4) 銀河の空間分布、 (5) 銀河の平均質量、そして(5)宇宙の物質の平均密度の 10^-30 [g cm^-3]のオーダー、 奇妙なことに、空間の曲率についてはこの論文では言及がなく、彼の Halley 講演 (Hubble 1934b) においてもない。 それは、当初から主要なテーマであるべきものだったが。

ハッブルの Gauss と Karl Schwarzschild が実験的幾何と呼ぶものへの興味は、1934年に始まったに違いない、 彼の Tolman との共同作業の中に追跡できる。彼らの共同論文 (Hubble and Tolman 1935) は、どう銀河の計数が、概念的には、 直接の測定によって空間曲率を見い出すことに使えるかを設定した。その原理は、近似的に定義される様々な "距離" の中に区切られる体積が、 ユークリッド的な距離の r^3 に比例して増加するか、それより急速に又は、緩やかに増加することを決定することである。

観測的問題は、赤方偏移などの効果によってそのデータに要求されるデリケートな校正によって複雑にされる。 しかし、概念の荘厳さとそのプログラムの実行とは、まだ現代の読者をして、事実とは拘らず、その試みに失敗を感じさせる。 大きさのスケールの大きな誤差と、我々が知ることが振り返る時間の中での銀河の進化の効果によって圧倒されることによってである。

その方法の技術的な側面をここで議論する必要はない (そのためには、Sandage 1988)。また、それらを批判する必要もない。 より有益なことは、Tolman との初期の共同以降の曲率プログラムの中のハッブルの進歩を年代順に記録することである。 観測的な宇宙論の原理的な目的にはまだ問題が残る。しかし、銀河進化の効果によって、銀河計数は、それによってそれを解く 主要なデータ源とはもはや考えられない。 その代わり、我々が現在試みるのは、ひとつか他の膨張の減速を測定して、空間的密度それゆえ Einstein の相対論方程式から曲率を導く ことのできるものである。

ハッブルの(1936c)の主要な論文は、彼の試み、N(m) 計数曲線上にふたつの暗い点を、ウィルソン山で決定されたものに重要な N(m) に メイヨールの (1934) Ph.D サーベイから追加的データ点を加える試みを議論している。分析の基本的な部分は、観測される N(m) 分布に対する、 赤方変移の影響であり、赤方変移による校正の必要に集中している。これらの校正は、ハーレイ講演 (Hubble 1934b) において言及されているが、 そこでは空間の曲率測定に対しては議論されていない。1936年の論文の一部がその問題に初めて関係するものである。

ハッブルは、彼の観測した log N(m) 分布が、赤方変移の効果が見掛けの等級に与える影響が赤方変移が現実の膨張によるとき、 ユークリッド幾何から大きく離れていることを結論づけた。もし、動きのないとき、赤方変移が未知の原因による場合、異なる校正が要求される。 ハッブルは、赤方変移の校正が "後退無し" を仮定する場合に、彼の計数データが空間曲率に関してより合理的な結果を与えると信じた。 彼の書き物の最後まで、彼は彼の位置を保持し、真の拡大が存在しないモデルを好み (または、ごく少なくともオープンであることを保持し)、 そして、それゆえ赤方変移は、"これまで認識できない自然の原理を表現している" とした。

この視点は、(a)星雲の領土, (b) Eddington と McVittie による 1936年の論文の批判への彼の返事の中 (Hubble 1937a) (c)彼の 1937年のロードス講演("The Observational Approach to Cosmology" (Hubble 1937b)として出版) において強調される。 かれのダーウィン講演 (Hubble 1953)に入れられる、彼の最後の科学的論文においてもそれは保持された。

彼の経歴の最初からハッブルは、星雲の分布に引き付けられてきた。その問題は、彼の Ph.D 研究(Hubble 1920)から、 基本的にこれが現在あるように、始まっている。そして彼は、彼の経歴の最後まで、ずっと増加する洗練とともにその主題の時に再び戻っている。 彼は、1949年にパロマーの 48 インチシュミット望遠鏡が完成したとき、現代的な等級スケールを使う努力のなかで、そのとき光学電子的に準備された それを使って、新しい主要な計数プログラムを始めさえした(未出版の研究)。その目的は、空間の曲率測定を最初から研究し直すことだった。

