H0: incredible shrinked constant 戻る


H0: 1925-1975 信じられないほど縮小する定数

"H0: The Incredible Shrinking Constant 1925-1975"
ヴァージニア・トリンブル (Verginia Trimble)
http://adsabs.harvard.edu/abs/1996PASP..108.1073T (訳 片山泰男: 図1,2,3の掲載とその説明の翻訳は省略。)


概要

ハッブル定数の話は、論理的にカーティス(Curtis)とシャプレー(Shapley) の宇宙の距離スケールの議論が終わった所で、ハッブルの セファイド変光星の幾つかの星雲のなかでの発見とともに始まった。それらの星雲を我々は現在、局所群の中の銀河と認識する。 この発見は、外部銀河の存在の事象を確定した。ハッブル自身のHの値は500-550km/s/Mpcの範囲にあった。"ベストバイ"の値段は、1952 年に始まる幾つかの大きな段階のなかで縮小した。それぞれは以前の距離スケールの較正のなかのある基本的な誤りを認識したことを示 している。しかし、それは幾らかの人達には他よりさらに縮小し、1975年までに"長"と"短"の距離スケールには明白な偏在があった。 理論面で重要な出来事は、一般相対論が許す実際殆ど要求するものが膨張宇宙であるという認識、赤方偏移と距離の関係の代替的な説明 の漸次的な消滅、遅れてきた定常宇宙論の形式の襲撃への反発である。その枠組のなかでは、H0はよく定義され、決して変わらない、 中程度の重要性の数である。


1. 理論的支柱

全ての現代宇宙論の議論はアインシュタインの1916年の一般相対論の出版によって始まる。それはすぐにこう言われるだろう、もしGRが、 または少なくとも本質的に同じ古典的限界をもつ何かが、重力の正しい理論でなかったら、そのとき全て賭けを止めて、我々は皆、家に 帰るだろう。彼自身の "一般相対論の宇宙論的含蓄" は、1917年に現れ (Einstein 1917)、そして時空を静的にするために必要だった悪 名高い "宇宙定数" を含めた。アインシュタインが後に悔やんだ追加は、実際に定数が0かどうかではなかった。彼の宇宙は物質の一様な 密度をもち、それが宇宙定数の値と特徴的なサイズのスケールと一意に関係していた。

ウイルヘルム・ド・ジッター(1872-1935)は、多分、慣性の性質に対するマッハの考察によって動機付けられ、アインシュタイン方程式 のもうひとつの解を特定した。それもまた静的で、宇宙定数を含み、完全に物質や放射をもたない空虚である。彼の関係する出版は、 "アインシュタインの重力理論とその天文学的な帰結について" (de Sitter 1916) と "空間の曲率について" (de Sitter 1917) である。 彼の計量(それは5次元ユークリッド空間に組み込まれた4次元空間と等価である)のなかでは時空の座標が混合する。その結果、動く試験 粒子によって放射された光子は、(試験粒子の速度によって常には同符号ではない) ドップラー効果を示す。赤方偏移は支配的であるべきで、 その大きさは大まかに放射粒子への距離の自乗になる。これが 1930年頃以前の科学界に知られる唯一の種類の非静的な振舞であった。 結果、星雲の赤方偏移と距離を関係させる殆どの前エドイン的努力は、最初から2次の関係を探すことによって始まった。アインシュタ イン、ド・ジッター、そして特殊相対論の人達は、静的解の可能性に費し、(Friedmann 1922、彼にはすぐにさらに;Tolman 1929a) と安定解 (Robertson 1929) さえ求めたことを示すことができる。

その間、殆ど自覚されずに、そして、そのとき背後にあっても"誰も文献を読まない"という原理を示して、アレキサンダー・フリードマン (1888-1925)は、"空間の曲率について"と"宇宙の一定の負曲率の可能性について" (Friedmann 1922, 1924) を出版した。前者は、Lang and Gingerich (1979)によって英語で入手可能だが、ここに引用する翻訳は全て、その言葉が現代の独白天文学者へ意味をもつという私自身の 解釈による。鑑定家は、すでにフリードマンが、今日我々が、臨界と開放モデルという(それぞれゼロと負の曲率をもち、永久に膨張する) を描いていることを認識するだろう。

すぐ後に、アッベ・ジョルジュ・ラメトリ(1894-1966)は、"ド・ジッター宇宙についての注意" (Lemaître 1925) を用意して、"一定 質量の増加する半径の一様な宇宙"(Lemaître 1927)、ハッブル後の英語版は "膨張する宇宙" という (Lemaître 1931a)。

1928年には、エドウイン・パウエル・ハッブルのIAUC国際天文連合の銀河委員会、2代目会長ベスト・メルビン・スライファー(彼には より短く) に続いてローマ総会で3代目会長への選出があった。

ハッブルのド・ジッター宇宙の議論の1928年会合での表明は、彼の赤方偏移ー距離の相関の検証のなかで次年又は2年に渡る重要な牽引 力だった。オスターブロック(1993)のハッブル宇宙論への評論による(それはまた、ここに言及する多くの他の事項の元)。挿話だが、 ハッブルは常に好んで星雲といい、シャプレーは銀河を選択した。

ラメトリー(1927)は、アインシュタイン静止宇宙が不安定であることを示した。小さな衝撃がそれを終わることのない膨張 (又は収縮) を 導く。こうして、ド・ジッター型、フリードマン型、又はラメトリ型の宇宙論だけが現実宇宙を記述できた。そして、それらの間の決定が 必然的に観測的基盤上にされなくてはならなかった。ラメトリーはまた、初期のスライファーの速度と彼自身の一種の距離指標とを結合し て、線形の距離ー赤方偏移関係に約 600 kms^-1Mpc^-1 の定数を示唆した。

アーサー・スタンリー・エディントンは、膨張モデルを主流の天文学に紹介するのに鍵の役割を果たしたようだ。1930年の王室天文学会 の会合の議論、彼らの雑誌の論文 ("アインシュタインの球状世界の不安定について" Eddington 1930) によって、そして、1933年には、 本、"膨張する宇宙" (Eddington 1933。後の版と再版は、殆どの大きい大学の図書館で見出される)によって。ラメトリー(1931b)は、 "外銀河星雲の動径速度に対応して、半径を増加する、一定質量の一様な宇宙"でもって、再び騒々しい争いに踏み込んだ。そして、 フリードマンは、若いジョージ・ガモフがペトログラードで彼と学ぼうとする意志をくじいて1925年に37才で亡くなった。こうして、 ガモフが現代宇宙論を遠雷ときく結末の核物理に入ることが強制された!

