幾何学と経験

Geometry and experience
アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)
訳 片山泰男(Yasuo Katayama)
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ベルリンのプロシアン科学アカデミーでの 1921 年 1 月 27 日の講演。 1922 年 G.B. Jeffery, D.Sc W. Perret, Ph.D. の翻訳で E.P. Dutton 出版 N.Y.によって出版。 1983 年に無省略、無修正で、Dover 出版から再版された、"相対論への側光" (Sidelight on relativity) 収録の "Geometry and experience" の翻訳である。


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数学が他の科学の上に特別な尊敬を享受する一つの理由は、 その法則が絶対的に確かであり論争の余地がないことである。 一方、その他の科学の法則は、ある程度反論可能であり、 常に新しく発見された事実によって放擲される危険のなかにいる。

これにもかかわらず、科学の他の部門の研究者は、もし数学の法則が我々の単なる想像力の対象に関与し、 現実性の対象に関与しないなら数学者を羨む必要はない。 なぜかなら、もし彼らが基本的法則(公理)と、さらにそこから他の法則を演繹する方法にすでに同意すれば、 異なる人が同じ論理的結論に到達すべきことは、驚きを惹起しえないからである。

しかし、数学の高い評判にはもう一つ理由があって、数学は、厳密な自然科学に対して、 それなしに決して達成できないある確かな安全性の測度を与えるからである。


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この点で、全ての年代で激しく心に尋ねるある謎が姿を表す。 数学という、結局経験から独立した人間思考の産物であるものが、 現実性の対象に称賛すべきほど適切であるのは、どのようにあり得るのか。 それならば、人間の合理性は、経験なしに単に思考をすることによって、 現実のものの特性を忖度できるのだろうか。

私の意見では、この問いに対する答えはつまりこれである:
数学の法則が現実性に係わる限り、確かさはない。それらが確かである限り、現実には係わらない。 物事のこの状態について完全な明確さは、数学論理とか、"公理論(Axiomatics)" という名で知られる 数学の新しい分野を通して初めて共通の財産になったと、私には思える。 公理論によって達成された進歩は、 それが論理的形式をその目的又は意図する内容から適切に分離したことにあり、 公理論に従えば、論理的形式だけが数学の対象物を形成し、 数学は、論理形式に付随する意図とか他の内容には関係しない。


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この観点から、なにか幾何学の公理を暫し考察しよう。 例えば、空間に二点を通る直線はつねに一つあり一つだけに限るという、 この公理は、古い感覚と現代的な感覚でどのように解釈されるだろうか。

より古い解釈:--- 直線がどういうものか、点がなにかは誰もが知っている。 この知識が人間精神のある能力から湧き出したのか、経験から来たか、両者の共同から来たか、 他の源からかは、数学者の決することではない。 かれは哲学者にその問いを残す。全ての数学に先だつこの知識を基盤として、 上述の公理は、全ての他の公理と同じく自明であり、 それは、この "a prior アプリオリ(先験的)" な知識の部分の表現である。

より現代的な解釈:--- 幾何学は、直線、点などの言葉が示す実体を扱う。 これらの実体は、いずれの知識、直観をなにも当然とせず、公理の有効性だけを前提とする。 上述の例のように純粋に形式的意味で採られ、全ての直観又は経験の内容を失っている。 これらの公理は、人間精神による自由な創造物である。 幾何学の他の全ての定理は、(名目的意味だけで採用されるべきである)公理からの論理的推論である。 幾何学の扱う素材は、最初に公理系によって定義される。 シュリック(Schlick) は、彼の認識論の本のなかで、非常に適切に公理系を "内包的定義(implicit definitions)"として性格付けた。


