理論物理の基礎

The fundaments of theoretical physics
Albert Einstein (1940)
in "Out of my Later Years"(Citadel Press)
(訳 片山泰男 11/22 2014, 7/4, 8/23 2015)
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科学は、我々の感覚経験の混沌とした散乱を、思考の論理的な統一したシステム[系]にする試みである。この系のなかでは単独の経験は 結果的な整合性が唯一かつ確信できる方法で、理論構造と関らなくてはならない。

感覚経験は与えられた対象物である。しかし、それらを解釈するべき理論は、人間の製造物である。それは、極端に労力のかかる改作 の過程の結果である。仮説的で決して完全な最終でなく、つねに問いと疑いの対象である。

概念形成の科学的な方法が、我々の毎日の生活で使うものの方法からの違いは、基本的なものでなく、単により正確な概念の定義と結論 であり、より苦痛の積み重なる実験材料の系統的な選択、より大きい論理的経済である。この最後によって我々が意味するのは、全ての 概念と相関関係とを削減し、可能な限り少数の論理的に独立な基本概念と公理とにすることである。

我々が物理と呼ぶのは、その概念が測定に基づく自然科学の群で、その概念と提案が数学的定式化に役立つものである。従ってその領域は、 数学用語で表現できる我々の知識の総体の一部と定義できる。物理の領域は、科学の進歩に伴い非常に拡大され、その方法自体だけによって 制限されるかのようである。


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物理研究のより大きな部分が、多様な物理の分野の発展に捧げられていて、各目的は多少とも制限された経験分野の理論的理解であり、 それぞれの法則と概念は、経験にできるだけ近接に関係するものに止まる。それは、科学のこの分野の活動である、その常に成長する 特殊化とともに、前世紀に実際の生活を革命し、人は最終的に肉体的な労役から解放されるかもしれないという可能性を誕生させた。

一方、その当初から、それから全ての単独理論の概念と、関係が論理的過程によって導出できるかもしれないような、全ての単独の 科学の理論的な基礎の統一と、最小の概念と基礎的関係による構成と、を探す試みが常にあった。これが、我々が意味する、物理学 全体の基礎付けの探索によるものである。この究極の目標が達成されるという確信的信条は、研究者を常に生き生きとさせ、情熱的に 没頭させる主な源である。この意味で次下の観察は、物理の基礎付けに捧げる。


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上述から明確なことは、この基礎という言葉は、建築の基礎には全ての点で何も類似する意味を持たないことである。もちろん論理的に 考え、多様な物理の単独法則がこの基礎の上にある。しかし、激しい嵐や春の洪水によって、建物が甚大な被害を受けても、その基礎は そのまま残るのに反して、科学の論理的基礎は、新しい経験又は新しい知識によって、より近い実験的接触をもつ枝葉の理論よりも、 常に大きな危難に会う。その基礎は、全ての単独部分と連結して、その大きな重要性をもつが、同様にその新しい要素に対面して、 大きな危険性をもつ。これを深く知るとき、我々は驚きに導かれる、なぜ、物理科学の所謂革命的な時代がより頻繁になく、より完全に その基礎を変化させることがないかを、実際に経験した場合よりも。

統一的理論的基礎を置く最初の試みは、ニュートンの仕事である。彼のシステムでは全てが次の概念に還元される (1)不変の質量の質点 (2) 任意の質点対間の遠隔作用 (3) 質点の運動法則。厳密に言えば、全てを包含する基礎はない。なぜなら、明示的な法則は重力の 遠隔作用についてだけ定式化された一方、他の遠隔作用は、作用と反作用の等価性の法則を除いて、何も先験的に確立されなかった。 さらに、ニュートン自身、時間と空間が彼の系の物理的に影響を与える不可欠な要素であることを深く知っていた。もし、含意的にだけなら。