ウイリアム H.マックリーとジョージ C. マックビティー(1930)は、その観測可能な歴史の殆ど全てで膨張した宇宙の、とりわけ早期の 提案者であった。ヘルマン・ワイル(1930)がそうであったように。ハワード・パーシー・ロバートソン(1928、"相対論的宇宙論"、1935) とアーサー・ゴードン・ウオーカー(1935a,"線分において球状対称性をもつリーマン空間について、そして一般相対性の等方性の条件に ついて")がド・ジッター、フリードマン、ラメトリーに計量を使わせ、それを最も一般的に能力のある、現在もまだ一般に使用される形 式にした。もうひとつの小さな側光は、ロバートソンが1961年の8月にジム・ガンがカルテックで彼と働くために到着した丁度そのとき 亡くなり、彼の意図する研究の強調を変更させたが、フリードマンの死がガモフに目標を変えさせた程ではなかった。


2. 代替への拒絶

我々が相対論的、有限年齢の膨張宇宙に住むことはどれだけ確かで、そのためにハッブル定数を測定することは真に興味あることである だろうか? それなりに長期の生命をずっと保った主要な代替案は、光の疲労、存在した空間への拡張、そして定常であった。ハッブルは、 彼自身、物事は観測的に確定され得るし、されるべきと信じて、最初の可能性を全く拒絶しなかった。(Habble and Tolmann 1935 "星雲 の赤方偏移の性質を研究する2方法")

ハッブルの古典的な論文が図書棚に現れているちょうど同時の1929年に、フリッツ・ツビッキー(1898-1974)は、光が長期の旅のために単 にエネルギーを失って赤方偏移するかもしれないと提案した("星間空間を通したスペクトル線の赤方偏移について" Zwicky 1929)。これを 一般に光の疲労説と呼ぶ。理論的にも観測的にもそれを拒絶する理由がある。最初に、我々は光の振舞に、よい理論 (量子電磁気学)をもつ と考える。疲労光のファインマン図は、和が0になる(Weber and Hinds 1996)。観測の前線では、少なくとも3つのテストが現実に膨張宇宙 を支持している。

これらの最初が、Hubble-Tolman(1935)の表面輝度テストである。彼らは我々が受けるエネルギー(例えば ergs s^-1 cm^-1 sr^-1)が光 疲労では (1+z)^-1、相対論的拡張宇宙では (1+z)^-4 に比例する。私はなぜかを説明しようとしていない(エーレンフェストの定理に よれば、もしあなたが何かを理解できてさえその説明は本当に難しく、もし理解しないなら殆ど不可能である)。もし、勇気あれば、 Sandage(1988)の"定期レビュー" 解説に進まれよ。それは表面輝度と他の幾つかの重要な宇宙測定を説明する。Sandage (1992 私がひど く閉じ込められたもうひとつの元) は、表面輝度は決定的で、(1+z)^-4 依存が見られるという意見である。銀河表面輝度の他の測定は、 それほど確かでない(Djorgovski 1995)。挿話であるが、他方のHubbe-Tolman(1935)テストは、赤方偏移とみかけの輝度の関数としての 銀河個数を含む。無限の回数を数えられるとすることは議論の余地があると主張されてきたが、注意すべきは最近のハッブル深部場の像 のリリースは、計測の再度のラウンドを開始させることである。

ふたつめの、より参考的なテストはリチャード・シェイス・トールマン(1934; この本は私が大学院で唯一の買った本で必要がなかった。 $10して1と2の章がここの幾つかの技術的記述の元)の仕事から導かれる。テストは単純に膨張宇宙のなかの黒体輻射が膨張とともに冷却す るという理解による。この効果もまた議論できることが見られる。(SongaiLa et al. 1994)

3番目のテストは、私にとって最も説得性のあるもので、膨張宇宙のなかで、遠方からみた事象は(1+z)の係数だけ時間遅延するが、一方 光疲労宇宙では、それは単にかすかになるだけである。クエーサーの変光性(等)のなかで、時間スケールと赤方偏移の相関の欠如は、 "非宇宙論的赤方偏移"学校のひとつの証明であってきた。しかし、いま我々は、よりよい遠方の時計をもつ。フリッツ・ツビッキー(1939) とオリンC.ウイルソン(1939)は、ともに、超新星が非常に明るく、むしろ均質で、よい距離指標となるかもしれないことを示している (フォン・デン・バーグとタンマンは、その点で彼らがいかに正しかったかどうかを述べるだろう)。ウイルソンは、もし膨張が現実なら、 それら光のカーブの時間遅れは大きな赤方偏移では観測可能でなければならないと追加的に述べた。これはいま見られる(Perlmutter et al. 1995 それと2ダースの Z= 0.3-0.5 の同じグループで研究された出来事に基づいた非出版のデータ)。

二つめの相対論的時空自体の拡張の代替は、すでに存在する(多分ユークリッド的な)空間のなかへの、ある中心からの運動である。銀河 が初期に広い範囲の速度をもって、しばらく待てば、その効果は、等方的な線形の速度ー距離関係であろう。中心の近くから観測する限 りにおいて。これは、エドワード・アーサー・ミルン(1896-1950)によって "ニュートン的膨張宇宙"(Milne 1934, 1935)の題名で提唱さ れた宇宙論である。同時期、マックリーとミルン(1934)と、アーサー・ゴードン・ウオーカー(1935b、そしておなじだが)"ニュートン的 宇宙と空間の曲率"と"ミルンの運動的系と一般相対論の系の形式的比較について"である。両方の論文は、GRモデルにはニュートン的な 近い類似物が存在することを示した。マックリー(1990)は、ミルン宇宙論について現代的視野を提供した。

この種の描像を拒絶するための最初の理由は、我々はエッジ効果の証拠を絶対的にみないことそして、現在のマイクロウエーブ背景輻射 の非常に小さな値の非等方性が、もっとも非コペクニクス的に拡張の中心の近くでなければならないことである。ミルンの考えは、時間 とともにもっと複雑になり(例、Milne 1948)、そして、最終的にふたつの分離した時間スケール、電磁気的と重力的な過程用のものを含 む。この1940年代の相対的拡張宇宙の年齢(20億年)と最古の地球の岩(3-40億年)の間の食い違いからだけでなく、マックリーはミルンの 学生だったこと、そして、ロバートソンも何かを彼から影響を受けていたことから来ている。