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現代の公理論によって弁護される、この公理系に対する見方は、全ての外来的要素を排除し、 そして数学の原理をそれまで取り囲んでいた秘密の不明瞭、難題を追い出した。 しかしこのように明確にされたその原理の提示は、そのような数学が感覚的又は現実的実体について、 なにも叙述できないということもまた明白にした。 公理論的幾何学のなかでは、"点"、"直線"などの言葉は、空虚な概念的な構造だけを代表する。 それらに実質を与えるものは、数学には関係しない。

しかし一方では、数学一般とくに幾何学は、現実の物事個々の関係について、 なにかを学ぶことを感じられる必要に、その存在を負っていることは、確かである。 幾何学という言葉自体、それは勿論、測地を意味するが、これを証明している。 測地にとっては、いちいちに関する、なにか自然の物体の配置の可能性をもって、 すなわち、地球の部分、測地線、測地区などを使って、行わなくてはならない。 我々が "実際的に硬い" 剛体という、この種の現実の物体の関係について、 公理論の概念系だけでは、なにも主張できないことは明らかである。 そのような主張をできるためには幾何学は、 経験の現実物と公理論的幾何学の空虚な概念的枠組との同格化によって、 単なる論理形式的な性格を脱ぎ捨てなければならない。 これを達成するために、我々は、次の命題を付け加わえることだけを必要とする:--- 固体の物体は、可能な変位の点において、三次元ユークリッド幾何学のなかの物体がそうであるように (幾何学に)関係する。 そのとき、ユークリッドの定理は、実際的剛体の関係性としての肯定性を含むのである。


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そのように完成された幾何学は、明らかに自然科学であり、事実それは物理の最古の分野とみなしてもよい。 その確認は、本質的に経験からの誘導にあり、論理的推論だけからではない。 我々は、この完成された幾何学を"実際的幾何学"と呼ぶだろう、 そして"純粋公理論的幾何学" の後継物と区別するべきである。 この宇宙の実際的幾何学が、ユークリッド的かどうかは、明確な意味をもち、 その答えは、経験だけによって具備されうる。物理の実際的幾何学のこの意味の線形性測定は、 測地的であり、かつ天文学的線形性測定である。 光が直線的に伝播するという経験的法則の助けを思い起こせば、 それは、実際的幾何学の意味でも実に直線的である。

今述べた幾何学的見方へ、私は特別な重要性を付け加える。それは、それなしでは相対性の理論 を定式化することができなかったであろうからである。 それなしでは、次の思索も不可能であった:---慣性系に相対的に回転する参照系のなかでは、 剛体の変位の法則も、ローレンツ短縮のためにユークリッド幾何学の法則には対応しない。 そのように、もし我々が非慣性系を許容するなら、ユークリッド幾何学を廃棄しなければならない。 もし上述の解釈が里程標として助けてくれなければ、一般共変方程式に移行する決定的な段階は、 多分採られなかっただろう。

もし我々が公理論的ユークリッド幾何学の物体と現実の実際的剛体との間の関係を否定するなら、 すぐに次のような見方に到達する。それは、あの鋭敏で深遠な思考者、ポアンカレ(H. Poincare) によって熟慮されたものである:---ユークリッド幾何学は、他の多くの想像できる公理論的幾何学 の上にその単純性によって区別される。公理論的幾何学自体は、経験される現実になにも主張できず、 物理法則と結合してのみそれは可能である。 そして、可能だし、現実性の性質がなんであれ、合理的である。ユークリッド幾何学を保持することは。 なぜなら、もし理論と経験の間の双克がそれら自身、明白であるなら、我々はむしろ物理法則の変更 を決めるべきで、公理論的ユークリッド幾何学を変えようとすべきでないからである。


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もし我々が、実際的剛体と幾何学の関係を否定するなら、我々がユークリッド幾何学を最も単純であるから と保持する習慣から我々を容易には自ら解放させないだろう。実際的剛体と幾何学の本体の同等性が、 ---それは即座に自ら示唆的であるのに、---どうしてポアンカレやその他の研究者達によって否定されたか。 それは単に、現実の固体もその性質はよく観察すれば剛体ではないからと、 なぜなら、それらの幾何学的行動、すなわち、相対的変位の可能性は、温度や外力に依存するからと。 そのように元々の幾何学と物理的現実性の直接の関係は、壊されているようにみえ、我々は、次の より一般的な見方に強制されるのを感じる。それは、ポアンカレの立場を特徴付けるものである。