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このニュートンの基礎は、顕著に成果をもたらすことを証明し、19世紀の末まで最終と考えられた。それは天体の運動の結果を与える だけでなく、最も些細な詳細に下って、離散と連続体の質量の力学理論、エネルギー保存の原理の単純な説明、そして完全で輝かしい 熱の理論をも用意した。ニュートンの系のなか、電気力学の事実の説明はより不自然で、全てのなかで最も納得を与えないものは、 その当初から光の理論だった。

ニュートンが光の波の理論を聞いていなかっただろうことは、驚くべきことではない。そのような理論は、彼の理論の打ち立てに 最も適していなかったからである。空間が質点で構成される媒質で満たされていて、他の力学的特性を何も示さずに伝搬される 光の波という仮定は、彼には全く人工的に思えたに違いない。光の波の性質に対する、最も強い実証的な議論である、一定の速度 の伝搬、干渉、回折、偏光は、未知のものであるか、又は、その他のどのよく構成された統合のなかでも知られていないものであった。 彼が、彼の光の粒子説に拘泥することには正当性があった。

19世紀の間に、議論は波の理論を選好して落ち着いた。しかし、最初は、物理学の力学的基礎に対する深刻な疑いは持ち上がらなかった。 なぜなら、誰も他の種類の基礎をどこに見出すかを知らなかったからである。徐々にだけ、事実の避けられない圧力の下に、そこに、 物理学の新しい基礎が開発された。場の物理である。


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ニュートンの当時からずっと、遠隔作用の理論は、不自然であることが常に見出されてきた。運動理論によって重力を説明しようと する努力は、欠けていなかった。すなわち、仮想的な質量の粒子の衝突の力に基づくものである。しかし、その試みは皮相的で、 成果を生まなかった。力学の基礎のなかで、空間(又は慣性系)によって演じられる奇妙な役割りもまた、明確に認識され批判された。 とくに明解に、エルンスト・マッハによって。

偉大な変化は、ファラディ、マクスウェル、そしてヘルツによって、---事実、半分無意識に、そして彼らの意図に反してもたらされた。 彼ら3人ともその生涯を通して、彼ら自身を力学理論の支持者と考えていた。ヘルツは、電磁場の方程式の最も単純な式を見出し、 これらの方程式を導くどの理論もマクスウェルの理論であると主張した。しかし彼は、その短い人生の終りに向かって論文を書き、 そのなかで物理の基礎として、力概念から解放された力学理論を提示している。


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我々にとって、ファラディのアイデアによって採用されたものは、いわば我々の母乳のように、それらの偉大さと大胆さに感謝しきれない。 ファラディは、誤りのない本能をもって、電磁現象を、電気的粒子の間に互いに及ぼす遠隔の作用とする全ての試みの、不自然さを把握 していたに違いない。どうやって、一片の紙の上に散布された、沢山のそれぞれ単独の、やすりがけ鉄が、単独の電気的な粒子が近くの 導体の中で走り回っていることを、知ることができよう? 全て、これらの電気的粒子は、一緒になって、周囲の空間にひとつの状態を 作り出し、それは次に、やすり粉にある秩序を生み出す。これらの空間の特別な状態は、今日、"場"と呼ばれ、もし、それらの幾何学的 構造と、相互依存する作用を、一度、我々が正しく把握すれば、それは、彼が確信したのには、不思議な電磁相互作用の詳細を備える だろうということである。彼は、これらの場は、空間を埋める媒質のなかの弾性体の膨張状態のような緊張の状態に似た力学的ストレス 状態と確信していた。なぜなら、外見上空間に連続的に分布するその状態を理解するのに、その時にはこれが唯一の方法だったからである。 奇妙な型のこれら場の力学的解釈は、ファラディ時代の力学的伝統的な見方のなかでは、科学的良心への一種のなだめとして背景に残っていた。 これら新しい場の概念の助けとともに、ファラディは、彼とその先輩によって発見された電磁的効果の全体的な複合体の、質的な概念形成 に成功したのである。 これらの場の時空間の法則の正確な定式化はマクスウェルの仕事であった。電磁場は分極した波の形式で広がり、それが光の速度を持っていた! ことを、彼が定式化した微分方程式が彼に証明したときの彼の気持ちを想像して御覧なさい。世界中でほんの少しの人々へのそんな経験は、 賜わりものであった。そんなスリリングなひとときに、彼は決して想像しなかった。明らかにとても完全に解けた、光の謎めいた性質が 後続する世代を困惑させ続けるかもしれないとは。その間、物理学者の数10年がマクスウェルの発見の重要性を全て把握するのに使われた。 その勇敢さは飛び抜け、彼の非凡さは彼の同僚の考えには厄介なほどだった。ヘルツがマクスウェルの電磁波の存在を実験的に示した後に やっと、新理論への抵抗は、破壊された。