年齢の食い違いに言及すると自然に3つめの代替、定常状態宇宙論がやってくる。そのなかでは、膨張宇宙の平均密度を保つのに丁度よい 速度で新しい物質が現れる。ヘルマン・ボンディ、トーマス・ゴールド(1948 "膨張宇宙の定常状態理論")、そしてフレッド・ホイル (1948、"膨張宇宙への新しいモデル")は、彼らの動機のなかには、同時代のH(約500kms^-1Mpc^-1,1/H は約20億年)の逆数よりも長い宇宙 の時間スケールの必要があった。それは、私が考えるに公平な考えかたである。数多くの天文学者、現代の著作者を含めて、定常状態の 代替は 1948年と1955-65のどこかとの間では真面目にとる。現在まだそれを真面目にとらえる者の数は、非常に少ない。ブラッシュ(1993) は、どのようにこれが起きるかのひとつの見方を用意する。

赤方偏移ー距離、又はハッブル関係は、これらの代替のなかでは全く違った意味をもつ。光疲労宇宙ではそれはよく定義され、多分、量子 場理論を理解する糸口になる。膨張宇宙では、それは意味深くかつ、爆発以来の時間の指標でもある。一方、定常状態のHは、全体としての 宇宙の年齢には何もいわず、ある代表する体積のなかに見出される銀河の平均年齢についてをいうだけである。それに対してもし、アープ の(1989, 例)非宇宙論的赤方偏移が支配すると、Hがよく定義さえされないのに意味だけ与えることになる。

私は全ての代替を "拒絶された" と記述したが、まだ光疲労モデルの支持者がいることを正直に承認せざるを得ない(例、多くの参加者が 会議に参加し、その会報はPeratt 1995によって編集された)。そしてまた、幾らかの修正された形式の定常状態がある(最初、フレッド・ ホイル卿によって、そして長期に渡り、彼に親しく働いた人々によって)。最終的に、Segal(1972)と Segal and Nicoll(1996)は、自乗の "ハッブル"でなく彼らの言葉で"ルンドメルク"関係、赤方偏移と距離の関係を見出すことを続けている。背景にある理論的概念は、明らか に非常に古く(Robb 1936)、私はそれらを理解すると公言しない。自乗関係は、実際に観測的基盤では除外されている。少なくとも何かの 種類の現実の運動がもし含まれるなら(Otto Heckmann の1942年の巻"宇宙の理論"、は今日まで翻訳されていない。私は粗末な試みをずっ と昔にしたが、カルテックの外国語の必要を満たす方法として;参照 サンディジ1992)、


3. 前歴史期ー観測を中心に

ヴェスト・メルビン・スライファー(1875-1969)は、渦巻星雲のドップラーシフトをまさに最初に観測し、そしてまた次の数十個を観測した。 彼の最初は、M31(アンドロメダ星雲)でローウエルの24インチのクラーク反射望遠鏡で 1912年12月3-4日の14時間露出。彼はそれまでに見た 最大の 300kms^-1に近い負の速度を報告した。注意すべきは、これは本物のドップラー速度であって、天の河銀河の回転速度とそのM31との 互いの軌道速度とのベクトル和である。今からみて、言及された殆どのスペクトルシフトは、宇宙論的赤方偏移であり宇宙の膨張を原因とす るもので、それはドップラーシフト(空間を通した運動を原因とする)とは同一ではない。スライファー(1913)は、最初M31のスペクトル図を 巻IIのラッセル等(1927)に再録した。そして人はこういえるだけである。人は吸収線を原画よりも明瞭にすることを望むと! 1914年の8月の エヴァンストンAAS会合時点までにIL、スライファーは、15の速度を得、それらの殆どは正であった。

パーシバル・ローウエルは、スライファーにそれが我々自身の太陽系の形成に洞察を与えることを仮定して M31を研究することを指示した。 しかし、1917年までにスライファーが25の渦巻速度を累積したとき、彼はデータが島宇宙理論を支持するものを用意するという意見をもった。 彼の速度は、-300 から+1100 kms^-1の範囲にあり、正の速度のものが負のものを圧倒して21対4であった。(Slipher 1917, "渦巻銀河のスペ クトル図研究") 彼の最終的な"個人的最大"は、NGC584 の +1800kms^-1 である。よりかすかなより遠方になるにつれて、より赤方偏移した 銀河が増え、スライファーの改良した分光器によってさえ 24インチの望遠鏡の限界を超える。挿話だが、スライファーの兄弟、アールC.スラ イファーもまた天文学者で同時にローウエル天文台で働いていた。彼は木星、土星、他の惑星の優秀な画像を多く記録した。

ミルトン・ラセル・ヒューメイソン(1891-1972) は、次の主要な赤方偏移の収集家で、1927頃 (Humason 1927"ふたつの星雲の動径速度") 彼はすぐにスライファーの記録を2倍以上にし +3779kms^-1 NGC7619 (ヒューメイソン1929)、そして再び2倍 +7800kns^-1 NGC7619(ママ) 髪の毛座銀河団 (Humason and Pease 1929) にした。100 インチ望遠鏡に改良した分光器は 15000kms^-1 (z= 0.05; Humason 1931, 1934, 1936) を通した。ヒューメイソンは、(ハッブルと似ず) 200インチをある程度規則的に使用するために住み、1957年に引退するとき、個人 ベストの v= 60000kms^-1 をうみへび座の銀河に出した。多くの最大の値は多数夜露光により達成され、ヒューメイソンは200インチは z=0.2 を超えられないと感じていた、少なくとも当時の検出器では。彼は、スペクトル図と銀河のイメージをモンタージュして、みかけの直径を距離 の指標にして、ハッブルの法則を絵で示したことに責任がある。それは天文学の紹介教科書の多くの端々でまだ現れる。彼のウイルソン山 天文台への最初の雇用はそのとき車の通れない路上をいく騾馬使いだったことをいわないなら、ヒューメイソンに関するどの言及も不完全 と考えられる。何かの理由で、彼の1950年のランド大学からの博士号 D.Sc. はしばしば光を当てられない。