幾何学(G)(geometry)は、現実物についてなにも叙述しない。しかし、幾何学と物理法則の意味(P) (purport)を一緒にしたものだけがそれをできる。シンボルを使えば、(G)+(P)の和だけが経験の制御の対象 であるといってよい。そのように、(G) は任意に選べ、(P)の部分もそうである。すべてこれらの法則は、 伝統的である。(G)と(P)の全体が経験と調和するように、矛盾を回避するために必要な全てのことは、 (P)の残余を選択することである。 この方法で観照されると、公理論的幾何学と、伝統的な状態を与えられた自然法則の一部は、 認識論的に同等な姿をとる。


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永遠の景観の下では(Sub specie aeterni)、ポアンカレは、私の意見では、正しい。 物差しのアイデアと、相対性の理論のなかでそれと座標系をなす時計のアイデアとは、 現実世界のなかにそれらの正確な対応物を見出さない。また、固体と時計は、物理の壮大な概念構築 のなかで還元できない要素の役割を果たすわけではなく、理論物理のなかで独立した役割を果たさない それらの複合的構造が果たすこともまた明確である。しかし、理論物理の開発の現在の段階において、 これらのアイデアが未だに独立なアイデアとして雇われなければならないというのは、 私の悔悟するところである。なぜなら我々はまだ、固体と時計の理論的な正確な構成ができるための、 理論的原理のそのような確かな知識の所有からは程遠くにいるからである。

さらには、自然のなかには、理想的な剛体といえるものがなく、また、そのために、剛体と叙述される 特性は物理的現実に適用されない、という反論に関して。---この反論は、早急な実験から現れるかもしれ ないものほど根底的では決してない。なぜなら、測定棒の物理的状態を、それの他の測定体に対する相対的 行動が、"剛体" への代替を許すのに十分に曖昧さから離れているほど精度よく決定することは、 難しい仕事ではないからである。 剛体についての声明が言及されなくてはならないのは、この種の測定体についてである。


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全ての実際的幾何学は、経験へ到達可能で、我々が今にも現実化してみるだろう、という原理を基盤にする。 我々は、それを呼び起こしてみよう。実際的な剛体の上に記された二つの境界に挟まれた、管である。 我々は、それぞれその上に管が記された二つの実際的な剛体を想像する。これらの二つの管は、 その一つの管の境界たちをもうひとつの管のそれらに持って来て永久的に一致するなら、 "互いに等しい"という。いま我々は、次のことを仮定する: 

もし二つの管が一度どこかで等しいなら、常にどこでも等しい。

ユークリッドの実際的幾何学だけでなく、その最も近い一般化、リーマンの実際的幾何学、 それと共に一般相対論もこの仮定の上にある。実験的な理由で、この仮定を保証するために私はひとつ 言及しよう。真空中の光の伝播の現象は、ひとつの管を指定する。 すなわち、光の適切な経路、そして逆に、それぞれの局所時間の経過。 それゆえ、管についての上述の仮定は、相対論の時計の時刻の経過についても、 よく保たれなければならないことになる。 従って次のように定式化される:--- もし二つの理想的な時計が一度どこかで、同じ速度で進んでいるなら、(そのときは、互いに直近に接近させる) それらは常に同じ速度で進む、どこで、いつそれらが再び互いに一つの場所で比較されても、である。 もしこの法則が現実の時計で有効でないなら、同じ化学的要素の別々の原子の固有の周波数も 経験が示すような正確な一致をすることはないだろう。鋭いスペクトル線の存在は、 実際的幾何学の上述の原理を確信させる実験的証拠である。 これが実際、四次元時空連続体のリーマンの感覚での測定 (mensuration) の意味についていうことを 可能にする究極的な基礎である。