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しかしもし、電磁場が物質の源からは独立な波として存在できるなら、静電相互作用は、もはや遠隔の作用として説明されないだろう。 そして、電気的作用においての真実は、重力においても否定されないだろう。 どこであれ、ニュートンの遠隔作用は、有限速度の場の広がりに道を譲った。

ニュートンの基礎のうち、運動法則の対象として今残されたのは、質量の質点だけである。しかし、J. J. トムソンは、運動中の電荷体 がマクスウェル理論に従い、物体への運動エネルギーの増加がするのと正確に同じエネルギーで作用する磁場をもつことを指摘した。 もしそうなら、運動エネルギーの一部は、場のエネルギーによって構成され、そのとき、それは、運動エネルギーの全体量が、正しく ないのだろうか? もしかして、物質の基本特性その慣性は、場の理論のなかで説明されるのだろうか? その問いは、場の理論の見地 から物質の解釈の問題、その解は、物質の原子構造の説明を備えるだろうものを導いた。マクスウェルの理論がそのプログラムを成し 遂げられないことは、すぐに理解された。その時以来、多くの科学者が熱心に、それが物質の理論を含むに違いない、何らかの一般化 によって、完全な場の理論を探索した。しかし、今までそのような努力は成功の冠を得なかった。理論を構成するためには目標の明確 な概念をもつだけでは十分でなかった。ひとは又、可能性の無制限な多様性を制限するのに十分な、式の観点をも持たなければならない。 今迄、これは見出されなかった。従って、場の理論は、物理全体の基礎を備えることに成功していない。


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数十年の間、ほとんどの物理学者は、マクスウェル理論に力学的な部分構造が見出されるという確信に執着した。しかし、彼らの努力の 不満足な結果は、次第に新しい場の概念を、それ以上還元できない基礎として受容することに導いた。ー言い替えれば、物理学者は、 力学的基礎の考えを諦めるために自ら辞任した。

このように、物理学者は、場の理論のプログラムに固執した。しかし、それは基礎の打ち立てとは、決して言えなかった、なぜなら、 無矛盾な場の理論が、一方で重力を、他方で物質の要素的成分を、一度でも説明できたかについて、誰も言えないからである。物事の この状態のなかで、ニュートンの運動法則に従う、質点としての物質粒子を考える必要があった。これは、ローレンツが彼の電子の理論と 運動物体の電磁現象の理論を作成する過程であった。

そのような時、世紀の代わり目に、そこに基礎的概念が到達した。莫大な進歩が、新しい現象の群全体への、理論の貫通と理解がなされた。 しかし、物理の統一した基礎の設立は、実にまだ遠く思えた。そして物事のこの状態で、後続の開発がさらに悪化さえさせた。今世紀の開発は、 本質的に互いに独立な2つの理論系に特徴付けられる。相対論と量子論である。2つの系は直接に互いに否定しない。しかしそれらは、ひとつの 統一した理論に融合するという適応がほとんど見られない。我々は、これら2つの系の基本的アイデアを短く議論しなければならない。