約2年前まで、私は、ハッブルの1929年の論文のなかの全てまたは殆どの速度は彼自身の露光による乾板によると思っていた。これは全くの間違 いだった。ハッブルが最初にM31のセファイドを見出したことも絶対的には確かでない。ヒューメイソンは、サンディジに1956年に(そしてその後 彼の死までそれに固守した;クリステンソン1995)彼が先に発見し、M31のある乾板に印をしたこと、そして、彼とハーロー・シャプレーはともに ウイルソン山に関係していた、しかし、シャプレーは、"そのとき静かに彼のハンカチを取り出し、乾板を表むけ、ヒューメイソンの付けた印を 拭いきれいにした"。それは少なくとも年代記的に可能である。ヒューメイソンは、1919年に100インチ望遠鏡の (守衛から) 夜の助手にシャプレ ーがハーバードに移る約2年前に昇進していた。

ふたつの重要な半分理論的な考察はこの時期に属する。最初に、エルンスト・ジュリス・エピックは、"比率法"といってよい距離決定("Öpik 1922) を最初に使った。それは、距離の異なる累乗に依存する、ふたつの物理量の比率の正しい数値の知識によるものである。彼は、アンド ロメダ星雲が太陽近傍と同じ明るさ/質量比(0.38 太陽単位)があると仮定した。そしてスライファーのスペクトルが意味する157kms^-1の回転 速度を採って、450kpc の距離を導いた。これは、ヘバー・ダウスト・カーティス、ハーロー・シャプレー、そしてクント・ルンドメルク(1889 -1958) による、1917年と1919年の間に新星と単独の明るい恒星を標準蝋燭として使って、見出された距離(Curtis1917;Shapley1917;Lundmark 1919) の大まかに2倍であった。

次に、グンナー・マルムキスト(1893-1982)が彼のバイアスを言明した。そのアイデアは単純である(Malmquist 1920,1924)。もし、ある種の 天体がその現実の明るさがある範囲に広がるものを研究していていれば、近傍の天体の間で完全な範囲の例をみて、遠方には最も明るいもの だけをみるだろう。そして、もし、これの考慮を失敗すれば、より遠いものを実際よりも近いと考えるだろう。なぜなら、それらは非常に明 るくみえるからである。そのバイアスへの適切な補正は、遠方の天体の明るさの実際の分布を知ることを必要とする。これを先験的に近傍の ものと同じ分布とみなすのは、常には正当化できない仮定である。どの今日の観測的天文学者の多数の集りにも少なくともひとりは、その部 屋の中にマルムキスト効果を理解しない誰か他の人がいると考える人を含むだろう。

スライファーの(殆どの)赤方偏移は、コミュニティーを通して知られ、現実の速度であると認識されるようになっって、幾らかの天文学者 は、それらを空の位置と星雲への距離とに関連つける試みをした。幾らかは、ド・ジッター宇宙の早期の解釈に動機づけられ、幾らかは、 より伝統的な問題、太陽の運動を見出すこと、そして、考え得るどの天文学的な数にも関係する K 補正、に動機づけられた。

どのふたつの2次的資料も、ハッブルの先を走っていた走者の同じリスト、又は各著者が何を示したと思われるかについて、同じ解釈を与 えない。原論文に遡っても予想される程度にしか助けにならない。次のリストは、ほぼ年代順1916年から1928年の、殆どの元の参照が Smith(1982)に見出されるものである:

O.Truman, R. Young, and W. Harper (太陽運動だけ 1916)G. Paddock(距離独立の K 又は赤方偏移項を追加, 1916), Carl Wirtz and Kunt Lundmark (1918-21 K項付きの太陽運動);Gustav Str"omberg, Ludvik Silberstein, A. Dose (1924-26 まだ定数のK); Lundmark (1925 最初の距離依存のK項を許す。線形と2次の両方。); Howard Percy Robertson, Georges Lema^itre, そして連累の Humason (多分 Hubble がヒューメイソンのペンを通して喋った。Osterbrock 1993を見よ。)1926年から1928年の間。

少なくとも、今日、ハッブル定数というものへの、これら明示的な言及、又は数値への暗示の数々があった。Duerbeck and Seitter(1996)は、 これらの数々の実際について、最近の議論を提供している。中でも、より明確に定義したのは Lema^itre からの 625 kms^-1 であり、460 kms^-1 の Robertson、そして(Hubble の直後の)ド・ジッターからの 465、Jan Oort からの 432 と 290 kms^-1 (1931 Smith が挙げていない)。

これらの論文の幾つかは、現代からみると明らかに奇妙に見え、特に、Silberstein は、球状星団の正又は負の速度を含めることを許そうとし、 そして、距離と速度の絶対値(それは速さ!) との相関を探したこと。明らかに彼らは、当時でさえかなり奇妙で、一方、Hubble は、彼の道を 貫くように見えた。非常に甘い理論的思索のなかに耽溺すると思われることを避けるために。

ルンドメルクだけは、自乗の項を含めていた。驚くべきことではなく、彼はひとつのことを発見した。それは、もうひとつの変数パラメータを 含めると常にデータ標本への一致が向上するのである。自乗の項は、負であり、小さく見えた。しかし、それは観測される速度を約3000kms^-1 に制限するようだった。ド・ジッターのモデル(少なくともそのある解釈では)は、距離の関数として速度(又は少なくとも赤方偏移)に正の自乗 の項を予測していた。そして、2次的文献の多くは、これをルンドメルクの発見と思った。


4. セファイドの較正とRRレイリーの距離スケール

(エドウイン)ハッブルとハッブルのキープロジェクトチームの両方は、彼らの数を、脈拍周期の関数としてのセファイド変光星の絶対等級に 究極的に結びつけた。要点を繰り返すと、ヘンリエッタ・スワン・リービットは、デルタ・ケフェイによって要約された急速な上昇と緩やかな 下降の明るさの曲線を示す、小マゼラン雲のなかに見出した変光星の周期と見掛けの明るさとの較正を、初めてプロットした(リービット 1908)。 彼女は、量的関係を4年後に成し遂げ、(Pickering 1912、彼女はどうしてピッカリングの名で出版しているか尋ねてよい!) 26の星ぼしが、 平均線から約半分に散らばっていた。