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この連続体の構造がユークリッド的か、リーマンの一般スキームに従っているか、そうでなければ、それが ここで弁護している見方に従っているかという問いは、適切にいえば、経験的に答えられなければならない 物理的な問いである。実際的な基盤で選択されるべき単なる慣習の問いではない。 リーマン幾何学は、まさに、その実際的剛体の変位の法則が、ユークリッド幾何の物体に、考慮の下にある 時空部分の大きさを縮小すればするほど、それに比例する精度をもって変換可能であるものだろう。

この提案された幾何学の物理的解釈を、それを分子オーダーより小さい空間にすぐさま適用するなら失敗 することは、真実である。しかしそれにもかかわらず、素粒子の構成についての問いのなかにさえ、 その重要性の部分は保存している。なぜなら、物質を構成する電気的要素粒子を記述する問いであるとき でさえ、まだその試みは、分子と比較すれば大きい物体の幾何学的行動を記述する目的のために、 物理的に定義された場の多くのアイデアの、物理的重要性に帰されるべきとしてよい。 その成功のみが、そのような試みの正当性について決定できる。それらの物理的定義の領域の外側で、 リーマン幾何の基本的原理に物理的現実性を仮定するような試みは。この外挿が、温度のアイデアを分子 の一部分の大きさのオーダーへ外挿することと比較して、この外挿がよりよい保証をもたないということ が恐らく明らかになるかもしれない。

実際的幾何学のアイデアの宇宙空間の大きさのオーダーへのの拡張は、それほど問題ではないようである。 その空間的距離が大きくなるに従って、固体の棒で成り立つ構成は理想の剛体から離れて行くという反論 がもちろんあるかもしれない。しかし、この反論を基本的に重大とみることは殆んどできえないと、 私は考える。

それゆえ、宇宙が空間的に有限か否かは、実際的幾何学の意味で決定的に含蓄のある問いであると、 私には思える。 この問いが天文学によってほどなく答えられるだろうことを、私は不可能と考えることすらできない。 この点について一般相対論が教えることを、心に呼び起こしてみよう。それは、二つの可能性を提案する。


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1. 宇宙は、空間的に無限である。 これは、星ぼしに濃縮している宇宙空間の物質の空間的密度が消えるとき、 すなわち、星ぼしの全体質量のその散りばめられた空間の大きさに対する比率が、 考慮する空間が大きくなるにつれて、どこまでも値ゼロに近似する場合だけ、可能である。

2. 宇宙は、空間的に有限である。これは、宇宙空間の重さのある物質の平均密度がゼロと異なる場合、 そうでなくてはならない。平均密度が小さくなるにつれて、宇宙空間の体積は大きくなる。

私は、有限宇宙の仮説のための、ある理論的議論を挙げることが可能であることを、言及しそこなっては ならない。一般相対論は、与えられた物体の慣性は、それに近接する重さのある物質が増えれば増加する ことを教える。そのように、ニュートン以来の物体間の作用反作用の重力が完全になくなるときには、 物体と宇宙の他の物体との作用反作用の慣性の全体的な効果がなくなると思うのは自然である。

一般相対論の方程式から、例えばマッハが要求した、この物質間の相互作用の慣性の全体的な減少は、 宇宙が空間的に有限であるときに限り、可能であることが推論される。


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多くの物理学者、天文学者には、この議論は印象を与えない。自然において二つの可能性のどちらが実現 されているかは、経験だけが最終的に決定できる。経験は、その答えをどのように備えるだろうか?。 我々の知覚が到達できる宇宙の一部の観測によって、物質の平均密度を決定することが可能と最初は思える かもしれない。その希望は幻想である。目に見える星の分布は、極端に不規則で、宇宙の星の物質の平均 密度を、例えば銀河系のなかの平均密度と等しいと考える冒険は、決してしてはならない。 いずれにせよ、どれほど調べる空間が大きくなったとしても、その空間を越えてもはや星はないと確信を 感じることはできない。だから、平均密度を推定することは不可能にみえる。