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相対性の理論は、論理的経済と関連して、世紀の代わり目に存在した物理の基礎付けに関する改善努力から出てきた。いわゆる特殊、 又は制限された、相対論は、マクスウェルの方程式 (そして、そのような真空中の光の伝搬法則)が、それらにローレンツ変換が実行 されるとき、同じ形の方程式に変換されるという事実に基づいている。このマクスウェルの方程式の特性は、物理法則が全ての慣性系 で同じという、我々の公平に安全な、経験的知識によって補充される。これがローレンツ変換がー空間と時間の座標に適用されーひとつ の慣性系から他への移動を支配しなければならないという結果を導く。制限された相対性理論の内容はそれゆえ、ひとつの文に要約できる。 全ての自然法則は、こう条件付けられなければならない、それらはローレンツ変換に関して共変的であると。これから次のことが出てくる。 ふたつの離れた出来事の同時性は不変の概念ではない。剛体の大きさと時計の速度は、それらの運動状態に依存する。さらなる帰結は、 与えられた物体の速度が、光の速度に比べて[極端に]小さくない場合のニュートンの法則の修正である。そこにはまた、質量とエネルギー の等価性の原理が、質量とエネルギーの保存則の一体化を伴って続く。ひとたび、同時性が相対的であり、参照系に依存することが示されると、 遠隔の作用を維持する、全ての可能性が、物理の基礎のなかで消え去った。なぜなら、その概念は、同時性の絶対性を前堤とするからである (ふたつの相互作用する質点の位置に"同時に"をいうことが可能でないといけない)。


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一般相対論はその起源をガリレオやニュートンの時代から知られ、今まで全ての理論的な説明を回避する事実を説明する試みに負う。 すなわち、物体の慣性と重みは、本来ふたつの全く異なる物事が、単一の同じ定数、質量によって測定される。この一致から、与えられた 座標系が加速系であるか、その運動が直線的で均一で[慣性系で]観測結果が重力場によるか、を実験的に決定することができないことが 出てくる (これが一般相対論の等価原理である)。重力がそこに入ってくるとすぐに、それは、慣性系の概念を遮断する。慣性系はガリレオ、 ニュートンの弱点であることに、ここで注意してよい。なぜなら、物理空間のミステリアスな特性を前堤とするからである。慣性の法則と ニュートンの運動法則とがうまく成立するための、座標系の種類を条件付けるからである。

これらの困難は、次の仮定によって避けられる。つまり、自然法則は、どの種の運動状態の座標系においても、それらの形式は同一であるように、 定式化されなくてはいけない。これを達成することが、一般相対論の仕事である。一方、我々は制限理論から時空連続体のなかのリーマン計量 の存在を演繹してきた。それは、等価原理に従えば、重力場と空間の計量特性の両方を記述する。重力の場の方程式が2次の微分次数であること を仮定すれば、場の法則は明確に決定される。

この結果は別にして、その理論は、ニュートン力学に共通な、これまで慣性系の使用によって封印された独立の物理の特性を空間に帰す ことによって被った無能さから、場の物理を解放する。しかし、今日最終とみなされ得る一般相対論のそれらの部分は、完全で満足できる 基礎を備えているとは主張できない。まず、そのなかに表される全体場は、重力的と電磁的と、ふたつの論理的に結合されていない部分、 によって構成される。そして次に、この理論は、初期の場の理論に似て、物質の原子構造の説明を現在まで供給していない。この失敗は、 多分量子現象の理解に今まで何ら貢献しなかったという事実と何か関わりがある。これらの現象を取り入れるために物理学者は、 全く新しい方法を採用する方向に走った。その基本特性を今我々は議論する。