次の段階は、ひとつの周期をひとつの絶対等級に割り当てることであった。 エジュナー・ヘルツスプルング(Ejnar Hertzsprung 1873-1967)が 最初の切込みをした (Hertzsprung 1913)。測定された固有運動と視線速度をもつ 13個の天の河セファイドを使って、統計的視差法と呼ぶ方法で。 彼の零点、P=1日の仮想的セファイドの絶対等級は、Mv= -0.6 であった。彼はセファイドの言葉を(初めて)一般的に使用し、RR レイリー星は、 その同じ相関の一部ではなかった。その小マゼラン雲(SMC)をリービットの星々に基づき1万pcに置いて、全体として星間の吸収の可能性を無視した。

次にはヘンリー・ノリス・ラッセル(1877-1957)と、ハーロー・シャプレー(1885-1972)がきて、蝕変光星とセファイドの銀河分布を研究した。 彼らは、RR レイリー星が円盤セファイドと同じ母集団の一部でないことに同意し(Russel and Shapley 1914)、(King 1914によってそのとき、 提案されていた) 星間吸収がkpcあたり 2 等級のレベルであることを裏書した。シャプレーは、後にその論文を否認した(セファイドの周期ー 光度関係の歴史の詳細の議論 Fernie 1969を見よ)。

シャプレーのその主題についての最初の個人的発言(Shapley 1918,1919)で、すでに堅く確立していた(ほぼ)1.5等級の較正誤りは、その訂正に 30数年を要した。フェルニーは、元のデータを見て、吸収の無視、少数である統計と貧しいデータ、銀河回転の固有運動への貢献の無視を見出 し、全てをいれた。不幸にも、中央の問題をより大きい、より遠い星々の標本を使った、解決を試むに従って、最初と3番目のものが悪くなる。 シャプレーは、円盤セファイド、球状-クラスタセファイド、そして RR レイリー星を結びつけ、単独の P-L 関係に入れた。球状-クラスタは、 多く、高い視線高度において見られるため、それらはあまり吸収されず、それらのセファイドを円盤セファイドよりも暗くするよう丁度よく 補償されていた。これはもちろん、ジンゲリッチの、"整合性はつねには正しさではない" という諺を示す。

さらにもうひとつの"愚かな整合性"のなかで、ドイク(Doig 1925,1926)は、NGC6087のセファイド S Normae とM25 のなかの U Sgr の見掛けの 光度と周期を使って、スペクトル視差法によって彼が決定したクラスタ距離をチェックした。ほとんどの天文学者コミュニティーが散開星団の なかのセファイドの存在を認識し、ペアリングが有用かもしれないと知るまでに30年たった。同時に、想定された散開星団からのセファイドの 全くの不存在は、注目すべき統計的な異常と考えられた!


5. エドウイン P ハッブル 1925-1936 そしてそれ以降

それらのなかにセファイドが存在することから外部銀河の存在を確立するハッブルの論文は、(ジョエル・ステビンの基礎的仕事とともに)1924 -25 年の AAAS会合でラッセルによって読まれ、慎み深い賞を得た(Berendzen et al. 1976)。デイトン・ミラーの特殊相対論の反証とともに分 け合ってである(Mermin 1996)。ミラーはマイケルソン・モーリー実験を行い、それの間違いを得た。若いトルコ人と年老いた時代遅れの同数の 会員でできた委員会が"会合の最良論文"をそのような妥協に達したことが想像できる! ハッブル(1925, 1926)は、彼の外部銀河セファイドを むしろゆっくりと注意深く出版した。バン・マーネンの渦巻銀河回転との不一致が続いていたからである。(この詳細と膨張以前の事象は、 トリンブル 1995 を見よ。これはSmith 1982 とBrendzen et al. 1976、そして他の2次的源にも長く議論されている。) いずれの場合も、 ニューヨークタイムズ (その、前ウオルター・サリバン期)は、すでに技術的雑誌をスクープし 1924年11月23日に書いている。"E. ハッブル 博士は、渦巻星雲が星系であるという見方を確認した" (題名、イニシャル、複数校正に注意。もはや殆どの新聞のハウススタイルではない!) もうひとつのハッブルのセファイドの早期の出現は、PASP,5,261, 1925 であると、しばしば誤って引用される(例、ボークルールVaucouleurs 1982)。 PASP 5巻は、じつに1893年頃に出ている。多分、短命なアメリカ天文学会誌を意味するが、私はチェックしていない。

これは、1929年1月17日に我々にもたらされ、ハッブルが"外部銀河星雲の間の距離と動径速度の関係"を国立科学アカデミー雑誌(Hubble 1929) に投稿したときである。彼の図は、1100kms^-1 までしか伸びていない。そして、ヒューメイソンが同じ巻の以前の頁に報告(Humason 1929)した +3779kms^-1 のNGC7626を含んでいない。(図中のより遠い点は、彼が示した点を通して引いた線のなかに"目を導く"としばしばいわれるが。) 垂直軸は"速度"とラベルされ、しかし、単位はkmでkms^-1 ではない! そしてX軸は2Mpcまでも伸びている。

ワーツ(Wirts) ルンドメルク(Lundmark)達がそうでなかったときに、なぜハッブルの関係は信じられたか? それは、部分的には人間の作法 (Sandage 1989) であった。しかし、それに加えて、彼が基本的な距離指標にセファイド変光星を選んだことである。これは、我々がすでに 見たように、彼の距離は、ひどくこれから間違うことを意味する。しかしそれらは整合していた。彼は、6つの最も近傍の銀河(SMC, LMC, M31, NGC 6822, 598, そして 5457)のセファイドの変光曲線を得て、それらを使って、どの種類でも最も明るい星は、絶対等級 -6.3 をもつと結論づけた。次に13銀河をこの仮定のもとにプロットし、そして最後の4つは、乙女座銀河団から、銀河が平均 Mv= -15.2 をもつ という仮定に基づいた。

ヒューメイソンのずっと増加する速度は、より広い距離に関係を広げた(Hubble and Humason 1931; Humason 1936; Hubble 1936)。しかし、 その傾きは、伝統的に許される Hubble 1929の値 500+-60kms^-1 の 1σ近辺以上には変化しなかった。1929年の論文は、465,530に言及し、 図は、465と513の線を示す。プロットされた点を検証する現代の目は、ハッブルが結果のランダムエラーについて完全に正直であることを 不可避的に結論する。問題は、ほとんど常に、系統的誤差にある。