彼の 1926年の論文の中でハッブルは、彼の銀河の空間の平均密度の推定を Einstein の静的宇宙の空間曲率の計算に使った。 この事実は、誰よりも彼自身が、3 年後に Einstein の重力の場の方程式の非静止的解の観測的な基礎づけを行ったのであるから、 まことに皮肉にも興味深いことである。彼の使用、そのとき、"静的モデル" を空間の曲率を計算するのに使ったのが、1926年という遅い時期に、 大きな速度が Slipher によって観測され、多くの天文学者によるこれらの速度を特定の宇宙論モデルを使って理解しようという試みがあったにもかかわらず、 彼が非膨張モデルを信用していたことを示す。1922年には、Friedmann の 非静止解が発見され、たまたまそのときウィルソン山には、知られていなかった。 次の主要な観測的発展は、1929年の赤方偏移ー距離の関係の発見であった。


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(d) 赤方偏移ー距離の関係

よく知られているように、Einstein の重力の場の方程式は、3つの定常解しか許されない(Tolman 1929 and 1934 sections 133-145)。定常が意味するのは、 座標系が拡大しないことである。この状態の数学的表式は、計量の方程式の中の各空間座標の係数が、時間の関数で "ない" ことである。(*2)

歴史的に重要なふたつの定常解は、Einstein (1917) と de Sitter (1916a, b; 1917)による。どちらものちに真の状況を表現していないことが証明された。 Einsteinのものは、物質を含むからでなく、赤方変移がないためである (それは、時間にも空間にも真に静的である)。 De Sitterのものは、物質を含まないからでなく、 それが記述する、空間に置かれた試験粒子には(赤にも青にもなる) 奇妙なスペクトルシフトをもつからである。これは、空間座標の静的な性質にもかかわらず、 時間次元の計量の係数の中のスキャンダラスな "場所依存の要素"による(*3)。

その "de Sitter spectral shift effect" は、多くの天文学者によってずっと探されてきた。(ハッブルの"星雲の領土" 5 章の歴史をみよ) 納得させる成功はなかった。 Robertson (1928) は、線形の関係を予測し、この方法で解釈できると示唆される効果を発見したと信じた。彼は、相関する Slipherの 赤方変移と距離を見掛けの等級 を使って予測した。Robertson は、詳細を与えなかった。 彼の結果は、高度に理論的論文の中の単独のパラグラフの中に設定したが、速度の場に彼は明確に Kr 項の可能性を意識したが、宇宙はたぶん違って、結局、静的でなかった。

ハッブルのセファイドの論文が 5 年前、そして彼の空間分布の論文はその 5 年後である。 ハッブル (1929b) の発見論文 その膨張は、非常に納得できるように書かれていて、ほとんど即座に信じられる。その驚くべき内容とその数少ないデータ点にもかかわらず、ハッブルは、 結果を確信していたに違いない。 ハッブルの論文の直前、Humason (1929) は、NGC7619 に 3779 km s[-1]という (そのときにとっては) 非常に大きくそれまで知られていた赤方偏移よりずっと大きい赤方偏移を報告した。 この結果からハッブルは、重大な現象を手にしたという確信をもったに違いない。

宇宙が広がっているという驚くべき可能性を確認し拡張する全ての努力はウィルソン山で行われた。1930年までに Humason (1931)は、 クラスタ内の銀河の赤方変移でその速度が 20,000 km s[-1]まであるものを得ていた。多分、その並びのなかで最重要な論文、Hubble and Humason (1931) は、(a)効果の存在、(b)距離に線形、そして(c)クラスタの最も明るいメンバは、楕円銀河がほぼ支配的であること (銀河とクラスタ形成の主要な発見) を疑いを超えて示した。

その仕事は、フィールドの銀河についてもその後拡張され (Hubble and Humason 1934)、その現象の一般性を示した。ウィルソン山反射鏡で行われ 1936年までに完了した。 赤方変移は、Ursa Major No. 2 クラスタの 40,000 km s[-1]にまで達した (Humason 1936, Hubble 1936)。Humason は、1949年にその仕事を再開し、パロマー 200インチ 反射鏡を使って Hydra クラスタの 60,000 km s[-1]に達したが (Humason, Mayall and Sandage 1956)、夜の大気の明るさの存在のため、当時の技術から継続を停止した。 ハッブル (1953) は、その仕事を最終的に彼のダーウィン講演にまとめた。


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(e) 他のプログラム

以前の章で概略を示したハッブルのもたらした 4 つの主題は、主に 1930年代であるが、彼はまた、他の仕事にも影響を与えた。その結果は、また現代天文学文化の部分である。

(1). 彼は、拡散星雲の放射源とスペクトルの性質の問題を解き、放射星雲と反射星雲の間の違いを認識した (Hubble 1922a, b)。 そして、拡散星雲の放射源が付随する星であることを証明した。その仕事の優雅な謝辞が Greenstein (1951) によって与えられている。