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1900 年に純粋な理論研究の流れにそって、マックス・プランクは、非常に注目すべき発見をした。 すなわち、温度の関数としての物体の放射の法則は、マクスウェル的な電磁力学の法則から単独に導出できないということである。 それに関する実験の結果に無矛盾に到達するには、与えられた周波数の放射は、まるで、個々のエネルギー hv をもつエネルギー原子に よって構成されているものとして扱われなければならない、ここでhはプランクの汎用定数である。続く年月の間に、光はそのような エネルギー量子として、どこでも、生成、吸収されることが示された。 特に、ニールス・ボーアは、原子が離散的エネルギー値だけをもつことができるという仮定と、それらの間の不連続な遷移がそのような エネルギー量子の放出と吸収に繋がっているという仮定とによって、原子の構造を大きく理解することができた。これは、ガス状態の原子と それらの結合[した分子]の、ある鋭い決定した周波数の光だけを放射、吸収するという事実に、何かの光を投げかけた。 全てこれは、これまで存在する理論の枠のなかでは、全く不可解であった。 少なくとも原子的現象の領域において、生起する全ての性質は、離散の状態と、それらの間の表面的に不連続な遷移によって決定され、 プランクの定数 h は、決定的な役割を演じているということが明らかになった。

次の一歩はド・ブロイによってなされた。彼は、離散的な状態が現在の概念を助けにしてどう理解できるか自問し、音響のオルガンパイプや 弦の固有周波数の場合の例のような定在波に相似することに思い当たった。じつに、その種の波の作用がここに必要とは知られていなかった。 しかし、それらは構成でき、それらの数学的法則は、プランクの定数hを採用して定式化された。ド・ブロイは、電子が原子核の周囲を そのような仮想的な波の列が結合して回転していることを想像し、ボーアの "許された" 通路の離散的な性質を、対応する波の定在の性質によって、 ある程度理解できるものにした。


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今、力学のなかで質点の運動は、それに作用する力か、力の場によって決定される。それゆえこれらの力場は、ド・ブロイの波場にも同様 な方法で影響することが期待されるべきである。アーウィン・シュレディンガーは、どのようにこの影響が計算に入れられるべきかを、古典 力学のある定式化、巧妙な方法によって再度翻案して示した。彼は、波動力学理論を拡張して、何の追加仮説も導入することなく、いわば、 任意数の自由度をもつ、任意数の質点が構成するどのような力学系にも適用可能な点にまで、拡張することさえ成功した。これは、n質点で 構成される力学系は、単一の質点が 3n 次元の空間で運動することと、数学的にかなりの程度まで等価であることによって可能である。

この理論の基礎の上に、それなしに全く理解できない姿を示す莫大な多様な事実の驚くべきよい再現が得られた。しかし一点に、奇妙だが 十分な失敗があった。すなわちそれは、これらシュレディンガーの波が質点の決定運動と関連づけることが不可能と証明した。ーそして それは、結局、構成全体の元々の目的であった。

困難は、乗り越えられないようにみえた。それがボルンによって克服されるまで。期待されなかったほど単純なある方法で。ド・ブロイ、 シュレディンガーの波場は、どのように事象が時間と空間のなかで、実際に実行されるかの数学的な記述として解釈されるべきではない、 しかしながらもちろん、彼らはそのような事象として見ていたのである。そうではなく、何がその系について、我々に実際に知ることができるか の数学的記述である。それらは統計的な言明だけを作り、そしてその系に我々が実行した全ての測定の結果の予測を作るために役立つのである。


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単純な例を手段にして、量子力学の一般的な特徴を説明しよう。我々はひとつの質点がある制限された領域Gの内側に有限の強さの力に よって保持されていると考える。もし、質点の運動エネルギーがある限界より下であれば、そのとき質点は、古典力学によれば、領域Gを 決して離れることはできない。しかし、量子力学に従えば、その質点は、すぐには予測できない期間の後、領域Gを離れ、予測できない 方向に、周囲の空間へと逃れることができる。この場合は、ガモフによれば、放射性物質の崩壊の単純化したモデルである。