しかし、より実施可能に私にはみえる、別の方法がある。それはまた大きな困難を与えるが。 なぜなら、経験に到達可能な一般相対論の帰結によって示される偏差を我々が尋ねるなら、 これらがニュートン理論の帰結と比較されるとき、我々はまず最初に、重力物体の近くで示される偏差、 惑星、水星の場合で確認された偏差を見出す。 しかしもし、宇宙が空間的に有限であるなら、ニュートン理論からの二番目の偏差があり、ニュートン 理論の言葉で、次のように表現できる: 重力場はその本性から、それが生み出されるのは、重さのある 質量からだけでなく、空間全体に均一に分布する符号が負の質量密度にもよっているということである。 この人為的な質量密度は、恐ろしく小さくなければならないだろうから、それは、非常に大きな広さの 重力系においてだけその存在を感じさせることができるだろう。


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我々が、仮に銀河系中の星ぼしの質量だけでなく、その統計的な分布を知ったと仮定する。 そのとき、ニュートンの法則によって、重力場と、星ぼしが持たなくてはならない平均速度が、計算できる。 それは、星ぼしの互いの引力によって銀河が崩壊すべきでなく、その実際の大きさを保持すべきであるから である。

そこでもし、星ぼしの実際の速度、それは、勿論、測定可能であるが、それが計算上の速度より小さいなら、 大きな距離における実際の引力がニュートンの法則よりも小さいことの証明をもったことになる。 そのような偏差から間接的に宇宙が有限であることが立証される。 その空間的大きさを推定することさえ可能であろう。

有限でかつ境界をもたない三次元的な宇宙を思い描くことが我々に可能だろうか。

この質問への通常の答えは、"否"である。しかしそれは正しい答えではない。次に示す注意点の目的は、 その答えが"肯"であるべきことを示すことである。有限宇宙の理論をすぐに慣れるなにか訓練によって 精神的なイメージによって、異常な困難なしに思い描くことができることを示したい。


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最初は、認識論的本性の観察である。そのような幾何物理の理論は、直接には思い描くことができず、 単に概念の系でしかない。しかしこれらの概念は、現実又は想像の知覚の経験の多様性を心中での結合に もたらす目的を助ける。それゆえ、ある理論を"視覚化"する、又は人の心に落ち着かせることは、 その理論が図形的配置を供給する先の経験性の豊かさへの表象を与えることを意味する。 この現在の場合、有限宇宙の理論に関する、固体の相互の配置(接触)の点で、固体の関係をどう表象で きるかと、我々は自ら問わねばならない。このことについては、何も新しいことがないと、私は言わね ばならない; しかし、数え切れない問いが私にやってくるのは、これらのことの知識に乾いた者達の 要求がまだ完全には満たされていないことを証明する。だから、初心者には、どうか私を許してほしい。 もし、私が提出するものの一部は昔から知られていたものであっても。

我々の宇宙が無限であることを言うとき、我々は何を表現することを望んでいるか? 同じ大きさの何であれ物体をいくらでも隣に次々置いても、決して満たすことのできない空間、 以上の何者でもない。莫大な数の同じ大きさの木でできた立方体が用意されていると、想像してみよう。 ユークリッド幾何によれば、我々はそれを上に横に背後に、ひとつずつ、空間のどの大きさの部分を埋める ために置いていくことができる: しかしこの建設は完成することがない: もはや余地がないということ を見出すことはなく、我々はさらにさらに立方体を加え続けることができる。それが、我々が空間が無限で あることを言うときに、我々が表現したいものである。こういう方が良いかも知れない。 これらの物体の変位法則がユークリッド幾何によって与えられると仮定し、 実際的剛体との関係のなかで、空間は無限である。