(2). 楕円銀河の表面輝度の特性を初めて正確に測定した(Hubble 1930)。そこから特性法則の修正拡張を後に他の人が導き得る基本的モデルを用意した。

(3). 彼は、近傍銀河の星の詳細の研究を始めた。さらに、局所群のメンバのセファイドと非常に明るい不規則変光星の同定と測定を行った。 彼は、誰も先行しなかった M31 の球状星団の同定 (Hubble 1932) を行い、今日の多くの天文学者の仕事となる活動を開始した。

(4). 彼は、個々の渦巻銀河の腕の回転の意味を議論し、塵の筋の非対称性から銀河の像の近傍側を特定する問題を解くにおいて最重要の論文は、 ハッブル (1935, 1943) と Mayall による(Hubble and Mayall 1941)。

(5). 重要な論文 Baade and Hubble (1939) においてバーデとハッブルは、Shapley によって 1938年に発表されたいた Sculptor and Fornax 矮小楕円銀河の性質を見付けた。彼らの RR Lyrae 星の発見は、彼の偶然密集概念 (cf. Sandage 1986 参考)の重要な助けとともに Baade によって用意された。


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評価査定

Gamow, Alpher, Herman の 3 K 輻射の発見、電波天文学の発達、星々の年齢日付の方法の発見、大統一された新しい宇宙論の発明の後、1989年という有利な時点 からハッブルの論文を再読して原理的に驚くことは、(1)ハッブルの方法論の性質と、(2) 彼がほとんど議論しないが、宇宙論の数多くの部分を彼が開発したことである。

(1). ハッブルの方法論は、多く帰納法である。ほとんど純粋なベーコン主義者である。彼の通常の手続きは、そこから彼が一般化した広い視野の結論へ到達させるための、 大量のデータ集合を組み合わせであった。それはさらなる進展に連続して適用された。偶然に彼は彼の拡散的星雲の光の源の分析 (Hubble 1922b)、 楕円銀河の平坦化分布の分析 (Hubble 1926b)、楕円銀河の高度の理解のための Emden の重力的分断ガス球体の使用 (Hubble 1930)、そして空間曲率のための銀河計数の 彼の分析(Hubble 1936c Tolmanの形式主義を採った) のように、分析的方法を採ることもあった。 しかし、彼の最も重要な論文、その領域の理解を納得ずくで変えるような論文の中で使われる方法論は、ほとんど純粋なベーコン的な帰納のそれである。 彼の成功、そして彼の現代天文学の中で彼に比べる者、並ぶ者のほとんどない影響に注目すべきであった。

(2).我々が受ける最大の奇妙な印象、それは、赤方偏移の重要性に対する彼のコメントの欠如である。それは、確かに科学の中の最重要な発見のひとつである。 ハッブルが彼の書き物の中でどこにも書かなかった中心的な重要性は、赤方偏移ー距離法則の "形式" の "線形"性 である。この単純な特徴は、標準モデルに とって最も厳しい(*1)。Heckmann (1942)は、線形形式のその特異的な重要性を多分、初めて強調した。

線形の速度場は、ふたつの基本的特性をもつ;(a) 各観測者は、どの優先的な点からも同一の形式と膨張率をみる。(b)座標系の中の全ての点が過去のあるとき、 "一緒"にあったことを許すのは、速度場だけである。"線形形式" の発見は、もしその現象が"宇宙の創造" と何か関連をもつなら、通常、膨張の発見自体と同等 の重要性をもつと見なされる。しかし、彼がその線型性を発見したにも拘わらず、この現れかたにハッブルの書き物の中を探しても何らヒントが得られない。 また、どのように膨張が、現代の宇宙論の書き物では非常に強調されている出来事、"始め" と関係するかの議論も欠如している。 ハッブルが彼の発見にこれらの方法で印象づけられたかどうか、我々は単に知らないのである。

2番目の謎めいた省略は、膨張の比率の数的値の意味の強調の欠如である (すなわち、ハッブル定数)。特異点をもつ膨張モデルでは、ハッブルの比率の逆数は、 そのモデルの年齢に関係する。正確な関数は、減速に依存する。 "創造の出来事"の側面をもつ、我々の扱う赤方偏移現象の信用は、"ハッブル定数"の逆数から 得られる "ハッブル時間"が、他の方法によって決定される "宇宙の年齢"と同じであることを必要とする。我々は、この方法で非常によく話すものであるが、 このハッブルの書き物にはこれが全くないことが、驚きである。