この場合の量子論の扱いは次の通り。時刻 t0 に我々はシュレディンガー波系を領域G内側にもつ。しかし、時刻 t0 から先に進むと、 外側に進む波の振幅は、G内部の波系の初期振幅と比べて小さい、というような方法で、波は全ての方向にGの内部を離れていく。 外向きの波がさらに広がれば広がるほど、G内部の振幅は減少し、それに対応して、Gから発する遅れた波も減る。G内部の供給が使い尽くされ、 一方、外部の波がどこまでも増大する空間に広がってしまうのは、無限の時間を経過した後だけである。

しかし、この波の過程が、我々の興味の最初の対象、元々Gに閉じ込められていた粒子とともに行うことは何か? この問いへ答えるには、 粒子に測定を実行することを許すだろう幾らかの配置を想像しなければならない。例えば、周囲の空間のどこかに、それに接触するとすぐに 粒子がそれに付着するスクリーンを想像しよう。そうしたとき、波はスクリーンのどこかを叩く強度から、我々は、そのときスクリーンの そこを叩く粒子の確率であるとする結論を描くのである。粒子がスクリーンのどの特定の点を叩いても、すぐさま、波動の場の全体は、その 物理的意味を全て失う。その唯一の目的は、粒子がスクリーンを叩く場所と時刻 (又は、例えばそれがスクリーンを叩くときのその運動量) についての、確率の予測をすることである。


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他の場合も全て同様である。理論の目的は、与えられた時刻の、系への測定の結果の確率を決定することである。一方、時間と空間のなかで、 何が実際に存在し行われているか、の数学的な表現を与えようとする試みではない。この点において、今日の量子論は、全ての以前の物理、 力学、さらには場の理論とも基本的に異なっている。それが与えるのは、実際の時空の事象のモデル記述の代わりに、時間の関数としての 可能な測定の確率密度分布を与えるのである。

新しい理論の概念がその起源を負うのは、どのような空想の飛行でもなく、経験事実の反発力であることを、受け入れなくてはならない。 光と物質の現象のなかで表示された粒子と波の特徴を再現する時空のモデルに直結することによる全ての試みは、現在まで失敗に終っている。 そして、ハイゼンベルグが、経験の視点から確信的に示したのは、自然の厳密に決定論的構造についてのどの決定も、我々の実験装置の 原子論的構造のために、決定的に排除されることである。このように、何時か未来の知識が、物理に対して、物理の現実を直接に扱うだろう 決定論的なものを目指した再度の反論をして、我々の現在の統計的な理論の基礎を廃止できるかどうかも、多分、問いとは言えなくなっている。

論理的に問題は2つの可能性を提示するようである。それらの間で、原理的には我々は選択を与えられている。結局は、選択はどの種の記述が、 最も単純な基礎の定式をもたらすかに従ってなされるだろう、論理的にいって。現在は、事実に調和して、事象自体を直接に記述する どのような決定論さえ、我々は全く持たないのである。


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現在の所、我々が物理の一般的な理論を何も持たないことを許容しなければならない。それは、その論理的な基礎と考えられる、場の理論は、 今まで分子的な領域で失敗してきた。場の理論は、量子理論の基礎を提供できる唯一の原理として、場の理論が量子統計の考え方への翻訳を 構成するひとつであり得ることは、全面的に合意できる。これが満足できる手法で、実際に起きるかどうか、誰もいう勇気をもたない。

幾らかの物理学者は、私自身を含めて、我々が実際に永遠に、時空の物理的現実の直接的な再現を放棄しなければならないとは、そして、我々が 自然の出来事が偶然のゲームに類似するという見方を受け入れなければならないとは、信じない。そしてそれぞれの人にとって、彼の努力の 方向の選択は、開かれている。そして、それぞれの人は、レッシングのよき言葉から慰めを引き出すことができる。 真実の探求は、その所有よりも貴重である。