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無限の連続体のもうひとつの例は、平面である。平面の表面で、我々は正方形のカード盤をどの正方形の どの辺もそれに接続する他の正方形の辺をもつように置くことができる。建設は決して終了しない:  我々はつねに正方形を置き続けることができる。---もしその変位の法則が、ユークリッド幾何を示す 平面の法則に対応するならば。それゆえ、カード盤正方形との関係のなかで平面は無限である。 従って、平面は、2次元無限連続体であり、空間は3次元無限連続体であると我々はいう。 ここで次元の数によって何が意味されているかは、知られていると仮定してよいと思う。

さて、有限で境界のない2次元連続体の例を挙げよう。大きな地球の表面と全て同じ大きさの小さな紙で できた円盤をイメージしよう。その地球のどこかに円盤のうちのひとつを置く。その地球のどこにその円 盤を移動しても、その旅の途中で、どこにも限界や境界に出会うことはない。そのためにその地球の球体 の表面は、無境界の連続体であると、我々は言うのである。さらには、球体表面は有限の連続体である。 というのは、紙の円盤をその地球に張り付け、どの円盤も他に重ならないようにすると、その地球の表面 は、最終的にもうひとつも円盤をいれることもできなくなるほど一杯になるだろう。 これが、その地球の球体表面がその紙円盤について有限であるという意味である。 さらには、その球体表面は、2次元の非ユークリッド連続体である。それは言うならば、そのなかにある 剛体図形の変位の法則が、ユークリッド表面のそれとは一致しないのである。


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これは、次の方法で示すことができる。 球体表面の上にひとつ紙円盤を置き、その周りに円をなしてさらに6個の円盤を置くのを続ける。 もしこの建設が平面上でなされるなら、外側に置かれたもの以外、全ての円盤に6個の円盤が接する という間断なき配置ができる。


球面上でもこの建設は、着手時には成功するかにみえる。 そして円盤の半径が、球体の半径より小さければ小さいだけ成功しそうである。 しかし、平面上のユークリッド幾何では可能であるべき、その方法の円盤の配置が中断なしには、 不可能であるということを示すことが、建設の進行につれて、段々と明白になってくる。


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この方法で、球体の表面を離れられず、球体表面から3次元空間を覗きあげることのできない 生き物は、自らのすむ2次元"空間"がユークリッド的でなく、球体表面であることを、単に 実験することによって発見することができるかもしれない。

相対論の最新の結果から、我々の3次元空間もまた近似的に球状である可能性が高い。 すなわち、十分に大きい空間の一部を考慮する場合だけには、そのなかの剛体の変位の法則が ユークリッド幾何で与えられず、近似的に球状の幾何を与える。

ここが読者の想像力のたじろぐ場所である。"誰もこのことを想像できない"と、彼は憤慨して叫ぶ。 "それは言うことができても、考えることができない。球体表面を自身のなかに十分によく再現することは できても、3次元のそれの類似物を考えることは、できない。"

我々は、この精神的障壁を克服しなければならない。 そしてその患者の読者は、それが特別難しい仕事ではないことを見るだろう。 この目的のために、まず、2次元球体表面の幾何に再度、注目しよう。


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その結合した図のなかで、表示の便宜のため囲まれた表面で示した平面 E と S によって接する球体を K とする。 球体表面上のある円盤を L とする。球体表面の点で S と直径の対極 N に光点があって、平面 E 上に円盤 L の影 L' を投げると想像する。

球体表面の全ての点は、平面上にその影をもつ。 球 K 上の円盤が移動すれば、平面 E 上のその影 L' も移動する。円盤 L が S にあるとき、それはその影と ほとんど正確に一致する。それが球面上を S から上方に移動すると、平面上の円盤の影 L' は、S から外側に 次第に大きくなりながら、移動する。円盤 L が光点 N に接近するするとき、その影は無限に離れ、無限に大きくなる。