彼自身から現代までハッブルについて書かれたものは (ハッブルによって書かれた、又は直接ハッブルに質問されたものを含めて)、注意 をもって信じるべきである。クリスチャンセン(Christiansen 1995)は、古い新聞や学校、大学の記録、町や州、国のアーカイブに遡って より客観的な記録の再構成をした。何の変化も(フランスで第1次世界大戦を終え、多分負傷しなかった、法律を学んだが決して実用されな かった、多数のアスレチックチームにいたが、いつもはスターではなかった。)彼の仕事の天文学上の重大さには軽微な違いも与えない。 絵の記録は、早期と中期のハッブルの背が高く、スポーツマンでスタイルがよく、ホラシオ・アルガー本(完全な割れた顎、彼の妹 Lucy とともに分ける;それは通常、単一の主要な遺伝子に運ばれる) のヒーローに関連するもの、を確認する。彼の印象深い肉体は、しかし、 200インチの望遠鏡が通常の業務に入ってから程ない量的な心臓攻撃 65回目の誕生日を前にした死へのストロークに、対抗する防御を用意 しなかった。ハッブルは、第2次世界大戦の後半を弾道学の教育のアバーディーン性能試験場で費した。クリスチャンセン(1995)は、彼を 仕事上でかなり役立たないように聞こえるようにしたが、そこで彼の元で働いていた Dorrit Hoffleit (グループ内で非常にまれな女性の Ph.D の1人) との対話で私が受けた印象の全てではなかった。

ハッブルは、明らかに科学者社会の政治に魅かれていなかった、アメリカ天文学会(AAS)、アメリカ科学振興協会(AAAS)、シグマχ、多分 その他も会長を何期も勤めたシャプレーとは対比的であった。ハッブルは、国際天文学組合の星雲委員会 (後に星雲と星団、そして、外銀河 星雲、そして今は、銀河) の長を2期選出された。しかし、この関係さえも、全体として幸せなものでなかった。1925年の会合では、 その委員会は、銀河分類のためのハッブルのスキームを、進化との顕著な関連がないものとして評価を落した。そして、彼のクレバーランド の委員会は、彼は、連続しない2期を勤めた唯一の委員長である。今日、IAUは、3年毎に会合し、委員長は各一般会合の終わりに交代する。 早期には、このパターンは規則的でなかった。そのとき(必要なら、年と)選出された会長とGA数は、Bigourdan (設立者)、Slipher (1, 2: 1922, 1925), Hubble (3, 1928), Shapley (4, 5, 6; 1932, 1935, 1938), Hubble (7, 1948), Baade (8, 9; 1952, 1955), Mayall (10, 1958), Lindblad (11), Minkowski (12), McVittie (13), E. M. Burbridge (14), Holmberg (15), Markarian (16), Westerlund (17), V. C. Rubin (18), van der Kruit (19), Tammann (20), Khachikian (21), そして、Trimble (22, 1994) である。ハッブルは、(銀河 分類の不同意に関わらず、)1925年ローマで選出された。後に現れる主人公、Sandage と de Vaucouleur は、1955年に選出され、van den Berghは、1961年、Tammann は1974年である。(そして、私は、1982年に超新星作業部会の復活の議長を兼任した。) それは、これまで 3人 もの女性の委員長をもった唯一のIAU委員会である。


6. 休憩

Sydney van den Bergh と私は、ハッブルの名が様々な項目に最初に堅く付けられるようになるときを見届けるの幾らかの努力をした。 "ハッブル関係"のフレーズは、最初に Tolman (1929b)に現れ、"ハッブルの法則"は、すぐ後(Milne 1933)である。ハッブル(1929)自身が K と呼ぶ数を "ハッブル係数" と最初にいうのは、(Haas 1938) であり、"ハッブルの膨張定数α"は、(Behr 1951) である。英語で等価 な"ハッブル定数"は、1952年 (Bondi 1952) である。Robertson (1955) は、初めてシンボル H を使用したようである。 ハッブルとバーデの H の間の期間の最重要な進歩は、光の星間吸収の一般的な認識、銀河平面内でのキロパーセクあたり約1等級レベルは、 広く広がる重要な現象であった。個々の暗黒雲での吸収は、Herschel の時代又はそれ以前から知られていたにも関わらず、一般的な吸収 の可能性は、10年議論され、信用は正しくRobert J. Trumpler (1886-1956)に渡された。彼は、見掛けの角直径に対する見掛けの等級を 多くの散開星団についてプロットした(Trumpler 1930)。その関係は、近傍の星団について直線であったが、しかし、すぐに曲線で下降し、 見掛けの等級による意味される距離は、余りに大きいことを示した。星団は、部分的には遠いために弱くみえるが、また、部分的には、 それらの光が吸収されるために暗くなる。

星間の吸収は、セファイドの周期ー光度関係にほとんど直にと期待されるようには、結合されなかった。ほとんどの名がまだ有名な、 何10もの天文学者が、次の20年を1歩を先に進め、2歩を後退した(Fernie 1969 が年代記化した)。前進なかでは、Boris Gerasimovich (1888-1937) に注目するだろう。彼の円盤セファイド距離スケールと、他の人々の RR レイリー主要なスケールの間の違いが吸収の 結果かもしれないと考えた (Gerasimovich 1934)が、それに対して何もしなかった。(歴史は、彼に十分な時間を許さなかった。) Boris Kukarkin (1949) は、古典的セファイドとRRレイリーをしっかりと分離したが、また、大規模なスケールへの帰結を開発しなかった。 最良の方向つけは、Mineur である(違った年の引用がされるが、私の見たコピーでは 1945 年 3 月に投稿され、1946年に出版されている)。

彼は、スクラッチから始め、星間吸収の可能性を入れて、銀河円盤内で 約1等級/kpc を結論した。そして、セファイド零点が1.0-1.1等級 だけ明るい方に移動されるべきであるといった。彼もセファイド再較正の宇宙論的帰結を開発しなかったが、彼のハッブル定数は、約325kms^-1 であったろう。

ルンドメルクは、我々の舞台に一度現れている。しっかりと、M31には何か間違いがあって、なぜならその新星と球状星団に基づく距離は、 もし、それらの明るさが天の河銀河の例と等しいなら、シャプレー較正の意味する距離より、2倍の係数だけ大きい(Lundmark 1946, 1948, 1950; この最後の報告は1948年のZurich IAU。)

