ベルリンのプロシアン科学アカデミーでの 1921 年 1 月 27 日の講演。 1922 年 G.B. Jeffery, D.Sc W. Perret, Ph.D. の翻訳で E.P. Dutton 出版 N.Y.によって出版。 1983 年に無省略、無修正で、Dover 出版から再版された、"相対論への側光" (Sidelight on relativity) 収録の "Geometry and experience" の翻訳である。
これにもかかわらず、科学の他の部門の研究者は、もし数学の法則が我々の単なる想像力の対象に関与し、 現実性の対象に関与しないなら数学者を羨む必要はない。 なぜかなら、もし彼らが基本的法則(公理)と、さらにそこから他の法則を演繹する方法にすでに同意すれば、 異なる人が同じ論理的結論に到達すべきことは、驚きを惹起しえないからである。
しかし、数学の高い評判にはもう一つ理由があって、数学は、厳密な自然科学に対して、 それなしに決して達成できないある確かな安全性の測度を与えるからである。
私の意見では、この問いに対する答えはつまりこれである:
数学の法則が現実性に係わる限り、確かさはない。それらが確かである限り、現実には係わらない。
物事のこの状態について完全な明確さは、数学論理とか、"公理論(Axiomatics)" という名で知られる
数学の新しい分野を通して初めて共通の財産になったと、私には思える。
公理論によって達成された進歩は、
それが論理的形式をその目的又は意図する内容から適切に分離したことにあり、
公理論に従えば、論理的形式だけが数学の対象物を形成し、
数学は、論理形式に付随する意図とか他の内容には関係しない。
より古い解釈:--- 直線がどういうものか、点がなにかは誰もが知っている。 この知識が人間精神のある能力から湧き出したのか、経験から来たか、両者の共同から来たか、 他の源からかは、数学者の決することではない。 かれは哲学者にその問いを残す。全ての数学に先だつこの知識を基盤として、 上述の公理は、全ての他の公理と同じく自明であり、 それは、この "a prior アプリオリ(先験的)" な知識の部分の表現である。
より現代的な解釈:--- 幾何学は、直線、点などの言葉が示す実体を扱う。 これらの実体は、いずれの知識、直観をなにも当然とせず、公理の有効性だけを前提とする。 上述の例のように純粋に形式的意味で採られ、全ての直観又は経験の内容を失っている。 これらの公理は、人間精神による自由な創造物である。 幾何学の他の全ての定理は、(名目的意味だけで採用されるべきである)公理からの論理的推論である。 幾何学の扱う素材は、最初に公理系によって定義される。 シュリック(Schlick) は、彼の認識論の本のなかで、非常に適切に公理系を "内包的定義(implicit definitions)"として性格付けた。
しかし一方では、数学一般とくに幾何学は、現実の物事個々の関係について、 なにかを学ぶことを感じられる必要に、その存在を負っていることは、確かである。 幾何学という言葉自体、それは勿論、測地を意味するが、これを証明している。 測地にとっては、いちいちに関する、なにか自然の物体の配置の可能性をもって、 すなわち、地球の部分、測地線、測地区などを使って、行わなくてはならない。 我々が "実際的に硬い" 剛体という、この種の現実の物体の関係について、 公理論の概念系だけでは、なにも主張できないことは明らかである。 そのような主張をできるためには幾何学は、 経験の現実物と公理論的幾何学の空虚な概念的枠組との同格化によって、 単なる論理形式的な性格を脱ぎ捨てなければならない。 これを達成するために、我々は、次の命題を付け加わえることだけを必要とする:--- 固体の物体は、可能な変位の点において、三次元ユークリッド幾何学のなかの物体がそうであるように (幾何学に)関係する。 そのとき、ユークリッドの定理は、実際的剛体の関係性としての肯定性を含むのである。
今述べた幾何学的見方へ、私は特別な重要性を付け加える。それは、それなしでは相対性の理論 を定式化することができなかったであろうからである。 それなしでは、次の思索も不可能であった:---慣性系に相対的に回転する参照系のなかでは、 剛体の変位の法則も、ローレンツ短縮のためにユークリッド幾何学の法則には対応しない。 そのように、もし我々が非慣性系を許容するなら、ユークリッド幾何学を廃棄しなければならない。 もし上述の解釈が里程標として助けてくれなければ、一般共変方程式に移行する決定的な段階は、 多分採られなかっただろう。