もちろん、ハッブルの時代に 3 つの型の宇宙論的時間スケールがよく知られていなかったことは真実である。(a) ハッブルの時間、 (b) そのもっとも古い星ぼしを通した 我々の銀河の年齢、(c)最古の化学的元素の年齢がある。星ぼしに年齢日付するには、Schönberg-Chandrasekhar (1942) 限界の理解を待たなければならない。 進化する星が Hertzsprung-Russell ダイアグラムの主系列を出発する限界、また、1950 年代初期の星の進化の発展だけからくるある理解である。

化学的元素の年齢は、原理的には 1920年ごろの Rutherford による放射性元素の最初の理解に基づくが、1950年代にもまだ十分詳細がやり尽くされていない。 もちろん、我々の現在までの組織された仕事として 3 つの時間スケールの合意のテストでは、言わば 20 %がハッブル時間に入ることが不可能である。 それにも拘らず、ハッブルがその問題を公に強調せず、というか、それどころか、かれ自身個人的にさえもしないのは、奇妙さを残している。

もちろん、ハッブルの 1930年から 1953年まで距離のスケールのハッブル膨張率の逆数(つまり、ハッブル時間)がたった 20億年だった一方、 1936年にさえ地球が 30億年よりもすこし老いていると信じられていたことによる困難があった。定常宇宙論の発明者達がこの時間スケールの不一致を強調して、 "始まり" と結婚したどの Friedmann モデル (宇宙定数なし) も真ではありえないと指摘することを許した。

ハッブルの影響は、非常に偉大だったので、彼の 1930/1936年の距離スケールの誤りは、彼の時代には問題外であった。不一致は、200 インチパロマー反射鏡が I.S. Bowen の 2 年間の英雄的かつ広く知られていない努力によって、1949年の終りに稼働し始めて後にだけ現れ始めた。Baade は、ハッブルのスケールが修正 されなければならないことを示すデータを得始めた。我々は、現在、そのスケールは、少なくとも 5 倍に、より有りそうなのは、10倍より少し大きな倍数である ことを知っている。しかし、次のことを指摘するのは、公平に違いない。 1950年から 1980年の 200 インチプログラムにおいて、その距離スケールの問題が解かれたとは信じない幾らかの天文学者がいて、ハッブル定数値は、将来の ハッブル宇宙望遠鏡の使用によってだけ、懐疑家を満足させるように決定され得ると示唆していることを。 これによって、想像するに、ハッブルが喜んだかもしれないからである。

アラン・サンディジ、 The Observatories of the Carnegie Institute of Washington, 813 Santa Barbara Street, Pasadena, California 91101, U.S.A.


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参考文献

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訳者注:
(*1) 評価査定の(2)に "この単純な特徴は、標準モデルに最も厳しい" と書いていることに注目すべきである。 ハッブルの赤方偏移と距離の線形の関係は、予想外の範囲まで延びていて、説明が付かないのであろうと推測する。

(*2) (d) 赤方偏移ー距離の関係のなか、 "定常が意味するのは、座標系が拡大しないことである。この状態の数学的表式は、 計量の方程式の中の各空間座標の係数が、時間の関数で "ない" ことである" には補足が必要であろう。de Sutter の宇宙解は、時空の一様性という宇宙原理から導出された解であり、時空間的な一様性において静的解と言われる。 計量の方程式の中の各空間座標の係数 g_11, g_22, g_33 は、じつは時間の関数である。近傍では、確かにほとんど、 時間の関数ではないが、大きな過去と未来には、分母側の (x^4) の影響が存在してくる。この宇宙は、収縮してきて反発し膨張する宇宙である。 また、計量の時間の係数 g_44 は、 Einsten 宇宙の計量の式と違って、時間の関数である。δ_ik との偏差は、 分母に空間の項があって遠方で距離の 2 次に関係する赤方偏移があるだけでなく、分子に時間の項 (x^4)^2 がある。 宇宙論的問題の18章ド・ジッター宇宙参照。

(*3) "それが記述する、空間に置かれた試験粒子には(赤にも青にもなる) 奇妙なスペクトルシフトをもつからである。 これは、空間座標の静的な性質にもかかわらず、時間次元の計量の係数の中のスキャンダラスな "場所依存の要素"による。" というのは、AS の de Sitter 宇宙への奇妙な忌避としか見えない。 "(赤にも青にもなる) 奇妙なスペクトルシフト"は、 事実を確認できない。また、場所依存が "スキャンダラスな" という理由はないし、もしそうなら宇宙膨張は、場所依存の スキャンダラスなスペクトルシフトである。