近傍の銀河団の外には、もうひとつ独立な係数2が潜伏していて、Behr (1951) によって最初に認識された。彼は、クラスタ内で最も明るい銀河 に固定の絶対等級を仮定すると、不可避的に、より遠方を望むにしたがって、見掛けの距離が実際の距離より小さくなることを発見した。これは Malmquist バイアス(そこでは平均銀河光度を一定と仮定すると誤る)の再発見ではない。そうでなく、それは、現在Scott 効果と呼ぶ、人間的な 発見方法である。 Elizabeth L. Scott(1956, 会合用の概要拡張)によって開拓的な議論がなされた。要点は、次のようなものである。銀河のク ラスタを知るために、ある数の銀河をみることができる必要がある。距離が増加すればするほど、クラスタは、認識できるためには十分明るい銀 河をもつ、ますます豊かなものになる。そして最終的に、どの近くの局所標本よりも豊かなクラスタを得て、それらはまれな、較正するデータの ないほどの超光度銀河を含むようになる。Behr の議論は、何らのセファイド再較正なしに、240 kms^-1 近くのハッブル定数を意味した。

同じ時間フレームのなかに、古い"長-短"の不一致が解かれようとしていた。それは、距離にではなく、時間スケールに属していて、多くは、 James Jeans 卿(1929 例)の欠陥であった。Ussher大司教の時代から19世紀を通して、世界は急速に年をとって来ていた。Jeans はこれを天体 力学の考察に極端に持ってきた。彼の時間スケールは、星団と楕円銀河が、2体の接近遭遇だけによって、解放される試みからきていた。 初期には円軌道から、離心的なものに2体の接近遭遇だけによって、変わる(全く我々現代の2体軌道進化の逆である。) 彼は、また古い Russell の星の進化の"巨星と矮星"理論を仮定した。そこでは、星々は (あり得べき、陽子と電子の)全滅を通して、早期から 晩期型に質量を失い、主系列を進化し下る。彼の時間スケールは、全て5x10^12年近くであり、彼は全ての星雲がその歳であり、そして、宇宙 全体が10^12-13年昔の瞬間に創造されたことに反論するものを見なかった。

その間に、地球の岩の放射能と星の進化の代替シナリオは、10^9-10 年(注目すべきEddington 1926を見よ)の範囲の数をもたらす。大きな ハッブル定数をもつ宇宙膨張は、自然と時間スケールのバランスのなかの短い側に重み付ける。1935年会合で PASP, Vol. 47, に報告された 主題は、Tolman (p.202) がこの点をなし、Robley and Evans (p.199) と Beno Gutenberg (不連続に p.200) は、地球上の岩、隕石、月の 軌道をみて、太陽系が約5Gyr歳より大きくはないと結論した。そして、Gerard Kuiper (p.201) は、Jeans が何を間違ってしまったと彼が思う かを説明した。Jeans は、すぐには説得されず、後の本で "長い" 時間スケールを唱道し続けたが、1946年の彼の死の少し前、彼は心を変えた (Hufbauer 1994)。

1933年の早期に、Eddington は、天の河銀河が、真に他の全ての渦巻銀河よりもずっと大きいことに疑いを表明した。1925-1951年の距離スケ ールの場合と同様である。彼は、疑いを張らすにあたり、もはや、こういうことしかできないが "私はそういった" と。


7. ローマ 1952年

パロマー山に200インチ(5m, ヘール)望遠鏡を建設する契約は、1928年にサインされ、20年後 (幾らかの不確かな長さの面倒な性能テストの後) に最初の有効な光子が集められた。全ての専門家は、200インチは、M31に快適にRR レイリー変光星の像を結ぶと予測していた。シャプレーの 較正は、M31を22.4等級の距離モジュールにいて、それは、275-300kpc の距離に対応する、幾らかの光の吸収の裕度をもっていた。RR レイリー は、そのとき Mpg を0近くにもっていたが、m_pg= 22.4 かそこらで現れるべきだった。それらは現れなかった。Walter Baade (1893-1960) が IAU ローマの一般会合(GA)で報告したとき、非常に明るい集団II星だけー赤色巨星の枝の先端ーは限界露光において見えた。

天の河の球状星団のなかで RR レイリーは、赤色巨星先端よりも 1.5 等級弱かった。そうして、シャプレーの較正は、同じ量だけ誤っていな ければならなかった。バーデは、含蓄するものをハッブル定数の変更でなく、宇宙年齢の1.8から3.6x10^9年への増加として記述した。

確認は、すでに手のうちにあった。南アフリカのラドクリフ天文台で働いていた、アンドリュー・デイビッド・サッカリーは、小マゼラン雲 (SMC)に 3つのRRレイリー星を発見し、同じローマIAUに報告した。それらも、シャプレー較正によって予測されるものより1.5等級暗かった。 大マゼラン雲(LMC)のRRレイリー星は次の年に続いた(Thackeray and Andriaan Jan Wesselink 1953)。 SMCの RR レイリー変光星は、シャプレーによって、実際にずっと前に報告されていた。彼の与えた周期は全て誤っていた(2-4倍短かった)。 そして、そのどれもが実際は、RRレイリー星ではなかった(Smith 1982, p123)。ローマIAUの議事録は、Oosterhoff (1954) によって編集され バーデは、彼の話を Bruce Medal Address (Baade 1956) に話した。

一度、シャプレーが間違っていただろうことは、公に安全に受け入られたことで、セファイドの距離スケールの再較正は、兎と羊の両方の何か をもったスタイルで何倍かされた。Fernie (1969) は、1953年から1959年までの 19 のそのような努力を報告し、そして、リストは多分完全で なかった。面白いことに、再較正のひとつはシャプレー自身からであった(Shapley and McKibben Nail 1954)。 Gerard Henri de Vaoucouleurs (1918-1995) は、最初にこの時期に外部銀河にいれ、マゼラン雲を平均距離 52kpc (de Vaucouleur 1955) に置いた。


8. さらに下方修正版

セファイドの再較正の仕事は、現在まで続いている(もちろん、HSTのキープロジェクトを含めて)が、他の考察からきたハッブル定数のなかの次 の主な変化は、アラン・サンディジ(Allan Sandage)の名に大きく付随するものである。サンディジは、カルフォルニア工科大学から Ph.D. を 受けた。同年1953年、ハッブルがその助手、彼が亡くした年である。我々全ては、サンディジのミドルネームのイニシャルがR.(Rex)であること を知っていて、そして彼の論文を引用するとき永遠にそれを差し込む。彼自身はかつてほとんどそれを使わないから、莫大な数の他の A. Sandage ではないものがあり、彼が疑いもなくそれを区別する必要を感じるようにである。もしこの正しさを疑うなら、大きな電話帳のどれかをチェック なさい;サンディジ、デ・バウクーラ、タンマン、バン・デン・バーグ、そしてスライファーは、完全にオレンジ村に知られない。しかし、2つの ハッブル、2インチのトリンブルがある。