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さて、ここでの質問は、平面 E 上の円盤影 L' の配置の法則は、なにかである。明らかにそれらは、球体表面上 の円盤 L の配置の法則と正確に等しい。なぜなら、K 上の元の図それぞれに E 上の対応する影の図があるからである。 もし、二つの円盤が K 上で接触していれば、E 上のその影も接触している。平面上の影の幾何は、球上の円盤の 幾何に一致する。もし我々がその円盤影を剛体図と呼べば、これらの剛体図に関して、平面 E 上で球上の幾何が よく成り立っている。さらには、その平面は、円盤影に関しては有限である。その平面上に有限の数の影しか入れ ないからである。

この点で誰かがこういうだろう。"それは、ナンセンスだ。その円盤の影は、決して剛体ではない。その影が 平面上で S から離れるにつれて無限に大きくなることを確認するには、物差しを平面 E 上であちこち動かす だけでよい。"

しかし、もし物差しが円盤影 L' と同じ方法で振舞わないとならないとするとどうだろう? そのときは、 次のことを示すことは、不可能だろう。影が S から離れるにつれて大きさが大きくなる; そのような主張は、 もはや何の意味ももたない。事実、円盤影についてなしうる唯一の客観的な主張は、それらがユークリッド幾何 の意味で、球体表面上での剛体円盤であることと正確に等しい方法で関係を持つということだけである。

我々は注意深く心に耐えなければならない。円盤の影が S から離れるにつれて無限に大きさを成長させること についての我々の言明は、円盤影の大きさを比較するために、平面 E 上をあちこち動かせるユークリッド的な 剛体の棒を採用できないかぎり、それ自身は客観的意味をもたないということを。 影 L' の配置の法則について、点 S は、平面上で球体表面以上の、何ら特別な特権を持たない。

以上のように、平面上での球状の幾何の再現は、すぐさま3次元の場合に移すことを可能にするから、 我々にとって重要である。


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我々の空間に点 S と、全て互いに一致する大きさの無数の小さな球体 L' を想像してみよう。しかし、 これらの球体は、ユークリッド幾何の意味で剛体であることはない; それらの半径は、 (ユークリッド幾何的には、) S から離れるにつれて無限に増大する。その増大は、平面上の円盤影 L' の半径の増大に適用した同じ法則に正確に則って行われるのである。

我々の L' 球の幾何学的行動について、生き生きとした精神的イメージを得てからは、我々の空間には、 ユークリッド幾何学の意味での剛体が存在せず、我々の L' 球体の振舞いをもつだけの物体だけがある ことを仮定しよう。そのとき我々は、3次元球状空間、又は3次元球状幾何学の生き生きとした表象をもつ。 ここで、我々の球体は、"剛体球" と呼ばれなければならない。その S からの隔たりに従ったサイズの 増大は、E 上の円盤影の場合と同様に、測定棒によって測定されない。それは、測定の標準もその球と 同じ方法で振舞うからである。空間は均一である。それは言わば、全ての点(1)の環境のなかで同じ球状 の構成が可能である。我々の空間は、有限である。その球体の "成長" の帰結として、空間には有限個しか 入れる余地がないからである。

このようにして、思考の練習とユークリッド幾何が我々に与える可視化を里程標として使って、球状幾何の 精神的猫像を得た。特別なイメージ的な構築をすることによって困難なしに深みと活気をこれらのアイデアに 分け与えることができる。類似の方法で楕円幾何と呼ばれるものについての表象も困難ではないだろう。 私の本日の唯一の目的は、視覚化の人間の能力は、非ユークリッド幾何学に決して降伏する必要はないこと を示すことであった。

(1)これは計算なしに明瞭である。2次元の場合だけであるが、もう一度球体の表面での円盤の場合に戻ればよい。