もし我々が公理論的ユークリッド幾何学の物体と現実の実際的剛体との間の関係を否定するなら、 すぐに次のような見方に到達する。それは、あの鋭敏で深遠な思考者、ポアンカレ(H. Poincare) によって熟慮されたものである:---ユークリッド幾何学は、他の多くの想像できる公理論的幾何学 の上にその単純性によって区別される。公理論的幾何学自体は、経験される現実になにも主張できず、 物理法則と結合してのみそれは可能である。 そして、可能だし、現実性の性質がなんであれ、合理的である。ユークリッド幾何学を保持することは。 なぜなら、もし理論と経験の間の双克がそれら自身、明白であるなら、我々はむしろ物理法則の変更 を決めるべきで、公理論的ユークリッド幾何学を変えようとすべきでないからである。
幾何学(G)(geometry)は、現実物についてなにも叙述しない。しかし、幾何学と物理法則の意味(P) (purport)を一緒にしたものだけがそれをできる。シンボルを使えば、(G)+(P)の和だけが経験の制御の対象 であるといってよい。そのように、(G) は任意に選べ、(P)の部分もそうである。すべてこれらの法則は、 伝統的である。(G)と(P)の全体が経験と調和するように、矛盾を回避するために必要な全てのことは、 (P)の残余を選択することである。 この方法で観照されると、公理論的幾何学と、伝統的な状態を与えられた自然法則の一部は、 認識論的に同等な姿をとる。
さらには、自然のなかには、理想的な剛体といえるものがなく、また、そのために、剛体と叙述される 特性は物理的現実に適用されない、という反論に関して。---この反論は、早急な実験から現れるかもしれ ないものほど根底的では決してない。なぜなら、測定棒の物理的状態を、それの他の測定体に対する相対的 行動が、"剛体" への代替を許すのに十分に曖昧さから離れているほど精度よく決定することは、 難しい仕事ではないからである。 剛体についての声明が言及されなくてはならないのは、この種の測定体についてである。
もし二つの管が一度どこかで等しいなら、常にどこでも等しい。
ユークリッドの実際的幾何学だけでなく、その最も近い一般化、リーマンの実際的幾何学、 それと共に一般相対論もこの仮定の上にある。実験的な理由で、この仮定を保証するために私はひとつ 言及しよう。真空中の光の伝播の現象は、ひとつの管を指定する。 すなわち、光の適切な経路、そして逆に、それぞれの局所時間の経過。 それゆえ、管についての上述の仮定は、相対論の時計の時刻の経過についても、 よく保たれなければならないことになる。 従って次のように定式化される:--- もし二つの理想的な時計が一度どこかで、同じ速度で進んでいるなら、(そのときは、互いに直近に接近させる) それらは常に同じ速度で進む、どこで、いつそれらが再び互いに一つの場所で比較されても、である。 もしこの法則が現実の時計で有効でないなら、同じ化学的要素の別々の原子の固有の周波数も 経験が示すような正確な一致をすることはないだろう。鋭いスペクトル線の存在は、 実際的幾何学の上述の原理を確信させる実験的証拠である。 これが実際、四次元時空連続体のリーマンの感覚での測定 (mensuration) の意味についていうことを 可能にする究極的な基礎である。
この提案された幾何学の物理的解釈を、それを分子オーダーより小さい空間にすぐさま適用するなら失敗 することは、真実である。しかしそれにもかかわらず、素粒子の構成についての問いのなかにさえ、 その重要性の部分は保存している。なぜなら、物質を構成する電気的要素粒子を記述する問いであるとき でさえ、まだその試みは、分子と比較すれば大きい物体の幾何学的行動を記述する目的のために、 物理的に定義された場の多くのアイデアの、物理的重要性に帰されるべきとしてよい。 その成功のみが、そのような試みの正当性について決定できる。それらの物理的定義の領域の外側で、 リーマン幾何の基本的原理に物理的現実性を仮定するような試みは。この外挿が、温度のアイデアを分子 の一部分の大きさのオーダーへ外挿することと比較して、この外挿がよりよい保証をもたないということ が恐らく明らかになるかもしれない。