ヒューメイソン、ニコラス・メイオール、そして、サンディジ (1956) は、次の地程標を作った。彼らの大部の論文は、星雲の等級と赤方偏移の 正確な決定を主に取り扱う。しかし飛ばして補遺には、ハッブル定数の推定がある。それは、ハッブルに採用されたそれらとは重大に異なる幾つか の一里塚に休憩する。最も輝く単独星は、Mpg= -8.5 (M31とM33の例を基準にそれらの多くはハッブルーサンディジ変数)に、クラスタ中の最輝銀河 は、M31 に等しく設定され、Mpg= -19.92 にある。これは、乙女座クラスタを外に移動し、距離モジュール (m-M)=29。それは、クラスタ平均速度 の1136kms^-1 と組み合わせて、ハッブル定数 180 kms^-1 Mpc^-1 をもたらす。彼らは、これが主要なエラーが 0.2-0.3 の統計的と仮定するとき 20%以内で正しいと信じた。

2年後、ルールは、再度変更された。その天体が点光源かファジーかは、古代の議論の話題になった(最近では、HSTの準星の観測がある!)。ハッブル は、これらの幾つかについても誤っていた。Sandage (1958) は、彼の幾つかの乙女座以遠銀河の"最輝星"が、実際に全体 H II 領域でそれらが中央 の星を明るくしていることを指摘した。こうして、それらは以前の推測よりずっと明るくなった。これは、それらのいる銀河を外側に2-3の倍率移動 させる。サンディジは、H= 75 km s^-1 Mpc^-1 を提案した。それは係数を2以内にする。私は、これが最後の完全にー反論のないーそして正直なー 値の出版であったと信じる。それは、全ての側の急速な誤差バーの収縮のお陰である。

幾つかの数の天文学者がこの期間に、100と200 km s^-1 Mpc^-1 との間の値への好みを表した(ときには、全く基づく新しいデータなしに)。これら は、McVittie (1959) は143-227を弁護。Sersic (1960) の 125+-5 の推奨。Holmberg (1958) は 134+-6 を好む。Ambertsumyan IAU の ex cathedra 招待講演 (1961) で、70-100 km s^-1 Mpc^-1の範囲に与すると話した。バン・デン・バーグの (1960a,b) 最初の2つの較正の出版は、100+20-17 と、 120+25-20 であった。De Vaucouleurs (1964) は最初にハッブル定数の舞台に現れ、乙女座方向 H= 100、他は 120 という乙女座に関する非対称に よって注意を引いた。これは、乙女座中心への落ちこみ(彼はそう呼ばなかったが) 250-300 kms^-1 Mpx^-1 (ママ)に対応している。


9. 戦線激化

IAU のシンポジューム 15 は、1961年に、(バークレー一般会合と連合で、)外部銀河研究問題(McVittie 1962)に集中した。Sandage (1962) は、彼 自身の 75 と82+-18 (H II領域から) van den Bergh, Sersic そして Holmberg が見出した上記の値を平均することによって、同意値に到達するこ とを試みた。不幸にも、彼は、彼らが出版した値を用いず、彼自身のそれらの局所群セファイド距離スケールへの再正規化を使い、それが約半分の 実際の広がり(又は、見方によっては不一致)を消し去った。これは、多分、人々、それゆえ再正規化された人々の協調ではなく、一桁かふた桁の、 非常に広い拡散から H= 100 kms^-1 Mpc^-1 の選択の結果であった。残した不確かさの便利な隠蔽に、h= H/100 のパラメータがよい感じのその短期 間に持ち上がった。Sersic (1962) はすでに、ハッブル定数が 100kms^-1 Mpc^-1 近くか少し超えるかで球状星団の年齢の問題に巻き込まれること を意識している。

Kuiper の大要(Sandage et al. 1975)の巻10の時代までには、ふたつの分離した宇宙的距離のレビューをもつ必要があった。Van den Bergh (1975, しかし、実際には1969年の9月著述)は、95+15-12 であり、一方、Sandage (1975, 1972年8月著述)は、55+-5 を主張した。そして、彼はそのとき 以降、42+-11 (Sandage 1988) までに下がっている。

我々が現代に入るとともに、Sandage と Tammann のシリーズ "ハッブル定数をめざすステップ" (Sandage and Tammann 1976)は、20年過去をカバー するが、距離スケールと年齢の問題の様々な側面をとらえる、より多くの論文が続き、つねに、50-55 kms^-1 Mpc^-1 の近くの数を見出している。 ボークルール De Vaucouleurs (1979) は、彼の次の攻撃を100+-10 で終えた。彼は、(比喩:棍棒をもって)強く弁護し、Sosies は、再びほとんど 直後にハッブル定数 87.3+-1.1(de Vaucouleur 1993) につぐ高い権威の命令の上にうち負かした。悲しいことに、私が聞いたこれについての、 彼の最後の言葉は、誠実さに応じた怒りであったが、レビュー論評(Trimble and Leonard 1994)のなか、軽薄なフレーズに注意。Van de Bergh は、 最近、ハッブル定数の面白いほど広い範囲を出版したが、"結局、入手可能な証拠は、H0>= 75 km/sec/Mpc を示唆する"(Van den Bergh 1994)という 意見を述べている。

ハッブル定数のトリンブル値はあるのか? そう、イエス。ある種の。しかし、それは最大限、望むらくは薄めて(wishy-washy)。私はつねに入門クラス から始め、宇宙論と初期宇宙の公的対話には、"100と200億年前に"という。そして、より進んだクラスには全てを計算して、様々な力のなかに全ての 不幸を隠す、(幸運は通常正しいものだ) h を使う。私は、正しい値は、多分、50 +40-30 km s^-1 Mpc^-1 の範囲にあると思う。しかし、白状すれば、 私の議論、33にあるハッブルメーター をみるように永久リンクを張っている。

証明のために追加注意:Albert E. Whitfordのファースト名とイニシャルが前のCurtis-Shapley 再登場(PASP,107, 1133)から私の論文で正しくな かった。彼とそのために混乱した読者にお詫びする。