実際的幾何学のアイデアの宇宙空間の大きさのオーダーへのの拡張は、それほど問題ではないようである。 その空間的距離が大きくなるに従って、固体の棒で成り立つ構成は理想の剛体から離れて行くという反論 がもちろんあるかもしれない。しかし、この反論を基本的に重大とみることは殆んどできえないと、 私は考える。
それゆえ、宇宙が空間的に有限か否かは、実際的幾何学の意味で決定的に含蓄のある問いであると、 私には思える。 この問いが天文学によってほどなく答えられるだろうことを、私は不可能と考えることすらできない。 この点について一般相対論が教えることを、心に呼び起こしてみよう。それは、二つの可能性を提案する。
2. 宇宙は、空間的に有限である。これは、宇宙空間の重さのある物質の平均密度がゼロと異なる場合、 そうでなくてはならない。平均密度が小さくなるにつれて、宇宙空間の体積は大きくなる。
私は、有限宇宙の仮説のための、ある理論的議論を挙げることが可能であることを、言及しそこなっては ならない。一般相対論は、与えられた物体の慣性は、それに近接する重さのある物質が増えれば増加する ことを教える。そのように、ニュートン以来の物体間の作用反作用の重力が完全になくなるときには、 物体と宇宙の他の物体との作用反作用の慣性の全体的な効果がなくなると思うのは自然である。
一般相対論の方程式から、例えばマッハが要求した、この物質間の相互作用の慣性の全体的な減少は、 宇宙が空間的に有限であるときに限り、可能であることが推論される。
しかし、より実施可能に私にはみえる、別の方法がある。それはまた大きな困難を与えるが。 なぜなら、経験に到達可能な一般相対論の帰結によって示される偏差を我々が尋ねるなら、 これらがニュートン理論の帰結と比較されるとき、我々はまず最初に、重力物体の近くで示される偏差、 惑星、水星の場合で確認された偏差を見出す。 しかしもし、宇宙が空間的に有限であるなら、ニュートン理論からの二番目の偏差があり、ニュートン 理論の言葉で、次のように表現できる: 重力場はその本性から、それが生み出されるのは、重さのある 質量からだけでなく、空間全体に均一に分布する符号が負の質量密度にもよっているということである。 この人為的な質量密度は、恐ろしく小さくなければならないだろうから、それは、非常に大きな広さの 重力系においてだけその存在を感じさせることができるだろう。
そこでもし、星ぼしの実際の速度、それは、勿論、測定可能であるが、それが計算上の速度より小さいなら、 大きな距離における実際の引力がニュートンの法則よりも小さいことの証明をもったことになる。 そのような偏差から間接的に宇宙が有限であることが立証される。 その空間的大きさを推定することさえ可能であろう。
有限でかつ境界をもたない三次元的な宇宙を思い描くことが我々に可能だろうか。
この質問への通常の答えは、"否"である。しかしそれは正しい答えではない。次に示す注意点の目的は、 その答えが"肯"であるべきことを示すことである。有限宇宙の理論をすぐに慣れるなにか訓練によって 精神的なイメージによって、異常な困難なしに思い描くことができることを示したい。
我々の宇宙が無限であることを言うとき、我々は何を表現することを望んでいるか? 同じ大きさの何であれ物体をいくらでも隣に次々置いても、決して満たすことのできない空間、 以上の何者でもない。莫大な数の同じ大きさの木でできた立方体が用意されていると、想像してみよう。 ユークリッド幾何によれば、我々はそれを上に横に背後に、ひとつずつ、空間のどの大きさの部分を埋める ために置いていくことができる: しかしこの建設は完成することがない: もはや余地がないということ を見出すことはなく、我々はさらにさらに立方体を加え続けることができる。それが、我々が空間が無限で あることを言うときに、我々が表現したいものである。こういう方が良いかも知れない。 これらの物体の変位法則がユークリッド幾何によって与えられると仮定し、 実際的剛体との関係のなかで、空間は無限である。
さて、有限で境界のない2次元連続体の例を挙げよう。大きな地球の表面と全て同じ大きさの小さな紙で できた円盤をイメージしよう。その地球のどこかに円盤のうちのひとつを置く。その地球のどこにその円 盤を移動しても、その旅の途中で、どこにも限界や境界に出会うことはない。そのためにその地球の球体 の表面は、無境界の連続体であると、我々は言うのである。さらには、球体表面は有限の連続体である。 というのは、紙の円盤をその地球に張り付け、どの円盤も他に重ならないようにすると、その地球の表面 は、最終的にもうひとつも円盤をいれることもできなくなるほど一杯になるだろう。 これが、その地球の球体表面がその紙円盤について有限であるという意味である。 さらには、その球体表面は、2次元の非ユークリッド連続体である。それは言うならば、そのなかにある 剛体図形の変位の法則が、ユークリッド表面のそれとは一致しないのである。
相対論の最新の結果から、我々の3次元空間もまた近似的に球状である可能性が高い。 すなわち、十分に大きい空間の一部を考慮する場合だけには、そのなかの剛体の変位の法則が ユークリッド幾何で与えられず、近似的に球状の幾何を与える。
ここが読者の想像力のたじろぐ場所である。"誰もこのことを想像できない"と、彼は憤慨して叫ぶ。 "それは言うことができても、考えることができない。球体表面を自身のなかに十分によく再現することは できても、3次元のそれの類似物を考えることは、できない。"
我々は、この精神的障壁を克服しなければならない。 そしてその患者の読者は、それが特別難しい仕事ではないことを見るだろう。 この目的のために、まず、2次元球体表面の幾何に再度、注目しよう。
球体表面の全ての点は、平面上にその影をもつ。 球 K 上の円盤が移動すれば、平面 E 上のその影 L' も移動する。円盤 L が S にあるとき、それはその影と ほとんど正確に一致する。それが球面上を S から上方に移動すると、平面上の円盤の影 L' は、S から外側に 次第に大きくなりながら、移動する。円盤 L が光点 N に接近するするとき、その影は無限に離れ、無限に大きくなる。
この点で誰かがこういうだろう。"それは、ナンセンスだ。その円盤の影は、決して剛体ではない。その影が 平面上で S から離れるにつれて無限に大きくなることを確認するには、物差しを平面 E 上であちこち動かす だけでよい。"
しかし、もし物差しが円盤影 L' と同じ方法で振舞わないとならないとするとどうだろう? そのときは、 次のことを示すことは、不可能だろう。影が S から離れるにつれて大きさが大きくなる; そのような主張は、 もはや何の意味ももたない。事実、円盤影についてなしうる唯一の客観的な主張は、それらがユークリッド幾何 の意味で、球体表面上での剛体円盤であることと正確に等しい方法で関係を持つということだけである。
我々は注意深く心に耐えなければならない。円盤の影が S から離れるにつれて無限に大きさを成長させること についての我々の言明は、円盤影の大きさを比較するために、平面 E 上をあちこち動かせるユークリッド的な 剛体の棒を採用できないかぎり、それ自身は客観的意味をもたないということを。 影 L' の配置の法則について、点 S は、平面上で球体表面以上の、何ら特別な特権を持たない。
以上のように、平面上での球状の幾何の再現は、すぐさま3次元の場合に移すことを可能にするから、 我々にとって重要である。
我々の L' 球の幾何学的行動について、生き生きとした精神的イメージを得てからは、我々の空間には、 ユークリッド幾何学の意味での剛体が存在せず、我々の L' 球体の振舞いをもつだけの物体だけがある ことを仮定しよう。そのとき我々は、3次元球状空間、又は3次元球状幾何学の生き生きとした表象をもつ。 ここで、我々の球体は、"剛体球" と呼ばれなければならない。その S からの隔たりに従ったサイズの 増大は、E 上の円盤影の場合と同様に、測定棒によって測定されない。それは、測定の標準もその球と 同じ方法で振舞うからである。空間は均一である。それは言わば、全ての点(1)の環境のなかで同じ球状 の構成が可能である。我々の空間は、有限である。その球体の "成長" の帰結として、空間には有限個しか 入れる余地がないからである。
このようにして、思考の練習とユークリッド幾何が我々に与える可視化を里程標として使って、球状幾何の 精神的猫像を得た。特別なイメージ的な構築をすることによって困難なしに深みと活気をこれらのアイデアに 分け与えることができる。類似の方法で楕円幾何と呼ばれるものについての表象も困難ではないだろう。 私の本日の唯一の目的は、視覚化の人間の能力は、非ユークリッド幾何学に決して降伏する必要はないこと を示すことであった。
(1)これは計算なしに明瞭である。2次元の場合だけであるが、もう一度球体の表面での円盤の場合に戻ればよい。